2006-07-18 19:59:56

立松和平の嘘八百とNHK宇都宮

テーマ:栃木県人の大法螺

NHKラジオ深夜便の「心の時代」で、立松和平の講演「田中正造がやり残したこと」が放送されることを知ったので、去る6月17日(土)午前4時に目覚まし時計を使って起きて、この放送を聴きました。


その結果は予想を超えたものでした。彼は口から出まかせの嘘を次々と述べ立てたのです。
「足尾銅山は政府から払い下げられた。」
「日本で始めてダイナマイトを使った。」
「製錬後の廃石には、水銀やカドミュームが含まれていた。」
「鉱毒の被害者には、水俣病と同じ症状が出た。」
「明治13年頃を境に豊かだった自然が消えた。」


古河市兵衛が足尾銅山を買ったのは、副田欣一からですし、ダイナマイトは明治7年ごろから使われていて、始めてではありません。
その他のことも、足尾鉱毒事件のことを少しでも知っていればすぐ気がつくことで、よくもこんなでたらめを言えるものだと、ほとほと感心させられる嘘ばかり。


彼がこれほどの嘘つきとは思いませんでした。それに、「正造がやり残したこと」は何も話さず、自分が足尾に木を植えている、ということばかり強調していました。


あまりにもひどすぎる、「心の時代」で放送すべき内容ではないと考えた私は、これを制作したNHK宇都宮放送局の局長に宛てて、これらの事実を指摘し、「訂正する義務があると思うが、どうか。」という手紙を出したのですが、留守中の私に電話が入り、「後日また電話します。」との伝言があったため、しばらく待ちました。


しかし、電話が来ないのでこちらから電話を入れたところ、相手のタキタという放送部長は、「私どもとしてはなんら問題がないと考えている。」「文書では返事はできない。」と、いかにも高圧的な調子で、これがNHKの体質なのかと思わせる見解を述べました。


いったい、「心の時代」という番組で嘘八百を並べる放送をして、どうして「何ら問題がない」のでしょう。
放送法第3条には、放送は「政治的に公平であること」「事実を曲げないですること」と定めてられています。「問題がない」どころか法律違反ではありませんか。


嘘をつけば必ずばれます。立松和平はそのときにどう答えるつもりなのでしょう。
両者ともあまりにも非常識な発言です。いずれ、彼らは信用を落とすことになると、私は考えます。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2006-07-09 11:43:12

もう一人の田中教信者・雨宮義人

テーマ:栃木県人の大法螺

『田中正造全集』の編集陣に、花村校長を誘ったのが、全集の企画者で推進者だった雨宮義人です。
彼は、大正4(1915)年に宇都宮で生まれ、東京帝国大学国史科を卒業しますが、すぐに召集されて兵役につき、敗戦とともにソビエトに抑留されます。そして、昭和24年に帰国してまもなく、栃木県立宇都宮高校の教師になっています。


同時に、田中正造の行き方に感激して資料を調べ始め、早くも昭和29年に『田中正造の人と生涯』を書いて出版しています。

つまり、第二次世界大戦後の正造研究の先駆者といえる人ですが、それだけに入れ込み方は激しく、後輩教師の花村校長同様、完全に田中教に毒されていたといえます。


明治36年の秋に鉱毒被害農地は大豊作になるのですが、これにあわてた田中正造は、「去年の秋の豪雨で南北10里余の山が崩れ、ほとんど50年分の山土が被害農地の毒土を覆ったためで、断じて鉱毒予防工事のためでない。」と演説して回りました。


あまりにもナンセンスなこの作り話を、しかし雨宮義人氏は全く疑わずに信じ込むのですから、私には何とも不思議でなりません。
彼は、『田中正造の人と生涯』に次のように書いています。


「この年にいずれの田も人の背丈に稲が繁って、ふっさりと重げに穂を垂れる光景を呈したのであった。それは、去年の秋の洪水が、多年山林濫伐の結果、水源地の山々が大潰れに壊れて、新しい土壌を沿岸一面に分厚く置いていったためであったが、そのため、鉱毒地回復の報さえ伝わった。」


もちろん、社会主義者として著名な木下尚江も荒畑寒村も、宇井純も花村校長も、田中教の信者なので、このばかばかしい作り話を本気で信じて疑おうとしていません。
宇井純は、東大での「公害原論」でこう話しました。


