2008-07-30 21:26:22

何のための河川調査か・15

テーマ:田中正造の虚像と実像

田中正造は、「渡良瀬川が利根川と江戸川に変わる千葉県関宿の川幅を拡げれば、治水問題はすべて解決する」といい続けました。


このことはすでに何度か述べましたが、河川工学者でありながら、この本で大熊孝は、専門分野のその辺のことについても、正造の素人河川論にべったり追随しています。


明治18年に護岸工事をして川幅を狭めた上に、江戸時代には26~30間はあった関宿の堤防を、明治31年にはセメントで改築して川幅を9間強にまで狭めてしまったと説明した上で、大熊はこう書きます。


「政府がこのような強化を行った理由は明らかでない。しかし、大正2年6月20日に島田宗三が栃木警察署に宛てた<谷中残留民居住立ち退き説諭に対する回答書>では、次のように述べている。ただし、この回答書は田中正造の口述を筆記したものであり、正造の意見そのものである」


「田中正造は次のように主張していた」


「明治29年の大洪水で渡良瀬川の毒水が利根川を犯し、その運河を遮り、江戸川を横切り、氾濫して(東京)府下の農商務大臣榎本武揚の邸を浸した」


「そこで、直ちに江戸川に技師を派遣して設計させ、オランダ工法によって、31年に至り自然の流路たるその江戸川の河口は千葉県関宿地先のおいて石堤を持って狭窄し、かつ石とセメントで川底27尺を埋め、利根川各所に流水妨害工事をして洪水を耐え、かつ渡良瀬川の落合たる川辺村本郷の逆流口120間を拡げて、上流に水害をつくるとともに、下流東京府下の鎮撫に努め、もって一時の急を逃れようとした」


「これが原因して、一朝洪水あるときは、逆流滔滔として沿岸諸村を圧し堤防破れ、田宅荒廃し、人屋流れ、鉱毒に加うるに人為の水害頻りに至り、農民の困窮目もあてられぬ状態に陥った」


正造の政治的発言を、このように引用した上で、大熊は何の検証もすることなく、これを全面的に受け入れる見解を次のように述べるのです。


鉱毒による被害がすでに激化しており、利根川の舟運に変わる鉄道輸送網がほぼ完成されていることを考えあわせるならば、(政府による関宿の極端な強化は)田中正造の見解のように、東京府下に鉱毒水が氾濫することを恐れての対策であると考えることには矛盾がないように思われる。特に、江戸川河口行徳の塩田を考慮した場合、これへの鉱毒被害の拡大をもっとも恐れたためではないか、と考えられる」


AD
いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)
2008-07-26 20:03:34

何のための河川調査か・14

テーマ:田中正造の虚像と実像

大熊孝の著書への批判をつづけます。

この本で著者は足尾鉱毒事件の説明をしていますが、その中に次のような部分があります。


「明治35年9月の洪水で、鉱毒を含まない土がそれまでの鉱毒の上にかぶさり、被害が軽減される傾向が現われ、36年には多少の収穫が見られ、37年には平常に近い収穫が得られるという状態であり、鉱毒問題に関する運動は急速に下火になった」


事典や教科書で足尾鉱毒事件のことを調べれば必ず書いてありますが、鉱毒の被害は必ず洪水の後で起こっています。川底に沈澱していた公害物質が洪水に伴って沿岸の農地を汚染するからです。

それなのに、なぜ「洪水で、鉱毒を含まない土がそれまでの鉱毒の上にかぶさる」のでしょう。

汚染していない土はどのように鉱毒の上に「かぶさる」のでしょう。


この人は、科学者でありながら現実には起こり得ない現象が起こったといっているわけです。しかも科学者でありながら何の証明もしていません。

彼がなぜこんな珍妙な解説をしたかといえば、それは、彼が田中正造が思いつきで創作した法螺を、本当の話だと信じてしまったからです。


大熊孝はこのことに全く触れていませんが、政府の厳命に忠実に従った加害者の古河鉱業は、明治30年に大規模な鉱毒防止工事を敢行しました。


その効果は絶大で、明治34年秋には、「鉱毒被害地も、激甚地を除く外は極めて豊作にして」(朝日新聞・10月6日)という記事に見られるほどの回復振りを示し、35年秋の洪水でも農地は汚染されなかったらしく、翌36年の秋には正造が、全部で10回の演説のうち8回も「被害地豊作の実況」と題名をつけたほど、鉱毒被害は消えていたのです(『田中正造全集・別巻』の年譜を見てください)。


