栃木の教師たちの不可解⑤ | 足尾鉱毒事件自由討論会

栃木の教師たちの不可解⑤

栃木県連合教育会は、同県の教師の団体ですから、二人の伝記は、他県の人たちに頼らずに自ら調査して執筆すべきと思います。


ところが、『しもつけ物語』における二人の伝記は、左翼系の学者が意図的にねじ曲げた話をそのまま借用して書いているにすぎません。

資料を少し調べれば、次のような事実があることはすぐにわかります。


足尾の町は、今は日光市に吸収されるほどの存在に変わりましたが、かつては栃木県では宇都宮に次ぐ人口を擁する工業都市でした。
ですから、被害農民を含む多くの県民は、足尾銅山から多大の恩恵を受けており、田中正造らの公害反対運動に批判的で、田中派の陳情数の10倍に当たる、2万2千人以上の署名を集めて、政府に足尾銅山閉山反対の陳情をしています(明治30年)。


田中派の被害農民も、足尾銅山の閉鎖を求めて明治天皇に直訴した、正造の過激な行動には大反対で、彼から離反しただけでなく、その後の谷中村での彼の抵抗運動には、誰一人として協力しませんでした。


田中正造は、「公害防止工事は効果がなかった。」といい続けました。
しかし、直訴の前に新聞は「激甚被害農地以外はきわめて豊作」と書いていますし(明治34年10月6日、朝日)、政府が設けた専門家による調査委員会も、明治36年6月に、工事の効果はあったという結論を出しています(岩波新書の『田中正造』)。
『田中正造全集』の「田中正造年表」には、「明治36年10月、被害地の稲豊作」とあります。
反対運動のリーダーだった野口春蔵も、「この工事によって農民が救われた。だから、田中正造のご恩は忘れられない。」と語っています(柴田三郎著『義人田中正造翁』)。


今市、宇都宮北、宇都宮南の各高等学校を歴任した花村富士男氏は、古河が公害防止工事に投じたお金は、現在のお金に直せば8000億円になる、と書いています(『評伝・田中正造の生涯』)。
この数字はオーバーとは思いますが、工事期間は半年ですから、いかに想像を絶する大工事だったかがわかります。

明治時代の人々は、彼の勇気に非常に感激しました。だからこそ、総合雑誌の『太陽』が実施した読者の人気投票で、古河市兵衛は伊藤博文や大隈重信や福沢諭吉を押さえて最高の票数を獲得し、「明治十二傑」に選ばれたのです(明治32年6月)。


栃木県連合教育会が、以上のような事実を県内の子供たちに教えずに、事実ではないことばかり教えつづけるのは、いったいなぜでしょうか。不思議でなりません。