ホワイトバンド運動に関して、

「うん、悪くない」

と書いたが、

ここのところ本屋に行くなりネットを徘徊するなりして、

いろいろな情報や意見を頭の中に叩き込んで整理すると、

自分のその発言を撤回したいと思うようになった。


3、そして、このチャリティによって得られた金の使い道は?

  運動の意味は?

今夜はこの疑問について、書こうと思う。




ホワイトバンド運動 において、勘違いしてはいけないのが、

このバンドを買ってもその売り上げが、

貧しい人々へは行かないということである。


サイトの方でも明言されているが、

「売り上げは寄付としてではなく、政策を変えるための活動費として使う」

このような主張がなされている。


「そうか、彼らは貧困をなくすために有効に動いてくれるのか」

という風に理解するのは、少々気が早い。

なぜなら、活動費として使われるというのなら、

彼らが活動のためだったと言えば、何に使ったってOKということでもあるからだ。


しかし、そこはさすがに、透明性のある会計報告をするともサイトに書いてあった。

「なるほど、それなら安心だ」

いやいや、間に受けるのも早すぎる。

会計報告というのは透明性だけではダメなのだ。

そこに、中立公正なる第三者による監査がなければ、

報告書にどんなウソを書いたとしても平気ということになる。


一応俺も、企業会計、監査に関しては勉強してきたし、

これで金をもらって食っている。

だから俺は、ちゃんとした説明がなされない限り信用しない!


少し前に、寄付で集まった金が横領されるという事件があった。

これはNGOの手によってである。

NGOと言えば聞こえはいいが、彼らとて我々と同じ人間である。

彼らがNGOで、誰かを救うために頑張っているのかは知らないが、

それだけで彼らを信用するわけにはいかない。


また、監査、何に使ったかだけではない。

使った金によって、どんな結果を出したかについても、

同様に報告が必要である。


株式会社も、株主に出資してもらって、

どのように金を使って、どんな結果(利益)を出したのか、

職業公認会計士による厳正な監査を受けて、

報告書が認められるのである。

それは、金を出してもらってるのだから当然である。


そして、今回の運動の場合、人の善意に訴えて金を集めたのだから、

その道義的責任はある意味企業よりも重い。


もし、真っ当な監査を受けないのであれば、

単なる資金集めと揶揄されてもそれは当然である。


この運動に参加するNGO諸団体が、

厳正なる監査を受け、一円単位までの金の使い方、

それから、どういう具体的な成果を出したか、

さらに、それらを広く公表する。

これらが実現することを願ってやまない。





それでは、この運動の意味自体はどうなのであろうか。

結論から言う。

無意味。

しかも救われるのは貧困に苦しむ子どもではなく、

この運動に乗っかって儲けた業者。

理由は以下に述べさせてもらう。



「この状況を変えるには、お金ではなく、あなたの声が必要です。貧困をなくそう、という声を表すホワイトバンドを身につけてください」

(以上サイトからの引用)


一見素晴らしいことを言っているようであるが、問題なのである。


また、この運動に興味を持つようになって、いろいろなブログで、

様々な方々のご意見を読ませてもらった。


「一人一人の声は小さくても集まれば大きな力になる」

「問題に関心を持つことが大事」

「貧困問題を浸透させた功績が素晴らしい」


などなど、確かにそうだとは思う。


だが、サイトに載っていた文章にしても、

様々な方の意見にしても、

とても大事なことが抜けている。


それは、具体性

声をあげて、力を集めて、それを一体どうするのかという具体性


サイトでも、

「政策はこれから考える」

と書いてあった。


馬鹿にするなと言いたい。


大きな力を集めて、G8首脳に対してアピールするといってるが、

アピールしてどうなるのだ?

それよりも、こうすれば貧困はなくなる!

といった政策を提案すべきなのである。

(ただし、現実的なもの)



だが、今まで各国政府も、ユニセフも、何もしてこなかったと言いたいのか?

それは違う。

現在に至るまで何年も、数千億ドルに及ぶ援助をしてきたはずである。


それに対して、効果のある援助ができていないからだ、

彼らは言っているのだが、

それなら、さっさとあんたらが対案を出せよといいたい。


大体、そんなに各国政府が無能だったのか?

そこに、貧困問題のスペシャリストがいなかったとでも言うのか?



