2005-11-27 20:52:22

足尾歴史館その後②

テーマ:足尾の町民たち

今回は、足尾歴史館・館長の長井一雄さんから最近来たお便りを紹介します。


幸い、初期の段階では想像もしなかった5000名近くの方が入館され、当事者の私たちが驚いているくらいです。特に教育者、専門分野の方々、学校関係者、地方自治体関係者等、歴史館を目的に来られる方が多く、本当に中身が濃くなって来たと毎日毎日充実感でいっぱいです。


入館される時は公害の原点の町だとか、はげ山ばかりと思っていたとか、どこかで、かすかに知った知識しかもっていない方々、また、知識はあったけれど、これだけ、江戸、明治、昭和と活躍し、日本の近代化に大きく貢献したとは思わなかった。又、公害防止にこれほどの資金と人材と技術を投入したとはぜんぜん知らなかった。「本当にすごい」「びっくり」「発想をまったく考え直さなくては」と多くの方が言って感動され、帰っていただくこと、とてもうれしいし、ありがたいし、頑張っている事、とても大事だと思う毎日です。


12月から3月の4ヶ月は水が凍ってしまい使えない為休館しますが、フィールドワーク(HPで募集)とか勉強会などは続けていきます。又18年4月からの新しい展示物もこれから大変な作業をして準備して行こうと思っています。3年かけて全国から来られる人たちに私たちの意志、意見を伝え、今迄とまったく違った角度で見てもらえ、理解していただけるよう努力していこうと思っています


前にも書きましたが、この郷土資料館は、足尾町が運営しているのではなく、長井さんたち住民有志が設立し、説明やガイドもボランティアで行っています。ですから、必要資金は、自分たちで調達しなければなりません。「足尾歴史館友の会」という支援のための組織がありますので、どうか会員になって資金的な援助をしていただきたいと思います。
個人会員は一口2,000円ですが、送金方法は、前回紹介した同館のホームページにリンクすればわかります。

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2005-11-20 21:18:24

足尾歴史館その後①  

テーマ:足尾の町民たち

半年前の5月に、足尾歴史館の開館のことをお知らせしましたが、一休みして今回は、住民たちが自主運営するこの歴史館のその後を、経過報告いたします。


会館4ヶ月目の8月下旬に、入館者数は2500人を突破。11月3日には4000人に達しました。
見学者をボランティアでガイドする館員の便りによれば、明治30年の公害防止工事の大きなパネル写真は、大変インパクトがあり、ほとんどの人が驚くということです。


この工事が、大変な人手と大金を投じたことを始めて知らされるのですから、当然だと思います。
副館長の池野さんからのメールによれば、たいがいの人が、「今まで考えていたのと全く違った。」、「見方が変わった。」、「感動した。」、「意識が変わった。」といった感想を言うそうです。

明治の写真師・小野崎一徳の写真は実に見事で、当時の足尾銅山の真実を100年後のわれわれに、直説伝えてくれるからでしょう。


中学・高校の歴史の先生の集まりである、「全国歴史研究会」のメンバーも来館したそうですから、教科書の記述もいずれ訂正の動きが始まると思います。


8月下旬には、ホームページ伝えたい、足尾銅山の光と影。足尾歴史館 が開設されました。その中にある掲示板には、「私の足尾観は180度近く変えさせられました。」と言うコメントも入っています。
とにかく、一度アクセスしてみてください。


前回の記事に「無題」というタイトルのコメントが入りました。
私としては、ありがたく拝聴いたしますが、「そうですか」という返答しか出来ませんので、ご了解ください。

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2005-11-12 22:19:24

角川版『Our Times 20世紀』の偏向解説

テーマ:辞典類のデタラメ

この本の1900年のところに、「足尾鉱毒の被害深刻。田中正造、政府を追及」という解説文があり、この年の2月にあった被害農民の最後の反対行動について説明しています。

そして、次のように続いています。


「被害民は何度も政府や県に鉱毒対策を要求してきたが、当局は真剣に対処しようとはしなかった。」
「田中正造は代議士を辞任し、天皇への直訴をはかった。」
「政府は、新聞の批判には新聞紙条例違反や官吏侮辱などで弾圧する一方、世論に押されて鉱毒調査委員会を設置した。」


政府当局は、鉱毒調査委員会を設置して、公害の歴史上最も優れた防除対策を立て、これを実施させている(1897年)のに、「真剣に対処しなかった」とはどういうわけでしょう。なぜ公然たる事実をわざわざ隠すのでしょう。

防除工事は成功して、被害農地は「激甚地以外はきわめて豊作」と報じられるほど回復しました(1901年10月6日、朝日)。
そんな中で正造が直訴したのですから、これは異常行為ですし、直後の世論に押されて、「鉱毒調査委員会を設置した」との記述も曲解です。この委員会は、2回目のものだからです。

解説の続きはこうです。


「1907年、内務大臣原敬(前年までは古河鉱業副社長)は、谷中村の土地収用を公告し、抵抗する16戸の残留民の家屋を破壊した。村の復活に日本の再生をかけて谷中村に入った田中は、13年に死亡する。なおも抵抗を続けていた残留民も17年に谷中村を立ち退き、ここに谷中村は国家によって抹殺された。」


谷中村の農民が抵抗するのは当然です。しかし、洪水から(公害からではなく)自分の農地を守るために、上流の農民たちも、谷中の遊水池案には賛同しているのです。
それなのに、なぜ正しい選択をした政府をこうも非難するのでしょう。
明治以来の国土開発は、無数の村を抹殺してきました。救われるべきは、谷中村だけではないはずです。
田中正造と谷中村の悲劇だけを強調するのは、歴史の本がすることではありません。
この本の監修者は、ジャーナリストの筑紫哲也です。

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2005-11-04 21:58:56

事実を無視した 『角川新版・日本史事典』

テーマ:辞典類のデタラメ

足尾鉱毒事件の解説文の引用と私のコメントを並べます。


当初、古河は示談でことをおさめようとしたが、96年(明治29)の大洪水で被害が深刻化し、被害民たちは97年(明治30)から4度にわたって上京、直接政府に操業停止を訴えた。」


古河と被害民との仲裁交渉は、速やかに行われ、今のお金に換算して10億円が支払われました。
公害の歴史で、これほど見事な例はないのに、古河がずるく立ち回ったごとくに書かれています。


政府は古河に鉱毒予防工事を命じる一方、1900年(明治33)群馬県川俣で上京途中の被害農民を警察、憲兵が弾圧した川俣事件を機に運動の沈静化をはかったが、田中正造の天皇への直訴で世論は再び沸騰。」


工事を命じたと書きながら、この工事で農地が回復した重要な事実は全く伏せてあります。
一方、政府が農民を弾圧したと強調していますが、川俣事件の年の秋には農地が一部回復し、反対運動は自然に沈静化しました。
世論が沸騰したのは、現地ではなく、事情に疎い東京の学生や社会運動家たちで、農民は直訴を批判しています。


「政府は、鉱毒問題に終止符を打つため、渡良瀬川下流の谷中村をつぶし、遊水池をつくろうとしたが、谷中残留民の根強い抵抗が続いた。」


政府は、鉱毒問題が解決したので、洪水予防対策として、谷中遊水池案を立て、上流の沿岸農民もこれに賛同したのです。
谷中残留民が抵抗するのは当然ですが、上の記述は、事実ではなく、谷中村民への同情を強調した主観的解説になっています。

この辞典の編者は、京都大学名誉教授・朝尾直弘、千葉大学名誉教授・宇野俊一、奈良国立文化財研究所長・田中琢の3氏です。


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