2008-05-31 19:54:25

気配りなしの無神経ぶり・4

テーマ:田中正造の虚像と実像

あちこち転々と泊まり歩くことで、大勢の人にかけた最大の迷惑は、おそらく虱(しらみ)を撒き散らしつづけたことです。
まず『田中正造奇行談』を引用します。


「翁が島田三郎の家に泊まった時のこと、翌日、家人が翁に着せた夜具をたたんで奥へ持ち運ぼうとした。すると中から例の虱先生が這い出したので、これは大変とびっくりして、一々調べた所が、5匹も10匹も這い出した。家人は、やっと退治したあとに、主人の島田に物語ると、彼の言うのに、田中には汚くてほんとに困るよ」


正造自身が体験した告白文もあります。
親戚である足利の原田方にいる正造が、東京の逸見斧吉に宛てた明治42年1月16日付けの次の手紙です。


「1昨日以来、ところどころ虱14,5匹発見いたし、昨夜足利に来たり親族の手を借りて虱の巣窟捜索候ところ、彼は衣類の縫い目のたてよこに潜伏せり。ついに365匹生け捕り候。ずいぶん大騒ぎしました」


「さて、先ごろ2回貴家に参上、第1回の頃より下腹のあたりがかゆく候につき、多分夜具および衣類に今頃多くの悪魔を繁殖いたさせたりと存じ候間、右大至急お届け申し上げ候間、早々ご征伐のほどを奉り願い候」


今はあまり見かけなくなりましたが、昔は、不潔にしておくとしばしば虱が身体中にたかって、痒くて気持ちが悪くて、容易なことでは退治が出来ませんでした。


たぶん、あまり風呂にも入らず、いつも不潔だったに違いない正造は、絶えず虱を飼っていたでしょうから、彼を泊めたどこの家でも大変な迷惑をこうむったことでしょう。「早々ご征伐のほどを」といわれても、殺虫剤がなかった時代に、虱を征伐することなど、簡単にできるはずはないのです。その点でも正造は非常識です。

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2008-05-28 21:26:51

気配りなしの無神経ぶり・3

テーマ:田中正造の虚像と実像

岩崎勝三郎の『田中正造奇行談』には、次のエピソードも載っています。


これもまた、彼が泥棒と同じことをしているのに、「全く無邪気な男だ」と感想を書いているに過ぎません。
他人のものをただで持ってきて、それを人にあげて自分の評判をよくするために利用しているわけです。


「翁は思いの外刀剣の鑑定に長じているそうだが、・・・どこに行っても自分の好きな書画骨董があるとたまらない。すぐに<これは俺がもらっていく>と言って先方が承知しようがしまいがそんなことは頓着せず、引っかついで持っていってしまう」


「さて、それをどうするかといえば、例の平民クラブや鉱毒事務所などへ持っていって、戸棚の中へぶち込んでおくと、しばらく経って忘れてしまう。すると、たまたま知友が来て、例の戸棚を開けてみると、立派な書画骨董が5本も10本も入っているので、しめたとばかりに、どうか1本くれまいかと翁に談じこむと、翁は以前のことは忘れてしまうのか、どれでも持っていけ、という塩梅であるからたまらない、クラブへ行く者は誰も彼もすぐに例の戸棚を開けてみるという話であるが、この点より見たなら、翁は全く無邪気な男だ」

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2008-05-24 20:10:18

気配りなしの無神経ぶり・2

テーマ:田中正造の虚像と実像

これも『田中正造奇行談』にある話です。


「翁がかつて肥塚龍の邸内に住んでおった時の話であるが、その当時は2,3人の書生を養って、一緒に自炊生活をしていた。すると、初めのうちは毎日薪や炭は外から買ってきたけれども、しまいには面倒くさくなったものだから、今度は邸内の壁板を折りくじってきては、それをこまかくして燃やしておった」


「すると家主の肥塚が、知らずに邸内を回って歩くと、壁のところどころに穴が開いているので、どうしたのかと思って注意していると、翁が例によってたきぎの材料を取りに出かけたので、初めてそれを分かった。さあ大変だとすぐに翁の所へ駆けつけて言うのに、たきぎはいくらでもやるから、それだけは許してくれろ」


正造のしている行為のレベルがあまりにも低いので、唖然としてしまいますが、これを単なる奇行として片付けている著者岩崎勝三郎の無神経振りにも驚きます。泥棒のようなことをしているのに、結局、彼を公害反対運動の英雄として祭り上げているのですから。

