2007-04-28 12:03:10

数字の操作によるだましのテクニック ①                             

テーマ:田中正造の嘘

たとえば鉱毒の被害面積について調べてみると、田中正造の発信するデータが如何にデタラメかということに気づかされて愕然とします。


明治25年6月14日に国会に提出した質問書に、彼は「被害田畑の総反別およそ1650町歩」と書いています。


5年後の明治30年2月26日には、彼は「7年を経て、1万6500余町歩、10倍にも大きくしてしまったのでございます」と、被害農地が大きく広がったということを、帝国議会の演説で訴えました。前の年の明治29年には、7,8,9月と3回も渡良瀬川が洪水に見舞われたので、広がったのは当然だったと言えます。しかし、実際は5年未満なのに、ここでわざわざ「7年を経て」といったのはなぜかといえば、少しずつ嘘を重ねていってだましていこうという計算が働いていると、私は思います。似たようなケースがあまりにも多いからです。


ところで問題は、これからひと月も経たない3月24日の数字です。帝国議会に提出した彼の質問書には、次のように書いてあるのです。
「被害の反別は各種合わして、およそ4万3774町8反2畝26歩なり」


しかもここには「8反2畝26歩」という端数までついています。いったいどうして急に数字が2倍近くに変化し、しかもあまり意味のない1町歩未満の数字まで登場したのでしょう。


面積が倍増したのは明らかに嘘そのものですが、端数をわざわざ加えたのは、本当らしいデータを使うことによって、人々を信じさせようという意図と、そのためのテクニックだった、と私は思います。彼はいつもこのように本当らしいデータもぐりこませていますから、どうか皆さんも確認してみてください。


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2007-04-21 21:02:26

公害発生年を早めた偽工作⑧

テーマ:田中正造の嘘

田中正造のようなカリスマ的人物の発言は、なぜか理屈なく人をだます力を持っているようです。


明治30年代の、何時ごろ公害が発生したかをはっきり知っている被害者がいた頃でさえ、次の『足尾銅山鉱毒問題実録』のような文書が出回っていたのです(明治30年刊)。もっとも、これは公害反対運動のためにはどんな嘘をついてもかまわない、と言う手段を選ばない愚かな行為の反映でしょうが・・・。


「明治13年、足尾銅山で欧州より輸入した大型機械を据えつけると渡良瀬川の魚が死にはじめた。この年の夏、荷物を積んで東京と栃木・群馬を渡良瀬川を往来する船があったが、喉が乾いて水夫が川の水を飲めば、唇はただちに紫色に変じた。沿岸の農民が洪水時の流木を拾って焚き火をすれば、顔面も手足もたちまちにして亀裂するのだった」


もちろん、明治13年には足尾銅山はまだ銅鉱が見つからず、生産力がなかったので大型機械を買うことなどできるわけがありませんし、公害が起きるわけもありません。それなのに、これほど本当らしい話を創作したのですから、田中正造だけでなく、多くの活動家たちが嘘をついていたと考えるべきではないでしょうか。


荒畑寒村の有名な『谷中村衰亡史』は、明治40年に田中正造から取材しただけで書いたと思われますが、以下の話もまた、正造から聞いただけで事実の確認を全くしなかったことが明らかです。


「明治14年、栃木県知事が渡良瀬河岸の魚族の斃死を見て、初めて鉱毒問題の先鋒をなすや、政府は実に鉱業主の利益のために、16年、知事を島根県に追いたりき」


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2007-04-14 20:19:58

公害発生年を早めた偽工作⑦

テーマ:田中正造の嘘

立松和平は、『恩寵の谷』のほかに足尾鉱毒事件かかわる『毒 風聞・田中正造』というもう一つの小説を書いていますが、この小説にも、田中正造の嘘に明らかにだまされた証拠が見られます。

この小説の第2章には次のような部分があります。

「マルタという魚の最盛期は、桜の花の盛りです。ハヤは、梨の花の盛りを旬(しゅん)といたします。渡良瀬川の川幅いっぱいに網を張りますと、慶応より明治12,3年の頃までは一晩に百貫以上はとれました。(中略)鉱毒被害以来、マルタもハヤもまったくとれません。」

「明治12,3年頃を境に魚がとれなくなった」とするこの記録は、まぎれもなく田中正造によって捏造された「公害の発生は明治12,3年頃」説に準拠しています。

実は、立松がこの部分のために使った資料は、庭田という農民が、田中正造に言われて明治31年に書いた「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」という作文ですが、この作文自体、よく読むと相当いい加減なものだと言うことがわかります。


上記のように、この記録は「昔は自然がこのように豊かだったが今は違う」といっているだけです。全部がこのような書き方になっていて、どの程度の自然破壊があったのかは、どこを読んでも具体的には何も述べられていないのです。こんな話なら誰だって書けるではありませんか。「実記」ではなくて、明らかな「創作」です。


しかし、立松という人は、こういうことにも何の疑いを持たずにこの記録を単純に信じ込み、研究者の誰もが、正造の言う公害発生年は虚構だと言うことを知っていたにもかかわらず、上記のように捏造資料をそのまま引用したわけです。なんと単純でおめでたい小説家であり、同時に偽善者なのでしょう。


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2007-04-07 21:04:15

公害発生年を早めた偽工作⑥

テーマ:田中正造の嘘

正造の嘘にみごとに引っかかってしまったのは、小説家の立松和平です。


彼は、足尾鉱毒事件をテーマに、自らライフワークだという小説を2点書いていますが、そのうちの『恩寵の谷』に、足尾銅山の所長(責任者)だった木村長兵衛を悪役にして、彼は次のような創作をしています。


「長兵衛は、渡良瀬川の下流で魚が大量に浮かび、殊にアユの量が減ったのは鉱毒が原因だというウワサを耳にした。もし漁民が失業したというなら、いつでも銅山で雇ってやる、と会議の席で彼は何度も何度も大声を出した。」

「もう何年も前から農作物の収穫が減少してきた。栗、栃、柿、梨、梅、桃も収穫がなくなり、木もしだいに枯れていく。田畑に作物が育たないのも、茸が生えなくなったのも、馬が死んだのも、母親の乳がでず赤子が夭折するのも、製錬所の煙のせいだという。つまり、すべての責任は長兵衛に帰すのだから、賠償金を払うべきだというのだった。」


公害が事件として顕在化するのは明治23年8月の大洪水からですし、立松が使った上の被害状況が記録されるのは、明治29年の3回にわたる大洪水以後のことです。


ところで、木村長兵衛は明治21年4月に死んでいるのです。彼の生存中に上のような話が、いったい成立すると思いますか。
まったくペテン師的な作り話だと思うのですが、いかがでしょう。
構造計算書の偽造以上に罪深い行為ではありませんか。何十万人という読者をだますのですから。それとも、「小説だからこれでも構わないのだ」と思いますか?

3月30日にMASAさんからいただいたコメントに勇気付けられました。
「自由討論会」というタイトルをつけたのに、このブログにはコメントがさっぱりないので、それが大いに期待できる2ちゃんねるに、「田中正造神話を粉砕しよう」と言うスレッド(掲示板)を立てて、このブログと同様のことを訴え続けていたところでした。
興味がある人は、そちらにもアクセスしてみてください。「学問・文系」中の「日本近代史」という大掲示板にある小掲示板です。

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