2009-02-28 19:34:53

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・21

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

この本は、鉱毒予防工事の問題点をさらに次のように指摘します。


「また、沈澱池も決して満足すべきものではなく、大隈重信も指摘するように、生石灰による中和を怠ったばかりではない。冬期になると氷結し、鉱毒水はそのまま渡良瀬川に注いだ。栃木県議会がこの問題に関して建議した(明治30年12月28日)のは、よくよくのことといえるであろう」


これだけを読めばもっともらしく思うことでしょう。だから情報というのは怖いのです。
この見解に対して真っ向から反論した資料があります。それは前述した明治31年4月に古河が発表した『足尾銅山予防工事一班』ですが、それには反対派の言い分に対して、次のように説明して、誤解をしないでほしいと訴えています。


事実を客観的に知るには、双方の見解を並べてみることが必要です。大隈重信のような政治家ではなく、当事者である古河の技術者の説明は次のとおりです。どちらが事実に近いかは、皆さん自身が自分で考えて判断してください。


「世間往々に沈澱池の効用について疑いを抱く者がある。それは、寒冷の候には池水が氷結してその作用が働かなくなるというのであるが、実際の事情をよく知らないための誤解である。沈澱池も濾過池もそれぞれ交替池が作ってあるので、一つが働いている間は他方は休止している。そして、休止中の池が時に氷結することがあっても、沈澱・濾過作用を起こしている方の池は、決して氷結しないのである」


「足尾の山中の寒気は、誰でもよく知っているように、未だ流動水を氷結させるほど厳しくはない。抗水は普通水に比べて温度が高く、本山沈澱池のごときは常に脱硫塔の熱湯を注入しているし、池の中に注入するわけなので、波が立って停滞するわけがないのである」

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2009-02-25 21:07:54

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・20

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

当時は脱硫の技術はなく、効果がないのは当たり前なのに、この本の著者は次のように古河や政府を責めるのです。


「事実、古河側が危惧したように、その効果は薄く、脱硫塔においてはまったく機能せず、煙害はさらに激化した」


「製錬所上流の松木村は、明治34年1月、<煙害救助請願書>を政府に提出することになるが解決されず、同年暮れに廃村・絶滅する。一方、古河側は予防工事後、その脱硫塔は世界稀有の装置として喧伝するのである」


「煙害が激化した」のは事実です。しかし、戸数40の松木村は、明治34年10月、古河から全部で4万円(今なら4億円ほど)の示談金を受け取る交渉が成立して立ち退いています。ですから「解決されず」は嘘です。


著者は、その事実は全く隠して「廃村・絶滅」と書き、古河だけが悪いとの印象を読者に植え付けているわけです。


その上、「脱硫塔が世界稀有の装置として喧伝した」とまで付け加えていますが、それは本当なのでしょうか。


工事の翌年の明治31年4月に古河が発表した『足尾銅山予防工事一班』には、次のように書かれています。
「脱硫塔はわが足尾銅山において世界で始めて、最も壮大なものを装置したといっても過言ではない。欧米諸国の鉱山には、稀には設けてあるとはいえ、当所のものと同様に語るべきものはなく、破天荒であり、且つその設計および成績について説明できる例はない。したがって、世間の学者、専門家たちは、当所の成績の報告を待ってようやく、その実際上の結果を知ることが出来るわけである」


まだその技術がなく、政府が抱えている専門家も設計することが出来ない装置を、世界で始めてつくったのですから、自慢したくなるのは当然です。


彼らの調査によれば、この装置の平均的な脱硫率は42%だったということです。


しかし、結果としては煙害がひどくなって、古河は松木の村民と立ち退き交渉をせざるを得なくなり、前記のような立退き料を支払って難題を解決したわけです。
そんな実態になってもなお、「世界稀有の装置として喧伝する」馬鹿がどこにいるでしょう。そんなことはしていないはずです。


さらに付け加えれば、日本で始めてのこの公害防止対策は成功して、煙害ではなく汚染水害による渡良瀬川の大規模農業被害の方は、見事に解決しています。だからこそ、反対運動は鎮まったわけです。その証拠はたくさんあります。