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2008-05-21 20:01:42

気配りなしの無神経ぶり・1

テーマ:田中正造の虚像と実像

田中正造が宿泊と食事を求めて次々と知人の家を回って歩いた事実を、皆さんはおそらく、これでかなりの程度理解できただろうと思います。


ところで彼は、当然その家に迷惑をかけるこうした行為をしながらも、さらに平気で、普通の人には出来ないような失礼を繰り返していました。


岩崎勝三郎がまとめた『田中正造奇行談』(明治35年)にあるエピソードをいくつか紹介していきましょう。


「先年、翁(正造)は被害地の各村を回って、帰途影沢某の家へ行ったことがあるが、その時翁は雨茣蓙に草鞋がけという出で立ちで、裏口からつかつかと奥座敷に入ったが、そのまま横になり、腕枕で昼寝を決め込んでしまった」


「家人はそんな事とは夢にも知らなかったが、しばらくたってこれを発見したから何者かと行ってみると、はからずも田中翁であることが分かった。翁が家人に向かって言うのに、あまり駆け走って疲れたゆえ、裏の方から失礼したと、挨拶がすむとまたも昼寝をつづけたとは、いかにも頓着しない男である」

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2008-05-17 19:33:17

金銭感覚の異常性・50

テーマ:田中正造の虚像と実像

田中正造は、10年以上も無収入のまま、働くことをせずに生活費をすべて他人に頼るという、異常な生き方をしていたわけですが、普通の人ならそういう生き方はまずいと思うのに、彼は、それでも「世間の人は自分にお金をくれたがらない」ことを不思議に思い、しかしそれは、神様がそうされているのだと悟って、反省することにしたというのです。この感覚を皆さんはどう思われますか。


明治43年8月23日付けの碓井要作宛の手紙が、この実体をよく物語っていますので紹介します。


「人を救うもの、かえって人に助けらるる点あり。しかれども笑うなかれ。天は我に食を賜うの厚き甚だ多くして、分に過ぎたり。ただ天我に金品を賜うの乏しき事、また分に及ばずして正造常に窮するところなり」


「これを案ずるに、予正造は金品に関係なきをもって予の業とせよとの教えたるを悟れり。今はこれを悟れり。・・・金と道とは併行せざる所以、まことによく天は教えて、また我に金品をもって給せず。ここに安心立命の道自然に備われり」


「よりて予は金品に乏しきを憂えず、厭わざるなり。天の賜うところのものを受けて天の命に働かんとするにあるのみ」


この手紙から、彼の突然の訪問を受けた人々は、正造にお金をくれることはあまりしなかった代わりに、多すぎるほど食事を出していたことがよく分かります。もちろん、元国会議員に対しては、一番いい寝室に暖かい蒲団を敷いて寝てもらったに違いありません。


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2008-05-14 20:09:55

金銭感覚の異常性・49

テーマ:田中正造の虚像と実像

彼の最後の年である大正2年の日記に移りますが、正月の元旦から他人の家に泊まり歩いていることがわかります。


1月1日、2日、横浜根岸婦人慈善病院の上隣、福田・石川両氏を訪うて泊す。


1月3日、芝口越中屋に投宿す。


1月6日、東京より逗子に来たり松屋に投宿す。


1月20日、友沼、教員木本寅之助氏方宿。


1月22日、野木村字野渡に昨夜泊して、野木村の田畑を買収する手続きを聞き、足尾銅山党の悪謀たるを説明し、降雪中古河町に帰る。田中屋に宿す。


このように、他人の家を回って寝と食とを恵んでもらうホームレス生活を繰り返す中で、正造はこの間の日記に次のように書くのです。


大正2年1月10日、宇都宮市停車場白木屋にて書く。予は、人の幸せを祈る者なり。人の命を長くする者なり。人を助くる者なり。世の中を清むる者なり。世を正す者なり。予は、山川を荒らさぬ、自然の者なり。河川を地勢のままにして水を自然の清きを汚さず、流れを流す者なり。


いったい、寝たり食べたりする生活の基本をすべて他人に依存しながら、「人を助くる者なり」などと、どうして言えるのでしょう。あまりにもふざけているではありませんか。

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2008-05-10 19:57:19

金銭感覚の異常性・48

テーマ:田中正造の虚像と実像

もう少し、彼の日記を続けます。死の前年に当る大正元年の11月分からです。


11月5日、4日夜繁桂寺に泊す。本日、知事に陳情書を出す。3日夜田中弥平氏に泊す。2日は赤麻の日高文六氏方に泊す。1日は部屋村田中森之進氏に泊す。30日金半に泊す。31日、皆川村森戸金太郎氏に泊す。およそかくのごとし。


