2009-06-27 19:57:09

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・51

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

菅井益郎の歴史認識は、反政府、反大企業に貫かれています。

しかし、どうでしょう。日本国民の大部分は、政権与党を支持し、有名大学を卒業して大企業に就職することを望んでいるのではないでしょうか。


ですから、彼の立場は国民一般とは反対で、客観性を欠き、偏向していると言うことが出来ます。


予想外に大きな台風が来れば、たとえ河川改修が行われていたとしても、被害を防ぐことは出来ないはずです。


ところが、菅井益郎は、原因を台風の規模の大小に求めずに、政府の欠陥に求めるような説明をするのです。
台風の猛威と河川の防災対策と被害の因果関係とを、どのように判断するのでしょう。判断は不可能なはずです。
自分を何者だと思っているのでしょう。引用しましょう。


「1947年9月、カスリン台風にともなう豪雨によって、渡良瀬川と利根川流域は大洪水に襲われたのである。・・・渡良瀬川の大出水を合流した利根川は、江戸川流域を本流として流れ下り、莫大な損害を発生させたのである」


「渡良瀬川は、1948年9月(アイオア台風)にも、1949年9月(キティ台風)にも出水し、大きな被害を出した」


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2009-06-24 20:09:43

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・50

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

菅井益郎は、歴史的に何の意味もない動きを、大戦後についてもまたつづります。引用します。


「1946(昭和21)年5月、群馬県山田郡毛里田村(現太田市)の小暮完次は、東毛地方鉱毒根絶期成同盟会を組織し、古河鉱業にたいして石灰や肥料を要求した。・・・ただし、この運動は数年のうちに消滅してしまった」


「しかし、足利農民組合は、独自に古河鉱業と交渉して石灰などの現物供与を実行させたのである」


「1946年6月、栃木県は鉱毒対策小委員会を設置し、鉱毒被害の実態、土壌分析、石灰の使用調査をおこなうとともに、石灰や肥料の配給をおこなった。また、古河鉱業に徹底的な鉱毒流出防止対策と、被害農民へ損害補償をおこなうよう要望した」


この説明を読む限り、加害者の古河鉱業も行政当局も、被害農民にたいして、この当時としては信じられないぐらいまともな対応をしていることが分かります。


足尾鉱毒事件から既に50年近くたっているので、汚染物質が流出していたとしても不思議ではありません。しかし、被害の程度はそれほど大きくはないようです。


これより10年後、20年後に全国で次々と公害事件が発生しますが、そのときの加害企業や行政側の対応と比較すれば、格段の差があることがわかります。


にもかかわらず、菅井は悪意を持ってこの事実を書いているのです。何とも貧しい限りです。


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2009-06-20 20:07:48

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・49

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

渡良瀬川は、公害問題とは無関係に昔から洪水の多い川です。


田中正造たちも、「3年に1度くらいの割合で洪水があったために、天然の肥料に恵まれる結果になった」と何度もこの事実を強調しています。


それなのに、菅井は昭和の10年代になってからの洪水をたくさん並べて、農民たちがたびたび河川の改修工事を要望したという事実を並べるのです。
このことと明治の足尾鉱毒事件とは何の関係ないはずではありませんか。


引用しましょう。農民たちが洪水対策を求めたにすぎないことが、よくわかります。


「日中戦争開始後も下流の農民の運動は続き、1938年9月の渡良瀬川大洪水、39年6月の増水によって激甚な鉱毒被害が発生したため、群馬県に桐生市、山田郡、待矢場両堰普通水利組合の農民たちは、渡良瀬川改修群馬期成同盟会を結成して、栃木県足利郡の農民などとともに、内務省に対して水源涵養と渡良瀬川の再度の改修要求を提出した」


「農民たちの陳情活動は翌1940年11月まで22回も行われ、ようやく同年12月に、15年継続で800万円の改修予算が成立したのであった。その後も水源地帯の砂防工事を求める陳情や、渡良瀬川改修促進の請願が、くり返し農民たちから提出された」