「明治35年は、もう一度洪水がありまして、そのときに運ばれてきた土が、被害地のそれまでの鉱毒の上にかぶさったために、被害がやや軽減する傾向が出た年です。」


花村校長はこう書いています。


明治35年の大洪水は、渡良瀬川中流鉱毒激甚地の毒土を、渡良瀬渓谷の肥沃な新土が覆いつくしたのである。そのためにこの年(明治36年)の稲は、そのほとんどは前年の5倍という大豊作であった。」


何かを絶対視することによって、人間はこのように馬鹿になり得るのです。恐ろしいではありませんか。






AD
いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)
2006-07-02 09:40:28

花村校長のあきれた個人崇拝⑥

テーマ:栃木県人の大法螺

花村富士男氏が田中正造をこうまで崇拝する理由は、国家権力への姿勢を評価しての事のようです。
『評伝・田中正造翁の生涯』(2005年)は、特にこの面を強調しています。


「正造が理想としたのは、鉱毒被害各町村民が大同団結して国家権力と闘い、各町村自治体を再構築することであった。」
「過酷な鉱毒被害に喘ぐ農民たちのために全力を傾注し、国家権力に立ち向かった、すさまじいまでの生き方に対して、畏敬の念を禁じ得ない。正造こそ明治期の日本が生んだ世界に誇るべき巨人であった。」
「明治時代を代表する立憲政治家として、時の政・官・財界一体の強大な国家権力に対し、徹底して挑戦し続けて永眠したのであった。」
「正造は、このまま足尾銅山が操業を続ければ、日ならずしてわが日本は滅亡への道を辿ると、一大警鐘を鳴らしつつ、胃癌のため数え73歳でこの世を去った。」


しかし、被害農地が復旧したのは、国家による公害防止対策が成功したためです。被害農民が国家と闘う気になるはずはありません。


ところで、花村先生自身は国家権力とどのように闘ったのでしょう。
日本国憲法の精神とは矛盾するにもかかわらず、国家権力は、これまで、高校の卒業式などに、日の丸・君が代を強制しつづけてきました。
花村先生は、このことで闘うことはしなかったと思います。教育委員会に抵抗すれば、校長先生にはしてもらえないはずだからです。


私の本は、勉誠出版が『下野新聞』に広告を出しました(2004年10月26日)。
しかし同紙は、本のことは全く記事にしませんでした。
花村校長によれば、同紙の吉沢文夫編集局長は、花村先生に歴史を教わり、宇都宮高校を昭和43年に卒業。二人は今でも親しくしているということです。
私の本を読者に知らせなかった理由が、これでよく分かりました。



AD
いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)
2006-06-25 12:20:52

花村校長のあきれた個人崇拝⑤

テーマ:栃木県人の大法螺

田中正造の研究者の中では、古河市兵衛を高く評価している点で花村校長は特異な人で、市兵衛のことを次のように誉めています。


「古河市兵衛は、生涯を反公害闘争に捧げた田中正造に遜色のない、明治期を代表する大人物であった。」
「激動の明治期、徒手空拳、裸一貫から一代にして古河コンツェルンをつくりあげた市兵衛は、明治きっての大実業家である。」


ところが、彼はまたこの自説を、次のように完全に覆して恥じないのです。


「市兵衛は、無学であるがゆえに、足尾銅山の莫大な利益を優先し、何の鉱毒防止対策も講ずることなく、多大の鉱毒惨禍を招いたのである。」
「幼少期での苦難の体験が、市兵衛をして知と情のアンバランスをもたらし、金銭に異常に執着する人格を形成せしめたと思われる。」
「生涯を通して人間への不信感を持ち続けた、金銭万能主義者の市兵衛は、<ものいわぬ鉱石>のほうが、平気でうそをつき、人を裏切っても恬として恥じない人間よりも信用でき、愛着をおぼえたのではなかろうか。」


花村校長は、「市兵衛は予防工事のために、国家予算から勘案すると今日の8000億円に相当する巨費を投じた。」と自分で書いたことを、すっかり忘れているようです。その上で彼は、次のような心理分析までするのですから、驚くほかありません。


「とすれば、生涯をワンマンで通した市兵衛は<孤独の人>であり<淋しい人>だったといわざるを得ない。」


そして最後に正造をこう称えるのです。


「対する正造は、<愛の人>であり、自他ともに認める<可愛い人>であった。」


大企業の経営者であった市兵衛が、何千人という従業員に尊敬され、明治十二傑に選ばれ、五人の子供がいたのに反し、正造は妻ともずっと離れて暮らし、子供はおらず、反公害闘争の仲間だった農民からも見捨てられ、ついには一人で谷中村に行かざるを得ませんでした。いったいどちらが<孤独の人>だったのか。考えればすぐ分かることです。