大きな声が歴史を動かしてきたのは事実だ。

しかし、それは具体的な行動が伴った場合に限る


一人一人の声が集まって、大きな力になっても、

具体的な最善の解決策がないかぎり、

いつまで経ってもアフリカの人々は救われないのである。


こんな白いバンドなんぞ買わずに、

昔からこの問題について積極的に活動し、

経験も知識もあるユニセフに寄付したほうが、

きっとたくさんの子どもたちが救えるだろう。


そもそも、芸能人とかメジャーなスポーツ選手を使うなら、

ユニセフに募金をするようにアピールさせた方がよかったのだ。

あるいは、有効な政策を編み出してからの方がこういうキャンペーンをした方がよかったのだ。



もし、ホワイトバンド運動を主催するNGOが、

本当に有効な解決策を打ち出せるのだとしたら、

俺も賛同する。


だが、できてないから、賛同しない。

300円のうち、70パーセントが慈善活動とは関係ない、

業者の手に渡ってしまうのならなおさらだ。

(次回、これまで主張の総括をします)

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『断っておきたいのだが、以下に書くのは

限りなく合理性を追求した観点に基づいた主張である。

そして、決してこの運動に賛同する人々の善意を踏みにじろうという意図はない』


そのように昨日の記事にて書いた。

しかし、貧困国の現状や、ホワイトバンド運動の実態を調べるうちに、

この運動全体を見直すべきなのではないかと思うようになった。


確かに、貧困の上に成り立つ豊かさが存在し、

我々がその上にいるのは事実なのであるが、

1、これらの貧困の負のスパイラルの構造を、

その責任と原因を先進国にだけ求めて良いのだろうか?


2、あるいは、構造を変えることのできる実現性は?


3、そして、このチャリティによって得られた金の使い道は?

  運動の意味は?


論点をこれら3つに絞って、主張を続けたいと思う。




まず、1の貧困の責任と原因について。


前の記事において書いたように先進国の経済的支配によって、

多重債務を貧困国が抱えている現実がある。

では、それを帳消しにしてやればいいのかと言えば、

それで問題が解決するとはとても思えない。

問題は、彼らがそれで自立できるかだ


俺は根本的な問題を、貧困国自身に求める。

援助をしたところで、貧困が根本的に解決するとはとても思えない。

この運動でも、援助でなく構造を変えるための働きかけをする、

というような目的もあるらしいが、

アフリカ各国の現状を知らないのかと、俺は言いたい。


彼の国々では、たいてい独裁者と特権階級がのさばっているか、

政府軍とゲリラが戦っている。

アフリカのある独裁者は世界の金持ちベスト10に入るそうだ。

ならば、その独裁者がまず責任をとって散財しろといいたい。

無論、そんなことをする独裁者がいるとは思えないが。


そして、民衆も勤労意欲がほとんどない。

青年海外協力隊のエッセーや、南北問題に関する本を読んでみたが、

アフリカにないのは、何より人材らしい。

はなから援助を期待して、先進国が金を自分たちに恵んで当然だと考えている

人々もいるということだ。

援助をすればするほどそれに甘えて生産性が落ちるというジレンマもあるらしい。




それでは2の構造を変えるとするならば、

まず、イラク戦争のような争いを再びどころか何度も起こして、

無為無策な独裁者と特権階級を倒す必要がある。

そしてその戦争が終わった後に、隅々まで教育を行き渡るようにする。


そのような荒療治を行えば、さらに多くの人が死ぬことになるが、

将来的に見れば効果は最善である。

しかも一番手っ取り早い。

だが、そんなことできるわけがない。

彼らの国で独裁政権を倒すべく、

革命を始めるとしても、多くの血が流れることは必然だ。


独裁者を倒すためのイラク戦争でさえ、あんなに非難されたのだ。

誰が戦争を起こすことに賛同する?




そもそも考えて欲しい。

日本が戦争直後、恐ろしく貧乏で焼け野原だったことを

さらに、賠償金という名目で、多額の金を払わなければならなかったことを。


我々の祖父母は援助や構造を変えるなどによって、

ここまで日本を発展させたか?