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2009-06-17 20:21:52

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・48

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

著者菅井は、古河グループが他の企業グループよりも公害がひどかったと強調するために、自然条件を無視して次のように説明します。


「三井、三菱、住友、安田の4大財閥と古河とさしたる違いはなかったかもしれない。しかし、その発展の犠牲に供された人々の生活と自然とが後日まで白日の下に曝け出されていた例は他には見られない」


これは全くデタラメな嘘にすぎません。

まず三菱は、少なくとも昭和の初期までは、大きな公害事件は起こしてはいないはずです。安田は銀行と保険会社以外経営していないので、公害とは当然無関係です。


「その発展の犠牲に供された人々」は、住友の別子銅山の公害を調べれば、古河よりもはるかに多く、そして犠牲が長期にわたったことが分かります。

どうぞ自分で調べてみてください。


藤田組の小坂銅山も、後に日立グループに発展する日立鉱山も、住友の別子銅山も煙害ですから、製錬所が稼動している限り続きます。


それに反して古河の足尾銅山は、洪水があるときに、冠水した部分だけ田畑が被害を受けるのです。規模が全く違うのです。


しかも、古河は、加害者責任をすぐに認めて示談交渉に応じ、示談金を払い、政府の命令に従って公害防止工事を履行し、その他の会社よりも短期に問題を解決しています。

これも自分で調べてみてください。


「自然を後日まで白日の下に曝け出した」というのは、足尾の山を禿山にしたことを意味しているのでしょうが、いくら植林をしても樹が育たなかったという事実を無視しています。


この山の土壌にその原因があるのですから、自然条件の違いを考えない的外れな非難にすぎません。

明治以来、日本という国が欧米先進国に追いつくために、必死に工業化を図ってきたことを菅井は全く考えず、ただただ、政府と企業は悪で被害農民は善だと決め付けて自己主張しているだけです。


何とまあ単純な頭脳の持ち主なのでしょう。

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2009-06-13 20:22:01

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・47

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

公害防止工事にも、年月を経れば様々な不備が出てくるのは当然です。


時代が変わり、経営者が変われば、会社も変節します。歴史を振り返れば、日本の社会は政治も経済も、会社経営者も労働者も農民も、絶えず変化を繰り返しています。
一方だけが善で他方が悪だということはないはずです。どんな分野にも善と悪が混在しています。


ところが、この本の著者菅井は、古河や政府は悪で農民は善だという、現実はありえない幻想を前提にして、歴史を解釈するのです。


彼は、明治36(1903)年頃田畑が回復してその解決を見た足尾鉱毒事件を、20数年後の昭和に起こる公害問題とつなげて説明します。
引用していきましょう。


「足尾銅山の鉱毒予防施設の不備から、突然鉱毒が流下して来ることもしばしばあった。とくに被害が甚大であった年は、1925(大正15)、1934(昭和9)、1935(昭和10)、1939(昭和14)年であった」


「三栗谷水利組合では、1933年に、三栗谷用水の改良事業を行なうことを決定した。・・・この事業が県営事業としての認定を受けたのは1935年であった。しかし、1期工事33万円のうちの地元負担分が、9万9000円という多額にのぼったため、これを古河鉱業に負担させるべくねばり強く交渉し、古河に8万5000円を寄贈させることに成功したのであった。この1期工事は1936年3月に開始され、1936年に完成した」


この引用文から、古河鉱業は、1935年には農民の要求に応えて、農民が負担しなければならない金額の85%もの公害防止資金を拠出していた事実が分かります。当時の古河鉱業は何とも立派な会社ではありませんか。


ところが菅井は、古河企業グループが大正時代に形成されたことを説明する時、次のように徹底して古河を責めるのです。


「渡良瀬川の上流と下流の二つの村を滅亡させ、数万ヘクタールの森林を禿山にし、少なく見積もっても数万ヘクタールの田畑を鉱毒で侵し、さらに鉱毒・洪水合成被害の対策のために巨額の国民の税金を支出させて、古河財閥は成立したのである」


いったい、何の権利があって彼は古河をこのように非難するのでしょう。不思議です。


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2009-06-10 20:48:00

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・46

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

著者菅井による住民側の公害防止要求の経過説明は、さらに次のように続きます。
しかし、公害事件が新たに発生したわけではありません。
しかもどこの銅山でも起こっていた煙害問題で、技術的には当時解決策がなく、そのうえ、渡良瀬川沿岸の住民は深刻な害を受けてはいないので、ここで取り上げる意味はないはずです。
引用しましょう。


