2009-05-30 20:39:15

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・44

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

明治36年の秋の大豊作が物語っているように、日本で最初の公害事件は、農業が従来通りに回復して解決しました。


勿論、明治33年2月の川俣事件以来、農民の公害反対運動は起きませんでした。
ところが、『通史足尾鉱毒事件』の著者たちは、事件は現在まで続いているといい続けるのです。明らかな欺瞞です。


彼らはこの本のタイトルに、「1877-1984」という数字を付しました。なぜでしょう。この数字は、古河市兵衛が足尾銅山を買った年と著者たちがこの本を出版した年を示しています。彼らは、それによって、鉱毒事件が銅山を買ったときに始まり、すでに閉山してなお10年以上たっても、なお続いていると宣言したわけです。


足尾銅山の最初の公害報道は1884年10月、大規模な公害防止対策が実施されて(1897年)、被害農地の稲が豊作になったのは1903年の秋です。


このような事実経過を一切無視しているわけですから、客観性はゼロですし、何ともむちゃくちゃな理屈です。


古河市兵衛も田中正造も死んで、十数年して経営者が変わってから、足尾銅山が原因で新たな公害が発生したことは事実です。とはいえ、かつての鉱毒事件とは全く違った公害ですし、これを一緒にするには無理があります。歴史の教科書もこんな説明はしていません。


ところが、この本の後半部分を執筆した菅井吉郎は、その無理をあえてして、何が何でも古河鉱業を悪者にしようとするのです。


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2009-05-27 21:25:42

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・43

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

前回に書いたように、著者菅井は、政府が「弾圧と巧みな宣伝や説得活動」で農民の運動を分断したため、上流の農民は、谷中村の遊水池化を含む渡良瀬川改修工事の促進運動に走った、と説明しました。


しかし、『田中正造全集・18巻』の「解題」は、これを完全に否定する事実を紹介しています。引用しましょう。


「明治42年9月10日の栃木県臨時県会で、木塚貞治県議は、改修の早期可決を望んで<この機を逸したならば・・・われわれはいつの時を待ってこの困難を防ぐことが出来ましょうか。・・・今日まで貴・衆両院、内務省、内閣、1年として請願を出さない年はないのである。・・・われわれ沿岸の人民が困難をしておりますのも、20年来のことで、・・・多数の(洪水の)被害民を助けるためには、一小部分の犠牲は実に涙をのんで、・・・>などと述べた。これは、積年にわたる渡良瀬川沿岸(下都賀郡以南を除く)住民の陳情、請願運動がいかに活発だったかを物語るものである」


谷中村の残留農民たちも、逆の立場から自分の生活を守るために必死の抵抗運動を展開しました。
彼らは、大正6年2月、栃木県に対し、「現在の耕作地と不要の堤を貸し付けること、就業の費用と物件取り扱いの費用として1戸当たり60円から120円を支給すること」などを認めさせたうえで、県が用意した土地に移住しました。


農民が抵抗すれば、国家も県も相当譲歩しなければならないということがわかります。
菅井は、その後の遊水池の完成時に関して、少し前に自分が書いたことなどすっかり忘れて、農民同士は連帯意識など全く持っていないという現実を、次のように書くのです。自分の主張が何も矛盾していないと思っているのですから、全く唖然とします。


「大正7年8月、渡良瀬川改修工事中の最難解部分である高台を開削する新川築造工事が完成し、<上流被害民の万歳の声のうちに疎水式が行われた>(島田宗三著『田中正造翁余禄・下』)のであった」



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2009-05-23 20:19:45

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・42

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

谷中村の遊水池化の過程をたどると、70戸400人にまで減っていた移転反対派農民に対し、明治40年1月に政府が土地収用認定公告を出し、6月には移転をなおも拒否していた18戸を強制的に破壊しました。しかし、家を破壊されても、残留民は仮小屋を建てて住みました。


