2008-11-29 19:30:14

岩波新書の『田中正造』・13

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

明治36年の秋には鉱毒被害地が豊作になったので、明治30年の<予防命令なるものは一つも事実に行われ居るものなし>と、古河鉱業の施した公害防止工事の効果を全面否定していた田中正造は困りました。


結局彼は嘘をついてごまかすことにし、次のようなお粗末な作り話を作ってあちこちに宣伝し、世間を丸め込もうとしました。


「昨年(明治35年)9月の風雨の際、渡良瀬本支流の水源の諸山岳広く崩壊せしため、ほとんど50年分の山土を被害激甚地に布置して旧毒土を覆い・・・」(明治36年10月14日付け石川半山宛の手紙)


「南北10里の山崩れにより、沿岸に新土数尺が一時に来たり・・・」(同月23日付け島田三郎宛の手紙)


「10里以上の山々崩れ、新たなる山土が天然の新肥料となり、・・・例年の5倍の豊作となりとせば、いかなる愚鈍いかなる馬鹿にも新土のためなるを解し得て、今は3歳の小児といえども予防工事のためでないと認めたれば・・・」(同月29日に配布した印刷ビラ)


こんな自然現象は絶対にありえませんし、嘘だということがすぐ分かる、あまりにも馬鹿馬鹿しい話です。
それに、農民たちは目の前で何が起こっているのかわかるわけですから、彼らまでだますわけにはいきません。
それなのに、正造は何でこんなお粗末な話をでっち上げたのでしょう。不思議です。


当時の農民たちは、いずれにせよ「田中正造はまた嘘ついた」ぐらいに軽く受け取ったでしょうが、正造に洗脳された昭和に生きる学者たちは、この話を頭から信じてしまいました。
由井はこの本に次のように書いています。


「明治35年の大洪水は、10里にわたる山崩れによって鉱毒に侵されない新土を沿岸にもたらしたため、36年10月の収穫期にはまれにみる豊作をもたらした」


「このことが、政府や古河派のいう予防工事は功を奏したとする宣伝を信ずる被害民を生みだし、彼らによって鉱毒被害を防げるかのような幻想を与えたのである」


田畑がなぜ豊作になったかを実体験したのは当の被害民です。由井は正造の作り話にすっかりだまされていることに気づかず、その当事者に対して政府や古河にだまされていると平気で断言しているのです。なんという思慮を欠いた、お粗末な頭の持ち主なのでしょう。


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2008-11-26 20:08:57

岩波新書の『田中正造』・12

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

正造の直訴により一時的ですが世論が盛り上がったため、政府に第2次の「鉱毒調査委員会」が設置されました。明治35年3月のことです。


そして、足尾銅山で実施された日本で最初の公害防止対策が果たして効果があったのかどうかが、調べられました。


その調査結果は、翌明治36年5月に、第15帝国議会に報告されました。著者の由井は、この歴史的事実を次のように説明しています。


「調査委員会は、作物に被害を与える銅分は、30年の鉱毒予防命令以前に銅山から排出されて銅山付近および渡良瀬川の河床に残留するものが大部分で、現在の操業によるものは比較的小部分に過ぎないとして、古河鉱業の責任を解除した」


そして、説明はこれだけで、この政府の結論は正しいとも間違っているとも主張していません。


前述のように、由井は正造の判断と一体ですから、ここで、確個とした理由をつけて、「この調査結果は間違いである」といわなければいけません。たぶんそれが不可能だったので、反対できなかったのでしょう。


正造や由井にとってもっと都合が悪いことに、それからまもなく、明治36年10月になると、渡良瀬川沿岸の鉱毒被害地は、例年にないほどの豊作になるのです。


全集の別巻の年譜には、「鉱毒被害地の稲豊作」とか、「(正造が)演説会10回のうち8回に被害豊作の実況などとと題して演説」、と書いてあります。

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2008-11-22 20:25:01

岩波新書の『田中正造』・11

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

前回述べたように、明治34年の秋には公害防止工事の効果が現われ、被害民の反対運動も以来消滅しましたが、12月10日、正造は明治天皇への直訴を敢行するのです。

たった一人の氾濫でした。


直訴状には、鉱毒のために「数十万の人民のうち、飢えて食なく病んで薬なきあり」とか、「肥田沃土は今や黄茅白葦、満目惨憺の荒野となれり」とか、「数十万の無告の窮民空しく雨露の恩を希うて干天に号泣する」など、最大級の形容詞で被害の過酷さが書いてありました。


明らかに、これは明治天皇への虚偽報告です。なぜこんな失礼を敢えてしたのでしょう。
正造の研究者たちも、公害防止工事の結果田畑が復旧していたことを否定するわけにはいかなかったのでしょう。彼らは、正造の直訴は「公害反対運動を活性化させるのが目的だった」との新説を唱え始めました。


