2008-09-27 19:59:47

正造の晩年の孤立・10

テーマ:田中正造の虚像と実像

翌明治44年3月20日には、受け取り手のない無駄な陳情書(「元谷中村土地回復の要求」)を書いて、これをまた暗記せよと竹沢庄蔵、竹沢房之進、島田熊吉、島田宗三に宛てて手紙を出しています。


「請願陳情書類は10ぺんも100ぺんも200ぺんもご暗記なさるべく候。島田、永野、間明田、左山、宮内、川島、渡辺の諸氏にもおすすめ下さるべく候。東京より」


田中正造はまた、まるで宗教家になったように、次第に神や悪魔にどう対処するかといった神秘的なお説教も始めます。
明治44年6月27日、竹沢庄蔵他9人の青年に東京から送った手紙に、彼は次のように書きました。


「正直な人の頭には神様もやどります。強い正直には強い神がやどり、弱い正直には弱い神様がやどります」


「悪魔が身体に入れば悪人となる。悪魔が悪人をこしらえるから、悪魔退治は心でやらねばならぬ。神様さえ信じれば悪魔は逃げ去ります。こちらが正直で強ければ悪魔は寄り付きません。少しも怖るることはないのです。ただ油断なさると悪魔に取り付かれる。何よりご用心です」


しかし、こんな難しい抽象的な事柄を、谷中村の青年たちに理解できるでしょうか。
どうやら、彼らは拒絶反応を起こしたようです。東京の逸見斧吉方から谷中の島田宗三に宛てた正造の次の手紙(明治44年7月19日付け)を見てください。


「正造も去る37年以来教えんとして失敗せり。最初より人民のはなしを聞かんことに努めればよかりしに、聞くことは後にしてひたすら教えんと計り、取り詰めたり。せき込めばせき込むほど反動して、正造の申すこと聞く人もなくして空しく徒労となり・・・」

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2008-09-27 19:59:47

正造の晩年の孤立・10

テーマ:田中正造の虚像と実像

翌明治44年3月20日には、受け取り手のない無駄な陳情書(「元谷中村土地回復の要求」)を書いて、これをまた暗記せよと竹沢庄蔵、竹沢房之進、島田熊吉、島田宗三に宛てて手紙を出しています。


「請願陳情書類は10ぺんも100ぺんも200ぺんもご暗記なさるべく候。島田、永野、間明田、左山、宮内、川島、渡辺の諸氏にもおすすめ下さるべく候。東京より」


田中正造はまた、まるで宗教家になったように、次第に神や悪魔にどう対処するかといった神秘的なお説教も始めます。
明治44年6月27日、竹沢庄蔵他9人の青年に東京から送った手紙に、彼は次のように書きました。


「正直な人の頭には神様もやどります。強い正直には強い神がやどり、弱い正直には弱い神様がやどります」


「悪魔が身体に入れば悪人となる。悪魔が悪人をこしらえるから、悪魔退治は心でやらねばならぬ。神様さえ信じれば悪魔は逃げ去ります。こちらが正直で強ければ悪魔は寄り付きません。少しも怖るることはないのです。ただ油断なさると悪魔に取り付かれる。何よりご用心です」


しかし、こんな難しい抽象的な事柄を、谷中村の青年たちに理解できるでしょうか。
どうやら、彼らは拒絶反応を起こしたようです。東京の逸見斧吉方から谷中の島田宗三に宛てた正造の次の手紙(明治44年7月19日付け)を見てください。


「正造も去る37年以来教えんとして失敗せり。最初より人民のはなしを聞かんことに努めればよかりしに、聞くことは後にしてひたすら教えんと計り、取り詰めたり。せき込めばせき込むほど反動して、正造の申すこと聞く人もなくして空しく徒労となり・・・」