この気の毒な農民の抵抗運動に対して、正造と東京の弁護士、キリスト教社会主義者、政治家、その他の知識人などは支援したものの、渡良瀬川上流の沿岸民は何の援助もしませんでした。これが歴史的事実です。


この客観的事実を説明するのに、この本の著者である菅井は、次のような解釈を下すのです。


「政府は、日露戦争の過程で国民的統合を実現し、農村の指導者たちにも広く国家意識を植え付けることに成功したことから、それに乗じて、鉱毒と洪水の被害によって疲弊した農民たちを分断し、彼らを体制内に取り込む方針を立てたのである」


「そして、弾圧と巧みな宣伝や説得活動により、農民側の連帯を急速に破壊していった。こうして、旧谷中村の上流の農民たちは、利根川と渡良瀬川の高水工事が完成することによって、洪水のもたらす鉱毒被害が減少するのであれば、下流の一部の農民が犠牲になるのも止むをえない措置である、と考えるようになっていった」


「かつて田中正造の支援を受けて当選した群馬県選出の武藤金吉議員や、鉱毒反対運動の活動家の幹部であった岩崎佐十・野口春蔵・大出喜平などといった人々が、今度は渡良瀬川改修促進運動の先頭に立ったのである。モハヤ、完全に相容れないものになってしまっていた」


すべてとんでもない曲解といえます。


政府が、「国民的統合を実現し」「農村の指導者に国家意識を植え付けることに成功した」はずもなく、「弾圧と巧みな宣伝や説得活動」をした証拠もありません。


「農民側の連帯」などあるはずはなく、したがって、それを政府が「急速に破壊していく」ことなどあり得ません。


「上流と下流の被害農民たちの利害」が違うのは当然のことです。「鉱毒反対運動」と「遊水池化計画」とは、全く異なる問題だからです。


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2009-05-20 21:01:17

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・41

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

著者菅井はまた、渡良瀬川の沿岸農民たちが谷中村の遊水池化に賛同した理由は、政府に騙されたからであり、しかもこの時日本政府が日露戦争を推進しようとしていたためだったのだという、全く勝手で政治的に偏向した主観的見解を述べています。
引用しましょう。


「谷中村廃村にいたる過程はまさに日露戦争の真っ最中であり、国家権力を握る者たちは、社会のあらゆる局面で日露戦争に向けて国家的な統合をはかっていた時期だったのである」


「農民活動家たちの全体的な変節も、こうした時代的背景を考慮してはじめて解明しうるのである」


「このように考えると、農民の鉱毒反対運動を挫折させ、谷中村を滅亡させたのは日露戦争であった、さらに言えば日露戦争を起こした者たちであった、ということができよう」


「田中正造は後に、政府は<日露戦争中に谷中村を占領>したのだと述べている」


あまりにも馬鹿馬鹿しい理屈ではないでしょうか。

農民は、田畑が元に戻って普通の経済生活が出来れば、政府への反対運動などする必要はありません。
谷中村の遊水池化は洪水の予防対策ですから、政府の計画に賛同するのは当然です。
いったいなんで日露戦争が関係してくるのでしょう。


東海林も同じことを言っていますが、菅井もまた左翼思想に懲りかたまって、田中正造の反戦思想に感激したにすぎないと、私は解釈します。


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2009-05-16 21:19:10

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・40

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

菅井は、明治35年の秋と36年の夏は「ある程度まで農業生産の回復を見るところとなり」、「農民の間には鉱業停止要求よりも農業生産を安定化するための治水を求める声が高まった」と説明しています。


これもおかしな話で、全く嘘の説明です。農民は洪水が来ては困りますから、常に「治水を求め」ています。それは、農業生産の回復とか、鉱業停止要求とかには関係ないはずです。


明治政府は、鉱毒予防工事が成功して田畑が回復した事実を確認した上で、明治35年に、利根川と渡良瀬川を大改修し、渡良瀬川の下流の沿岸に洪水防止のため遊水池を作る計画を発表しました。