由井正臣も同様に田畑の復旧を否定できず、この新説にも従わざるを得なかったのでしょう。岩波新書に次のように書いています。


「鉱毒世論の盛り上がりをとらえ(当時川俣事件の2審の裁判中で、新聞報道も盛んだった)、直訴という死を賭した行動によってこの世論をいっきょに国民的なものにしようとしたところにその狙いがあった」


実際、この直訴によって世論は一時的に盛り上がりました。しかし、それは東京においてであって、現地の農民たちの公害反対運動は、再発しなかったのです。
正造の意図は全く外れました。のみならず、翌々年の秋には、彼にとってもっと不都合な事態が招来します。


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2008-11-19 19:58:23

岩波新書の『田中正造』・10

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

田中正造を賛美するために書かれたこの本は、正造の発言の明らかな嘘まで、読者に本当だと思わせる書き方をしています。次の引用文がそれです。


「沈澱池もまた十分に機能せず、鉱毒はいぜんたれ流しの状態がつづいたのである。のちに第15議会で正造が指摘した<予防命令なるものは一つも事実に行われ居るものなし。ただ足尾銅山の工事は人目を幻惑し、今より後、あらわに鉱毒の害及ぼさしめずと声言保証して、一方に人民請願の口術を塞ぎ、加害者の悪事を増大ならしめたるのみ>という言葉に誇張はなかった」


由井が引用した第15議会でのこの発言は、明治34年3月23日の質問書にあるものです。しかし、由井同様に正造を尊敬して彼の伝記を書いたイギリス人のケネス・ストロングは、『田中正造伝-嵐に立ち向かう雄牛』で、これに関して由井とは全く正反対の見解を次のように述べています。


「ここの所で正造が政府と古河に対して公正を欠いているのは、ほぼ確実である。工事後5年間は改善されたきざしはほとんど見られなかったが、明治35年には鉱毒は急速に減少し始めたのであり、その原因の少なくとも一端は、明治30年の予防命令だったことは間違いないからである」


『東京朝日新聞』の明治34年10月6日、『万朝報』の同年10月12日の記事、同年10月の、川俣事件の2審に提出された『足尾銅山鉱毒被害地臨検分析鑑定書』などを根拠に、私はこれまで、明治34年の秋には農地がかなり回復していた、と書いてきました。


しかし、最近、予防工事の効果を示した記録がもう一つあるのに、気づきました。
『風俗画報』の234号(明治34年7月)は、足尾銅山を特集した臨時増刊号ですが、ここには、次のように足尾の町の公害状況が記録されていたのです。


「明治21年の<日本鉱業会誌・第38号>には、帝大助教授の的場中が、<足尾の町の谷間には白色の煙霧が充満し、目に触れるものは皆赤黒い塵埃を帯び、谷底を流れる汚水は、鉱石の粉末と丹ばん液で、坑内にもこの液体が流れている。屋根の亜鉛鉄板も坑内の線路もいずれ腐食するに違いない>と報告していた。しかし、記者が実際に見た所では、今は硫酸の臭いも塵埃も汚水も一つも見当たらない。すなわち、予防工事によってこれらが蕩尽したことがわかる」


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2008-11-15 20:32:22

岩波新書の『田中正造』・9

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

著者由井は、鉱毒予防工事についてさらに次のように書きます。


「しかし、この工事がいかに監督官庁とのなれあいのもとに行われたかは、工事完了ののち間もなく鉱山監督署長の南挺三(発令名義人)が、古河鉱業の足尾銅山所長に就任したことからも知られる」


由井は「なれあい」と書いていますが、政府が決めた「竣工期限内に竣工しなければ直ちに鉱業を停止すべし」という命令は、明らかに古河をつぶそうと図った措置です。政府と古河に「なれあい」などあるはずがありません。


南挺三がその後古河鉱鉱業に就職したことが、「なれあい」の証拠になるはずもありません。単なる邪推でしかないからです。
自分のお金で自分の会社の施設をつくるのに、手抜き工事をする馬鹿はありません。
もし工事の欠陥によって事故が起これば、会社自体が莫大な損失をこうむるのです。どうして「なれあい」的な工事などするでしょう。


由井は、次にこう続けます。


「のちに明らかになるように、脱硫塔はまったく機能せず、煙害はさらに激しくなり、製錬所上流の松木村は明治34年暮には廃村に追い込まれている」



古河鉱業の社史の『創業100年史』は、次のように記述しています。


「脱硫塔のついては、政府は設計を明らかにしなかったので、その建設はきわめて苦慮した。・・・いかなる装置によるかについて、何の成案も示されていなかった。このため、市兵衛は塔中に石灰乳を雨下し、これに硫煙を導いて亜硫酸ガスを石灰乳に吸収させる装置を設計した」