にもかかわらず、この本の著者は、この事実は隠し、被害の防止が技術的に不可能で、しかも数の上では問題なく少ない40戸の松木村の煙害だけを取り上げて、古河を批判しているのです。何とも卑怯ではありませんか。

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2009-02-22 21:28:09

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・19

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

この本は、政府によるあまりにも厳しい公害防止工事のことを、全く反対に解釈して、読者を嘘とごまかしで騙しています。
本文を引用しましょう。


「この命令書の欺瞞と空洞性は、工事完成後に責任者(命令を出した東京鉱山監督署長)が、足尾銅山の所長に就任した事実に象徴されるばかりではない」


「この工事が果たして実効があるものか、古河側すら危ぶんだのである。特に脱硫塔はどんな装置にすべきか成案を欠き、確信のもてない古河側の設計を、そのまま施工させるという馴れ合い工事であった」


事実を客観的に把握するには、双方の資料を並べてみることが望ましいと思いますので、古河鉱業の社史を引用します。


「専門家の中には、政府の命令とはいえ、不可能な事を強制することに対しては、断然これを拒むべきだと市兵衛に進言する者もいた。工事期間の延長を請願すべきだと説く者も現われた。しかし、市兵衛はこれを斥け、命令を足尾に伝え、工事の完遂を期したのである」


「沈澱池および濾過池は、狭隘の場所に大貯水池を設置する必要上、土地の選択が容易でなかった。ことに、通洞の沈澱池は再三設計変更しなければならなかった。加えてこれらの工事の期限は最も短急であった。にもかかわらず、期限内に完工できた(一番早い着工は5月29日、遅い竣工は7月24日)」


「脱硫等については、政府は具体的設計を明示しなかったから、きわめて苦慮した。すなわち、命令は、熔鉱炉など十数基の煙突から出る硫煙を一煙道に集め、亜硫酸ガスその他を除却すべしというもので、いかなる装置によるかについては何一つ示されていなかった。そのため、市兵衛は予防工事部に研究させて、硫酸製造のゲールサック塔をモデルに、塔の中に石灰乳を雨下し、これに硫煙を導いて亜硫酸ガスを石灰乳に吸収させる装置を設計させた。これが後に脱硫塔といわれることになる装置である」


二つの資料を並べてみると、客観的な事実が浮かび上がってくると思います。
政府の命令は工事期限を厳しく設定しており、それは常識的には不可能な期限だったこと、したがって、政府と古河の間に「馴れ合い」などなかったことがわかるはずです。


明治30年当時、公害防止のための脱硫の方法などあり得ません。技術レベルが今日とは全く違ったからです。にもかかわらず、この本はあたかも脱硫装置についても政府と古河の間に「馴れ合い」があったかのごとく嘘の記述をしています。


政府も技術がないから設計できず、古河もやむなく適当に設計して済ましました。その結果は当然効果など全くない脱硫塔が造られたわけです。これは馴れ合いではなく、試行錯誤をするしか方法がないわけなので、両方とも真剣に公害対策に対処していた証拠だともいえます。 


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2009-02-18 20:55:55

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・18

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

第3回の大規模な鉱毒予防工事命令のことを、この本はおよそ次のように説明しています。


この命令書は、亜硫酸ガスなどを除去する脱硫塔、鉱毒物質を除去する濾過池、沈澱池、泥砂堆積所や大煙突の建設他、全部で37項から成り、最後に「この命令書の事項に違反するときは、直ちに鉱業を停止すべし」と、工事期限を義務づけていた。