埼玉県の河辺村などが拒否したため、栃木県の谷中村が遊水池の候補地になり、強制的に立ち退かされることになったのですが、このことについて、菅井は次のように書いています。


「(政府のこの遊水池計画が)あたかも実効あるもののように宣伝されたことから、遊水池設置の犠牲になる谷中村とその周辺以外の農民は、政府の治水計画に乗ぜられていったのだった。まさに、鉱毒問題の治水問題へのすりかえ、あるいは転換ともいうべき事態となったのである」


農民は「政府の宣伝に乗った」わけでもなく、「政府の治水計画に乗ぜられた」わけでもないと、素直に受け取ればいいのに、なぜ菅井はこのように判断したのでしょう。農民はそんなに馬鹿なのでしょうか。そんなはずはありません。自分で考える能力をもっているはずです。実際に谷中村の遊水池計画は成功し、その後洪水は起こらなくなりました。


鉱毒の被害もなくなり、田畑は回復しましたから、遊水池化は「治水問題へのすりかえ」ではありません。
ですから、被害農民の判断は何一つ間違ってはいません。菅井が勝手に「鉱毒問題の治水問題へのすりかえ、あるいは転換」と言っているだけです。

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2009-05-13 19:46:34

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・39

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

「打ち続く鉱毒・洪水被害」があったと説明した直後に、菅井は突如「農業生産が回復する」と書くのですから驚きです。引用しましょう。


「そうした状態にあるとき(つまり、打ち続く鉱毒被害があったとき)、明治35年夏の大洪水が、鉱毒に侵されていない大量の山土を鉱毒被害地に運んできた結果、鉱毒被害は希釈拡散され、明治35年の秋作、翌36年の夏作については、ある程度まで農業生産の回復を見るところとなり、農民の間には鉱業停止要求よりも農業生産を安定化するための治水を求める声が高まった」


著者菅井の嘘を明らかにしましょう。


『田中正造全集・別巻』にある年表を見ると、渡良瀬川の洪水は、明治30年9月、31年6月と9月の後、32、33、34年の3年間はありませんでした。ですから、「打ち続く鉱毒・洪水被害」は事実ではありません。


明治35年8月には渡良瀬川に洪水が発生し、9月には「関東大洪水」と記してありますから、菅井の言う通りですが、いったい洪水が「大量の山土」を川の沿岸に運んでくるなどという自然現象があり得るでしょうか。あり得ません。


なぜ彼がこんなおかしなことを書いたかといえば、それは田中正造の作り話を本当だと信じたからです。
『田中正造全集・別巻』の年表は、「明治36年10月、被害地の稲豊作」と記し、「10月14日から11月14日まで、正造が<被害地豊作の実況>などと題して8回の演説をした」ことを記述しています。


さらに、全集をよく見てみれば、正造はこの豊作の原因を、この時の洪水で「渡良瀬川本支流水源の諸山岳広く崩壊したため、ほとんど50年分の山土を被害激甚地に布置して古い毒土を覆った」とか、「南北10里の山崩れがあって新しい土が数尺一時に来た」とか、「山土が天然の新肥料になり、平常の5倍の豊作になった」とかPRしています。


いずれもあまりにも馬鹿げた話で、まともな人なら到底信じないでしょう。当時の農民は誰一人そんなことを言っていません。しかし、田中正造を神格化してしまった学者や研究者は全く疑っていないのです。


それに、正造が「平常の5倍の豊作になった」というのに、菅井が「ある程度まで農業生産の回復を見るところとなり」と説明しているのもおかしな話です。


そもそも田畑の回復は、正造が天皇に直訴した明治34年にはすでに明確に記録されています。ですから、明治36年からの回復説自体が成立しません。


「栃木県久野村の稲はかなりの作柄になっていた」(明治34年10月12日付け『万朝報』)、「被害地も、激甚地を除くほかは極めて豊作」(同年同月6日付けの『朝日新聞』)等の新聞記事の他、川俣事件の裁判での農学博士・横井時敬による鑑定書(明治34年10月提出)も、かなりの水田で反当り2石以上の収穫を上げている事実を報告しています。       

