2007-08-31 19:33:55

正造の強気と弱気と二枚舌⑭

テーマ:田中正造の嘘

前回と同じく彼の攻撃的な性格を示す実例を紹介します。


明治34年に有名な政治家の星とおるが暗殺されましたが、その4年後に、正造は政敵だった星のことを自分と比較しながら徹底的に攻撃しています。甥の原田定助に宛てた手紙(明治38年1月21日)にはこうあります。


「星とおるは、陽に公に厳にして陰に私欲酷なり。故に殺さる。正造は陽に公に厳なれども公私なし。表裏なし。星は盗を捕えて放つ。放つ時に臓物の分配を得るを目的とす。故に殺さる。正造は盗を罵りて捕うるの術を知らず。星は盗を捕うると同時に自ら盗を為す。正造は盗を捕え得ず。また、自ら盗をなさず」


「正造は公に叫べども、私に直接に盗を咎むるほどに至らず。星は公に叫んで私に盗むのみならず、私に直接する人の不正を糺すこと急なり。しかも彼は上を好めり。正造は上を好まずして下を好む」


つまり彼は、「自分は清潔な政治家だが星は悪徳政治家だった」と主張しているわけです。何という奢りぶりでしょう。
常識的な人なら、自分のことを「公私なし。表裏なし」などと偉そうに言いませんし、また、心では思っていたとしても、死者を非難するような失礼はしないものです。その点から言っても、彼は礼儀知らずの欠格人間だと言えそうです。


明治の代表的な政治家である星とおるは、イギリスの弁護士の資格を持つ有識者であり、薩長藩閥政府と闘って投獄された経験を持つ革新政治家であり、同時に、長州閥の伊藤博文とも手を結ぶという現実性も兼ね備えた、実力派の政治的傑物でした。


政治家の評価は、見方によって全く異なります。『朝日・日本歴史人物事典』は、星のことを次のように評価しているのです。正造の非難は、単なる偏見に過ぎないということがこれでよくます。


「富国強兵策と政党内閣を巧みに結びつけた星の現実的な政治指導がなかったら、この後の日露戦争を闘い得る日本は存在しなかっただろう」


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2007-08-29 20:30:58

正造の強気と弱気と二枚舌⑬

テーマ:開設にあたって

田中正造の書簡を見ていて驚くのは、自分に批判的な相手には徹底して恨みを抱くと言うその単純さです。
政治家である以上、世間からさまざまに言われることは当然のことで、普通の政治家なら上手にあしらって済ましますが、彼は我慢することができず感情のままに怒ったり怒鳴ったり、愚痴ったりしてしまうらしいのです。この点では政治家失格ということができます。
彼にとっては、「宇都宮」と言う土地さえ「悪魔」だと思い込んでしまうのですから、あきれてしまいます。
明治40年11月18日の逸見斧吉宛の手紙を紹介しましょう。


「宇都宮は足尾銅山の台所といわれるほどの所で、正造には悪魔。新聞社は3つあれども皆悪魔で、うち2つは正造も300円ずつの金を入れた資本家の一人でした。一つは創業者の一人でした。明治12年5月より発行して、今の下野新聞と申し、一つは足尾より金をもらってこしらえた野州新報と申すのです。彼らは10年1日のごとく正造の中傷に余念なし。下野人をおろそかにすることに努めつつありますけれども、この3新聞に取り消しを申し込んだことはありません」


この手紙が真実を語っているとすれば、地元出身の国会議員であったにもかかわらず、地元の新聞からは絶えず悪口を書かれていたこと、つまり人気がなかったことがわかります。
「下野人をおろそかにすることに努めつつある」と彼は言います。しかし、読者を増やしたい地方新聞が、読者をおろそかにするわけはありませんから、これは「田中正造をおろそかにすることに努めつつ」と言う意味なのでしょう。


「新聞に取り消しを申し込んだことはない」とは全く驚きで、彼がいかに愚かなことを考える人なのかを、よく物語っています。
彼の本質が明確に見えてくるではありませんか。


