2006-03-24 20:42:48

栃木の教師たちの不可解⑤

テーマ:刊行後の反応さまざま

栃木県連合教育会は、同県の教師の団体ですから、二人の伝記は、他県の人たちに頼らずに自ら調査して執筆すべきと思います。


ところが、『しもつけ物語』における二人の伝記は、左翼系の学者が意図的にねじ曲げた話をそのまま借用して書いているにすぎません。

資料を少し調べれば、次のような事実があることはすぐにわかります。


足尾の町は、今は日光市に吸収されるほどの存在に変わりましたが、かつては栃木県では宇都宮に次ぐ人口を擁する工業都市でした。
ですから、被害農民を含む多くの県民は、足尾銅山から多大の恩恵を受けており、田中正造らの公害反対運動に批判的で、田中派の陳情数の10倍に当たる、2万2千人以上の署名を集めて、政府に足尾銅山閉山反対の陳情をしています(明治30年)。


田中派の被害農民も、足尾銅山の閉鎖を求めて明治天皇に直訴した、正造の過激な行動には大反対で、彼から離反しただけでなく、その後の谷中村での彼の抵抗運動には、誰一人として協力しませんでした。


田中正造は、「公害防止工事は効果がなかった。」といい続けました。
しかし、直訴の前に新聞は「激甚被害農地以外はきわめて豊作」と書いていますし(明治34年10月6日、朝日)、政府が設けた専門家による調査委員会も、明治36年6月に、工事の効果はあったという結論を出しています(岩波新書の『田中正造』)。
『田中正造全集』の「田中正造年表」には、「明治36年10月、被害地の稲豊作」とあります。
反対運動のリーダーだった野口春蔵も、「この工事によって農民が救われた。だから、田中正造のご恩は忘れられない。」と語っています(柴田三郎著『義人田中正造翁』)。


今市、宇都宮北、宇都宮南の各高等学校を歴任した花村富士男氏は、古河が公害防止工事に投じたお金は、現在のお金に直せば8000億円になる、と書いています(『評伝・田中正造の生涯』)。
この数字はオーバーとは思いますが、工事期間は半年ですから、いかに想像を絶する大工事だったかがわかります。

明治時代の人々は、彼の勇気に非常に感激しました。だからこそ、総合雑誌の『太陽』が実施した読者の人気投票で、古河市兵衛は伊藤博文や大隈重信や福沢諭吉を押さえて最高の票数を獲得し、「明治十二傑」に選ばれたのです(明治32年6月)。


栃木県連合教育会が、以上のような事実を県内の子供たちに教えずに、事実ではないことばかり教えつづけるのは、いったいなぜでしょうか。不思議でなりません。


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2006-03-18 00:24:06

栃木の教師たちの不可解④

テーマ:刊行後の反応さまざま

前回は、田中正造について改訂版がどう書き換えられたかをお伝えしましたが、今回は、古河市兵衛の部分がどうなっているかを報告します。


『しもつけ物語』の第7集(昭和63年発行)に載せられた古河市兵衛の略伝は、全面改訂前の『下野人物風土記』と同様、経営者としていかにすぐれていたかが強調されています。
しかし、一部だけですが、次のように大改訂がなされました。


「(政府は)厳しい工事をすることを足尾銅山に命じました。しかもそれは、ごく短い期間にやらなければなりませんでした。」
「<いくらなんでも、これでは無理だから、期間をのばしてもらえないだろうか>と周りの人はいいましたが、市兵衛は<どんなに期間が短くても、仕上げなければいけません>と言って、予防工事の命令を受けた会社に、亜硫酸ガスを吸収する脱硫塔を建設しました。」
「この工事によって、鉱毒への解消を図りましたが、鉱毒を防ぎきれないで、本山周辺に煙害が増大していきました。しかし、当時のわが国は国力増進の時代でしたので、銅山経営はつづけられました。」


意味が通じない欠陥文章ではありますが、「予防工事の命令を受けた会社に」を削除すれば、言いたいことはわかります。
しかし、この説明は事実とは全くかけ離れており、読者を完全にだましています。


まず旧版にあった「(工事の結果)長い間の鉱毒問題も、最後の解決に達したのである。」という事実認識を、理由もなく完全に否定しています。
更におかしいことには、当時の技術水準では不可能な亜硫酸ガス対策を持ち出し、これに失敗したから工事は無効だったかのごとく、古河鉱業を責めています。その上、当時の国情がやむなく足尾銅山を存続させたのだと説明していますが、いったい日本国民のうちの誰が足尾銅山の閉鎖まで望んだというのでしょう。