ところで、「自他ともに認める可愛い人」とありますが、正造は自分で「可愛い人」と思っていたのでしょうか。不思議なことです。



いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)
2006-06-18 12:03:54

花村校長のあきれた個人崇拝④

テーマ:栃木県人の大法螺

明治36年、古河市兵衛に命じて造らせた公害防除施設の有効性を確認した明治政府は、渡良瀬川の洪水防止(治水)対策として、下流の谷中村を遊水池にする計画を立てます。


実際、この年の秋には、沿岸の田畑は豊作になりましたが、この事態に対して花村校長は、『田中正造の終わりなき戦い』(1998年)にこう書いています。


「激甚被害地が大豊作となったことは、鉱毒被害農民の意識を大きく変化させた。農民は本来、自己の耕作田畑に対して異常ともいえる執着心を持つものであり、守旧意識が強いのである。」


「農民たちは、自分たちの田畑が大豊作となったことで大いに満足し、渡良瀬川の大改修が竣工すれば、鉱毒被害に二度と見舞われないという保守的観点から、政府が推進する治水事業に賛成し、多数の農民の生存権が抹殺されること(谷中村廃村)に同情を寄せたものの、なんらの支援活動を行うことなく、それを見殺しにしたのである。」


花村校長は、農民は意識が低く保守的で、谷中村の農民を見殺しにしたと批判していますが、農民が農地に執着するのも、他人よりも自分の利益を優先するのも当然の理ですから、この批判は全くの的外れです。この偏見の原因は田中正造を絶対視していることにあります。


鉱毒の被害者は農民ですから、主役は農民であり、彼らの行動を理解することが大切なのに、花村校長は、脇役でしかない一人の政治家の言動だけを基準にして正邪を判断しているのです。全く主観的な歴史観だということができます。



いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2006-06-11 11:26:16

花村校長のあきれた個人崇拝③

テーマ:栃木県人の大法螺

明治政府の命令に従って古河市兵衛が履行した鉱毒防除工事は、田中正造の直訴後に政府が設置した第2次鉱毒調査委員会により、その効果が徹底的に調査されました。

その調査結果について、花村校長は次のように書きます。


「明治36年3月3日、委員会は桂首相宛に、<調査報告書>を提出した。ここには、<銅分の根源は、工事以前の排出物の残留分が大部分を占め、現業に起因するものは小部分に過ぎない。>と、足尾銅山を擁護する政府の方針を追認する姿勢に基づくものであった。」


つまり彼は、政府の調査は信用できないと結論付けたわけですが、なぜ、当時のトップクラスの専門家の諮問を否定できるのでしょう。
しかし、実際にこの年の秋には、被害地の田畑は豊作になりました。この事実については、彼はこう書いています。


「これは全て神仏の加護であると正造は訴え、この絶好の機会にこそ足尾銅山の鉱業を停止して、鉱毒の流出を永遠に停止し、被害地の完全復旧を図るべきであると主張した。」


さらに彼は、正造だけが正しく、被害農民も間違っているという主張を、次のように進めていくのです。


かかる悲痛かつ絶叫とも言うべき正造の主張・訴えにもかかわらず、被害民のほとんどは、この豊作が、第2次官製鉱毒調査会の報告、すなわち政府と鉱山側の主張するように、工事の実効の証左であり、鉱毒事件はほぼ解決された、という姿勢に急速に傾斜していった。」
「結果として、この年の豊作は鉱毒問題を治水問題へ転換させ、鉱毒事件を鎮静化せしめ、正造の孤立化に拍車をかけたのである。」


何千何万という被害農民が、公害防止工事の効果で自分たちの農地が復旧したと確信したのに、なぜ花村校長は彼らの判断は間違いで、被害者でない政治家の主張は正しいと、断言できるのでしょう。滅茶苦茶な理屈ではありませんか。

いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)
2006-06-04 10:45:58

花村校長のあきれた個人崇拝②

テーマ:栃木県人の大法螺

田中正造にかかわる花村富士男の著書とは、以下の5冊です。
『神に最近づいた人』(1995年) 
『田中正造の終わりなき戦い』(1998年)
『我拾って天国を創らん』(2001年)
『田中正造翁伝』(2003年)
『田中正造翁の生涯』(2005年)


昭和5(1930)年生まれなので、2005年で75歳ですが、高齢ながら非常に精力的に正造の伝記に取り組んでいることがわかります。


とはいえ、どの本を見ても内容は同じようなもので、しかも正造の言動は全面的に正しく、政府や古河市兵衛は間違っているとのメッセージで一貫していて、とても人間がリアルに描かれているとはいえず、面白く読めるような伝記とはいえません。
しかも、いったいなぜ正造が正しく、なぜ政府が不正なのか。どうしてこういう結論が出るのかも、さっぱり分らないのです。


