2007-01-28 20:31:42

清水書院の高校「日本史A」

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

これで歴史教科書の検討は終えますが、これも明らかに偏向教科書といっていいと思います。
188頁の「公害問題」という見出しの文章を、全文引用します。

銅の生産の増加にともない、別子や小坂など各地の銅山で煙害などの公害問題が発生した」


「古河の経営する足尾銅山では、渡良瀬川へ流出した鉱毒が流域の田畑に被害を与え、ことに1896年7月から9月に起こった大洪水は、1府5県に被害がおよび、大きな社会問題になった」


「栃木県選出の衆議院議員田中正造は鉱毒問題の解決に力を尽くし、のちに議員を辞して天皇直訴まで行った」


「これに対して政府は、谷中村を廃村にして遊水池をつくり、鉱毒問題を治水問題として処理した」


明治政府は1897年に公害防止工事を古河に命令し、古河はこれを忠実に履行しました。その結果、鉱毒の流失が止まったことが、政府の調査によって1903年に確認されています。
にもかかわらず、公的な記録があるこうした事実をすべて無視し、鉱毒問題解決に次ぐ洪水対策として計画した谷中村の遊水池化に対し、「鉱毒問題を治水問題として処理した」と政府を批判するのは、全くの筋違いに他なりません。
歴史的事実の改変であり、偏向した歴史観の表明であり、子供たちに嘘をついた、ということができます。 


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2007-01-21 21:01:35

三省堂の高校「日本史A」

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

この教科書の記述は簡単で、全文を引用しても次の程度です。


「足尾銅山では、1896年、大洪水で鉱毒をふくんだ廃水が数万町歩の農地に被害をあたえた(足尾鉱毒事件)。田中正造は代議士をやめ、農民らとともに、政府や天皇に惨状をうったえ、キリスト教団体や社会主義者らの救済運動もおこったが、政府は公害問題の抜本的な解決を行なわなかった。」


昨年の6月、私は、三省堂に宛てて次のような内容の手紙を出しました。


「別紙に書いたように、実際は、明治政府の対策が成功して被害農地は復旧しており、抜本的な解決を見ております。このような虚偽を教科書に記述しつづけることは、読者への裏切り行為であり、何らかの形でお詫びと訂正をすべきと考えますが、貴社のお考えをお聞かせ願えれば幸いです。」


同社の社会科教科書編集室からは、折り返し、次の返事がありました。


「ご指摘につきましては、執筆者に問い合わせ、そのうえでお返事させていただくことになりますが、教科書という特別な印刷物へのご照会でございますので、慎重なる検討をさせていただきますので、若干のお時間を頂戴いたします。勝手な申し出で恐縮ですが、その旨、ご了承くださいますよう、お願い申し上げます。」


以来半年以上経ちますが、何の返事もありません。「執筆者に問い合わせる」そうですが、それで何かがわかるのでしょうか。
執筆者は抵抗するに決まっています。こんな簡単な事実調べぐらい、出版社にもすぐできます。

なぜそれをしないのでしょう。不思議でしょうがありません。


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2007-01-14 21:43:36

実教出版の「高校日本史B」

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

173頁の「歴史のまど、足尾鉱毒事件」には、次のようなことが書かれています。


「政府と関係が深い古河市兵衛が所有する栃木県足尾銅山の排水の鉱毒が渡良瀬川を汚染した。」(1)


「また周辺の山林は煙害で荒廃して洪水の原因となり、沿岸の田畑に被害を急速にひろげた。」(2)


「政府は鉱毒を認めず、被害農民の運動を弾圧した。」(3)


「政府は公害問題を洪水問題に転化し、谷中村をつぶして、洪水防止用の遊水池にすることを決定したが、田中は谷中村に住みこんで最後まで抵抗した。」(4)


(1)についていえば、「政府と関係が深い古河市兵衛」は、全くの嘘です。
政府は、「期限内に完工しなければ足尾銅山を操業させない」という厳しい条件で、公害防止工事を命令しています。公害の歴史では皆無のことです。「関係が深い」などと言えるわけがありません。