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2008-09-24 20:18:07

正造の晩年の孤立・9

テーマ:田中正造の虚像と実像

島田宗三たち谷中村の農民への手紙は、正造の思想を学べという類のものばかりです。


明治43年3月23日、正造が数々の請願書や陳情書を作って反対しようと試みましたが、谷中村の遊水池化を含む渡良瀬川改修計画案は議会を通過しました。


同月26日、正造は主だった村人たち数人に、東京から次のような手紙を出します。


「遊水池、鉱毒沈澱池となることに決議はできた。馬鹿な決議はできた。けれども谷中は谷中の権利がある。驚くなかれ。狼狽するなかれ」


これだけなら村民を勇気付ける内容なのでうなづけますが、彼はこの日、彼らに対してもう一通の手紙を出し、そこに次のように書きます。


「本年の請願書を、朗読研究再三のみならず、数十ぺん数百ぺんにても、毎日毎日読むことを青年諸君にお申し渡し下さるべく候。精々お勧め下さるべく候。暗記のできるまで研究を要します。他の村々への教師になるので必要がある。自分で自分の心を読むのであります」


谷中村の遊水池化を阻止する手段は無くなったので、今度は村民たちに精神論を吹き込んだわけです。
明治43年8月27日、東京にいる正造は、川島要次郎、間明田登一、島田宗三たち8人に宛てて、次のように書きました。


「人を救わんとせよ。人を救わんとせば進むなり。救わるる身をもって救わんとするは、生きたる働きなり。生きたる働きは生きるものなり。右は老荘青年3者にしかるべくお伝え下さるべく候」
「赤手を持って人を救わんとせば即ち救うの道なり。ただし、我を忘れて先ず人を救うは、即ち我が身の併せ救わるるの道と存じ候」


それから十数日後の9月11日には、島田熊吉、宗三、川島要次郎、竹沢庄蔵他青年会員宛に、正造は次の手紙を書いています。


「おのれを忘れて他人を救わんとせば、おのれまた自然神に救わるるなり。しかるを人に救われんとせば、神は傍観せり。諸君にはなおこの上とも救い主の一人となられん事を厚く祈り上げ候」


生活費のすべてを他人から恵んでもらう乞食同然の生き方をしながら、正造は立ち退きを迫られている貧しい百姓たちに、「人を救え」と遠くから手紙ではっぱをかける。「人に救われんとせば、神は傍観せり」という台詞を、彼はどう解釈したのでしょう。

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2008-09-20 20:26:19

正造の晩年の孤立・8

テーマ:田中正造の虚像と実像

明治43年の1月に、正造はなぜか同じような自己反省の手紙を斧吉に2通出していますが、まずこれを紹介しましょう。一つは宇都宮から、もう一つは下野村役場から出しています。


「脳が疲れて前後いたします。逸見様と先日孔子の話の時、私卒然として孔子を指して俗物の聖なりと申せしは、全く失言です。俗事を行う聖人と言えばよろしいのです。いったい、私多年政談で過激の言葉をもってせし悪弊で、たびたびこの失言が多いことを、今更思い当たりました。しかれども過ちは改めんと努めますから、何分・・・」(8日付け)


「わたくし久しく俗事に苦慮して、この2,3ケ月トンダ俗物となり、イヨイヨ俗化いたして自ら驚くほど困ります。これよりまた聖書の一節も謹読いたしたいと存じます。・・・正造も今は自分で知れるほど俗人になりましたから、今後早く出京してまたまた汚れを洗いたいです。一昨夜の夢の中に菊枝様(斧吉夫人)に何か叱られる所を見まして心配でした。またまた改めて精々いたします」(21日付け)


翌44年8月8日、佐野の斉藤という家から斧吉に宛てて正造は次の手紙を出しています。


「正造は従来、物質上の霊物に感ずる事狂人の如し。あるいは樹を愛し、あるいは石を愛し、山を愛し、川を愛し、しかして人に到らず。近頃ようやく人を愛することの教えを受けて、人を愛するに到って無形の霊に介す。およそ人を愛する近道に入りしは、貴下および諸兄の厚き賜物なり。今や、この神仏の境に入れば、たちまち物質の霊を忘る」