当時まだ脱硫の技術はなかったので、命令する側も何の指示も与えられなかったのです。
そこで、古河側はやむなく適当に設計したわけです。


実際、煙害は防げなかったので、古河鉱業は松木村民と示談交渉し、全40戸に4万円(今なら4億円)を支払って立退いてもらいました(明治34年10月)。これが事実です。「廃村に追い込まれている」と書く由井の嘘はこれでよくお分かりと思います。


この説明には、由井がいかに平気で読者をだましているかが、はっきり示されています。
当時の技術レベルでは脱硫は不可能なので、この装置は本来機能するはずがないからです。
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2008-11-12 20:28:36

岩波新書の『田中正造』・8

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

明治29年の3回にわたる大洪水は、かなり多くの被害民を、古河に対する鉱業停止要求運動に駆り立てました。
明治30年3月3日、被害民200人が大挙上京して請願行動を展開します。


その後のことを新書の著者由井正臣は、明治政府の松方正義内閣が3月24日に「鉱毒調査委員会」を設置し、29日に外務大臣の大隈重信が、榎本武揚の辞任後に農商務大臣を兼任したこと、そして、上記の委員会の諮問にもとづいて、農商務省が5月27日に古河鉱業に「鉱毒予防命令」を発したことを説明しています。


そして次のように書きます。


「命令書は37項目にわたり、坑内排水の沈澱池、からみ、捨石、泥砂などの堆積所の整備、脱硫塔、煙道および大煙突の建設などを義務付け、それを各工事によって30日から120日の間に完成するよう命じていた。古河は命令どおりこの工事を完成させ、鉱業の一時停止をまぬがれた」


由井は、ここで非常に大切なことを省いています。
なぜ「各工事によって30日から120日の間に完成するよう命じていた」のかを、説明していないのです。


命令書の第32項は「前掲の工事は、この命令書交付の日より起算し、左の期日内に竣工すべし」となっていて、「本山沈澱池および濾過池は50日以内」などと、工事ごとに竣工期間がこまかく示してあるのですが、第37項は「この命令書の事項に違反する時は、直ちに鉱業を停止すべし」となっているのです。


つまり、本来工事の工程は、工事をする当事者が実情に即して、安全性や工事の質を考慮しながら合理的に計画すべき性質のものであるべきなのに、この場合は、発注者である農商務大臣が、足尾銅山の「鉱業を停止する」目的で、竣工不可能な工事期間を勝手に決めたというわけなのです。


そうでなければ、欠陥工事を必ず招来するはずの超短期の工事期間を、このように指定するわけがないではありませんか。


外相と兼任することになった農商務相の大隈重信は、田中正造の所属する進歩党の党首だったので、正造の希望を入れて足尾銅山の操業を停止しようとしたわけです。


常識的にはこの工期では無理だったので、みんなは諦めようとしたのですが、古河市兵衛は絶対やり抜くといって、結局期限内に竣工させたのですが、元技術官僚だった工事責任者の近藤陸三郎は、市兵衛を説き伏せて、2箇所の製錬所に施すべき脱硫塔・煙道の工事を、当局と交渉して1箇所に変更してもらっています。絶対無理と判断したからでしょう。


由井は、政府と古河が癒着していたと読者に思わせるため、政府が古河をつぶそうとして発令したこの命令の内容をあいまいにしたのです。     


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2008-11-08 20:49:24

岩波新書の『田中正造』・7

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

著者の由井正臣は、本当は隠しておくべきことを、ついうっかりして次のように書いています。


「(明治29年)9月15日、鹿児島県人伊藤章一の名で<足尾銅山鉱業停止請願(草案)>と題された1枚の印刷物が、被害地の人びとに送られたが、実は正造の起草である。この印刷物はその後被害民の意識と行動に大きな影響を与えることになる」


いったい栃木県で起こった公害についての請願書に、なんで被害当事者とは全く関係ない鹿児島県人の名義を使う必要があるのでしょう。


実は、全く意味のないこのような行動に、絶えず嘘をついていた正造の、正造らしさが明確に現れています。

嘘をつく必要がない時にも、嘘をつけば逆に不利な時にも、彼は平気で嘘をついています。

たぶん病的な虚言症だったからでしょう。


由井はこのことを大して気にしていないようですが、正造が嘘つきだと言う明確な事実を示しているのですから、無視できない重要事です。

正造の発言が嘘かもしれないわけですから、その発言をそのまま引用するのは危険のはずです。

にもかかわらず、由井は全面的に正造を信頼してその発言を受け入れているのです。何と浅薄なことでしょう。


ともあれ、由井がいかにお粗末な間違いを犯しているかを、これからまた実証していきます。

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2008-11-05 19:47:15

岩波新書の『田中正造』・6

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

著者の由井は、永久示談のその後をさらに次のように書きます。


「正造の警告にもかかわらず、永久示談の動きは安蘇郡町村にも拡がった。29年7月には、安蘇郡の植野、界(さかい)、犬伏の3か町村代表は、横尾輝吉を訪ねて仲裁を依頼し、9月10日には現地で会合をもって調査を再開しようとしていた。その矢先に、この年2度目の大洪水が起きたのである」


