2007-11-30 19:58:16

金銭感覚の異常性・6

テーマ:田中正造の虚像と実像

甥の原田定助からの仕送りが、月に20円(今の20万円ぐらい)に減額されたことを前回書きましたが、その後定助の収入はピンチになり、次いでまもなく仕送りはストップしたと思われます。


その通知をもらった正造は、慌てふためいて定助に次の手紙を書きました(明治37年12月6日)。


「突然のお叱り状、謹んでその罪を待つべし。何はともあれ、この場合突然に兵糧断絶は、出兵者のご決心として驚愕悲痛に候。これには何らかの離間者あり。または貴下の善心を襲う悪魔の入り来るなるべし。しかりといえども、予だけは天の代わりてお留主を守るべし。その悪魔を誅して貴下の留主を清むべし」


「ハガキにて兵糧断絶のお断り書あり。呆然進退を失ったり。かく兵糧に困らせられては今後は何人に申し出ずべきか。厳本殿にでも内願せば可なるか。このハガキは俄然兵糧断絶して、実に驚愕して、予は手足措く所を知らざるなり」


送金停止の理由を、「これには何らかの離間者あり」と、正造と定助を仲違いする工作があったと断じたり、定助の「善心を襲う悪魔」がいるような話をつくるなど、正造という人は驚くべき異常者だということが、これではっきりします。


田中正造の研究者である花村富士男は、「定助は39年の綿糸相場で失敗し、再起不能の痛手を受けた」と、『田中正造全集・16巻』に書いていますが、実際には明治37年の末には、上記のように仕送りができない経済状態になっていたのです。


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2007-11-28 20:52:31

金銭感覚の異常性・5

テーマ:田中正造の虚像と実像

正造は、原田定助から定期的に仕送りをさせていただけではありません。
それ以外にもしばしば甥の定助にツケを回していました。


足利に住む定助が所用で横浜に行き、その帰りに日本橋の静岡屋という旅館に泊まった折、新橋の越中屋という旅館に滞在していた正造に宛てて、正造が未払いにした宿賃20円を払っておいたが、今後はこんな恥かしいことはしないでほしい、と手紙で書き送っています(明治37年4月7日)。


「昨日横浜行き多用にてお目にかからず欠礼仕り候。本日も急用これあり候間このまま帰国いたし候。静岡屋よりご持参相成り候由につき、本日金20円相払い申し候。後静岡屋よりご持参はご免を蒙り候。小生より参上、直接に差し上げ候様仕りべく候。よろしくご承知おき下されたく候」


親戚であるとはいえ、定助はどうして伯父が支払うべきお金まで出す必要があったのでしょう。
しかし、金銭的に余裕がなくなると、いくら人のいい甥でもそうはいかなくなります。
この手紙の一ヵ月後、定助は正造に大ショックを与える手紙を送るのです(明治37年5月15日)。要点部分だけ引用します。


「引き続いての商況不振に加え、諸般の出費相かさみ、困難を加え候に付き、先頃来家政を改め諸事節約致し候。伯父上にも昨年はおよそ1000円も御用達致し、本年もすでに170余円に上り候に付き、お気の毒ながら、今後は1ヶ月金20円にご改正下されたく候」

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2007-11-24 20:13:26

金銭感覚の異常性・4

テーマ:田中正造の虚像と実像

歳費辞退届けを提出した4日後、原田定助に宛てて正造は、手紙に「何という立派な政治家なのだろう」と思わせる文章を書きました(明治32年4月23日)。


「今2000円を辞す。人は馬鹿という。・・・(しかしながらこの行為は)人心の腐敗をして幾分の矯正を為すや疑いなし。その利挙げて算すべからず。嗚呼、世の政治家の馬鹿この利を知らず、宗教道徳家またよくこれを行う者なし」


しかし、この手紙を受け取った甥の定助はどう思ったでしょう。無収入になる正造が「仕送りを増やしてほしい」といってくるに違いないのです。


定助の仕送りでは足りなくなったのは事実で、その後借金が増えて困った正造は、蓼沼丈吉に「600円貸してほしい」と申し込みます。その手紙に、彼は、こんな情けない事実を告白しています(明治34年2月23日)。「人心の腐敗の矯正」など、どうしてできるでしょう。