たとえば、鉱毒予防工事をやり遂げた古川市兵衛のことを、彼は次のように高く評価します。
市兵衛は、政府命令の実行に真摯かつ全力を傾注して取り組み、当時としては最大限の努力と犠牲を払って完了したのである。水俣病などの公害に対しての経営者たちの無策と比較すると、市兵衛の鉱毒予防への取り組みの真剣さが目立つといわざるを得ない。」
「全費用を合算すると約200万円の支出であった。これを当時の国家予算から勘案すると今日の約8000億円に相当する。」


ところが、上の事実から導き出される結果を、彼はデータを何も示さずに次のように書くのです。
「この事件の根本的解決策はなかったのである。その場限りの一時しのぎの予防工事であり、普通の台風による大雨にも耐えられず、依然として鉱毒のたれ流しはつづいたのであった。」
「当時の科学のレベルからは、鉱毒発生の原因を突きとめることが精一杯で、予防ないし除害のための有効・適切な施策・対策は、,鉱業の停止以外には不可能だったといえるのではないだろうか。」


鉱業停止とは閉山のことですが、公害防止には閉山しか手がないなどと、いったい誰が考えるでしょう。
花村校長は、ただ田中正造の思想が絶対的に正しいと信じているだけなのです。だから、このように現実離れしたことしか言えないのです。


同じ栃木県の教師たちが書いた『下野人物風土記』の3集、古河市兵衛の章には、「予防工事によって、鉱毒問題は解決した。」とありますが、この事実を彼はどう受け止めるつもりでしょうか。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2006-05-28 11:38:15

花村校長のあきれた個人崇拝①

テーマ:栃木県人の大法螺

田中正造を猛烈といっていいほど崇拝している民間の研究者が、栃木県にいます。


出身は福岡県ですが、歴史の教師として県立足利女子高等学校に赴任して以来、同県の多くの県立高校で教鞭をとり、今市、宇都宮北、宇都宮南高校などの校長を歴任した県教育界のエリートで、同時に岩波書店の『田中正造全集』の編集に関係したことから、次々と関係論文を書き続け、これまでに田中正造の本を5冊も自費出版しているのですから、その入れ込みぶりには唖然とせざるを得ないものがあります。


その人の名は花村富士男。はっきり言ってとんでもない元校長先生です。
なんといっても吃驚したのは、平成3年に出版したシリーズの最初の本が、『神に最も近づいた人 田中正造覚書』となっていたことです。
これでは、実態からあまりにも外れているからです。


全集をパラパラめくって、正造の国会演説を見ていけばすぐに分かりますが、彼がしゃべっているその中身は、口からでまかせで事実無根の話が多く、そもそも真実味が感じられません。


実際に研究者から彼の虚言がいくつか指摘されていますし、私は彼の書簡や演説から数え切れないほどのウソを見つけました。とにかく、常にいろいろなウソを重ねていたことは間違いありません。


そもそも、普通の人間なら何らかの労働をして生活費を稼ぐのに、彼は働かないので収入がなく、それが当たり前のごとく、生活費も活動費も金持ちの親戚や支援者からもらっていました。もっと問題なのは、奥さんには1銭も渡していなかったことです。ですから正造夫人は、内職で暮らしを立てていくしかありませんでした。


もっとひどいのは、お金に困っての果てに貧乏な被害農民からさえ金を借り、返せなくなって踏み倒していることです。
どんなに立派な演説をしても、被害農民を救うと称して立ち上がっても、お金に対してこんな汚いことをする人は、私には許せません。人の道に外れているとしか思えないので、「神に最も近づいた」と賞賛するなどとんでもないことで、絶対反対です。


その個人崇拝ぶりについては、次回から具体的に書いていきます。


いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2006-05-21 20:36:02

立松和平の突拍子もないウソ②   

テーマ:栃木県人の大法螺

立松和平が自らライフワークだというもう一つの小説が、『毒 風聞・田中正造』ですが、ここにも足尾鉱毒事件にかかわるとんでもないウソが見られます。

この小説の第2章は、庭田という被害農民が明治31年に作文した「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」をそのまま素材にしているのですが、それは次のような文章を並べることによって構成されています。


