2008-06-28 20:59:03

何のための河川調査か・7

テーマ:田中正造の虚像と実像

正造はあくまでも渡良瀬川改修計画に反対で、死ぬまで徹底的にその態度を変えませんでした。


しかし、この川の沿岸に生活する農民など住民の大多数は、改修を積極的に支持しました。
ですから沿岸4県の地方議会は、群馬県の明治42年9月10日を始めとして、栃木県(同年9月27日)、茨城県(同年11月28日)、埼玉県(明治43年2月9日)という順序で渡良瀬川改修諮問案を成立させました。
住民側が渡良瀬川の改修をどれほど切望していたかを示す証拠を紹介しましょう。


木塚貞治議員は、栃木県会で次のように演説しています。


「この機会を逸したならば・・・我々はいつの時を待ってこの国難を防ぐことが出来ましょうか。・・・今日まで貴・衆両院、内務省、内閣、1年として請願を出さない年はないのである。・・・我々両沿岸の人民が困難をしておりますのも20年来のことで、・・・実に5000町歩にわたるくらいで、・・・この幾多の土地を復活し、多数の被害民を助けるためには、一小部分の犠牲は実に涙をのんで・・・」(明治42年9月10日)


正造と反対の立場をとったのは沿岸4県の地方議会だけではありません。
足尾銅山の公害反対運動で正造と一心同体だった活動家もまた、改修案を支持しました。
そのため、正造は彼らのことを「狂った」と言いつつ哀れんでいます。逸見斧吉・木下尚江・柴田三郎(都新聞の記者)に宛てて正造は、次の内容のハガキを出しています(明治42年9月16日)。


「野口春蔵氏、大出喜平氏を始め、従来の同志2郡狂せり。しかれども真理にあらず。ただし、この人といえども、多年耕作収入乏しく貧困の人民を救うで無理もなし。これ人なり。未だ神に至らざるのみ。御あわれみ相願いたく」


「彼らは神様でなく人間なので真理は理解できないのだ」というわけですが、正造は、あくまで「自分は絶対的に正しい」と思い込んでいたのです。

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2008-06-25 19:56:41

何のための河川調査か・6

テーマ:田中正造の虚像と実像

明治43年8月の大洪水以来頻繁に河川調査を始めたと書きましたが、正造はそれ以前に彼独自の治水論を持っていて、それを渡良瀬川改修計画反対の根拠にしていました。


ですから、改めて河川調査をする必要などないはずなのです。実際、政府の治水計画に反対する彼の理論的根拠は、終始変わらなかったのです。


彼の理論とは、渡良瀬川の洪水の原因は、この川自身の水勢にあるのではなく、その下流の利根川からの逆流にある、というものでした。


明治41年12月14日、「利根川治水の統一に関する意見書」に、すでに彼は次のように書いています。


「江戸川の河口、千葉県関宿においてセメント工事をもって堰堤を築き、河口を狭窄にして流水を妨害したるがために、利根川の洪水は丈余の水層を湛えるに至る。かつ、関宿以西の権現堂の阻害工事および栗橋の鉄橋・柱脚の障害などによって、思川、渡良瀬川に逆流し、栃木県南部の水量は普通洪水の上になお6,7尺を高め、沿岸村落の堤防はあるいは破壊し、あるいは河伯の暴逆をたくましうするは近年の変状なり」


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2008-06-21 20:22:59

何のための河川調査か・5

テーマ:田中正造の虚像と実像

正造は、「自分こそ水害の真因を知っている。世間の人はみんな間違っている」と言い続けました。
また、手紙でその実例を挙げていきます。


「今日の(水害)は天災にあらず。天災なりと誤解して原因の調査も研究もないのが今日までの結果です。今よりは進んで新しき心にてお進め下されたく候。いやしくも正造等および被害民の主唱はやや20年以前よりです。しかも世人耳を傾けずして今回の一大災いとはなれり」(明治43年9月11日、桐生町・大沢恒三郎宛)


