2005-09-24 22:36:41

菅井益郎の回答⑤

テーマ:辞典類のデタラメ

国学院大学経済学部教授、日本経済史が専門の菅井氏は、古河による公害防止工事が不完全だったことを強調しながら、不思議なことに、この工事で農地が回復したとも言っています。

小学館編集部宛の手紙をまた引用します。


「明治35年の秋作頃から被害地では農業生産が回復してきますが、それは明治35年の9月の大洪水の洪水(?)によって鉱毒被害農地を新しい汚染されない土砂が覆ったからですが(渡良瀬川支流からの土砂の流れ込みによって鉱毒が希釈されたと推定)、もちろん以前のように足尾銅山からの鉱毒の大量流出があれば被害は拡大したはずですが、その点では、除外工事によって鉱毒の流出が減少し、下流の鉱毒被害も軽減したと考えられます。」


これでは、農地回復の原因は、支流からの土砂の流れ込みが主で、除外工事が従といっているようですが、明治35年以前の洪水でも当然土砂の流れ込みはあり、鉱毒は希釈されるはずですから、主原因の解釈は成立しません。
それに、明治35年秋の農地回復が、同年9月の大洪水のお陰というのは全くおかしな話です。洪水があれば不作になるはずですから。
彼の言っていることは、さっぱりわかりません。皆さんはどう思われますか。
私には、彼が何とか辻褄を合わせようとしながら、うまくいってないように見えます。



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2005-09-17 22:54:55

菅井益郎の回答④

テーマ:辞典類のデタラメ

小学館編集部宛の菅井益郎氏の手紙はまた、公害防止工事に関して、次のように説明しています。


「予防工事は当初、期限が120日とされていたのですが、いつの間にか命令のでる直前に180日に延ばされ、古河は救われたことと、工事後(を?)監督した東京鉱山監督署の署長南挺三は、後に足尾銅山の所長に天下っていることも、この工事が最初から足尾銅山の存続を目的に行われたことを示しています。逆にいえば、古河や政府にとってこの予防工事は、<完成>したものでなければならなかったのです。」


何も知らない人が聞けば、なるほどと納得してしまう内容ですが、建設工事のことがわかる人だったら、「何を馬鹿な」と思うに違いありません。
この工事の規模は、当時のお金で100万円以上、今のお金なら100億円以上、足尾銅山の年産額の半分という大きさでした。
とても120日で出来る規模ではなかったのです。
そして、伸ばされたという180日でも完工不可能という短期間だったので、工事責任者の近藤陸三郎は、「命令には絶対従う。」という古河市兵衛には内緒で政府と交渉し、2ヵ所の製錬所に設けるべき煙害防止施設を、製錬所を一つ廃止するとともに、1ヵ所にする許可をもらってやっと間に合わせています。

この工事のことを、公害問題の権威・宇井純は、「政府が企業に対して厳しい態度をとった唯一の例」と言い、田中正造を世界に紹介したイギリス人のストロングは、「多分世界で最初で、最も徹底した予防命令なのは確実だ。」と書いています。菅井教授の解釈は全く的外れではありませんか。
いったいなぜ、120日が180日になったのでしょう。
政府は当初、完工が不可能な工期にして、足尾銅山を操業停止に追い込むつもりだったものの、短かすぎて古河擁護派の猛反撃に会い、180日に落着いたのでしょう。
180日は、田中正造派と反田中正造派両方の顔を立てられる、ぎりぎりの数字だったはずです。
それは建設技術的側面とは無関係に、政治的な理由で決められた無責任な、工事の安全も、欠陥防止も無視した無謀な政治的決着だったといえます。今ならこんな短期工事を引き受ける業者など、絶対にないと私は断言します。
南挺三が天下ったことで、いったいなにが、どのように、古河の利益になったというのでしょうか。具体的に説明してもらいたいものです。


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2005-09-10 21:45:43

菅井益郎の回答③

テーマ:辞典類のデタラメ

小学館編集部宛の菅井益郎の手紙は、しきりに工事の欠陥を強調しています。


「予防工事が不完全だったことは、明治30年の予防工事後も追加的に予防工事命令が出されていることからもわかりますが、第二次鉱毒調査会の各調査報告書(全部で15本ほどある)をよく読むと、工事が不完全だったことが随所で指摘されています。たとえば、古在由直が明治35年11月24日付けで提出した、<渡良瀬川上流水質試験報告>には、<除害設備の不完全>という記述が3ヵ所も出てきます。」