否、ただ努力によってのみである。


だから、アフリカの貧困に苦しむ人々にも、

まずは努力しなければならないことを訴えるべきだ。

彼らが、我々を打ち負かせるくらいに発展するだけの、

命がけの努力をまずすべきなのだ。


我々の祖父母も両親も、

過労死や借金苦で自殺するほどの努力をしてきたのだから。



さらに続く

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「あぁー書くんじゃなかったこんなこと」

俺の内なる私的な声が聞こえてくる。

実際、前の記事を書いた昼から今の時間まで、

少々考察を続けてきたが、

貧困と人口爆発に関わる問題は多数の要素が複雑に絡み、

経済、人口論、史学、哲学、科学、社会学、宗教、人類学etc

これらすべてに通じていなければ、語りつくせる内容ではない。


シンプルに、

「別にいいじゃねーか、いいことするんだからよ」

という風にまとめることも考えたが、

皆が諸手を上げて賛同しようとする事柄に、

疑問を投げかけて「おいちょっと待てよ」とするのが、

俺のスタイルである。


今まで知りえた情報と、信念によって続きを書こうと思う。

では本題に。





さて、貧困と人口爆発の負のスパイラルについては↓で述べたが、

これは、今そこにある危機なのであって、

我々人類に残された時間は限りなく少ないと思われる。

50年を短いと思うか長いと思うかは別にして。


また、近年グローバル化が推し進められてきた。

グローバル化、聞こえは横文字で、なんかこう世界が一つで、

これから先いろんな国に行けて、いろんな国の人がやってくる!

という感じで人々にはポジティブに受け止められているようだ。


しかし、グローバル化の実態とは、

経済障壁を緩和して、経済強国も貧困国も公平な競争のもとで戦う、

ということである。

これを例えると、幼稚園児と大の大人が同じリングの上で戦うことを強いられるようなものだ。


もちろん我らが日本も、国と国との経済戦争の最中に、

今まさにいるのである。

そして、この経済戦争のプレイヤーは、

我々のような小市民も含まれる。


つまり、間接的にではあるが、

貧困国の人々と、経済構造の中で戦っているのだ。


根源的な問題として、富とは貧困の上にしか成り立たない

よって、我々日本人が、こんな豊かな生活を送れるのも、

一方で、世界のどこかで悲惨な生活を送っている人々がいるからなのである。


一番わかりやすい例として、為替レートがある。

貧困国での一日分の食事と、

我々が食う一日分の食事では仮に質と量が同じものだとしても、

為替レートの存在によって値段が違う。

考えてみればおかしな話である。

実態とは必ずしも一致しないのが資本主義市場経済だ。

価値を決める絶対的なものは存在せず、

相対評価によって、状況が変わってくるのが、

この経済構造の本質なのである。



ということは、貧困国を救済のに一番早い近道は、

我々が豊かさを捨てることだ。


夏はエアコン、冬は暖房、365日コンビニは開いていて、

どこへ行くにも乗り物を使って、食事はとにかくうまいもの。

だけど、毎日同じのじゃ飽きる。

朝晩風呂に入りたいしそれからキレイに着飾って、

ヒマな時間はネットにつないで・・・


これらを捨てることができるだろうか?

極論過ぎるかもしれないが。



ここで一言言いたい。

こんな発言をすれば、非難されるかもしれないが・・・。

これだけは言いたいのだ。


さんざん貧しさの上に成り立った豊かな生活を享受しておいて、

今更何をいうのだ!そういう無思慮な偽善に腹が立つ!!



せっかくいいことを、大きな取り組みの中でやろうとするんだから、

もっと広く深く考えようよ。

世界の現状と、それにつながる自分のことを。


続く

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現実主義者の主張と想像

テーマ:

ホワイトバンド なる運動が、巷で話題になっているようだ。

うん、悪くない。

貧困を金の力でなく、声をあげることによってなくそうという試みが新しい。


人間の声、というのは偉大な力を持っている。

また、歴史を作ってきたのも声の力である。

英雄や指導者、あるいは民衆の声によって、

人類は進歩と悲劇と、建設と破壊を繰り返してきた。


この『声の力』による試みによって、善意によって、人々が救われたなら、

それはとてもすばらしいことだ。




しかし、俺の斜に構えた『声』が俺の内から、

一つの矛盾に対する疑問を伴って、生まれてくる。


断っておきたいのだが、以下に書くのは

限りなく合理性を追求した観点に基づいた主張である。

そして、決してこの運動に賛同する人々の善意を踏みにじろうという意図はない。




「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ」

旧約聖書の創世記において、記された一説である。

人間の生物的本能と、宗教的思想、

それら二つを矛盾なく包括したものだと思う。


しかし、旧約聖書が記述されたと言われる年代から3000年近く経った、

現代社会はどんな状況だろうか?