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2007-08-25 20:46:35

正造の強気と弱気と二枚舌⑫

テーマ:田中正造の嘘

彼の本音は強気の姿勢で、弱気の方はポーズに過ぎないと私は結論付けますが、彼はほとんどあらゆる問題に関して、自分だけが正しく、他人は間違っていると結論付け、しかも黙っていることが出来ずに相手に攻撃を加えます。


大隈重信は彼が所属していた政党の党首ですが、大隈の銅像を建てた人に対してまで、彼は噛み付き責め立てるのです。明治40年11月22日付けの三宅雪嶺宛の手紙を紹介しましょう。


「昨夜、たまたま正造、宇都宮に来たり、弁護士山田鶴三氏宅に泊す。予曰く、何者が大隈の銅像を造りたるか。ああ、この社会の大馬鹿野郎め。なんぞその愚、その馬鹿、幸いにして伯爵のは(伊藤博文のと違い)学校内に学校創立25年の記念にせるをもって、辛くも銅像の命脈を保ち得べきのみ。ああ、この御諂(へつら)え。ああ、この大馬鹿野郎の大多数がついにこの大馬鹿、大諂えを表するためにこの銅像を造りたるは、実に伯爵の真の価を落とし、伯を傷つけるの甚だしきものなり云々と。思わず悪言を放ち、図らず社会の堕落を罵(ののし)りたり」


しかし、このままで終えないところが彼らしいところで、すぐ後でまた三宅雪嶺に宛てて次のような弁解を書いて送るのです(11月27日)。


「先便に生が銅像攻撃いたし候段は、かえって生の性向の穏やかならぬと自覚いたします。ただし、この上とも万事お諌めのお筆お見捨てなく、いつまでも、よきほどにご警醒(戒め、目を覚まさせること)の道をお尽くし下されたく候。正造」


社会的な地位の高い雪嶺のような人に対しては、本音を引っ込めて二枚舌を使い、諂っているといえるほど低姿勢にしているではありませんか。



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2007-08-22 21:20:43

正造の強気と弱気と二枚舌⑪

テーマ:田中正造の嘘

お説教調の強気の手紙を更に紹介します。

新人の栃木県会議員である白石荘蔵宛の手紙では、先輩顔をして次のような文面を書き送っています(明治41年1月25日)。


「およそ自家野心のために10万円を散ぜんよりは、同志のために1千円を散ぜよ。しかして、1千円は少なくもその3倍の報酬を得るものにて候。予正造選挙についての経験上、正にかくのごとくです。正造は、明治の13年春より34年10月まで20年間大小議員たり。この間に多少の経験はありますから申すのです。・・・悪を憎む甚だしからざるものは、善を為すもまた甚だしからず。善を為す甚だしからざれば、仁を為すこと難し。政治の要は仁義のみ」


同じく栃木県会議員の後輩で、正造に最も忠実だった碓井要作宛の手紙も、実に立派な「教え」が詰まっています(明治42年11月11日)。


「人は心、人は精神、人は道理、人は大義名分、人は誠実。高く信じ、厚く信じ、深く信じ、たがいに信と信との結合に限るべし。仮にも偽りをいうなかれ。すぐ尻から顕われる。決して偽りをもって信用を得るなし。人は信なくして何を以って立たん。また、同志間に物事をかくすなかれ。・・・人みな女房あり。女房を思う如く村中の細民を思え。また同志を思うべし」


ところで彼は、奥さんを大事にしていたでしょうか。鉱毒事件にかかわってからは、夫人のカツさんとは一緒に住まず、生活費は1銭も渡さず、明治44年7月に彼女が入院して静脈瘤の手術をしたときでさえ、一度も見舞いをしなかった(全集・18巻「解題」)ということです。



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2007-08-18 20:24:05

正造の強気と弱気と二枚舌⑩

テーマ:田中正造の嘘

明治44年になると、正造は更に反省の姿勢をみせます。谷中村民の島田宗三に宛てて東京の逸見斧吉方から出した手紙に、正造はこう書いたのです(明治44年7月19日)。


「正造も、去る37年以来教えんとして失敗せり。最初より人民の話を聞かんことに努めればよかりしに、聞くことは後にして教えることのみ切迫せるまま、ひたすら教えんと計り、取詰めたり。せき込めばせき込むほど反動して、正造の申すこと聞く人もなくして空しく徒労となり、3年また4,5年目より少しずつ話を聞く方針に改めたので、8ヵ年を経て聞くと聞かせるとの一つを発明したのみです」