「当時正造は金銭大必要の最中に歳費を辞したれば、1銭の抵当となるべきものなく、他借の道絶え非常に困却の折柄、第3(選挙)区人民よりは・・・辞退は名利のことなり、などと悪口せられ、ほとんど進退に苦しみたり。・・・昨春より今春まではどしどしやっておりましたけれども、前書(手紙)の借金は出来いたし候」

蓼沼丈吉は、正造が「議員を辞めたら選挙区を譲り渡す」と約束した人ですから、返してもらえないことは十分承知した上でこの600円は融通したはずです。収入の当ての全くない正造に、返済ができるはずはないのです。


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2007-11-21 21:16:33

金銭感覚の異常性・3

テーマ:田中正造の虚像と実像

正造は、定職をもっていなかったので、国会議員だった時は、年800円の歳費が収入の全てで、政治活動と生活の費用をこれでまかなっていたと思われます。しかし、議員になってすぐの明治25年の段階で、すでに多額の借金をしていたようです。その上、自分では返却できないので、支持者がその尻拭いをしています。


明治36年9月11日、大出喜平は『毎日新聞』に次の内容の投稿をしました。


翁(正造)は、少しばかりの田畑も売却し、余財はない。しかし、政治上の費用は多年有志がこれを弁じて翁に心配させなかった。明治25年の選挙費負債残高1500余円は、数年前まで佐野銀行にあったが、本人が知らない間に22名の有志が代償した」


正造の選挙区の支援者たちは、実は、正造の歳費を抵当にして佐野銀行から借り、歳費の半分を強制的に取り上げて返済していたということです。


ところが、明治32年に歳費が800円から2000円に増額された時、増額案に反対だった正造は、歳費自体を拒否して「歳費辞退届け」を議会に提出したため(4月19日)、以来彼は無報酬で国会議員をつづけたのです。


困ったのは大出喜平たち支援者です。
正造と同郷の江森泰吉によれば、一部の人々は失望のあまり正造の行動を恨み、反対者も増えたということです(柴田三郎著『義人田中正造翁』)。
それでも、残った支援者たちがお金を出し合ってこの借金を返したのでしょう。


このようなケースは無数にあるようです。正造は自分の借金を返す努力など全くしないので、人のいい周りは仕方なく尻拭いをするしかないわけです。
他人に迷惑をかけることよりも、自分を格好よく見せるほうが、正造にとってずっと重要だったのです。


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2007-11-17 19:53:37

金銭感覚の異常性・2

テーマ:田中正造の虚像と実像

柴田三郎著『義人田中正造翁』(1921年)によれば、正造と同郷の江森泰吉は、次のように発言しています。つまり、明治27年の日清戦争直後、正造は、学生の江森と早稲田鶴巻町の学生下宿で暮らし始めたが、家賃の5円は正造が払った。しかし、それは全額原田定助からの仕送りだった。翌年の秋には、7つの部屋に台所付きの1軒家を家賃3円で借り、江森等学生3人と正造の4人がここに引っ越したが、その家賃も定助からの仕送りだった、と。


その上、正造は学生たちに「これで俺の根拠地はできた。時々田舎から人が訪ねてくるが、そのときは迷惑だが泊めてやってほしい。彼らの食事代に月々3円渡すから使ってくれ」とも言っていた、ということです。


花村富士男は「甥の原田定助は(明治)33年から毎月かなりの金額を(正造に)提供していたようだ」と書いています。しかし、彼は正造の本を5冊も書いているのに、なぜ、上の資料のことを無視したのでしょう。仕送りを始めた年に6年のずれがあるのです。


ところで、正造の側近の活動家だった大出喜平によれば、「定助は自ら倹素を守って翁(正造)の生計一切を負担していた」(『毎日新聞』明治36年9月11日)そうです。倹約して送っていた定助の貴重なお金を、関係のない学生たちの生活費や交際費に使っていた正造は、何と無礼な人なのかと思ってしまいます。