人口爆発が危惧され、全人類の総数は60億を超えてしまっている。

地球という星の物理的限界によって、人類の繁栄も量的限界にさしかかろうとしているのだ。


旧約聖書を記した人物は、よもやこんな状況になるとは想像もしなかったのだろう。

3000年近くも前では、世界の広さを知る由もない。



さて、この人口爆発によって、いくつかの問題が引き起こされる。


人口が増えることによって起こる食料問題、水不足。

経済のキャパシティの限界による貧困。

それからエネルギー問題、環境問題。


この問題の中で注目すべきなのは、貧困である。

ホワイトバンド運動では『貧困をなくして子どもたちを救う』という趣旨なのだが、


貧困緩和→死なずに済む子どもが増える→人口増加→更なる貧困


この負のスパイラルを想像してしまうのは、斜に構えすぎだろうか。

ただ現実的に考察しただけである。



その証拠に、このまま人口が増え続けると、2050年には90億人に達してしまうそうだ。

そこからさらに累乗的に加算されるとすれば、

その50年後、2100年、本来ドラえもんが誕生するとか言われてた22世紀になるころには、

きっと人類社会は破綻する。


生物的本能としても、神の言葉としても、人間が増えることはよしとされていたが、

ここに至ってバランスをとるべき必要性が生まれてしまった。


繁栄することによって近づく破滅。

この矛盾から目を離して、善意に基づく運動に賛同していいものなのだろうか。



続く

今日

テーマ:

今日は20時まで残業。

2時間も余分に働けば¥3,000くらいにはなる。

疲れもほどほど金もほどほど。

このくらいが調度いい。



今日は土曜に書いた、予算変更受付業務の続き。

法的にどうかということを確認するため経理部のおっさんに電話。

「今日は忙しいから無理だ」

社会というのは厳しい。

社内であっても、それは同じこと。

新入社員だから甘やかしてくれるなんて期待はできないのだ。


しかし意気消沈している場合ではなく、

他にもたまった仕事を片付けなければならない。

上司に詰められないうちにとっとと。


そこそこにサボりつつ一所懸命獅子奮迅。

しかし和えなく定時に。

(しょうがねーか、また明日だな)

とか考えてたが、問屋は首を横に振る。

仕事が増えた、帰れない。


それだというのに会議机に連行される。

若手社員が4人ほど座っている。

なにやらこないだやってきた外国人上司の歓迎会の打ち合わせだそうだ。


「オサムくん、今度の歓迎会の司会、頼むよ」

そんなものは頼まれたくない。

「オサムちゃんにやって欲しいわー」

関西弁で頼まれたってダメだ。


うつむく俺に視線が集中する。

彼らにとってはすでに『俺=司会』が決定事項らしい。

いやだいやだボク恥ずかしいんだい。

とか答えるのはさすがに大人気ないのだがかといって自信満々に、

「ぃやります!!」

などと答えるのもどうかと思う。


ここは自信なさそうに承るしかない。

「・・・ぶっちゃけ自信ないですけど・・・わかりました。やります」

俺の勇気ある返答に、目の前の4人から笑顔がこぼれた。

始めから俺に決めていたくせに、畜生。


「押し付けられたみたいなのは嫌ですし、先輩方もそうですよね。

あくまで僕が希望したということにして下さい。大丈夫ですから」

一応虚勢ははってみせた。

俺って大人じゃーん、わはははは。

うまくこなせたらもっと笑おう。


社会人というもの、仕事が出来るだけではダメだ。

こういうことに対しても動じないくらいにならなければ。


仕事と司会のプレッシャー、ちょっとした色恋沙汰の痛手。

そういうのは一切見せずにたまに背中で泣こう。

強がりではなくて自然にそういうことができるように。


そういうのがいい男なんだろう、たぶん。

殴りこみ

テーマ:

俺の所属している部は社内のコストを管理している部門だということは、

いつかこのブログにて書いたと思う。

今現在担当している業務も、予算と実績を管理していくものだ。


その担当している業務の一つに「予算変更受付」というものがある。

新たに追加する予算の承認や部門間の予算変更に対して、

それらが適切であるかどうか、チェックするのである。


当然カネのことなので、開発、生産、販売などの部門にかかわらず、

ナーバスな問題になってくる。

また、予算変更には大体の場合どこかの部門が失敗したことに起因している場合も多く、

その失敗内容についても根掘り葉掘り聞かなくてはならない。

するとやはり、その部門としては「新入社員のくせにうぜぇ」といった対応をしてくる。

そりゃ、自分たちの失敗をこれでもかと言わんばかりに聞かれたら、ウザイに決まってる。


以上のように、この業務は常に殺伐としている。

俺にとって、泥臭い業務はまだまだキツイ。

とは言え上司が「突撃しろ」という命令を下すので、

逆らうわけにはいかないのだ。

どっちにしても怒られるなら選択は至極簡単。




そして今日も今日で予算変更業務がやってきた。

いつも突発的に入ってくるのだ、こちらの都合も考えて欲しい。


今回はとある販売部門と開発部門が、

予算を巡って戦った結果についての変更なのだが、

書類を見る限り明らかにおかしい点がいくつかあった。

いい大人なんだから書類ぐらいちゃんとわかりやすく書いてくれ。

こんなデタラメな書類に判を押してしまえば、

国税局に責任を追及される恐れもあるのだ。


で、この書類にケチをつけるために開発部門の人としばしミーティング。

「なんでコスト削減に成功してるのに、失敗と見なされるんですか!」

泣き言を言う開発部員。

しばらく愚痴に付き合う。


すると本当に悪いのは販売であることが判明。

販売部門にも文句を言うべく、電話を取ろうとするも、

あえなく定時のブザーが鳴り響く。


月曜はどうやら修羅場になりそうだ。

販売と開発の戦いに、管理部門の俺が殴りこみ。

それも新入社員の。



ダーティな展開はやめて欲しいぜ。

人間の価値、ブログの意味

テーマ:

本当はFちゃんとも元カノTとの顛末について書こうと思ったのだが、

あいにく彼女たちと連絡が取れていない。

このまま自然に消滅していくのもまた一興。

しかしそれは男としてどうかと思うのでけじめだけはつけたい。




さて、今夜の本題。


コミケに出店していたホットドッグ屋でバイトしていた女が、

自分のブログにてオタクに対して、

「東京ビックサイトでバイト!コミケのやつらを相手に…。」

「きんもーっ☆」

「くさい」

などという発言をして物議をかもし出している(2ちゃんねるで)