「古河の鉱毒防止工事は全然効果がないのだ」といい続けてきた正造は、この時どう対処したでしょう。

大熊孝等学者達がみんな騙された次の法螺話を作ったのです。


「昨年9月の風雨の際、渡良瀬川本支流水源の山々が10里以上に渡って崩れ、ほとんど50年分の土が数尺被害激甚地の上に覆いかぶさった。その新土は天然の新肥料になったので今年は5倍の豊作になった。今は3歳の小児でも、豊作の原因が古河鉱業の鉱毒防止工事のためでないと知っている」


こんな馬鹿げたフィクションをなんで学者まで信ずるかといえば、彼らが正造によって完全に洗脳されているからです。

AD
いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)
2008-05-14 20:09:55

金銭感覚の異常性・49

テーマ:田中正造の虚像と実像

彼の最後の年である大正2年の日記に移りますが、正月の元旦から他人の家に泊まり歩いていることがわかります。


1月1日、2日、横浜根岸婦人慈善病院の上隣、福田・石川両氏を訪うて泊す。


1月3日、芝口越中屋に投宿す。


1月6日、東京より逗子に来たり松屋に投宿す。


1月20日、友沼、教員木本寅之助氏方宿。


1月22日、野木村字野渡に昨夜泊して、野木村の田畑を買収する手続きを聞き、足尾銅山党の悪謀たるを説明し、降雪中古河町に帰る。田中屋に宿す。


このように、他人の家を回って寝と食とを恵んでもらうホームレス生活を繰り返す中で、正造はこの間の日記に次のように書くのです。


大正2年1月10日、宇都宮市停車場白木屋にて書く。予は、人の幸せを祈る者なり。人の命を長くする者なり。人を助くる者なり。世の中を清むる者なり。世を正す者なり。予は、山川を荒らさぬ、自然の者なり。河川を地勢のままにして水を自然の清きを汚さず、流れを流す者なり。


いったい、寝たり食べたりする生活の基本をすべて他人に依存しながら、「人を助くる者なり」などと、どうして言えるのでしょう。あまりにもふざけているではありませんか。

AD
いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)
2008-05-10 19:57:19

金銭感覚の異常性・48

テーマ:田中正造の虚像と実像

もう少し、彼の日記を続けます。死の前年に当る大正元年の11月分からです。


11月5日、4日夜繁桂寺に泊す。本日、知事に陳情書を出す。3日夜田中弥平氏に泊す。2日は赤麻の日高文六氏方に泊す。1日は部屋村田中森之進氏に泊す。30日金半に泊す。31日、皆川村森戸金太郎氏に泊す。およそかくのごとし。


11月6日、田中弥平氏方。昨夜ここに泊す。


11月21日、海老瀬の佐藤氏方に泊す。昨夜古河町田中屋に泊す。


11月28日、東京日本橋芳町上総屋方にて飯村丈三郎氏に逢い、邑楽郡に帰り、大出氏の死を訪うて山本氏に泊す。


11月30日、昨夜大出氏に泊す。


12月5日、古河町より宇都宮に行き、翌6日帰りて藤岡の篠山にめぐりて川島氏に泊す。


12月7日、川島氏より恵下野に来り、島田氏に泊し、田名網氏に逢う。閑を得て野木に来たり、大野氏に逢うて、古河町田中助次氏に逢うて泊す。


12月17日、藤岡町川内屋に泊す。


12月18日、出京、上野の上野館に泊す。


12月19日、島田三郎氏を訪う。この夜巣鴨の巣鴨館に上野館に泊す。

12月20、21、22、23日、巣鴨館、上野館に泊す。


12月29日、本所緑町3ー20佐野屋川辺長三郎方、久々にて泊す。今日花井氏を訪うて上野館に厄介。

いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)
2008-05-07 20:25:19

金銭感覚の異常性・47

テーマ:田中正造の虚像と実像

明治45年7月に明治天皇が崩御されていますから、8月から大正時代に変わります。大正元年に入ってからの正造の日記を見てみましょう。


次々と他人の家を回って食事をいただき、泊めてもらっている様子が分かりますが、何の用事でその家に行ったのかについては、何も書いてありません。


8月22日、(古河の旅館)田中屋より人力車で新郷村に入り、山中栄吉、小倉佐市、小野善助氏を訪れて新久田の並木氏を訪問。不在。渡良瀬川を   西に越えて河辺村稲村広吉氏方に入り昼飯を乞う。車夫と二人分。