孔子のことを聖人とか俗物とか決め付けようとしたり、この2,3ケ月で俗物になったが聖書を読んで聖人に戻りたいとか、狂人の如く樹を愛しているとか、人を愛せなかったのにあなたのお陰で愛せるようになったとか、なんともくだらない話ではありませんか。こんな子供じみたことを言うようでは、たいした人物ではないことがすぐわかります。


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2008-09-17 20:36:43

正造の晩年の孤立・7

テーマ:田中正造の虚像と実像

最晩年まで正造を見捨てなかった逸見斧吉や島田宗三さえ、彼にはっきりと反対の意志表示をしていた事実を紹介しました。


しかし、この両者に対する正造の対応は、全く異なりました。困った時にはいつでもお金を恵んでくれていた斧吉にはしきりに自己反省のポーズをとりましたが、貧乏な農民にすぎない宗三やその仲間たちには、死ぬまで上からのお説教を続けたのです。


明治の終わり頃からの斧吉宛の正造の手紙を、何通か紹介します。


まず、逸見斧吉が、「谷中村の百姓のために麦の種を買ってやってほしい」と言ってお金を送ってきたとき、自伝の冒頭で「予は下野の百姓なり」と豪語していたはずのこの男は、日本橋の静岡屋という旅館から斧吉に、次のような礼状を書くのです。


「わたくし智恵が少ないのです。毎年、麦蒔きに種のない人があるということを、はじめて知りました。ああ、正造はいまだ富豪の子で、神の子でない。貧者の情に暗い。・・・下情を知るの難きこと、この一事にても分かるのです。5ヵ年以上も谷中にいて、この一事に考えが及ばぬのには、いやはや呆れ、とんと恥じ入るのです」


この8月30日まで、栃木県立博物館で、「予は下野の百姓なりー新聞に見る民衆政治家・田中正造ー」展が開かれていました。

9月20日からは、横浜の日本新聞博物館で同様の展覧会が開催されます。


しかし、彼は本当に「百姓」の心を持っていたでしょうか。

正造は名主の家の長男に生まれ、若い時は名主役を勤めていたので、「百姓」とはいえません。

実際はこの手紙に書いたように「富豪の子」にほかなりません。貧者のことも下情のことも知らないというのが本音のはずです。

上記の展覧会の主催者たちは、正造の言葉だけを信じて騙されているのです。


正造は「5ヵ年以上も谷中にいて」と書いていますが、これも変です。実際は、ほとんど東京他各地に出かけているので、谷中にいることはあまりないからです。

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2008-09-13 21:09:52

正造の晩年の孤立・6

テーマ:田中正造の虚像と実像

逸見斧吉や島田宗三が止めたいと思っていた裁判については、正造は谷中村の若者たちに次のように説得していました。


引用は、明治45年4月3日に正造が島田宗三、川島要次郎、島田平次へ宛てて書いた手紙です。


「予は裁判を欲したるものにあらざることは、すでに幾回にも及んで話せり。しかれども失策なりとて降参とならば残留民の生命如何。社会は悪魔の世となり、日本はすでに危うく、すでに下野は亡びつくし、今下野に山もなし、川もなし、ただ工事泥棒のみ」


「誰一人谷中に同情する人もなく、独り狼狽、この8,9年。来る8日の公判なかなか危険。弁護士無報酬にして義人にもあらず、判事の鼻息をうかがうはむしろ弱き人々の常なりとす。来る8日、貴下にも不肖も保佐人を付して自身弁論の決心をも要します。天は自ら助くる者を助く。退くなかれ。精神の存せるところ神あり」


この月の20日に判決があって勝訴はしましたが、補償金が少し増えただけで実質的な成果は何もありませんでした。


翌大正2年1月5日、島田宗三は東京の逸見斧吉の家にいる正造に宛てて、本音がよく現われた次の手紙を出しています。


「思えば思うほど、裁判なぞで争うほど馬鹿なことはないとばかり考えられて来るのです。要するに裁判を起こした動機が誤ったのですから、これに伴う万事の仕事は皆無用。かえって根本に対する有害のもののみに候わん」


