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2007-10-13 20:28:13

正造の強気と弱気と二枚舌・24

テーマ:田中正造の嘘

正造の晩年に、このタイトルの弱気の方を見せていた相手は、缶詰メーカー・逸見山陽堂の経営者だった逸見斧吉でした。


経営者でありながら社会主義者と付き合い、公害のような社会問題にも関心が深く、正造の行動に深い理解を示し、なんの仕事もせず収入の全くなかった正造のためにお小遣いを渡していたので、彼に対しては大きな口をつくことができなかったのでしょう。正造はしばしば自分の弱い面を正直に見せました。


死の少し前の逸見宛の手紙(大正2年7月30日)に、足利の親戚に身を寄せていた正造はこう書いたのです。

誰に対しても、自分より偉い人間はいないかのごとく悪口を言う正造の反面が現われていて、みごとな2枚舌を見てとることができます。


なお、彼の文章はまともな日本語になっていないことが多いので、自分なりに解釈するほかありません。


「正造の30余年間は実に残忍なる反響、同志殺し、朋友殺し、親戚殺しの反響、何のために他人に損さするも、その罪おのれの力および悟りの到らざるあり、です」


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2007-10-10 19:56:50

正造の強気と弱気と二枚舌・23

テーマ:田中正造の嘘

碓井要作は、田中正造を尊敬する栃木の県会議員で、二人の間には相当な信頼関係があったはずですが、正造はこの碓井にも疑心暗鬼を抱くのです。明治43年11月15日の碓井宛の手紙には、こうあります。


「諸君が行動の時事に適わざるを惑うなり。いたずらに足尾銅山の内意のみを受けたるもののために誘惑せられて無意味の楽観に陥り、その命の下にのみ唯々諾々たるをもって足れりとするか。・・・いやしくもまじめの日本人の資格ありとせば、その罪を責めざるべからず・・・」


また、県会を批判した次のような手紙もあります(明治43年11月15日付け、吉岡耕作他3名宛て)。


「めしの上のハエも追わざれば飯残らずハエクソとなりて候。今は県議の過半はうじバエとなりて県民にくそひりかけたり。既往ハエを追うを見ては小事なりとして、更に大害を招きて臍を噛んで及ばざるは、現今の我が県会なり」


最晩年になると、彼の気に入らない原因の何もかもを、足尾銅山のせいにしてしまいます。死の1年前の大正元年8月14日に和田大三郎他に宛てた手紙は、次のように書かれています。


「今日は(栃木)県会そのものが銅山のものなり。県の官吏も市民も富豪も銅山のものなり。銅山党にあらざれば人にあらずで、横尾(輝吉、元県議)の手腕も傲慢も勢力も暴勢も、皆銅山党の尻持ち、尻押し、助力のためなり。隠然たる間諜遊説、離間紹介集散、皆銅山の自在、殺活また銅山の自在にして、彼の衆議院議員の当選もまた、銅山の応援の多大なる証拠たるを知るべきなり」


横尾輝吉は、早稲田出身で栃木県の県会議員を長く務めた後、明治35,45、大正4年に衆議院議員に当選しています。
もともと田中正造の選挙参謀までした人ですが、被害農民と古河の間の示談交渉に積極的に取りくんだりしたことから、正造の怒りをかい、徹底的に憎まれることになったのです。

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2007-10-06 20:22:25

正造の強気と弱気と二枚舌・22

テーマ:田中正造の嘘

田中正造という人は、何かに満足したり感謝したりすることがほとんどなかったように見えます。
手紙で見る限り、彼は何物に対しても不満で、絶えず文句を付けていたことが分かります。つまり、我が強くて攻撃的で欲求不満の塊です。


鉱毒反対運動のリーダーだった野口春蔵に対しても、谷中村の闘争に全く協力しなかったからでしょうが、不平を述べるだけでなく、非難がましいことを次のように明治42年1月21日付けの手紙でぶつけました。


しかし実際は、流毒などなくなってすでに農地は回復していたので、「流毒は止まず」と正造に言われても農民たちは唖然とするしかなかったのです。
こんなことをしていれば、彼についてくる人がいなくなるのに、そこまで頭が回らないのでしょう。
なお、野口はこの時界村の村長でした。


「沿岸は年に月に貧窮に陥り、才子は逃げ、狡猾は盗み、青年は奪われ、老年は死す。流毒は止まず、すでに昨年41年の8月7,8,9日の如きは魚死せり」


「しかれども先年のごとく人民騒がず。界村役場、植野村役場などもこの流毒を知らず。庭田恒吉君すら川の端にいて驚かず。この大敵を見て驚かぬは熟練の兵となりたるためか」


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2007-09-29 20:44:47

正造の強気と弱気と二枚舌・21

テーマ:田中正造の嘘

前述した逸見斧吉は、正造が晩年に一番数多くの手紙を書いた相手で、正造の様々な愚痴や不満がこの人に寄せられました。明治41年11月14日の書簡の内容を紹介します。


「衣食足りて礼節。飢えては権利もなし。谷中人民は愚かなるのみならず、思慮も何もないので、殺されるまでは死をも知らずです。国滅びて乞食に陥るまでは楽観して、汝の胃袋を食い破る」