「1924年夏の大旱魃による被害はきわめて大きく、農民たちの水源涵養にたいする要求をいっそうたかめた」


「1925年2月、群馬県の新田・山田・邑楽の東毛3郡の農民数千人は、足尾銅山煙害防止問題に農民大会を開き、貴衆両議院、内務、農商務大臣に対する請願書を可決した」


「すみやかに鉱業法を改正し、同法中に鉱業による損害賠償に関する規定を設けてほしい、と請願したのだった」
「鉱業法の改正については、住友の別子銅山四阪島製錬所の煙害に反対する農民たちが、すでに1907年頃から強く要求していたものであるが、結局1934(昭和14)年になってようやく実現したのであった」


菅井のような学者にとって、素人である読者を騙すのは簡単です。事実を隠せばいいだけですから。
彼は「住友の別子銅山の煙害に対して、すでに1907年頃から農民たちが強く要求していた」と説明していますが、「すでに1893年9月に」農民数百人が住友の新居浜支店に押しかけて、別子銅山の公害騒動は始まっているのです。


住友の公害問題が始めて起こったごとく彼が説明する「四阪島製錬所の煙害」は、実は新居浜製錬所の公害を無くすべく、瀬戸内海の無人島である四阪島に移設した製錬所の新たな公害で、被害は以前よりもっと広がってしまったのです。
角川版の『地名事典』の「新居浜」の項には、次のように書いてあります。


「住友は製錬所を四阪島に移転したが、煙害は沿岸の東予(愛媛県東部)4郡一帯に拡大し、被害農民は激化し、政治経済社会上の大問題となった。闘争は昭和13(1938)年亜硫酸ガス除去装置が製錬所内に完成するまで続いた」


住友の別子銅山の公害は、加害者責任を長い間認めなかったし、煙害なので技術的解決策がなく、足尾銅山の公害よりも実は深刻だったのです。

にもかかわらず、菅井等学者たちは、住友よりも古河が悪いといった説明をするのです。あきらかに偏見ですし、読者を騙しています。


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2009-06-06 19:48:21

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・45

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

著者菅井は、この本で足尾銅山の公害のその後を様々に説明していきます。

それによれば、大正6(1917)年2月、待矢場両堰水利組合が群馬県知事に対して、ある意見書を提出したということです。その概要は、次のようなものでした。


「渡良瀬川からの洪水があるときには、いまだに少なくない土砂が浸入するが、自分たちが足尾の水源を調査したところ、予防工事の不備と考えられる点があるので、適応なる措置をお願いしたい」


具体的には、この農民たちはその実態を以下のように説明しています。


「沈澱池も濾過池も、いったん豪雨があれば若干の泥砂・紛鉱が溢出する」

「砂防のための網状工事は、豪雨があれば山岳崩落の砂礫と共に流出して、山肌を露出させる。したがって効果はない」

「脱硫装置は効果がなく、山の緑は失われてしまい、数年後には日光の山もはげ山と化し、水源は枯渇すると思われる」


大きな問題が起こったわけではなく、足尾銅山の公害が再現したわけでないことが、これで分かります。

この程度のことをなぜ取り上げる必要があるのでしょう。

最初の公害防止工事から20年ほどたっているのですから、そろそろ欠陥が露呈されてもいい時期です。当たり前の現象が起こったに過ぎません。なぜこのように責めなければならないのでしょう。


脱硫装置の効果がないのは当然のことで、政府も古河もすでに承知していたことです。

煙害防止の解決が技術的に不可能だったので、古河鉱業は、煙害に苦しんでいた松木村の住民に立退き料を支払って移転してもらい、円満にこの問題を解決しています(明治34年10月)。


前記の意見書に、煙害のために「数年後には日光の山もはげ山と化し、水源は枯渇すると思われる」とありますが、そんなことは実際には起こっていません。

単なる脅しに過ぎないことまで紹介して、菅井は読者を騙しているわけです。

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