(2)の洪水の原因についても不確定な説明で、本当だとは言えません。
渡良瀬川は、江戸時代から洪水が多発した川で、定説は、「だからこそ沿岸の田畑は肥沃だった」となっています。


(3)は事実とは正反対です。「政府は鉱毒を認め」、「被害農民の運動を受けて」公害防止工事を足尾銅山に命令し、その結果鉱毒の排出は止まり、被害農地は復旧しています。どうして「被害農民の運動を弾圧した」ことになるのでしょう。


(4)の文章は、明らかに矛盾しています。
「洪水防止用の遊水池にする」と書いてあるのに、なぜ「公害問題を洪水問題に転化した」などといえるのでしょうか。
公害問題が解決したので、政府は洪水対策を立てたのです。
沿岸の農民もこぞって政府案に賛成しました。田中正造の抵抗は、谷中村民のためですが、大多数の農民は彼と反対の立場をとったのです。
それでも、正造の行動のほうが正しいと生徒に教える、理由はあるのでしょうか。















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2007-01-08 21:39:44

東京書籍の「日本史B」

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

この高校教科書の283頁、「田中正造と直訴状」には、以下のように実に不思議なことが書かれています。


「栃木県選出の代議士であった田中は、議会で足尾銅山の鉱毒による被害の実状を取りあげて政府を追及した。被害住民も上京し窮状を訴え、1901(明治34)年田中は天皇に直訴をくわだてた。」
「鉱山側も鉱毒予防の工事を行ったが、鉱毒による被害はじゅうぶんな解決をみることができなかったうえ、政府による遊水池造成はかえって被害の地域を拡大させたので、田中は生涯をつうじてこの問題に取り組んだ。」


これまで何度も証拠を挙げて説明したように、鉱毒予防工事の結果農地は復旧しており、被害は解決しています。
「じゅうぶんな解決をみることができなかった」は、したがって虚偽だということができます。


とんでもないのは、「遊水池造成はかえって被害の地域を拡大させた」で、そんな事実は、どのような資料にも書いてありませんし、理論的にもありえません。つまり、あまりにもめちゃくちゃな解説ということができます。


それに、遊水池の造成は田中の死後のことですから、「生涯をつうじてこの問題に取り組む」ことなど、できるはずがないではありませんか。

まさしく奇想天外な記述です。あまりにも馬鹿馬鹿しく、恥ずかしい教科書ではありませんか。


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2006-12-31 20:00:29

桐原書店の「新日本史B」④

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

「足尾鉱毒事件と田中正造」というタイトルの当該文章は、最後に次のように書かれています。


「その後半生を足尾鉱毒事件に捧げた田中は、1913(大正2)年、<下野の国は大正2年正月亡びたり>のことばを残して72歳の生涯を閉じる。死に際して、田中はその全財産を被害農民の対策費として寄付した。」


「全財産を被害農民に寄付した」とは、あまりにもひどい嘘です。

土地は売ってしまって資産はありませんし(全集・第2巻の634頁に地所の売渡証が載っている)、国会議員時代に歳費を辞退して以来収入はゼロです。

もともと生活費も運動費も支援者から献金を受けていたため、彼は、奥さんに生活費さえ渡しておりません。

のみならず、貧乏な被害民からさえお金を借り、しかもそれさえ踏み倒しています(全集に島田熊吉及び増田清三郎からの催促状が載っています)。

人から恵んでもらって生活している人が、どうして被害農民に寄付などできるのでしょう。


2006年4月26日、この教科書のさまざまな間違いを指摘した私の手紙に対する桐原書店からの返事が来ました。

内容はこうです。


「お手紙、確かに頂戴いたしました。記述の内容につきましては、これより執筆者と協議をおこないたいと存じます。結果が出るまで少々お時間がかかるかと思いますが、結果が出次第、ご連絡申し上げます。」


返事はまだ来ません。しかし、「執筆者と協議」して結論が出ると思っているのでしょうか。執筆者は抵抗するに決まっています。何が間違いかは、編集部で調べれば簡単にわかるはずです。なぜそうしないのでしょう。全く不思議です。