「関東の水害は寸毫も厘も天災にあらで、ことごとくこれ皆人為人造、私利私欲、愛憎と偏頗(かたよって公平でないこと)とより来たりし悪事の大洪水にて候ことの疑いなき大事実にて候。治水は河川の上にあらず、人心の上にありです。もしそれ天災なりなぞとの迷夢の覚めざる点あらんか。万事万端無用の心配、無用の苦労に相成り候事と確信せり」(明治43年11月19日、碓井要作宛)


正造は、どんなことに対しても決定的な言い方をします。


たとえば、科学的・客観的に表現すれば、水害は天災の側面もあり人災の側面もあるというのが正確でしょうが、彼は「天災でなく人災で、人間の欲が原因だ」などと発言してしまいます。つまり、主観でしかものを言わないのです。だから大概のことは虚言になってしまいます。しかし、だまされやすい人は虚言を信用してしまうのです。

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2008-06-18 19:22:34

何のための河川調査か・4

テーマ:田中正造の虚像と実像

正造は、治水問題に関してある種の確信を抱き、河川工学の専門家よりも自分は優れていると思い込んでいました。


だから、前回の手紙のように「内務省の専門家は全然無学なりと確信いたし候」とまで言ったわけですが、治水に関するその思想を様々な人に説教していました。

その実例を手紙で確かめてみます。


「およそ雨は昔も今も同じことなり。されど昔は雨一升降れば一升のままを海に行かしむ。今は然らず。一升の雨を三升にして流す故に、3分の2はすなわち人造の水害なり。近年山林乱伐、水源山はげ崩れて赤裸体たり。2日間に流るる雨量を1日間に流して2倍とし、また途中利根川の各所に流れを妨げ逆流せしめて3倍とす。故に雨は昔に同じきも流水は昔に3倍す」


「河川の改修とは回復の義なり。されば政府はまず渡良瀬川改修の前に早く流水妨害を除かば洪水の減ずる直に4,5尺。しかして後改修の年限を経ば成功。減水の合計はやや一丈に至らん」(明治43年8月31日、木下尚江・安部磯雄・逸見斧吉・石川三四郎宛の印刷したはがき、発送地は古河町)


もっともらしいことを言っていますが、数字に客観的な裏づけがあるわけではないし、「流水妨害を除」けば解決するといっても、現実的な対策などありませんから、正に空理空論に過ぎません。

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2008-06-14 20:38:23

何のための河川調査か・3

テーマ:田中正造の虚像と実像

正造のいう河川調査は、その範囲をどんどん広げていったようです。今回は千葉県と栃木県から出した手紙3通と、河川工学の専門家を見下すほどの自信家振りを示す日記と手紙とを紹介します。


「今日より向こう3日間、日本南海沿岸被害視察。行徳、船橋、千葉、佐倉、印旛沼方面より、また中利根川に出るつもりにて、今夜はこの船橋にて太神宮社の前の旅亭に一泊いたしました」(明治44年8月2日付け、島田栄蔵等6人宛て)


「本日は立て川通りより御なり川の東南、江戸川の末にて千葉東葛飾郡浦安町に。これより同郡中山より乗車、成田に一泊か佐倉に一泊かと決し候。それよりアビコ線、茨城の取手町に到り一泊して、いったん東京に帰ります」(明治44年8月2日付け、逸見斧吉宛)


「正造も1昨年8月洪水当時より東京以北5カ国の河川を跋渉せり。長きは東西50里、短きも10余里にわたる。この数十の河川の大半は、余す所少なきまでに実現せり。治水のことようやくしてその大意を知れり。今は土木吏の詐りには欺かれず。今は付近数十か村内、下都賀南部を巡りて、多忙に呆れたり。手紙書くひまもなし。話するひまもなし。時下翁においてもご自愛あれ」(大正元年8月15日付け、栃木町から島田栄蔵宛)


「日本工学技師は風水の学を知らず。故に風と水とに失敗多し。彼の横浜の切り通し、大阪築港のごとき、河川工事のごとき皆失敗せり。これ、あたかも法律家にして人道を学ばざるもののごとし」(大正元年9月27日の正造の日記)