「マルタという魚の最盛期は、桜の花の盛りです。ハヤは、梨の花の盛りを旬(しゅん)といたします。渡良瀬川の川幅いっぱいに網を張りますと、慶応より明治12,3年の頃までは一晩に百貫以上はとれました。(中略)鉱毒被害以来、マルタもハヤもまったくとれません。」


しかし、この被害実記はすべて同じ調子で、上記のように「かつてはこのように豊かな自然があったが、鉱毒被害以来それがなくなった。」という書き方がされており、どの程度の被害があったのか、その具体的内容はほとんど書かれていないのです。つまり「被害実記」にはなっていません。よく読むと実にいい加減な資料だということがわかります。しかし、これだけではありません。


実は、鉱毒の被害が発生するのは明治17年頃からです。ですから、「明治12,3年頃を境に魚がとれなくなった」と書いているこの記録は、明らかに捏造された作文だということを証明しています。つまり、真実の記録ではないということができます。

庭田という農民が、いつごろから公害が発生したのかわからないはずはありません。それなのになぜわざわざこんな嘘を書いたのかといえば、田中正造が明治30年から「公害の発生は明治12,3年頃」と嘘を言い始めたので、この嘘に合わせる必要があったからです。


ということは、田中も嘘をつき、それに合わせて被害農民も嘘を言っているこの記録は、明らかに意図的な虚構であり、資料としての価値はないと言えます。


ちょっと調べれば、田中正造に重度の虚言癖があることがわかるはずです。しかし、立松は、正造の言うことを頭から信じ込み、その上、政府と古河の公害対策が成功した事実を読者に何一つ知らせず、逆に政府の無策を非難するような小説を書いて、読者をだましているわけですから、まさに大法螺吹きの栃木県人だということが出来ます。

いいね!した人  |  コメント(1)  |  リブログ(0)
2006-05-14 12:01:10

立松和平の突拍子もないうそ①

テーマ:栃木県人の大法螺

斉藤ディレクターは、足尾鉱毒事件をテーマにした『その時歴史が動いた』に、マスコミで大活躍する栃木県人、立松和平をゲストに起用しました。


立松は、足尾銅山の抗夫だった人を曽祖父に持ち、生まれ育ちは宇都宮ながら、夏休みになると足尾にあった親戚の家に遊びに行き、「子供の頃は足尾に住んでいたといっていいくらい」この地に縁があって、鉱毒事件に関する小説を2冊も書いている人だったからでしょう。

しかし、立松は、放送で「田中正造に唯一出来ることは直訴だった」と言っただけでした。直訴のその時すでに、公害防止工事の効果で被害農地が回復し始めていたのに、何も調べていない彼は、学校の教科書に書いてあるニセの解説程度のことしかコメントできなかったわけです。


足尾鉱毒事件をテーマにし、自らライフワークだとする彼の小説のひとつが『恩寵の谷』ですが、この中で、足尾銅山の所長(責任者)だった木村長兵衛を悪役にして、しかし立松は、次のように時間を勝手に逆回転しているのですから、あいた口がふさがりません。


「長兵衛は、渡良瀬川の下流で魚が大量に浮かび、殊にアユの量が減ったのは鉱毒が原因だというウワサを耳にした。もし漁民が失業したというなら、いつでも銅山で雇ってやる、と会議の席で彼は何度も何度も大声を出した。」

「もう何年も前から農作物の収穫が減少してきた。栗、栃、柿、梨、梅、桃も収穫がなくなり、木もしだいに枯れていく。田畑に作物が育たないのも、茸が生えなくなったのも、馬が死んだのも、母親の乳がでず赤子が夭折するのも、製錬所の煙のせいだという。つまり、すべての責任は長兵衛に帰すのだから、賠償金を払うべきだというのだった。」

公害が事件として顕在化するのは明治23年8月の大洪水からです。同年11月に谷中村が製錬所の移転を要求し、12月には吾妻村が採掘停止を求める上申をし、栃木県会も原因物質の除去を建議しています。

田中正造が帝国議会で最初の質問をするのは翌明治24年12月、原因は足尾銅山の排出物だと、東大教授古在由直が発表したのは25年2月です。

そして、立松がこの小説に利用した上記の被害状況が記録されるのは、間違いなく明治30年以後のことです。

ところが、木村長兵衛は明治21年4月に死んでいるのです。ですから、生存中に上のような公害の話が持ち上がるはずはありません。


彼は、田中正造を英雄にし、古河市兵衛を悪者に仕立てるために、意図的に歴史を捏造したのでしょう。

まったくペテン師的な行為ではありませんか。栃木県人らしさを売り物にする人気小説家の、これが現実です。


      

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。