しかしこの説明は、実は、政府命令の厳しさを意図的に隠蔽した、明らかなごまかしです。

実際の命令書を引用して、分かりやすく解説しましょう。


第32項は、例えば次のように、沢山の工事ごとに工期を決めています。


「前項の工事は、この命令書交付の日より起算し、左の期日内に竣工すべし」


「本山沈澱池および濾過池は50日以内」


「小滝沈澱池および濾過池は45日以内」「旧坑坑水の処理は90日」


「本山製錬所の煙道は100日、大煙突は150日」


「その他各所の工事は180日」


政府は、明らかにこんな短期間では無理と考えられる工事期間を押し付けた上で、

「違反すれば直ちに鉱業を停止する」という第37項を付け加えたのです。


なぜ政府は、土木工事の常識では絶対してはならない、安全性を無視した、非常識な工期を決めたのでしょう。


建設工事では、発注者側が全体の工期を決めることはあっても、細目の工期を決めることはないのです。

私は、このときの農商務大臣が、田中正造の属する政党の党首・大隈重信だったからだと考えます。


ともあれ、常識的には不可能といわれたこの工事を、しかし、古河市兵衛は命令書の期日を守って竣工させたのです。

この本からは、古河側のそのような苦闘は何一つ伝わってきません。

鉱毒事件をまったく偏向した目で主観的に書いているからです。

でも、それでは歴史とはいえないのです。

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2009-02-14 20:24:08

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・17

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

被害者側の立場からのみ見たこの「足尾鉱毒事件」は、また次のように書きます。


「足尾銅山鉱毒調査委員会の設置には、見落としてはならない側面があった。設置されたその日、内務省は被害県の知事に、大挙押し出しなど不穏の挙動に出ないことを説諭するよう通牒していた。つまり、調査会の設置は被害農民の運動の抑制をも狙いとしていたのである」


何と甘ったれた考えをするのでしょう。どんな歴史にも共通していますが、政府というものは大衆運動を絶えず抑圧しようとするものです。こんなことは当たり前のことではありませんか。
この本は、委員会の結論は、明治30年4月15日の時点で、次のようなものだったとしています。


1.足尾銅山付近の山谷に、速やかに砂防工事と植樹をする。
2.公害防止対策を検討する。政府がこれを実検して、費用を鉱業人に負担させるか、鉱業を停止させる。
3.渡良瀬川の鉱毒含有の土砂を、浚渫するか排除させる。


農商務省の坂野技師と東京大学の長岡助教授が、一時鉱業の全部もしくは一部の停止を命ずるべきだ、と主張したが、内務省の古市土木技監や鉱山学の渡辺渡前東大教授が反対して、このような結論に達したのだとのことです。
公害の加害企業に対して、このようにすばやく対処し、このように厳しく対応した実例はあったでしょうか。皆無のはずです。
責められることは、政府に何もないはずではありませんか。


この続きを引用しましょう。


「こうして、調査会は鉱毒予防命令の発動と、被害農地に対する地租免税からなる鉱毒事件処分を、政府の基本的要請に沿って打ち出すのである」
「一方、被害農民の直接行動などに対しては、弾圧政策で臨んでくるのである」
「明治30年5月27日、足尾銅山鉱毒予防工事命令が古河市兵衛に伝達された。その内容は、第1回(前年12月24日)、第2回(この年の5月12日)のそれとは比較にならない大規模なものであった」


著者たちが何気なく書いた上の記述から、私たちは重大な事実を知ることが出来ます。
委員会が設置される3ヶ月も前に、政府は第1回の予防命令を出していたことと、委員会が、第3回の本格的な命令の以前に、第2回の命令を発していたことです。


明治政府は、公害問題に対して、今の政府に比べて何と真面目に取り組んでいたのでしょう。改めて驚きます。
しかし、この本の著者たちには、農民を弾圧していたとしか見えないのです。これもまた驚きです。

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2009-02-11 20:18:47

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・16

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

前回に書いた明治30年2月26日の正造の質問演説は、この本によれば、「被害農民の積年のエネルギーをいっきょに爆発させたように」刺激し、3月2日には2,000余人が第1回の大挙東京押し出し(デモ行進)を決行するに至ります。


3月5日、そのうちの45人の代表と群馬県の委員11人は、農商務大臣に面会して鉱業停止を陳情・請願したとのことです。
そして、この本は次のように書いています。


「この大挙東京押し出しは、・・・広く世論に訴えることをめざした政治闘争であった。そして世論は、うねるように盛り上がった」


本当に盛り上がったのでしょうか。私に言わせれば、これは、正造や被害農民の立場から見た主観であって、客観的な歴史的事実とは言えません。なぜかといえば、当時この動きに批判的な勢力も存在したからです(後述)。
ともあれ、被害農民は一挙に過激化していきます。


