2006-08-27 19:44:34

教育出版の「小学国語・6年下」④

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

明治34(1901)年12月10日は田中正造が直訴を敢行した日ですが、直訴文と社会主義者の幸徳秋水に関しては、作者の来栖良夫は驚くべき作文を捏造しています。
この部分を引用してみます。


「(明治34年)12月9日の夜、正造は、<万朝報>の記者幸徳秋水を訪ねている。<もはや、私に残された道は一つである。幸徳さん、あなたはすぐれた文章家だ。私の下手な文ではおそれ多い。あなたに書いてもらいたい。><田中さん、それはいけない。やめてください。>」
「若い新聞記者は、おどろいて手を上げたが、正造は石のように動かない。目には、なみだが光っている。秋水も断りきれず、その夜、正造の下書きをもとにして書き上げた苦心の文章こそは、天皇への直訴状であった。」


12月9日の夜は秋水は家にいませんでしたから、正造が訪ねて話を交わすことは不可能です。
直訴の翌々日、12月12日に、秋水は正造に宛てて手紙を出していますが、それには、「恩師の中江兆民が危篤で、しばらく中江家に詰めておりました。ご無沙汰していて申し訳ありません。」と書かれています。兆民は翌13日に死去しました。


さらに、秋水は、この直訴文をすでにひと月前に書き上げていました。『幸徳秋水全集・第9巻』の「自記年譜」には、「明治34年11月12日、田中正造直訴文を草す」とあります。
ですから、事実は、秋水の草稿をもとにして正造が修正を加えたのであって、「正造の下書きをもとにして書き上げた(秋水の)苦心の文章こそは、天皇への直訴状であった。」は、事実とは全く逆です。


そもそも、直訴の計画自体、この年の6月4日、秋水とその友人の石川半山が、同席していた正造に勧めたというのが定説です。


「もはや、私に残された道は一つである。」「あなたに書いてもらいたい。」と、前日に頼むはずがないではありませんか。


小学校の国語の教科書に田中正造が紹介されていることを、私は、岩波新書の『田中正造』の著者、早稲田大学教授由井正臣が書いた何かの資料で知りました。
この文章を読んだはずの彼は、いったいなぜ、教科書会社に何の働きかけもせずに放置したのでしょう。不思議でなりません。


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2006-08-20 21:22:41

教育出版の「小学国語・6年下」③     

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

明治29(1896)年の3回にわたる大洪水は、公害反対運動と公害対策を決定的に変えました。
これ以降の事実経過は、ほぼ次のとうりです。


①田中正造に説得された一部の被害民は、足尾銅山の「鉱業停止(閉山)」を求めて実力行使を開始。「大挙上京請願行動」(「押し出し」と呼んだ)をつづけて2回実施します(明治30年3月)。
②一方、この動きに批判的な被害民2万2000人は、「鉱業非停止陳情書」を政府に提出しました(同年2月)。
③過激派被害民の請願を受けた政府は、内閣に「足尾銅山鉱毒調査委員会」を設置しました(3月)。
④政府は、同委員会の答申に従って徹底した公害防止工事を、6ヶ月という期限付きで古河市兵衛に命令します(5月)。
⑤市兵衛は、足尾銅山の年商の半分以上の巨費を掛けて工事を完遂させました(11月)。


しかし、「田中正造」という文章は、①から⑤までの事実をすべて隠したうえで、話を3回目と4回目の押し出しに飛ばします。


この2回の押し出しは、公害防止工事の効果が出るのを待ちきれなくて実施したもので、本当は必要がなかった闘争でした。4回目の押し出しの翌年に豊作の農地が出始めるからです。

にもかかわらず、来栖良夫は4回目の押し出しのことを、子供たちに向けてこう書くのです。


「(明治33年2月)13日朝の出発のときに、2千5百人ほどであった一行は、1時間余りで、1万2千人にもふくれあがり、昼過ぎに、群馬県川俣の利根川のわたし場へさしかかった。この時、東京へ向かう農民を防ごうと待ち受けた警官、2、3百人が、時の声をあげておそいかかってきた。農民たちは、田畑をにげ回った。しかも、栃木県界村の助役野口春蔵ら68人は、裁判所へ送りこまれた。」