教育者たるものが、こんなウソやごまかしを子供たちに吹き込むとは、なんとも驚くべきことではありませんか。



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2006-03-10 21:16:10

栃木の教師たちの不可解③

テーマ:刊行後の反応さまざま

栃木県連合教育会は、昭和60年代に、前述の『下野人物風土記』を絶版にし、同じ主旨の副読本『しもつけ物語』を編集・発行しました。


その第4集(昭和62年)に田中正造が取り上げられていますが、足尾鉱毒事件に関しては、前の本では「政府は何の対策もしてくれなかった。」となっていたものが、「政府もようやく重い腰をあげ、明治30年5月、足尾銅山に対して鉱毒を防ぐための工事をするよう命令しました。」と書きかえられました。


ところが、その続きは「しかし、(工事は)思うほどの効果はあがらないで、鉱毒による被害はなくなりませんでした。」とあり、いかに訴えても政府が対応してくれないので、田中正造はやむなく「明治天皇に直訴をしたのです。」と説明されています。


事実は、この工事によって「長い間の鉱毒問題も最後の解決に達した」(『下野人物風土記・第3集』)のですから、この説明は当然ウソで、連合教育会は栃木県の小・中学生に、今日までウソの歴史を教え続けていることになります。


それだけではありません。
『しもつけ物語』では、谷中村を救うために闘った田中正造が文句なしに称賛されています。
しかし、谷中村の遊水池化計画は、専門の学者15人による「鉱毒調査委員会」が全員の賛成で立案し、栃木県会も賛成の決議をし、谷中村を除く渡良瀬川沿岸の被害民も残らず賛同しているのです。


栃木県連合教育会は、議会制民主主義や多数派の意志を否定して、少数派を支持した過激な人物を称賛しているわけですが、こういう教育が正しいと考えているのでしょうか。


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2006-03-04 12:08:26

栃木の教師たちの不可解②

テーマ:刊行後の反応さまざま

栃木県連合教育会は、昭和43(1968)年から、県内の生徒を対象に副読本の『下野人物風土記』を編集・発行しました。
小説家の吉屋信子や山本有三、農政家の二宮尊徳、ボクサーのピストン・堀口、関取の栃木山、日本の鉱山王といわれた古河市兵衛など、栃木県ゆかりの大人物の伝記集ですが、第1集(昭和43年発行)のトップには田中正造がとり上げられました。

ここには、次のように書いてあります。


足尾鉱毒事件に関しては、政府も古河も何の対策もしてくれず、正造が何をやっても問題は解決しなかった。
「残された道はただひとつの非常手段しかない。正造はそう思って天皇陛下に直接訴えようと決心したのである。けれども、直訴は死に当たることで、ほんとうに命がけの仕事だった。しかし、愛する農民のためには、命を捨てるのも本望だとひそかに思って」天皇に直訴した、と。

ところが、まことに不思議なことに、第3集(昭和45年)の古河市兵衛の伝記には、同じ足尾鉱毒事件の経過が、次のように正反対に説明されているのです。


「市兵衛は、この事件をとても重大に考えて、自分から宇都宮に出かけて、各町村の代表と会見したりして、円満に解決がつくように努力した。」
「予防策として粉鉱採集器をそなえつけたり、沈でん池の工事に取りかかったり、たくさんのばい償金を出したりした。」
「ところが、明治29年秋にまた大水害が起こって、鉱毒問題がやかましく論ぜられるようになった。」
「銅山がわでは、全力をあげて沈でん池を増設し、たい積場の完成をいそぎ、足尾全山に対して、鉱水、廃水、からみ、排煙の処理、護岸工事など、あらゆる方面に万全の努力をつくしたのである。」
「しかも、期限つきのきびしい命令なので、周囲の者は、<いくらなんでも、無理な期限だから、もう少し延ばしてもらってはどうでしょう。>と、しきりにいったが、市兵衛は頭をふった。<いやいや、いかに期限はきびしくとも、この工事は、ぜひとも早く仕上げなければならない。>」
かくして、予防工事は予定どうり完成し、長い間の鉱毒問題も、最後の解決に達したのである。」


つまり、栃木県連合教育会は、小・中・高の教科書に載っているこの重大事件を、虚実並べて一つの副読本にして編集・発行していたわけです。
なんと無茶なことをしていたのでしょう。子供たちがこれを読んでどう思うかを、考えなかったのでしょうか。なんとも不可解です。



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