いったい、完全無欠な工事などあり得るでしょうか。
どんな工事にしろ、チェックをすれば、必ず手直しの必要なところが出てきます。
建築でなく土木の工事ですから、なおのことそうです。
特にこの工事の場合は、わざわざ工期を短くしたので、当然、欠陥工事になる可能性が高くなるはずです。
私は、建築雑誌を編集していたので、この工事が、180日の工期では到底不可能と思われるのに完工したという事実に、驚きを禁じえないのです。
にもかかわらず、菅井氏が工事の出来具合をこれほど非難するのは、どうしてでしょう。
私には、建設工事のことなど何も知らないからこそ出来る、無責任発言としか思えません。
それに、評価の難しい欠陥を云々しても意味がありません。
意味があるのは、工事の結果、被害農地が回復したかどうかですが、明らかに回復したのです。
栃木県連合教育会が、「工事によって鉱毒問題は解決した」と明言しているではありませんか(『下野人物風土記』)。
菅井益郎教授がいくら不完全を云々しても、何の説得力もないわけです。
   


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2005-09-02 22:02:46

菅井益郎の回答②

テーマ:辞典類のデタラメ

小学館の『日本歴史大事典』には、「予防工事は技術的にも不完全だったので被害は続き」とあったので、「それはおかしい」と私が指摘したのに対し、菅井氏は、小学館編集部を通じて以下のように反論してきました。


「今でも鉱毒被害の続く太田市の毛里田に行って、鉱毒根絶同盟会の人たちに対して、古河は明治30年段階で鉱毒対策を完全にやった、その後の被害は予防工事以前のものだ、などといったら厳しく問われるでしょう。もちろん渡良瀬川沿岸の市町村の被害地に行けばどこでも同じことになるでしょう。どうも彼は<古河市兵衛翁伝>や古河鉱業の<操業100年史>など、古河関係の書の記述だけを信用しているようですが、これでは公害の本質は理解できないでしょう。」


「もし仮に100パーセント氏の主張を認めて、予防工事後の被害がそれ以前の残渣だとしても(さすがに古河も今日ではこんな主張はしていませんが)、被害に対する損害賠償をしていないことは、非難されて当然です。砂川氏は、1974年の渡良瀬川鉱毒根絶毛里田期成同盟会との公害等調整委員会における調停で、初めて古河は被害原因が足尾銅山の操業にあることを認めたことを知らないのだと思いますが、それにしても古河市兵衛を再評価しようとするあまり、公害問題でもっとも大事な被害民の主張に耳を傾けないということは大いに問題ですね。」


菅井氏は、足尾鉱毒事件の70年後に起きた公害事件を持ち出してきて、明治30年の公害防止工事は効果が無かったと言っているのです。
なんというひどいすりかえでしょう。
太田市毛里田の公害とは、、ずっと後年につくられた源五郎沢堆積場が決壊して、昭和33年に6千ヘクタールの水田が汚染された事件です。
菅井氏は、二つの異なった公害を無理に一緒にして、砂川の言うことは間違いだと説得しようとしているわけです。
「損害賠償をしていないから非難されて当然」と彼は述べていますが、古河市兵衛は巨額の賠償金を被害民に支払っています。
市兵衛は当然、加害者責任を認めていたわけです。にもかかわらず、1970年代に古河鉱業が加害者責任をすぐに認めなかったことを理由に、市兵衛を評価するのは間違いだと、菅井氏は断じているのです。こんなごまかしがありますか。

「予防工事後の被害は、それ以前の残渣」という専門家による政府の調査結果を、菅井氏は否定するのが常識、古河鉱業でさえそうしている、といっています。しかし、『田中正造』(岩波新書)の著者・由井正臣は明確に肯定しています。
菅井益郎の私に対する反論は、ごまかしとすり替えとうそばかりで、何の説得力もないではありませんか。

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