「廟堂(朝廷のこと)馬車来往、錦を飾る高等官等の奢侈貪欲、胃袋を破り、法律を破り、憲法を忘れている。彼もまた殺さるるまで死を知らず。ただし神はいずれに近いか。谷中人民のこの愚鈍なる者に組するはもとよりにして、我々の光栄ここに存しては、また精神上の大勝利」


正造にとっては、貧しい農民も上流階級も気に入らないのです。だから両方に文句を言っています。しかし、寄るべき場はその時谷中村にしかなかったので、「神に近い」とまで言わざるをえませんでした。しかし、彼は死ぬまで谷中村民を自分に従わせようとしていますから、軽蔑していることには変わりありません。この手紙も明らかに二枚舌で書かれているといえます。


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2007-09-22 22:03:08

正造の強気と弱気と二枚舌⑳

テーマ:田中正造の嘘

渡良瀬川沿岸の鉱毒反対運動が終わると、彼は谷中村の遊水池化反対の孤独な運動に全精力を傾けますが、反対を訴えるために膨大な手紙を書きます。そして、ここでも又政治家の無理解に腹を立て、名前を挙げて個人攻撃を繰り返しました。


この時期に正造の数少ない理解者であった逸見斧吉(缶詰メーカー・逸見山陽堂の社長)への手紙の一つには、次のように書かれています(明治43年1月6日)。


「(遊水池の計画地域は)東西南北3,4000町、村数11ケ。皆死せるごとし。日本亡国はこれに証しても余りあるけれども、東京の代議士中にも2,3の賢者を気取る人あれども、その人々に未だ(遊水池化反対の)陳情の運びなし。卜部氏は、利島、川辺(谷中に近い村)が選挙民のいる所なりしも来てくれず。津久居、細野氏この村潰し、人殺しに賛成せり。憐れむべし、彼らの傲慢心、人の教えを聞くの得なく、悪人というにもあらでこの不義に組みせり」


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2007-09-19 21:44:38

正造の強気と弱気と二枚舌⑲

テーマ:田中正造の嘘

正造の不平不満は政治的な敵対者である国会議員や県会議員にとどまりません。
鉱毒反対運動の闘士だったかつての仲間に対してさえ、不満の捌け口を向けるのです。


紹介するのは界村の村長で被害民のリーダーだった野口春蔵に宛てた手紙ですが、野口たちは谷中村の遊水池化反対運動に背を向け、正造が強引に引っ張り込もうとしても応じなかったので、こんなことを書いたのでしょう。明治42年1月21日付け、足利の親戚の家から投函しています。


「沿岸(渡良瀬川)は年に月に貧窮に陥り、才子は逃げ、狡猾は盗み、青年は奪われ、老年は死す。流毒は止まず、すでに昨年41年の8月7,8,9日の如きは、またねずみ色の毒水流れ、新田、山田の用水路も魚死せり」


「しかれども先年のごとく人民騒がず、界村役場、植野村役場なぞこの流毒を知らず。庭田恒吉君すら川の端にいて驚かず。この大敵を見て驚かぬは熟練の兵となりたるためか」


このような状態にあるのは自分にも問題があるという意識は、この手紙からは全く感じられません。しかし、事実はそうであるに違いないのです。世間一般の人々はたいがいそのような自省をするものです。

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2007-09-15 21:18:00

正造の強気と弱気と二枚舌⑱

テーマ:田中正造の嘘

正造にとって、国会議員だけでなく栃木のほとんどの県会議員の対しても敵意をあらわにし、特に名前を挙げて徹底的に彼らの悪口を書いています。谷中村の遊水池化を推進した議員たちですから批判の対象には違いありませんが、正造と鉱毒反対運動をしていた被害農民もまた推進派だったわけですから、民意にも逆らって責め立てていたわけです。


明治44年10月15日付けの近藤政平(佐野市)宛の手紙に、彼は次のように書いています。


「たとえば清水氏の智にして、すでにこの術中(古河鉱山側の策略)に落ち込み、わずかの物を得て多大の信用にきずつけ、木塚氏物を得ずして術中の奴隷と認めらる。あに馬鹿然たり」


「たとえば横尾、野島は陸軍参謀、影山ひとり外交上にわたりて功名あり。彼等が銅山の奴(やっこ)となりてここに十余年。これに伴う下野人道の頽廃は、今日の極度に落ち果てたり。事実は山の如し」


「予今議論を好まず。ああ、県議の貴重任なること、地方において非常の資格なり。しかも県会開設以来、未だ県会議員の真権発動の美を見ず。明治は44年なりとす。真権の発動こそまほしくも思えおり候」


「未だ県会議員の真権発動の美を見ず」などと、現実にはありえない夢のようなことを言っていますが、元県議の自身は真権を発動できたのでしょうか。自分のことは相変わらず棚に上げて、他人ばかりを責めるので、つい「あなたは何様のつもり?」と批判したくなります。