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2009-05-09 17:40:05

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・38

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

この本の第9章以下は菅井が執筆していますが、彼は、明治政府の第2次鉱毒調査委員会が、渡良瀬川の洪水防止対策として下流に遊水池をつくること、その第一候補地として埼玉県の利島・川辺の二つの村を選んだこと、しかし、猛烈な反対運動にあったためこれを諦めて、対岸の栃木県谷中村に決めたことなどを説明します。


田中正造は、その結果谷中村を本拠地にして以後政府と全面的に対決する生涯を送るわけですが、それまで正造に従って積極的に公害反対運動をしてきた農民活動家たちは、すべて正造から離れていきました。
以上が歴史的事実ですが、このことに関して菅井は次のように説明しています。


「利島・川辺両村および谷中村周辺の有志を除き、大部分の農民活動家たちは、谷中廃村反対運動から遠ざかっていった。今や、この他は東京の言論人、宗教家、社会主義者、国会議員時代の正造の同志の一部がいただけだった。渡良瀬川沿岸の活動家たちはどうしたのか」


「大部分の活動家たちは、打ち続く鉱毒・洪水被害のために生活困窮に陥り、運動する余力を失ってしまっていた」


これは歴史の現実を無視した、完全な虚偽説明です。


なぜなら、鉱毒防止工事の成功で田畑は元に戻っていたので、この時に「打ち続く鉱毒・洪水被害」などはありませんでしたし、したがって、活動家たちが「生活困窮に陥り」、「運動する余力を失う」はずなどないからです。


そもそも、このような運動は、生活困窮に陥るほどその反発で強力になるものです。明らかに菅井は、現実を無視して嘘をいっています。農民のエネルギーというものを彼はまるで分かっていないようです。


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2009-05-02 20:18:33

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・37

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

この本の第8章までを書いたのは東海林ですが、8章の最後を彼は次のように結んでいます。


「田中は、大正2年9月4日、73歳のたたかいの生涯を閉じた。遺言ともいうべき<最後のことば>に、つぎのような一節がある。<同情ということにも二つある。この正造への同情と正造の問題への同情とは分けて見なければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情ではない。問題からいう時には、ここも敵地だ>(木下尚江が聞き取って書いたといわれる言葉)」


このように書いてから、東海林は以下のようにこの遺言を解釈して、読者に自説を伝えようとするのです。


田中は死を前にして、谷中村のたたかいの正義のゆるがぬ確信とともに、そのたたかいを貫いた密かな矜持を全身に感じることができる。いま田中を案じて集まったかつての仲間たちは、人民の連帯と共生の論理、鉱毒事件の本質を見失い、正義と人情のけじめもつかず、帝国主義国家という巨大な敵を支える側に巻き込まれている。ぜひ最後に言っておかなければならない。問題の本質からいえば、ここも敵地だ」


著者の東海林は、あくまでも正造の立場を正しいと認定し、彼の死の床に集まってきた活動家の農民たちを正しくないと認定しています。


いったいなぜなのでしょう。理由が分かりません。農民たちが正造に同情し、正造の闘いに同情しないのは素直にそう考えたからに過ぎません。彼ら農民たちは、「人民の連帯と共生の論理」とか「鉱毒事件の本質」とか、そんなわけの分からないことには関心がありません。それはどうでもいいことでした。


しかし、彼らは、田中正造が公害問題に真剣に取り組んでくれ、結果として政府と古河が公害防止対策を実施し、自分たちの田畑が平年作に戻ったので、死を前にした正造をお見舞いし、正造に感謝の気持ちを伝えようとしたのです。


自分たちのことを、「帝国主義国家という巨大な敵を支える側に巻き込まれている」などと勝手に解釈されるのは、完全な誤解ですし非常に迷惑であるはずです。それは事実ではないからです。


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