「はたして然らばその間違った裁判を止して如何するかと問われる時、私は如何したらよいかほとんどその道が知れませぬ」


「こんな世の中で裁判へなぞコツコツの調べを出し、証明なぞを集めてコツコツ争うほど愚かな話はありますまい。これも<始めたことだから>と思ってやっているような次第です」

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2008-09-10 19:53:51

正造の晩年の孤立・5

テーマ:田中正造の虚像と実像

明治の末年ごろからは、島田宗三も時々正造に抵抗する姿勢を表明し、裁判に対する疑問も提出しています。
明治45年6月15日に正造に宛てた宗三の手紙を引用しましょう。


「いよいよ約束に反するの止むなきに到る。翁よ、諒せよ。予が何故に他人の事にまで手を出す資格ありや。予は近日神を信じ神に従わんと欲せしなり。しかれども事実と実行は決して然らざるなり。決して然らざるなり。ことごとく虚偽のみ。いわゆる偽善のみ」


「予の今日の境遇にして他へ手を出せば出すほどに偽を嵩むるのみ。かえって罪悪を積むのみ。予に一文の銭なし。銭なきもの、いかにして他を顧みることを得んや。予に一点の能なし。能無きもの、いかにして功を奏することを得んや。しかして、予には何ものもあらざるなり。あるものは偽と虚のみ」


「数日月にわたり、虚をもって積みたる裁判も今や第1審決してすでに第2審に移れり。・・・彼の役所や、常に強盗、詐欺、殺人、姦淫等を扱う所にして、決して神や仏の争う所にあらざるなり。故に正義も泥棒も同一視せられ、公賊の判たりとも四角の朱印なければ一文の価値なきなり。彼の所や、公賊等の審判所なり。正義の叫ぶ所にはあらざるなり」


当時正造は、島田宗三等の若者に様々なお説教をくりかえしていたので、宗三は「私はそんな立派な人間ではないので、期待しないでほしい」と反発したのだと思われます。


これより2ヵ月半前に正造は、島田たち18人に対し次の手紙を出しています(同年4月2日)。


「水防妨害を憂うるなかれよ。谷中人民は天に尽すものなり。天に尽すものは必ず天より食を賜うなり。その賜うや汝の働きよりも大なり。たとえ小善を働くとも、天の報酬は小ならずして必ず大なり。憂うなかれ。信じて疑うなかれ。正造」


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2008-09-06 21:14:19

正造の晩年の孤立・4

テーマ:田中正造の虚像と実像

谷中問題にかかわる裁判では、次のような不可解な話もあります。


正造の最も忠実な弟子だった谷中村の若い農民・島田宗三が、東京の逸見斧吉宅に滞在する正造に「我々に相談なく和解することになったのはどうしてですか」と手紙で質問しました。


その8日後、その回答が正造からでなく逸見斧吉から宗三に届きます。しかも、内容は「和解するほかないでしょう」というものでした。
2通の手紙を紹介します。


明治44年7月7日、島田宗三から逸見方の正造へ。


「今日突然裁判所から封書が来ました。聞いてみれば、なんと原告安部磯雄他30名、被告栃木県に対する土地収用補償金裁決不服事件につき、来る7月12日午前9時を和解期日と定めたく当裁判所へ出頭せらるべしと。和解、これいかなる故か。何者が申し込んだのか。不明です。われら愚民どうしたらいいのか。これに対する善後策、至急ご指導あらんこと、切に願いあげます」(文章は現代文に直した)


明治44年7月15日、逸見斧吉から宗三へ。


「裁判のこと。村の方々のご決議は拝承しました。和解に反対するということはむしろ当然でしょうが、しからば継続進行のほかありませぬかしら。進行するとせばその方法によい工夫がありますかしら。私が思いますには、このさい県を相手にすることを止めて、ただ独自一個を開拓するという工夫に移られることが肝要ではありますまいか、などと心にくり返しているのです。まあ、田中翁のご意見もうかがってみたいものです」


「至急ご指導あらんことを」とお願いする島田宗三に対して、正造は、裁判そのものに反対する逸見斧吉に平然と回答させたわけです。

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