果たしてこの説明が正しいかどうかを、横尾輝吉本人の回想記で確かめてみましょう。
『足尾銅山鉱毒事件仲裁意見書』(明治29年12月)は、次のようになっています。


「明治29年6月30日の期日が来て、各町村の総代から<紛鉱採集器は役に立たないから、また仲裁を頼む>との要望があったので、旧仲裁委員に協力を頼み、古河市兵衛氏にもその旨伝えたところ、<また示談したいので仲裁を頼む、という返事があった。そこで、8月10日から、安蘇郡植野村の法雲院で、被害地の総代諸氏と相談を始める手筈をとった」


「ところが、8月7日から大洪水が来て、交通途絶で流会になり、9月にもまた大洪水があって、その下旬には<村人が鉱業停止の請願にぞくぞく賛同し始めたので、仲裁のことは取り消したい>と、安蘇郡犬伏町の総代らが言ってきた」


「10月初旬に宇都宮の旭日館で仲裁委員会を開いたところ、被害民総代たちは明治26年7月から29年6月までの損害金として、安蘇郡植野村は10万831円余、同郡界村は10万8172円余、同郡筑波村他5か村が13万301円余を要求してきた」


「10月中旬、仲裁委員が上京して古河市兵衛氏にこの金額を告げたところ、<前の示談金額に比べて非常に高額だし、永久示談地との関係からもにわかに決められないので、少し考えさせてくれ>と言われた」


「11月初旬には、植野・界・久野3村の総代がやって来て、<村民の意見は、明治26年7月以降の示談金ももらうが、鉱業停止の請願もさせてもらうので承知してほしい>と念を押して帰った」


横尾は、この手記の最後の方で次のように書いています。


「足尾銅山に対して公平なる議論を為せば、世人の多くは古河に買収され腐敗したなどと言いふらし、また、鉱業停止の請願を唱えればあたかも正義家のごとくに思うは、はなはだしき過ちにはあらずや」     


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2008-11-02 11:57:03

岩波新書の『田中正造』・5

テーマ:メディアのばらまく偏見と嘘

著者の由井は、次に「永久示談」のことを持ち出して、古河側に非があったように主張しています。


彼は、紛鉱採集器がほとんど役に立たないことが分かったので、「古河は示談契約期間のきれる前に、被害民と永久示談を結んで沈黙させようとしたのである」と書き、その最初の実例を、以下のように説明しています。


「永久示談契約は、明治28年3月16日、下都賀郡、足利郡の被害町村で結ばれた。その関係人員、示談金額とも第1回の示談契約を下回った。安蘇郡にもその動きがはじまっていた」 


「在京の正造はこの情報をいち早くとらえ、永久示談がいかに<非理・不利・不得策>のものであるかを説き、それが郡長や県会議員らによって強圧的手段によっておしすすめられていることの不法性をするどく指摘した」


由井は、田中正造の判断が正しいと断定し、それで事実を解釈しようとしています。しかし、この解釈は本当に事実に基づいているでしょうか。


明治28年3月16日の、つまり由井が例に挙げた永久示談契約について、横尾輝吉は、「被害人民と銅山主と熟談の上契約が為されたその内容は、以下のごとくだった」と前述の「意見書」に発表しています。


「1.金2000円也。古河市兵衛殿。下都賀郡部屋村外4か村被害地主総代・小倉嘉十郎外28名。明治25年8月23日付けご契約の次第もあるが、今般協議の上、更に頭書の金額貴殿より領収つかまつり候事確実なり。したがって、どんな事故が生じても損害賠償その他苦情がましいことは一切申し出ません。25年8月23日付の契約は本日をもって無効になります」


そして横尾輝吉は、「このような例があって、下都賀郡の被害者は全部永久示談になった」と説明し、「永久示談金の総額は3万4119円3銭で、契約人員総数は5127人だったが、参考までに述べれば、初回の示談金と人員は、7万6602円96銭と8414人である」と、詳しいデータをあげています。


このことから、永久示談金というのは「上乗せのお金」だったことと、永久示談契約は希望者との間だけに結ばれていたことがわかります。


被害を受けた当事者が相手と協議して(示談によって)契約したことに、事情もよくわからず、第3者に過ぎない正造や由井が、なんで文句をつけるのでしょう。永久示談契約をしなかった人は、正造の言う「強圧的」な押し付けに勝ったことになりますが、どうしてそれが可能になったのでしょう。由井はその理由を何も説明していません。つまり、嘘を言っているのです。  

     


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