2007-10-31 19:37:47

正造の本心にある差別意識・5

テーマ:田中正造の虚像と実像

大正元年11月11日には、谷中村の島田栄蔵・宗三、川島要次郎に宛てて、次のような不満の手紙を出しています。


「予、9ヵ年谷中におり、谷中人民に同情して止まざるなり。しかし、谷中人民にのみ同情すると思うなかれ。正造は人民中同情すべき人にのみ同情す。むしろ谷中には薄しというも可なり。むしろ大薄情というも可なり。谷中人民人情に薄ければなり。谷中人民の同志間を見れば明らかならざるを得ず。薄きものには常に薄し。厚きものには常に厚きものなればなり」


普通の人ならこのような発言はしないはずです。人間関係のあり方というものに、彼は全く無知だといえるのではないでしょうか。


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2007-10-27 21:13:34

正造の本心にある差別意識・4

テーマ:田中正造の虚像と実像

最晩年になると、正造の味方になる人はますます少なくなり、周りはみんな彼の敵だという意識が強くなっていきます。


しかし、それでもなおかつ彼は、その残された彼の「同志」にさえ「愚人」といってはばからないのですから驚きます。自分は賢く農民は愚かだという差別意識が、よほど強固だったからでしょう。


この意識こそ、彼がどんどん信用を失い、孤立を深めていく原因なのに、それに気がつかず、だから不平はますます拡大するわけです。
死の前年、大正元年9月8日付けの原田勘七郎・たけ子(姪夫婦)宛ての手紙には、次のようにあります。


「正造には大小の反対あり。一は足尾銅山党、二は政府中のこの銅山党。下吏および地方官中多大なり。大小議員中この類多し。郡長町村長中、十中の九は皆なり。警官また同じ。しかして正造の同志たる者は被害窮民の餓えて食なしの徒にして、常によく流言に左右せらるる愚人のみというも可なり」


「今は正造ただ一人にして関東5州、上野、下野、常陸、下総を救わんとするにありて、歳月20年、今は人民もまた正造の心を知らず、ますます正造を疑って信ぜず、かえって行為を賤しめる者十中の八、九なり」



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2007-10-24 20:49:23

正造の本心にある差別意識・3

テーマ:田中正造の虚像と実像

正造は谷中の人々を何時までたっても理解できず、意識が低いと見ていたので絶えず文句を言っていました。


逸見斧吉等が、谷中の人々のためにお手伝いさんを派遣しようと提案したことに関連して、正造は、明治44年6月24日、東京から島田熊吉・宗三兄弟に宛てて次の内容の手紙を書いています。


「(昨年12月に谷中に帰って)逸見様のお話をせしに、うんともすんとも答える人なし。家ごとに話しても、応ずる者なかりき。河川検分の途中に戻りて話しても一人も喜ぶ者なし。・・・東京の逸見様や木下(尚江)様や島田(三郎)様のお世話とあらば、中学卒以上と同じで、人類学上は大学卒にも及ばぬのに、谷中の人民やたら反対するは、何か他に教唆する者があると心得ます・・・」


「谷中の人民は良いことは耳に入らず、欲で丸められれば、首でもやるのですから。私は半日でも谷中を離れ去るは残念なれど、年々老いて諸君のためになり申さず候。谷中の人々が私の話を分かるのに、5ヶ月も6ヶ月もかかるのは、やり切れ申さず候」


こんなことで腹を立てるようでは、谷中の人を救うことなどとても無理のはずです。ですから、彼には忍耐というものがまるでなかったとしか思えません

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2007-10-20 19:34:56

正造の本心にある差別意識・2

テーマ:田中正造の虚像と実像

明治44年3月、東京にいた正造は浅野セメントの煙害による公害反対運動に遭遇したので、すぐさま谷中村の残留農民たちにこのことを伝える手紙を書きます。しかし、相変わらず、農民たちを叱りつける内容でした。
21日付けの島田熊吉・宗三・渡辺長輔宛のそれにはこうあります。


「東京の深川区にては、老年、青年団体の大会やら政談演説やら、非常に元気である。これを藤岡(旧谷中村)、部屋(村)辺の人々に比せば、死したる鼠と生きたる猫ほどの大差である。青年の元気のなさは何ともかとも、神にも仏にも捨てられるのみ」


翌22日付けの佐山梅吉、小川長三郎、川島要次郎など8人宛のそれは、更に厳しく村人を責めるものでした。


「東京の深川では大騒ぎが始まった。これを谷中に比べれば、谷中には日本人は幾人ありますか、ありましたか。借家人の如く、居候の如く、無籍ものの如く、自から軽くする。鉱毒が来てもヘイヘイ、立てよヘイヘイ、すわれよヘイヘイ、退けよヘイヘイ。何ほどでも悪人様の御見計いでよろしいです。田中ジイなどの申す事は、話が大きすぎて谷中にははまらぬ。谷中にはまるは小さな欲。小さな話。田中のはべらぼうに大きくてダメダメとは・・・ 」


正造は、自分は進んでいて農民は遅れているという差別意識を死ぬまで捨てられなかったようです。しかし、こんなお説教をすれば農民との距離は離れるだけではありませんか。何という単純な人なのでしょう。


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2007-10-17 20:46:38

正造の本心にある差別意識・1

テーマ:田中正造の虚像と実像

田中正造の手紙や日記を見ていると、彼が被害農民を救済するのだと宣言していながら、彼らを自分より下層の人々と思い込んでいた、ということがわかります。実例を紹介していきます。