11月6日、田中弥平氏方。昨夜ここに泊す。


11月21日、海老瀬の佐藤氏方に泊す。昨夜古河町田中屋に泊す。


11月28日、東京日本橋芳町上総屋方にて飯村丈三郎氏に逢い、邑楽郡に帰り、大出氏の死を訪うて山本氏に泊す。


11月30日、昨夜大出氏に泊す。


12月5日、古河町より宇都宮に行き、翌6日帰りて藤岡の篠山にめぐりて川島氏に泊す。


12月7日、川島氏より恵下野に来り、島田氏に泊し、田名網氏に逢う。閑を得て野木に来たり、大野氏に逢うて、古河町田中助次氏に逢うて泊す。


12月17日、藤岡町川内屋に泊す。


12月18日、出京、上野の上野館に泊す。


12月19日、島田三郎氏を訪う。この夜巣鴨の巣鴨館に上野館に泊す。

12月20、21、22、23日、巣鴨館、上野館に泊す。


12月29日、本所緑町3ー20佐野屋川辺長三郎方、久々にて泊す。今日花井氏を訪うて上野館に厄介。

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2008-05-07 20:25:19

金銭感覚の異常性・47

テーマ:田中正造の虚像と実像

明治45年7月に明治天皇が崩御されていますから、8月から大正時代に変わります。大正元年に入ってからの正造の日記を見てみましょう。


次々と他人の家を回って食事をいただき、泊めてもらっている様子が分かりますが、何の用事でその家に行ったのかについては、何も書いてありません。


8月22日、(古河の旅館)田中屋より人力車で新郷村に入り、山中栄吉、小倉佐市、小野善助氏を訪れて新久田の並木氏を訪問。不在。渡良瀬川を   西に越えて河辺村稲村広吉氏方に入り昼飯を乞う。車夫と二人分。

 
8月29日、去る24日、館林町荒井清三郎氏方の厄介となり泊す。・・・眠り覚めて小便に立ち、東西を誤り、行く所を失い隣室を呼ぶ。この家の老婆驚き起きて下女を呼ぶ。家中騒動となる。小便ほとんど洩る。


9月2日、植野村新井新次郎方に休息を許されて昼寝す。島田雄三郎氏を訪ねて小遣金3円を得て馬門に行く。


9月7日、昨夜海老瀬村の増保金蔵氏方に泊す。


10月3日、昨夜福田女史、石川三四郎両氏と宮崎女史を訪ねて泊す。2氏は帰る。


10月10日、昨日、部屋に泊す。


10月11日、昨日、古河町田中屋に泊す。


10月12日、恵下野に泊す。


10月20日、赤麻村大前山志家氏に 泊す。


10月21日、藤岡、谷中、古河町、野木に入りて夜栃木に来たり<かな半>に 泊す。


10月23日、恵下野に泊す。


車夫と二人分の昼飯を請求したり、小遣いを3円も(今の3万円ぐらい)もらったり、昼寝をするために家にあがったり、深夜に老女を起こしたうえ小便を漏らしてしまったり、何とも迷惑至極ではありませんか。


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2008-05-03 20:14:05

金銭感覚の異常性・46

テーマ:田中正造の虚像と実像

明治45年6月、7月の正造の動静を、日記からまたメモって行きます。


6月12日、11日出京、神聖舎に泊す。12日、野木役場に到りて泊す。


6月15日、昨夜、藤岡の河内屋、今15日、赤麻に急行して船田源蔵氏に泊す。


6月21日、久保田氏にて昼、山崎氏方に泊す。


7月2日、金龍寺方出立。字悪戸日高文六氏を訪れて、中妻関口安蔵氏方に1泊し、今2日西小路田中ます子方に休む。


7月3日、夜、藤岡町鍛冶店田中弥平氏方に泊す。


7月8日、赤貧の洗うが如き心もて、無一物こそ富というなれ。田沼高沢に泊す。人を見るは神を見るより難し。


7月9日、朝、三好村蓼沼氏方を訪ね、・・・遠藤氏死去を訪うて、五月女両家を訪うて小中に泊す。


7月16日、15日夜、関口吾一郎氏を訪れて泊す。


7月20日、今日まで佐野の新里兼吉方に厄介となる。


7月24日、この7日間は、印刷屋船江氏方に出入りして、氏の多忙にじゃまして大いに困られた。 


人の家に押しかけて行って、いろいろ厄介になりながら、「無一物こそ富というなれ」と言ってのけるとは、何という無神経でしょう。


「人を見るは神を見るより難し」と言っていますが、いったいどうすれば神を見ることなど出来るのでしょう。この人の言ってることは全く訳がわかりません。


印刷屋の仕事の邪魔をして迷惑をかけたようですが、これで、相手の都合に関係なく人の家に押しかけていたことも分かります。自分でも認めているように、彼は、遠慮というものを知らない不躾な人間なのだと言えます。


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