 
8月29日、去る24日、館林町荒井清三郎氏方の厄介となり泊す。・・・眠り覚めて小便に立ち、東西を誤り、行く所を失い隣室を呼ぶ。この家の老婆驚き起きて下女を呼ぶ。家中騒動となる。小便ほとんど洩る。


9月2日、植野村新井新次郎方に休息を許されて昼寝す。島田雄三郎氏を訪ねて小遣金3円を得て馬門に行く。


9月7日、昨夜海老瀬村の増保金蔵氏方に泊す。


10月3日、昨夜福田女史、石川三四郎両氏と宮崎女史を訪ねて泊す。2氏は帰る。


10月10日、昨日、部屋に泊す。


10月11日、昨日、古河町田中屋に泊す。


10月12日、恵下野に泊す。


10月20日、赤麻村大前山志家氏に 泊す。


10月21日、藤岡、谷中、古河町、野木に入りて夜栃木に来たり<かな半>に 泊す。


10月23日、恵下野に泊す。


車夫と二人分の昼飯を請求したり、小遣いを3円も(今の3万円ぐらい)もらったり、昼寝をするために家にあがったり、深夜に老女を起こしたうえ小便を漏らしてしまったり、何とも迷惑至極ではありませんか。


いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)
2007-10-20 19:34:56

正造の本心にある差別意識・2

テーマ:田中正造の虚像と実像

明治44年3月、東京にいた正造は浅野セメントの煙害による公害反対運動に遭遇したので、すぐさま谷中村の残留農民たちにこのことを伝える手紙を書きます。しかし、相変わらず、農民たちを叱りつける内容でした。
21日付けの島田熊吉・宗三・渡辺長輔宛のそれにはこうあります。


「東京の深川区にては、老年、青年団体の大会やら政談演説やら、非常に元気である。これを藤岡(旧谷中村)、部屋(村)辺の人々に比せば、死したる鼠と生きたる猫ほどの大差である。青年の元気のなさは何ともかとも、神にも仏にも捨てられるのみ」


翌22日付けの佐山梅吉、小川長三郎、川島要次郎など8人宛のそれは、更に厳しく村人を責めるものでした。


「東京の深川では大騒ぎが始まった。これを谷中に比べれば、谷中には日本人は幾人ありますか、ありましたか。借家人の如く、居候の如く、無籍ものの如く、自から軽くする。鉱毒が来てもヘイヘイ、立てよヘイヘイ、すわれよヘイヘイ、退けよヘイヘイ。何ほどでも悪人様の御見計いでよろしいです。田中ジイなどの申す事は、話が大きすぎて谷中にははまらぬ。谷中にはまるは小さな欲。小さな話。田中のはべらぼうに大きくてダメダメとは・・・ 」


正造は、自分は進んでいて農民は遅れているという差別意識を死ぬまで捨てられなかったようです。しかし、こんなお説教をすれば農民との距離は離れるだけではありませんか。何という単純な人なのでしょう。


いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2007-10-17 20:46:38

正造の本心にある差別意識・1

テーマ:田中正造の虚像と実像

田中正造の手紙や日記を見ていると、彼が被害農民を救済するのだと宣言していながら、彼らを自分より下層の人々と思い込んでいた、ということがわかります。実例を紹介していきます。


若いときに正造に共鳴して直接接蝕し、後に北海道に渡って雪印乳業を創立する黒沢酉蔵に宛てて、明治37年11月7日、正造は谷中村から次の手紙を送りました。ここで彼は、はっきりと「下層人民」という言葉を使っているのです。


「社会のこと、いよいよむずかしく、下層人民のこと、とうていその真相を知るべからず、と思うほどなり。正造7月31日よりこの谷中に出没起臥しても、いまだ人情の真相を知るあたわずして、毎日毎日新たなることを耳にしては驚き且つ悲しみます」


継母の死去を知らせた木下尚江宛の手紙(明治43年5月26日付け)にも、一般社会を下等とか下級とか見下した表現があります。


「継母昨日死去。今日葬式に候。準備なかなかに出来てありて正造は世話なしです。下等社会が案外に発明であるのを見ました。・・・この人々の間に妙な組織ありて、広き社会を知らない人々の社会は妙に成立しています。そこに下級社会の広い天地を見るなり。ああ、神仏を知らぬこの人々にしてよくも神も仏も知りつつあるを見ました」












                                                            


いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。