若いときに正造に共鳴して直接接蝕し、後に北海道に渡って雪印乳業を創立する黒沢酉蔵に宛てて、明治37年11月7日、正造は谷中村から次の手紙を送りました。ここで彼は、はっきりと「下層人民」という言葉を使っているのです。


「社会のこと、いよいよむずかしく、下層人民のこと、とうていその真相を知るべからず、と思うほどなり。正造7月31日よりこの谷中に出没起臥しても、いまだ人情の真相を知るあたわずして、毎日毎日新たなることを耳にしては驚き且つ悲しみます」


継母の死去を知らせた木下尚江宛の手紙(明治43年5月26日付け)にも、一般社会を下等とか下級とか見下した表現があります。


「継母昨日死去。今日葬式に候。準備なかなかに出来てありて正造は世話なしです。下等社会が案外に発明であるのを見ました。・・・この人々の間に妙な組織ありて、広き社会を知らない人々の社会は妙に成立しています。そこに下級社会の広い天地を見るなり。ああ、神仏を知らぬこの人々にしてよくも神も仏も知りつつあるを見ました」












                                                            


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2007-10-13 20:28:13

正造の強気と弱気と二枚舌・24

テーマ:田中正造の嘘

正造の晩年に、このタイトルの弱気の方を見せていた相手は、缶詰メーカー・逸見山陽堂の経営者だった逸見斧吉でした。


経営者でありながら社会主義者と付き合い、公害のような社会問題にも関心が深く、正造の行動に深い理解を示し、なんの仕事もせず収入の全くなかった正造のためにお小遣いを渡していたので、彼に対しては大きな口をつくことができなかったのでしょう。正造はしばしば自分の弱い面を正直に見せました。


死の少し前の逸見宛の手紙(大正2年7月30日)に、足利の親戚に身を寄せていた正造はこう書いたのです。

誰に対しても、自分より偉い人間はいないかのごとく悪口を言う正造の反面が現われていて、みごとな2枚舌を見てとることができます。


なお、彼の文章はまともな日本語になっていないことが多いので、自分なりに解釈するほかありません。


「正造の30余年間は実に残忍なる反響、同志殺し、朋友殺し、親戚殺しの反響、何のために他人に損さするも、その罪おのれの力および悟りの到らざるあり、です」


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2007-10-10 19:56:50

正造の強気と弱気と二枚舌・23

テーマ:田中正造の嘘

碓井要作は、田中正造を尊敬する栃木の県会議員で、二人の間には相当な信頼関係があったはずですが、正造はこの碓井にも疑心暗鬼を抱くのです。明治43年11月15日の碓井宛の手紙には、こうあります。


「諸君が行動の時事に適わざるを惑うなり。いたずらに足尾銅山の内意のみを受けたるもののために誘惑せられて無意味の楽観に陥り、その命の下にのみ唯々諾々たるをもって足れりとするか。・・・いやしくもまじめの日本人の資格ありとせば、その罪を責めざるべからず・・・」


また、県会を批判した次のような手紙もあります(明治43年11月15日付け、吉岡耕作他3名宛て)。


「めしの上のハエも追わざれば飯残らずハエクソとなりて候。今は県議の過半はうじバエとなりて県民にくそひりかけたり。既往ハエを追うを見ては小事なりとして、更に大害を招きて臍を噛んで及ばざるは、現今の我が県会なり」


最晩年になると、彼の気に入らない原因の何もかもを、足尾銅山のせいにしてしまいます。死の1年前の大正元年8月14日に和田大三郎他に宛てた手紙は、次のように書かれています。


「今日は(栃木)県会そのものが銅山のものなり。県の官吏も市民も富豪も銅山のものなり。銅山党にあらざれば人にあらずで、横尾(輝吉、元県議)の手腕も傲慢も勢力も暴勢も、皆銅山党の尻持ち、尻押し、助力のためなり。隠然たる間諜遊説、離間紹介集散、皆銅山の自在、殺活また銅山の自在にして、彼の衆議院議員の当選もまた、銅山の応援の多大なる証拠たるを知るべきなり」


横尾輝吉は、早稲田出身で栃木県の県会議員を長く務めた後、明治35,45、大正4年に衆議院議員に当選しています。
もともと田中正造の選挙参謀までした人ですが、被害農民と古河の間の示談交渉に積極的に取りくんだりしたことから、正造の怒りをかい、徹底的に憎まれることになったのです。

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2007-10-06 20:22:25

正造の強気と弱気と二枚舌・22

テーマ:田中正造の嘘

田中正造という人は、何かに満足したり感謝したりすることがほとんどなかったように見えます。
手紙で見る限り、彼は何物に対しても不満で、絶えず文句を付けていたことが分かります。つまり、我が強くて攻撃的で欲求不満の塊です。


鉱毒反対運動のリーダーだった野口春蔵に対しても、谷中村の闘争に全く協力しなかったからでしょうが、不平を述べるだけでなく、非難がましいことを次のように明治42年1月21日付けの手紙でぶつけました。


しかし実際は、流毒などなくなってすでに農地は回復していたので、「流毒は止まず」と正造に言われても農民たちは唖然とするしかなかったのです。
こんなことをしていれば、彼についてくる人がいなくなるのに、そこまで頭が回らないのでしょう。
なお、野口はこの時界村の村長でした。


「沿岸は年に月に貧窮に陥り、才子は逃げ、狡猾は盗み、青年は奪われ、老年は死す。流毒は止まず、すでに昨年41年の8月7,8,9日の如きは魚死せり」


「しかれども先年のごとく人民騒がず。界村役場、植野村役場などもこの流毒を知らず。庭田恒吉君すら川の端にいて驚かず。この大敵を見て驚かぬは熟練の兵となりたるためか」


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