「去る41年の頃、逸見君より治水上につき左のお言葉ありき。いくら偉くても治水は内務省の専門家に及ぶまいと。当時正造も貴君の説に服せり。しかるに昨今に至りてみれば、内務省の専門家は全然無学なりと確信いたし候」(大正2年1月25日付け、逸見斧吉宛)


「手紙書くひまもなし」と書きながら、彼は前日(14日)には7通、当日に2通手紙を出しています。しかも相手が求めてもいない内容のものばかりです。河川工学の専門家を馬鹿にしていますが、それは彼がそう夢想しただけで、第三者が評価したわけではありません。

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2008-06-11 20:47:05

何のための河川調査か・2

テーマ:田中正造の虚像と実像

河川調査で忙しいという手紙を、更に紹介していきます。


「不肖も毎日毎日山を越し、谷を下り、諸河川水源(渡良瀬、思、巴波、永野、秋山その他)再三の調べにて候。今日は深く山に入り、水源についての調査にて候。今日は雪降り、谷の流れも氷となりて、寒さは強く候。しかれども、今の世の人心の冷ややかなるよりは、この寒さはかえって暖かにて候」(明治44年1月20日付け、旧谷中村の島田栄蔵、川島要次郎、島田宗三、水野定吉・官次宛)


「正造も去年8月以来水の調べにて東西奔走して、一日片時もすきまなしです。それですから、たまたま谷中に帰るときは早く集まりて、いろいろのはなしを私に話して下さい。一戸一戸に巡りて聞くのは、5日も6日も7日も8日もかかりて、また一方では毎戸毎戸で食物や夜具の世話厄介あり。これもまた中々大厄介ですから、今後は集まりを早く願います。なお、老人方によろしく。父母兄上様方によろしく。弟妹様方にもよろしくよろしく」(明治44年3月23日付け、竹沢房之進他12人宛)


「一日片時もすきまなしです」とありますが、河川調査は自分が勝手に始めただけで、別に締め切りなどありません。ですから自分が勝手に忙しがっているに過ぎません。谷中村の農民に集合せよと要求するのは、ですから全く失礼な話だと言えます。


この手紙で分かるのは、正造の訪問を受けた家では食事の世話をし、お客用の寝具を用意して接待してといたという現状です。正造は実質的には乞食でありながら、元国会議員ですから階級がはるかに上流で、農民側にとっては、最大限のもてなしをしなければいけないエリートだったわけです。正造がそれに甘えていたことが、この手紙からもよく分かります。


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2008-06-08 19:56:03

何のための河川調査か・1

テーマ:田中正造の虚像と実像

正造の行動のうちで私が一番不思議に思うのは、明治の終わり頃から、彼が河川調査と称してあちこちを飛び歩いていたことです。


そのことに使った時間やお金は膨大なはずですが、その成果というものはゼロだったということができます。彼の言うことを聞いてくれる人はこの頃ほとんどいないのですから、彼がもし調査報告書を書いたとしても、それを採用してくれるはずがないからです。


にもかかわらず、死ぬまで彼はその無意味な行動を続けていたのです。
河川工学の専門家でもないのに、まるで土木技術者でもあるかのように、正造は「今どの辺りを調べている」といった手紙を、連日のように書きまくっています。それらをまず少しずつ紹介していきます。


「一府五県水害地方を広くめぐり歩き奔走中にて候。足は弱く、銭は短く、道は泥で悪く、困ることのみです。しかれども世間見ずの我儘では害のみで益なしですから私は広く見るのです。このたびこそ谷中の人々も金玉をみがきて、きれいに光るほど金玉をみがくのですとお伝え下されたく候。谷中の人々にのみお伝え下されたくご尽力願い奉り候」(明治43年9月19日に旧谷中村の竹沢角三郎他10人に宛てたもの)


いったい、河川調査と谷中の人々と金玉とに、どんな関係があるのでしょう。わけが分からないではありませんか。


こんなことを書いて農民たちに何らかの影響を与えられると思っていたのですから、正造という人は正に、自らが言う「世間見ずの我儘」でしかなかったわけです。

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