【ミラーのアドレスはこちらhttp://www.geocities.jp/hotdog_bolg/bloglog/1.html



確かにオタクは見た感じ不気味だったり、ダサかったり、

あるいは風呂に入らないから臭かったりするかもしれない。


しかし、自分の顔写真をこれ見よがしに掲載している自分のブログにて、

そんな発言をするなど、人間性、品性を疑われたとしても仕方が無い。

そもそもこの女は、仕事でオタクたちの相手をしているのである。

つまり、金を間接的にもらっている相手に対して、

そんなことを言う時点で経済の中で生きる者としての、

最低限のマナーすらわかっていないのだ。


俺もバイトしていたとき、どんなにウザイ客でも最低限の礼は尽くした。

そりゃ、その後愚痴ったりするが、基本的に公の場でそんなことは言わない。


また、ブログとは個人が公の場に能動的に情報を発信するツールでもある。

ということは発言に責任を持たなければならない。

やたらめったらおかしな馬鹿なことを言ってはいけない。

俺も人間性を疑われるようなことを書いている気もするが・・・。



閑話休題。

俺の友人には、リーマン、エンジニア、ニート、フリーター、新聞屋、学生、金融マンetc・・・

またそいつらのジャンルも、一般、ヤンキー上がり、体育会系、ギャル男、秋葉系etc・・・

上記のように、職業もジャンルも様々だ。


俺の信条として、気持ちのいい人間と付き合う、というものがある。

どんな職業だろうと、どんな趣味をもっていようと、

あるいはイケメンorブサ、賢いか愚かか、

別にそんなことはどうだっていい。

いっしょにいて気持ちがいいヤツかどうかが重要なのだ。


たとえ秋葉系のヤツでも、

暗いばっかりじゃなくてなかなか面白かったりするものだ。

特に彼らの半端じゃない知識には驚かされる場合も多い。

くさかったりするけど。

ていうか体臭ならオタクなんかより白人のがすごいと思う。


バックグラウンドや立脚点が違う相手だとしても、

気持ちがいいヤツ同士の間には尊敬の念が生まれる。

この歳になるまでに、それは何度となく実感してきた。


それが、人間の価値は内面で決まる。

という俺の信条に直結している。




それでは、その女はどうだろうか。

ここで断じてしまおう。

俺の客観、主観、関係なく最低。


たかが普通の見た目でバイトのくせに、

不当な理由で人間を見下して、蔑んで優越感に浸った。

それだけで俺がその女を蔑む理由は十分だ。



自分の顔を「かわいいでしょ」と言わんばかりにブログに載せて、

オタクを敵にまわしたお陰で有名人になってしまった彼女のこれからの生活に対して、

同情はしない。


なぜなら、公の場に向けて発言する時点で、

その発言に責任を持たねばならないのだから。

それもまた、ブログの意味なのだと俺は思う。


(俺も発言には気をつけねば・・・なんて思っててもやっちまうかもなー)

俺、東進して2

テーマ:

※京都の画像が諸事情によりアップロードできません。

日を改めてアップします。

我ら五人の夏休み気分の新人サラリーマンたちはそれぞれ、

京阪神周辺、富山、神奈川県とこのように実家がばらばらである。

よって、車の持ち主と俺は神奈川まで帰らねばならないので、

京都で見物が済み次第、関西の3人とは別れるということになっている。


ということは、俺と車の持ち主のYは名神高速を突っ切って東名を走りきるという、

少し過酷な旅をそれぞれの車で1人で乗り切らねばならない。

考えただけでも気がめいる。




8月6日、午前7時。

5時間弱ほどかけて、俺たちは京都に着いた。

外はすでに暑い。

上洛。


それからマクドナルドという、ジャンクフードを食わせてくれる店に入った。

店内のざわめきが、広島弁から関西弁に変わっていたのに少しばかりの違和感があった。


しばらくそこで話し合った俺たちは、京都中の神社仏閣を回ることにした。

といっても、京都に来てすることがあるとしたら、それしかないのに違いはないが。



ジャンクフード屋を出た俺たちは、竜安寺、仁和寺、鹿苑寺金閣、嵐山、清水寺という順番で、

修学旅行で行ったことのある名跡を懐かしみながら回った。



竜安寺。

ここは石庭で名高い。

緻密な計算の元に、白石を整えた中に敢えて岩を置いてシンメトリックな構図を壊す。

これは現代にも通じる美意識であり、大したお洒落感覚だ。

そういえば、人間は本能的に左右対称を好むそうで、

また、シンメトリックな顔の人間が美しいと本能的に感じるらしい。

実際に一分の差異もなく、左右対称の人間の顔を目の当たりにしたら、

おそらく気持ちが悪い。

シンメトリックな美的感覚と、アシンメトリックな美的感覚。

背反する二つの感覚を同時に持ち合わせるということに、

人間の矛盾を感じる。



金閣。

マルコポーロはこの寺の話を聞いて馬くらいしか移動手段がない時代に、

黄金の国ジパングを求めてわざわざヨーロッパから中国までやってきた。

しかし何の事はない、純金だけでできているのではなく、

単に金箔を寺に張り付けただけである。

まぁ、金箔自体高価なものには違いないが。 

もし真実をマルコポーロに打ち明けたら、彼は酷く落ち込むに違いない。

そしてその後、罵倒するに違いない。

『ざけんな。純金の城があるというから来たってのになんなんだよアレは?寺?

しかも張り付けただけじゃねぇか金の紙を。詐欺だ。畜生」




清水寺。

ここは舞台が有名であるが、

一部ではここのおみくじには凶がたくさん入っているということでも有名だ。

今から9年前、修学旅行で清水寺を訪れ、おみくじを引いたとき、

俺は人生ではじめての凶を引いてしまった。

ならば自分が大吉を引いてみせると意気込んで、

いっしょにいた同窓の友たちもおみくじに挑んだ。

しかし結果、五人連続で凶が出るという始末。

仏さんも何が面白くてこんな酔狂なマネをしたのか。

いたずらにしても度が過ぎている。

ファッキンブッダ。

清水の舞台から飛び降りたつもりでバンジージャンプ。




かつて来た事のある町を、少々懐かしみながら回った。

ふと思うのは、9年前に見た京都と、今見るそれとの違いだ。

同じものを見ているはずなのに、懐かしさとは違った違和感。

感性が、あのころよりも鈍ったからなのか。

あるいは、老成されたからなのか。

答えは10年後の俺に見つけてもらうことにしよう。

きっと父になった俺の感性では、今とはまた違ったものが見えてくるだろう。

そしてさらに、俺が老人になったときにはどうだろうか・・・

もしかすると、人生における一つの解答が、ここに用意されているのではないか。

俺、東進して

テーマ:

八月六日、午前零時。

夏休み、開始。


寮の友達が、新車を購入したので、

その車の慣らし運転を兼ね、前に乗っていた古い方を実家に送り届けるついでに、

途中で京都に寄ったりして楽しみながら帰ろう。

という具合に、夏休み開始と同時に野郎五人ばかりの過酷な旅行が始まった。


集合時間直前に、ロビーまで降りると、

他の3人に関しては準備を済まして集合していたものの、

車の持ち主たるY樹は時間になっても現れる気配がない。

また、携帯にかけてみても、反応がまったくないのである。


「ヤツは間違いなく寝ている」


そこにいた全員がその推測に同意した。


そこで俺が、彼の部屋に赴き確認を行なうという任務を帯びた。

ドアの前で携帯をコールすると、

ぴゃらぴゃら携帯の音が聞えてきた。

推測、正解。


それから彼の準備をまち、予定よりも30分ほど遅れて、

神奈川県へと出発。

ほぼ丸一日かけた過酷な旅行が始まった。


食糧や眠気防止グッズを購入し、給油を済ませたあと、

山陽自動車道に乗り、京都へと向かった。

午前2時半、静まり返った広島を、実に3ヶ月ぶりに離れて京都へと向かった。


戦争と平和のリアリティ

テーマ:

【韓国人留学生Y君の証言】

「僕の国では徴兵があるんだ。僕も2年間と少し、軍隊に入ってた。

軍隊では毎晩のようにいじめられた。先輩たちが新兵を並ばせて殴るんだよ。

僕も新兵を教育するようになったとき、後輩を殴らなければならなかった。

すごくイヤだったね。それから、訓練中の事故で死ぬ人もいる。

それなのに事故については新聞にもテレビにも出ない。

できれば徴兵なんてない方がいいに決まってる。

・・・でもね、北朝鮮がいるからしょうがないんだ。いざとなったら僕も戦う。」

学生時代。自由で平和なキャンパス内のベンチの上で。




【イラン人富豪Aさんの証言】


「オサムくん、日本はいい国だよ。本当に。

こんなに平和な国って世界でもかなり珍しいと思う。

私も昔イラクが攻めてきたとき、戦争に行ったんだけど・・・

ひどいところでしたよ、戦場は。

あ、おいしいですね、この牛肉は」


ラーメン屋で。焼豚をすすりながら。





クソガキが学校でイジメこいてて、

女子高生が小遣い稼ぎに売春をして、

サラリーマンが痴漢をして捕まって、

主婦は家事を放置して昼寝をし、

政治家は権力争いに明け暮れる。

今流行のニートなんか毎日暇を潰している。


こんなことが日常で繰り返されていても、日本という国は平和である。

いや繰り返されるほどに平和とも言えるだろう。



しかしてこの異邦人二人の俺たちとは違った戦争に対する認識。

左翼の似非市民団体が声を高らかにして念仏のように唱える、

「反戦平和」

そんな欺瞞に満ちた文句よりも彼らの生の声の方が、

よっぽど真実を雄弁に語っている。



彼らは身をもって知っているのだ。

平和の尊さを。

平和というのは自ら勝ち取るものだということを。


戦争というものに対してリアリティを感じることができない。

それはブラウン管の向こうのドラマやバラエティ番組と同じように。

生まれてこの方、戦争が身近だったことなど一切無い。

だから俺にも彼らほどはわからない。

戦争の恐ろしさも、平和の尊さも。


しかし、どうすれば日本の平和が守られるか、

それを考えることは少なくとも可能だ。



あの反日国家の中国と北朝鮮のミサイルが、

こうして今も日本に向けられているという現実。


戦争反対!自衛隊反対!アメリカ軍出てけ!


危険な要素は実は身近だったりする。

故郷と家族、恋人や友人たちを守るために武器を手にしておくことは、

果たして罪深いことなのだろうか?



世界平和を希求するもの悪くはないが、

まずどうすれば日本の平和が守られるか、考える必要もあるだろう。


こうして平和を叫び戦争反対と叫べるのも、

紛れも無く、日本がミラクルピースだからなのだ。