3月18日、栃木・群馬・埼玉・茨城の4県連合の「鉱業停止請願事務所」が、東京の新橋の正造の定宿・信濃屋に設置され、その日、被害民は第2回目の大挙東京押し出しをする決議までしました。


明治政府も、この動きを真剣に受け止めて、3月23日には農商務大臣の榎本武揚が被害地を視察し、帰京したその日の夜、正造の所蔵する党の党首で外務大臣の大隈重信に、その結果を報告しました。


その時刻、3月23日の午後9時には、大挙東京押し出しのために被害農民3600人が現地に集合し、翌24日の午前2時には、内、2000名が先発隊として東京に向けて出発しています。


さらにこの日、正造が帝国議会に再質問書を提出すると同時に関連演説を行うと、政府は直ちに臨時閣議を開き、「足尾銅山鉱毒調査委員会」の設置を決め、即日委員を任命した、ということです。
翌3月24日の夜には、なんと被害農民6000人による後発隊が東京に向けて出発しました。


何ともあわただしい動きですが、この動向から判断すれば、公害事件に対して、被害民側も政府も、昭和30年代以降と比較して何と真剣に対処したのでしょう。私には驚きです。


ところが、著者にはそのようには見えてきません。ひたすら被害者側だけを見ているので、警察によるモ隊への規制を批判して、政府が公害反対運動を弾圧したという書き方をするのです。次のように。


「取り締まり当局は、これに対して厳重な警戒態勢をしいた。千住署は南足立郡淵江・六月・保木村間に警察官数十名を配置、浅草署は五十名の応援警官、下谷署も応援隊を出して水戸街道の金町から荒川筋に配置した・・・」


しかしこの本は、被害者側と田中正造を善とし、政府を悪と見て記述しているので、これは客観的な歴史とはいえません。主観的で偏向した記録にしかなっていません

政府が大衆運動を規制するのは当たり前のことで、どの国の歴史を見てもそうしています。
歴史とは、客観的な事実の記述でなければなりませんから、被害者の活動と同様にデモ隊への規制も冷静に記録する必要があります。
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2009-02-07 19:50:42

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・15

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

明治29年の7月から9月にかけての、異常気象による3回の大洪水は、渡良瀬川沿岸の農作物に大被害をもたらし、その原因がすべて足尾銅山からの廃棄物にあるかのごとき宣伝によって、古河鉱業は沈黙を余儀なくされました。


この本は、田中正造が、同郷の青山学院の学生である栗原彦三郎に頼んで、同学院院長の本多庸一の友人であるキリスト者の津田仙(農学者)に現地調査をしてもらい、キリスト教関係者にこの公害問題を知らせ、東京の人たちにも広くPRしたと説明しています。


明治30年の2月28日には、東京神田の青年会館で第1回の鉱毒問題演説会が開かれ、津田、正造、松村介石(キリスト者)、米人宣教師のガストルなどが演説して世論が盛り上がり、西南戦争で有名を馳せ、政治の世界にも影響力のある谷干城を運動の支援者に迎え入れることに成功した、とも書いてあります。
帝国議会での正造の活躍も再開されました。


明治30年2月26日、正造が質問演説で久しぶりに政府追及の火ぶたをきったのですが、著者の東海林は、ここで正造が最初に作った嘘、つまり、「明治13年には公害が発生し、渡良瀬川の魚は大量死して、その魚を売ったり食べたりしてはならないと警察が言った」という話を、その次の段階の嘘、つまり、「栃木県知事の藤川為親が布達した」というふうに、変えたのだと説明しています。