何時までも高校生に嘘の歴史を教え続けるつもりなのでしょうか。

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2006-12-24 11:51:03

桐原書店の「新日本史B」③

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

教科書の説明は更にこう続きます。


「1903(明治36)年、栃木県と政府は、渡良瀬川下流の谷中村一帯を買収する計画を立てた。ここを一大遊水池とし、水量を調節して洪水を防止しようと考えたのである。こうして鉱毒問題は治水問題にすりかえられて、谷中村に集約された。」


「田中は、問題の本質をそらしたこの案に、猛烈に反対した。しかし、政府はこれを強行し、1907(明治40)年、谷中村に土地収用法が発せられて家屋はとりこわされ、谷中村一帯は水没した。」


「鉱毒問題は治水問題にすりかえられて、谷中村に集約された」とありますが、この段階ではすでに被害農地は回復し始めて鉱毒問題は解決しており、次の対策として洪水防止のための谷中村の遊水池化が計画されたのです。

それなのにどうして「すりかえ」になるのでしょう。


「谷中村に土地収用法が発せられて家屋はとりこわされ、谷中村一帯は水没した。」と政府の政策を批判していますが、前述のように、この計画には確固たる理由があり、上流の農民の支持があり、国会の決議も県議会の決議も経ています。それでも間違いだという根拠があるなら、それを説明すべきです。

これでは、「田中正造が善で日本政府は悪だ」という政治的に偏向した説明、という印象しか受けないではありませんか。


ところで、1907年は、「家屋がとりこわされた年」とも、「谷中村が水没した年」とも読めます。こういう曖昧な文章は、避けるべきだと思います。

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2006-12-17 12:05:37

桐原書店の「新日本史B」②

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

この教科書からの引用を続けます。


「田中正造は、1891(明治24)年、帝国議会でこの鉱毒問題を取り上げ、銅山の営業停止と農民の救済を政府に迫った。その後、被害農民たちも警察の抑止をふりきって大挙上京し、政府に惨状を訴えた。こうして足尾鉱毒問題は世の注目をあび、当初田中の訴えに耳をかさなかった政府も、世論に押される形で、1897(明治30)年、ようやく<鉱毒予防命令>を出した。これに対し、政財界に絶大な影響力を持つ古河は、被害農民の一部を買収するなどして運動の切りくずしをはかった。」


「銅山の営業停止と農民の救済を政府に迫った」は、事実ではありません。
1891(明治24)年12月18日の正造の質問書は、「足尾銅山に対する政府の責任と、被害民の救済方法、将来の鉱毒防止対策を問いただしたもの」で(岩波新書の『田中正造』131頁)、政府に営業停止など迫っていないからです。
同書によれば、正造が銅山の営業停止に関する請願書の草案を作成したのは、1896(明治29)年9月15日になってからです(134頁)。


「当初田中の訴えに耳をかさなかった」とありますが、上記の質問にも、「原因はまだ不明だが、帝大の教授たちが調査中だ」といった答弁をしており、事実は耳を貸しています。


「政財界に絶大な影響力を持つ古河」も嘘です。
古河市兵衛は、政・財界人との付き合いが当時もっとも少なかった経営者で、絶大な影響力など全くなかった人です。
陸奥宗光との関係が深かったのは、個人的なつきあいであり、また、陸奥は政治家としてはアウトサイダーでしたから、癒着だという判断はまるで筋違いです。


市兵衛は、加害者責任をすぐに肯定し、すばやく損害賠償の示談交渉をはじめ、政府の公害防止工事の命令に対し、すべて素直にこれを履行しています。したがって、「被害農民の一部を買収するなどして運動の切りくずしをはかる」必要はありません。


「<鉱毒予防命令>を出した。」としながら、この教科書は、古河鉱業が、この命令に従って公害の歴史上最大の大規模工事を敢行し、それが成功して被害農地が復旧したという重大な事実を完全に省いています。