正造の文章は、まともな日本語にはなっていないのでわかりずらいのですが、「農民にはかなわない」と、心から反省して悟ったように言っています。しかし、これは建前で、単なるポーズに過ぎないということが、その後の本音の発言からわかるのです。彼の本音はあくまでも強気で、指導者の「教え」を人民に垂れることでした。それは、生涯変わっていません。だから、彼の発言は二枚舌だといえるのです。


大正2年8月2日、栃木県足利郡吾妻村の庭田清四郎宅で倒れて死の床に就きますが、8月13日、上記の島田宗三に彼は、こんな予言めいたことを言っています。


「この正造はな、天地と共に生きるものである。今度倒れたのは、安蘇、足利(郡)の山川が滅びたからだ。・・・ですから<山川擁護会>をつくるよう、安蘇郡有志の近藤貞吉君あたりへお話ししなさい。もしそれができなければ、遺憾ながら正造は、安蘇、足利の山川と共に滅びてしまう。死んだあとで棺を金銀で飾り、林檎で埋めても、そんなことは正造の喜ぶところではない」


島田宗三によれば、9月4日、死の直前に岩崎佐十を枕頭に呼び、「お前方大勢来ているそうだが、嬉しくもなんともない。皆んな正造に同情するだけで、正造の事業に同情して来ている者は一人もいない。行って皆んなにそう言え」と、叱咤したということです。本当に立派な人物がこんなセリフをはくでしょうか。


彼が最後まで「自分は偉大な人物である」と思い込んでいたことが、これでお分かりになると思います。

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2007-08-15 20:55:31

正造の強気と弱気と二枚舌⑨

テーマ:田中正造の嘘

谷中村入りしてから数年間は、農民を軽蔑するような態度が強く、農民宛の手紙は強気に終始しますが、自分の考えに共鳴してくれる都市の支持者には極めて低姿勢で、正造はわざわざ弱気を見せる手紙を書いています。桐生の玩具商・大沢恒三郎宛の手紙を紹介しましょう(明治40年7月24日)。


「正造儀、この3,40年は夢のごとくにして、親子夫婦兄弟朋友はもちろん、親粗遠近の分かちなく、空々翻翻、風の如く雨の如く、また鳥の如く獣類の如く、居住すら一定せず、鳥や獣類にも劣れる生活に数十年を経過して、何の為すこともなく、社会の為にもならず、人の為にもならず家の為にもならず、親子夫婦の為にもならず、況や親戚朋友の為にはあらず。今年67まで何をなしたるや」


「貴家諸氏、正造の心を知りて正造の事業を助けて候。正造が多年のご無礼をもあえてお咎めなきは、まことに有難きことにて候。かかる重大の恩恵に浴しつつ何のお世話もできざるは、慙汗慙愧(まことにお恥ずかしき次第)、お許しくださるべく候」


ところで、村民をどのように見ていたかといえば、以下の逸見斧吉宛では相変わらず<愚民>扱いをしています(明治41年11月14日)。


「衣食足りて礼節。飢えては権利もなし。谷中人民は愚なるのみならず、思慮も何にもなくなるので、殺さるるまでは死をも知らぬです」


しかし、まことに不思議なことに、村民の我慢強さに脱帽した彼が、同じ逸見斧吉宛の手紙に、これより1年前には次のように書いていたのですから驚きます(明治40年9月1日)。


「正造がぬれた着物で困りて苦痛を忍ぶは忍ぶの難儀あり。谷中の人々水野、間明田二人とも病人で、着物ぬれたはもとより、しかも水の中に安座して怒涛を避けるまでほとんど平気。これは自然にして正造ほどに深く苦痛とも思わざりしならん。この点は、この人々の自覚は神にも近き精神となり、故に正造の及ばざる遠し。それ神あり。・・・及ばざるもの必ずしも愚にあらず。智者必ずしも智ならざるも、またここにあらんか」


全く矛盾だらけですが、彼がいかに口からでまかせの二枚舌を使っているかが、よくわかると思います。何しろ、このあとの手紙では、また村民を軽蔑することを平気で書くのですから。