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2007-09-08 20:56:43

正造の強気と弱気と二枚舌⑯

テーマ:田中正造の嘘

手紙魔といっていいほど多くの手紙を書き続けていながら(全集のために集められた手紙は4800通余だったという)、田中正造の手紙文は日本語の文章としての体をなしておらず、意味の通じないことがしばしばあります。


ところが、彼はその自分の欠点は棚に上げて、他人の手紙文を「下手だ」といってお説教しようとするのですから、本当に驚くほかありません。


今回は、全集にある手紙に手を加えずそのままここに紹介します。明治42年9月25日付け、原田定助宛の書簡からの引用です。


「原田柳子さま何故か手紙が下手ニなりました。わたくし心配です。何か精神ニくるしみが多いのでありと考へます。この手紙其儘入御らんニます」


「湯泉の性質御取調べの上によい方角に御指示被下度候。那須か塩原ハよいと思われます。草津、いかほハなんだか相当せるか、如何。塩原の入りニ荒湯あり。荒湯の本ニ又もと湯と言ふあり、多分ハ之ハよいかと思ふ病症であるよふす。正造。二十五日、原田みき子さま」


自分より社会的地位が高い人に対しては、「悪文で申し訳ない」とへりくだっていますが、親戚の子供には「精神的に問題だある」とまでいうのです。明らかに自分は偉いんだという意識が働いているのでしょう。彼の単純さがよく理解できます。

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2007-09-05 21:38:14

正造の強気と弱気と二枚舌⑮

テーマ:田中正造の嘘

彼は、世の中のほとんどのことが気に入らず、友人達への手紙でその不満をぶちまけています。その前提は自分は正しいことをしていると言う意識ですが、しかし、単なる利己主義に過ぎないと言うことができます。
ここでは2通の手紙を紹介します。


「医者は病人すらあれば繁盛す。経済家は悪事を働けば繁盛す。法律家は愚人を欺けば繁盛し、政治家も賄賂で繁盛して、共に国家の悲惨を知らず。農民と労働者は食乏しく、家屋破れて雨は漏る。衣も汚れて虱(しらみ)多し。国家は早晩下落してほとんど株式の下落のごとし」(原田勘七郎宛。明治40年7月24日)


「国家は疾く滅亡して、社会独り苦悶の中にあり。東京はその病原地にして地方は被害地。・・・東京は実に良心保全の地にあらず。東京の一般は乱心するものの如し。本心を有する者ほど憐れなり。有するものほど悲惨なり」(逸見斧吉宛。明治42年11月10日)


彼が、物事を実に単純に、善と悪に分けていることがわかります。
農民と労働者は正直で貧乏であり、政治家や医者その他の社会の上層部の人々は悪事を働いてうまくやっている、東京は加害者で地方は被害者だ、と決めつけています。現実の世界では、このように単純ではありえません。しかし、彼は自己中心に物事を解釈しているため、世の中のことを観念でしか理解できないのです。なんと幼い精神構造なのでしょう。


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2007-08-31 19:33:55

正造の強気と弱気と二枚舌⑭

テーマ:田中正造の嘘

前回と同じく彼の攻撃的な性格を示す実例を紹介します。


明治34年に有名な政治家の星とおるが暗殺されましたが、その4年後に、正造は政敵だった星のことを自分と比較しながら徹底的に攻撃しています。甥の原田定助に宛てた手紙(明治38年1月21日)にはこうあります。


「星とおるは、陽に公に厳にして陰に私欲酷なり。故に殺さる。正造は陽に公に厳なれども公私なし。表裏なし。星は盗を捕えて放つ。放つ時に臓物の分配を得るを目的とす。故に殺さる。正造は盗を罵りて捕うるの術を知らず。星は盗を捕うると同時に自ら盗を為す。正造は盗を捕え得ず。また、自ら盗をなさず」


「正造は公に叫べども、私に直接に盗を咎むるほどに至らず。星は公に叫んで私に盗むのみならず、私に直接する人の不正を糺すこと急なり。しかも彼は上を好めり。正造は上を好まずして下を好む」


つまり彼は、「自分は清潔な政治家だが星は悪徳政治家だった」と主張しているわけです。何という奢りぶりでしょう。
常識的な人なら、自分のことを「公私なし。表裏なし」などと偉そうに言いませんし、また、心では思っていたとしても、死者を非難するような失礼はしないものです。その点から言っても、彼は礼儀知らずの欠格人間だと言えそうです。


明治の代表的な政治家である星とおるは、イギリスの弁護士の資格を持つ有識者であり、薩長藩閥政府と闘って投獄された経験を持つ革新政治家であり、同時に、長州閥の伊藤博文とも手を結ぶという現実性も兼ね備えた、実力派の政治的傑物でした。


政治家の評価は、見方によって全く異なります。『朝日・日本歴史人物事典』は、星のことを次のように評価しているのです。正造の非難は、単なる偏見に過ぎないということがこれでよくます。


「富国強兵策と政党内閣を巧みに結びつけた星の現実的な政治指導がなかったら、この後の日露戦争を闘い得る日本は存在しなかっただろう」


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