さらに、この演説では、布達の年を正造は明治14年にしたのですが、「前に言ったことと1年のずれがあるので、これを(正造は)13年に訂正した」と書くのです。


それだけではありません。正造は自分のついた嘘のつじつまを合わせるために、更なる嘘を重ねたその経過を、東海林は正直に説明するのです。
原文を引用しましょう。


「さらに田中は、藤川がこの布達を打ち出したために左遷されたという説を作り上げるために、明治13,14,15年と、3年つづけて同様の布達をだしたという3年連続説に作り変えていく。なぜなら、藤川の島根県(知事への)転出(人事異動)は明治16年10月のことであり、13年に布達を出して左遷されたというのでは、この説は成立しないからである。もともと虚構の藤川県令(知事)布達は、それを打ち出した本人によって、こうしてさらに作り変えられていくのである」


田中正造という生まれつきの嘘つきが、嘘に嘘を重ねていかざるを得なくなった実態が、これでよくわかりますが、全く不思議なことに、東海林も菅井も、この嘘は正造が公害反対運動のひとつの戦略としてついた虚構だと解釈し、正造は他には嘘をついていないと思い込んでいるのです。
調べればすぐ分かるお粗末な作り話が、いったいどうして「戦略」になるのでしょう。


東海林は、当時警察当局も調査して正造の嘘を見抜いていた事実を資料で知り、正造のこの虚構は「負の要素」でもあったと、書いています。ところが、にもかかわらず、東海林は正造の発言をすべて信用してこの本を書いているのです。何とも不思議です。



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2009-02-04 22:00:05

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・14

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

さて、年に3回もの大洪水があった異常気象の年、明治29年は、「6月30日の時点で公害防止のための紛鉱採集器が効かなかった時は、示談契約を見直す」という約束があった年です。
この本は、その示談契約の更改交渉の進展について、次のように説明しています。


「そして8月10日、植野村法雲寺で予定された、横尾輝吉ら仲裁委員と足利郡、旧梁田郡(この年3月足利郡に合併)、安蘇郡の8か町村の示談契約の更改交渉が流会し、永久示談の推進に事実上の終止符が打たれた」


この記述にどれほどのごまかしがあるかを、証明しましょう。
東海林と菅井が使った資料は、横尾輝吉の『足尾銅山鉱毒事件仲裁意見書』ですが、ここには概略次のように書かれてあります。


契約の更改期日の明治29年6月30日がきて、永久示談に応じなかった各村々の総代から、「公害防止用の粉鉱採集器は効かないからまた仲裁を頼む」との要望があった。
そこで、栃木県の県会議長の横尾は古河市兵衛にその旨を伝えたところ、「それでは仲裁を頼む」との返事だったので、8月10日から安蘇郡植野村の法雲寺で、被害地の総代諸氏と交渉する手はずを取った。


ところが、かつて経験したことがない大洪水が8月7日から15,6日にかけてあって、交通途絶で流会になり、さらに9月にまた大洪水があって、その下旬から「鉱業停止の請願に賛同する村人が続々現われたため、仲裁の件は取り消したい」と、総代たちが主張し始めた。


10月初旬、宇都宮の旭日館で仲裁委員会を開いたところ、被害民総代らは明治26年7月から29年6月までの損害金として、次の要求をしてきた。
安蘇郡植野村は10万8031円
同郡界村は10万8172円
足利郡久野村は8万5376円
同郡筑波村他5か村が13万301円


10月中旬、仲裁委員が上京して古河市兵衛にこの金額を伝えたところ、「この前の示談金額に比べて非常に多額だし、考えさせてほしい」といわれた。


11月初旬に上記の村の総代数人が来て、「要求した示談金ももらうが、鉱業停止の請願もするので、ご承知願いたい」と念を押して帰った。


示談契約の更改は、永久示談契約をしなかった人を対象にしたわけですから、「交渉が流会し、永久示談の推進に事実上の終止符が打たれた」という著者たちの説明は、この交渉は永久示談ではないので明らかに完全な間違いです。


上のデータからは、更改交渉をした被害民たちが相当に高額な示談金を新たに要求したことが分かります。したがって、


「このような金額で、過酷な永久示談に被害住民を屈従せしめることができたのは、国内政局の危機を転化する侵略戦争ー天皇制支配権力によって準備、主導された日清戦争が、被害農民を国家の名のもとに、強制したからだといえよう」


という著者たちの説明(第9回目を見てください)は、全く架空の話しだということが分かります。

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