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2007-08-11 21:14:50

正造の強気と弱気と二枚舌⑧

テーマ:田中正造の嘘

前回の手紙の宛先である島田熊吉からは、田中正造は、このあと220円(今の220万円ほど)お金を借り、約束の期限を1年以上過ぎても返しませんでした。そこで、熊吉から催促を受けています(明治41年2月15日)。その文面からは、貸したお金が、立退き料を貰って移転していった村人から無理やり借用して、正造のために用立てたことがわかります。


それから更に2年経っても約束が果たされません。そこで、熊吉は元利合計340円の返済を求める催促状を正造に出しますが、そこには、次のような嘆きが述べられています。結局は踏み倒されたものと思います。仕事をしない正造にお金があるわけがないからです。


「実に困難と苦労とは限りなく候。・・・先祖伝来の土地は彼ら(国家)に失わしめられ、補償金までもメチャメチャに消費し・・・仮小屋にて僅かの手稼ぎをもってその日その日を暮らし居るものに御座候」(明治43年4月3日)。


「人は正直でなければ用に立たぬ」と、谷中村民に教訓を垂れていた明治38年のことですが、正造は谷中の対岸の埼玉県河辺村に住む谷中支援活動農民・増田清三郎から200円(今の200万円)借りました(この年4月)。正造に同情した増田が、年利1割2分の高利で借りて融通したお金でした。実はこれもまた、正造は他人に一部返させただけで踏み倒しています。
何度催促しても返してくれないので頭にきた貧乏農民増田の催促状が、田中正造全集に載っています。だいぶ手を入れましたが、次のような内容です。


「たすけてくれと何回ニモ申込みせシ残リ金ハ壱百七拾円ニ相成、この元金返済ニ付キ貴君ハ小生ニ向カッテよくガふかいト申シ、・・・ばカノ私ヲ口車ニのせて、・・・小生家内九人ニテ日々食する物ナシ。貴君田中正造ハ・・・をにであるカ、じゃである、盗賊である。・・・小生は運通(?)ニでても、くわづ、のまづ、・・・昨年1月ヨリ病気です。この病気のカらだニて毎日毎日しごとをやりて、カぎう(家業?)をやりました。田中殿、君ニはゼニガなくてモ、人ガ食わせる、とメモする、人力車モ引ます。小生君の為メ実ニ力なし、よくみろ、よくカんがいろ、小生宅の九人をころせころせ、をニどん、ころせころせ・・・」(明治42年6月20日)。


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2007-08-08 21:02:36

正造の強気と弱気と二枚舌⑦

テーマ:田中正造の嘘

田中正造という人のしつこさは徹底していて、例えば、同じ日に同じ内容の手紙を何人にも書くだけでなく、1日に2回も同一人物に書くことさえしています。栃木町に居た正造が、明治39年7月13日に谷中村民に出した3通の手紙は、以下の内容でした。


茂呂松右衛門宛: 「(堤防が)潰れたりと思う者はその人の心の潰れたるのみ。心すら潰れざれば、一人にても二人にても、その心の潰れざる限りは、谷中は潰れざるなり。谷中は今よりも盛大の村となり、田畑は一反7、八千円の値に登るべし」


島田熊吉・宗三、母宛: 「潰れたりと思うものはその人の神経痛なり。谷中は潰れたるにあらず。他人これを潰さんとしつつあるのみ。村人にして潰れたりと思う者は、その人の心の潰れたるのみ。心の死したる人々のみ。谷中は必ず蘇生せんのみ」


島田熊吉・宗三等宛: 「親を欺くなかれ。兄弟たがいに欺くなかれ。叔父叔母を欺くなかれ。朋友を欺くなかれ。村中の義人の前に偽りを言うなかれ。おのれを欺くなかれ。すべて他の人のために信義を厚くせられよ。村を売るなかれ。親を売るなかれ。兄弟を売るなかれ。また、おのれに近づくものにへつらえあるは、悪人なりと知るべし」