高校の教科書が、何でこれほどひどい嘘をつかなければならないのでしょう。


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2006-12-10 11:06:38

桐原書店の「新日本史B」①

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

この高校教科書を、少しずつ引用しながら、間違いを指摘していきます。


「足尾銅山は、1877年に京都の古河市兵衛の手に移ってからは、・・・産銅額は飛躍的に増加していった。」


古河市兵衛は京都の出身ですが、事業の本拠は始めから東京ですから、「京都の古河市兵衛」では真意が伝わりません。こんな書き方をすべきではないと思います。


「銅山による山林の乱伐や煙害で山ははげ山になり、ひとたび大雨がふると、渡良瀬川は氾濫して洪水をおこした。洪水は広範囲に鉱毒をまき散らして農地を荒廃させ、作物は育たず、農村は疲弊した。」


洪水の原因は特定できません。渡良瀬川は江戸時代から洪水が多く、そのために沿岸の農地に豊かな実りがもたらされた、というのが定説です。
例えば、田中正造研究者の花村富士男は「谷中村は、3年に1度は昔から洪水があった。2年間は豊作、1年間は洪水と、そのくり返しが多かった。」と書いています(『神に最も近づいた人-田中正造覚書』)。


「銅山による山林の乱伐や煙害で山ははげ山になった」ことが洪水の原因だと教えることは、明らかに間違っています。


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2006-12-03 21:09:44

山川出版社の「日本史A」③

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

この教科書は、最後に次のように書いています。


そこで(鉱毒被害が止まなかったので)、1901(明治34)年に田中は議員を辞職し、その年末の議会開院式から帰る天皇の行列に直訴を試みたが、果たせなかった。」

「政府は1907(明治40)年、被害と洪水を緩和するために、渡良瀬川と利根川の合流点の近い栃木県下の谷中村を廃村として住民を集団移転させ、遊水池にした。」

「しかし、田中はこれを不服とする住民とともに谷中村に残り、1903(大正2)年に亡くなるまでそこに住んで政府に抗議し続けた。」


「鉱毒被害が止まなかったので直訴を試みた」は、これまで何度も述べたように事実ではありません。

明治34年10月6日付の朝日新聞で明らかなように、すでに豊作になった田畑もあるからです。


谷中村の遊水池化の目的は、鉱毒被害の緩和ではなく洪水防止ですから、これも嘘です。

政府は、鉱毒被害がなくなったことを確認したうえで、この計画を推進しています。資料をよく調べてください。

田中正造の政府への抗議は、あくまでも個人的な行動であって、日本国民の立場から言って、この抗議が正当であるという根拠は何もありません。谷中村より上流の農民は、すべてこの政府案に賛成しているのです。


にもかかわらず、正造のほうが上流の農民より正しいと生徒に説得できるはずはないではありませんか。


問題点を指摘した私の手紙に対して、本年5月10日付で山川出版社の編集部から返事がありました。

それには、「ご指摘の点については、著者に照会して検討したい。」とありましたが、著者は反論するに決まっています。相談して正しい答えが出るものでしょうか。

「少々時間を頂きたい」とも書いてありましたが、いまだ音沙汰なしです。

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2006-11-26 20:28:53

山川出版社の「日本史A」②

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

説明は、次のように続きます。


「被害地の住民は、1897(明治30)年以来、箕笠・草鞋ばきで大挙して上京し、数回にわたって陳情を試みたが、1900(明治33)年には警官隊と衝突して数十人が逮捕された。」


「栃木県選出の衆議院議員田中正造は同じ議員の島田三郎らの助力を得て、議会で政府に操業停止を迫り、また木下尚江らの知識人とともに世論の喚起につとめた。」


「政府も鉱毒調査会を設けて鉱毒予防を銅山に命じるなどの処置をとったが、操業は停止させなかったので鉱毒被害は止まなかった。」  


農民が逮捕されたことばかりが強調され、政府が農民の要求を入れて公害の歴史上異例の対策を立て、加害企業が今のお金で100億円以上も投入して公害防止工事を敢行し、その結果、被害を受けた農地が元の戻っているのに、それらを全く説明せず、「操業は停止させなかったので鉱毒被害は止まなかった。」などと、完全に虚偽の作り話を生徒に吹き込んでいます。


つまりは、公害対策に成功した日本政府を悪者扱いしているわけですが、教科書がこんな失礼なことをしていいのでしょうか。
                         

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