いったいなぜ、こんな不確定な数字まで小学生に教える必要があるのでしょう。
岩波新書の『田中正造』では、この部分はこうなっています。


「館林警察の記録によれば、その数は2500余人という。<下野新聞>1万2000人、その他被害者の回想では3000あるいは3500人ともいい、その数は確定できない。被害民の隊列は、渡良瀬川を渡り、館林の町並みを抜けて利根川の河畔に着いた。ここに防禦線をしいた警官隊180名、憲兵10名と衝突。永島与八ら15名が逮捕され、四散させられた。」


ところで、現行犯で逮捕されて、そのまま裁判所に送り込まれることなど、現実にはあり得ません。こんな作者を国語の教科書に採用するとは、何という非常識なのでしょう。













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2006-08-14 21:14:58

教育出版の「小学国語・6年下」②

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

来栖良夫の「田中正造」には、次のような部分があります。


「明治政府も、銅山のあたえる被害を認めないわけにはいかなくなった。鉱山側も、わずかの補償金を出して、被害地の人たちをなだめすかし、あるいは、<(欧米の)機械を入れて、鉱毒を出さないようにする。>と言ったが、被害はますます激しくなるばかりである。」


しかし、事実はまるで違います。
田中正造が始めて国会質問をした2ヵ月半後には、政府は「原因は足尾銅山からの排出物にある」と官報で公表しました。「認めざるを得なくなった」のではありません。


足尾銅山主の古河市兵衛も、この結論に何一つ異議を挟まず、すぐに被害農民と示談交渉を始め、8500戸ほどの被害民に総額で10万円(今のお金で10億円)ほどの損害賠償金を支払いました。この行為が、なぜ「なだめすかした」ことになるのでしょう。
日本の公害の歴史において、最初から加害者責任を認め、示談金を支払ったケースはありません。


示談成立の後、被害農民は、各町村ごとに盛大な慰労会を開き、仲裁に当たった県会議員たちに感謝状まで贈りました(鉱毒仲裁委員・横尾輝吉の記録)。


子供たちに立派な行為として教えるべきことを、非難すべき行為だと教えているのですから、まるで逆ではありませんか。


「被害が激しくなった」のも、加害企業のせいではありません。明治29(1896)年の夏、渡良瀬川に3回もの大洪水があったため、深刻な不作になったのです。作者の来栖良夫は、自然災害を足尾銅山の怠慢のごとく説明して、子供たちに敢えて偽りの話を吹きこんだわけです。


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2006-08-06 22:28:56

教育出版の「小学国語・6年下」①     

テーマ:検定教科書の嘘・いつわり

田中正造を賛美する教育が小学校からなされている事実を、不覚にも私は、つい最近になって知りました。
この教科書には、童話作家・来栖良夫の作品『田中正造』が、17ページの長さにわたり採録されていますが、岩波の全集などで彼の実像を知っている私にとって、その内容はあまりにも実際を無視しており、特に鉱毒の被害実態や政府の対応、天皇直訴の理由などに関しては、意図的に嘘で固めています。


つまりは、文部科学省の検定官、教科書出版社、国語の先生、小学6年生の皆さんすべてをだましているのです。

最初のほうに、次の文があります。


「渡良瀬川は、(中略)沿岸の村々に自然のめぐみをあたえてきた。春は菜の花が一面に広がり、麦やいねもおどろくほど実りがよく、川沿い、ぬまべりには、林や森が続いていた。ところが、この豊かな地方の様子がしだいに変わってきた。渡良瀬川の流れは青白くにごり、おびただしい魚が、白い腹を見せて、川やぬまにうかぶ。洪水は年々激しくなり、そのたびに耕地はやせおとろえ、不作が続き、農民の暮らしはどん底に落ちこんでいく。これは銅山のためである。」


実に不思議な文章です。
いったい、どうして平野の川沿いに森が続いていたのでしょう。実際にはありえない風景です。
川の流れがにごったり、魚が白い腹を見せるとは、毒薬でも流さない限り起こりえません。


東大教授による当時の調査は、「平常は川の水は清浄で害はない。雨が降って水が濁るときは銅分を含む。」なのです。
そもそも、川の水は青か白なのですから、青白くにごっても判別できないではありませんか。


田中正造関係の著書が5冊ある花村富士男は、「渡良瀬川では、昔から3年に一度ぐらい洪水があり、うち2年間は豊作だった」と書いています(『神に最も近づいた人』)。銅山のせいで洪水がふえたなどと、どうして断定できるのでしょう。


いずれにしろ、上の引用部分は、頭の中で勝手に想像して書いた捏造以外の何物でもありません。


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