しかし、彼はこのように立派な手紙を書く一方で、宛先の貧しい農民から金を借りて踏み倒すというとんでもない行動をとっていたのです。次回にこの事実について述べます。

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2007-08-03 20:13:45

正造の強気と弱気と二枚舌⑥

テーマ:田中正造の嘘

明治37年7月30日、正造は、遊水池に予定されて立ち退き移転を余儀なくされた谷中村へ移住しますが、この時彼に付いて来た活動家は、左部彦次郎一人だけでした。その左部も間もなく去っていくので、頼るべき活動家はいなくなり、正造は谷中村の人々を新たに教育しようとします。


しかし、後になってから間違いだったと気づくのですが、当初正造には彼らの意識は相当に低いとしか見えませんでした。その辺りのことを手紙などで検討してみると、彼が、いかに考えをくるくる変える二枚舌人間かということがわかります。本来の彼は独善的で、他人の意見には従えないのです。

明治37年12月16日に森鴎村に宛てた手紙には、次のように村民を馬鹿にした内容を書いています。


「謹んで申し上げ候。谷中の正民は愚に陥りて、今は人事をも解する者少なくして哀れにて候。また、悪人どもといえども、もと人事を解さぬによりここに至りたるものにて、自らその命を縮めるので、まるで無邪気なのです。予等は人民を以って是非せずして、ただ天の命によりて救うことに尽さんとするも、力足らず恥じ入り申し候」


谷中村の残留農民には、次のように手紙で教訓を垂れていました。


「嘘をつく者は罪あり。嘘をつく者は天罰あり。谷中の人は常にうそをつくために今日の不幸せあり。今より改めて、嘘をつくことを止めて正直の人となれ」(明治38年4月21日、島田熊吉宛)
「人は正直で、強い正直でなければ用に立たぬ。弱い正直は役に立たぬ。今日はなおさら強く自分の権利を重んずべし。分からぬことは聞きに来るべし」(明治38年8月19日、同人宛)


政府も栃木県も、決壊した堤防は全く修理してくれないので、正造や村民は自分たちの力で修理をするのですが、大雨のために何度も決壊してしまいます。決壊の2日後に村民の早乙女岩一郎に宛てた手紙に、正造は次のようにお説教をしていました(明治38年8月21日)。


「堤防は造らんとせば出来る。買収も中止せんとせば中止なり。皆村民の心にあり。故に堤防の強弱は人心の強弱なり。切れたは天の罪にあらず。人の罪なり」

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2007-08-01 20:51:59

正造の強気と弱気と二枚舌⑤

テーマ:開設にあたって

指導者がこのようなことをすると、当然団結がくずれていきます。翌明治35年の手紙からは、内ゲバが始まった様子も見られます。
明治35年5月14日付けの庭田源八宛の手紙に、正造は次のように書きました。


「左部(彦次郎)、野口(春蔵)2氏のことをなんのかんのと申す馬鹿ありとて、考えてみろと申し聞かせ下さるべく候。・・・大出(喜平)氏のごとき、また非凡の名士なり。非常に尊敬せねばならぬなり。この3人のことを事実も知らず、・・・ただ悪口言う奴こそ身の程知らずに候」


こんなことを書けば、事態はますます悪い方へ行くはずですが、果たして翌年には、正造がこの時褒め上げた3人しか残っておらず、この3人をつなぎ止めるために、彼は3人宛ての手紙で次のように彼らを称賛するのです(明治36年7月10日)。


「正造は諸君の護衛兵たり。しかもなお沿岸人民には分からぬ。・・・諸君の智、諸君の明にして、万一にも少々にても厘ほどにても疑う点あらば、その行き違いより来る損害は幾千円幾万円の金にも代え難からん。小生も諸君を信ずるあまりに申し上げ候」


ところが、こんなに褒め上げても正造はなお不審を買ったらしく、野口が正造に腹を立てていると言ううわさを聞くや、野口に次のように書いて謝っています(明治36年10月30日)。


「とにかく正造は盗人なり。野口君や大出君の功名を盗んだり。また山本君や青木君や田野入君や亀井君や稲村君や谷君や糸井君や小野君や新井君やの功名を盗んで、正造はこれをわが者顔にせし不埒不届の盗賊の魁である」


自分の蒔いた種で問題が深刻になると、得意の2枚舌を使ってそのピンチを切り抜けていた実態が、この文面からよく伺えると思います。


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