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2007-11-14 19:30:54

金銭感覚の異常性・1

テーマ:田中正造の虚像と実像

お金ほど怖いものがありません。人の一生を左右するのですから。


経済生活を観察すれば、その人の人格も分かってきます。手紙や日記を通じて正造の金銭感覚を探ってみましょう。

『田中正造全集・16巻』の「解題」に、花村富士男はこう書いています。


「(明治)33年から39年まで、甥の(原田)定助が毎月かなりの金額を(正造に)提供していたようである。正造は、毎月のように臨時費を定助に要求し、時にはそれが200円、300円となることもあった。ほかに、弟の原田光次郎や妹の婿の原田勘七郎にも依頼することがあった。定助は39年の綿糸相場で失敗し、再起不能の痛手を受け、以後田中の財政を担当したのは、逸見斧吉、今村力三郎ら、主として東京の支援グループの人々であった」


事実関係にだいぶ誤りがありますが、これでも正造が大勢の人からお金をもらって暮らしていたことがわかります。
実は、県会議員や国会議員は職業とはいえないので、彼は定職を持ったことがなく、人のお金で生きていたといってもいいぐらいなのです。


どのようにしてそれが可能になったのでしょうか。手紙類を分析して探ってみます。


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2007-11-10 19:38:54

正造の本心にある差別意識・7

テーマ:田中正造の虚像と実像

前回紹介した手紙から7日後、大正2年2月12日付けの島田熊吉・宗三宛ての手紙もまた、谷中村民へのお説教で、農民を愚民扱いにしていることが良くわかります。


正造の最大の理解者であり、彼に何を言われても反抗せずに、従うべく努力をしていた島田宗三に対して、なぜこんなことまで言わなければならないのか、全く理解できません。宗三が離れていったら正造はこの村にいられなくなるぐらいなのに。彼は先のことなど何も考えていなかったようです。本文はこうです。


「谷中残留民は、下都賀南部10か町村を救う知識を持っている。この貴重の財産は数千万の価なるか。論より証拠、これを周囲の無経験の村々に比べれば明らか。正造は愚人なり。谷中残留民また愚人なり。愚人にしてなおかつこの知徳を得、この知徳の富を有せり。しかれども、ここに一つの難題あり。谷中人民は自家有形の財産の価をすら知らざりしより、財産を略奪せられたり。価を知らざれば価なしです。あれどもなきと同じです」


よく読めばわかりますが、実はこの手紙にはまるで内容がありません。
「論より証拠」とありますが、証拠など書いてありません。
なぜ谷中人民は「10か町村を救う知識」をもっているのでしょう。
なぜ「知徳の富を有す」のでしょう。
人民の財産とかを誰が何のために、どのように「略奪」したのでしょう。


言ってることが全く意味を成していません。
自分でも分かっていないのでしょう。
こうした手紙から、正造という人のデタラメ振りが良く分かると思います。


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2007-11-07 20:27:12

正造の本心にある差別意識・6

テーマ:田中正造の虚像と実像

残された数少ない彼の「同志」である谷中村の残留農民への手紙は、彼の死が近づくほどさらに神経質で、不平ばかりになります。


死の半年前の大正2年2月5日に、川島要次郎他数人に東京の巣鴨館にいた正造が書いた手紙から、東京の文化人を尊敬し、谷中の村人を軽蔑する正造の差別意識がよく読み取れます。


「(慈善家の)多数の人々何回ともなしに(谷中に)来ている。しかるにこの人々をば恩ともせず、かえって恨みに思うことこそあれ、未だ足尾銅山鉱毒沈澱池ともいう者なし。はなはだしきは、堤防を破られてもこれを忘れ、たまたま東京より視察に来るもろくに人を集めず、まことに少数の人にて、ご苦労様ですとただ一言、頭を地にすりつける人もなし、隣近所から駆けつける人もなし、一向に有難げもなしです」


「頭をていねいに下げるくらいの、人の人たる道を稽古する必要がある。出来ないはずはない。くれぐれも、魚が多くとれるなぞのと、ホラを吹くはよろしくないです。東京その他より来る人々の中には神様のような人も来る。我々は、決して来客に失礼してはならないのです」


正造は谷中村を「鉱毒沈澱池」と言い続けました。しかし、当時農地は復旧していたので、村人はそれを肯定するわけにいかなかったはずです。
また、「魚が多くとれるなぞのと、ホラを吹くな」は、「東京の人に本当のことを言うな」という意味でしょう。百姓はホラなど吹かないからです。


正造は自分の嘘にあわせてくれない農民に腹を立てたのでしょう。唖然とするほかありません。
私は、正直に生きている農民に対して都会人のセンスで腹を立てている正造に、心から腹立たしさを覚えます。


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