2005-08-27 19:27:41

菅井益郎の回答①       

テーマ:辞典類のデタラメ

「公害の原点」といわれる事件に多くの疑問を抱いた私は、まず、百科事典や歴史事典でどう書かれているかをチェックしてみました。
結果は驚くべきもので、客観的な事実を理路整然と記したものはゼロ。専門家がまじめに調べてあるとはとても思えませんでした。

そこで私は、各事典の編集部に問題点を指摘した手紙を送り付けました。出版社名は次の通りです。
小学館、角川書店、河出書房新社、山川出版社、朝倉書店、東京創元社、吉川弘文館、旺文社、講談社。

このうちのただ一社、小学館の出版局事典担当の日東寺義昌氏から返事がありました。
これには、同社発行の『日本歴史大事典』の執筆者・菅井益郎先生に、砂川氏の書簡を見せて見解を求めたところ、当社に返事があったので、そのまま同封しますと書かれており、「編集部としては、砂川様のご指摘は確かに承りました、と申し上げるばかりでございます」と、会社側の見解も述べてありました。

菅井益郎とは、日本経済史を専攻する国学院大学の教授で、特に足尾鉱毒事件に詳しく、上記事典のほかに小学館の『日本大百科全集』,平凡社の『世界大百科事典』,同社の『日本史大事典』にも執筆しています。
小学館の日東寺氏に宛てた菅井教授の手紙には、まずこうありました。


「砂川氏からの質問あるいは批判について若干小生の考えをのべさせてもらいます。手紙を読む限り、砂川氏は鉱毒被害についてほとんど調査したことがないのではないか、また公害の特質・問題点を理解していないのではないかと思われます。公害は加害者側からではなく被害者側から見なくては肝腎なことは何も見えないのであり、そのことはこの手紙の文面からもわかります。」


どうやら、菅井教授は、私がこの事件を加害者側からだけ解釈していると考えたようです。
しかし、公害は被害者側から見ればそれでいいのでしょうか。しかも、被害者側といっても、実際には、田中正造派と非田中派があり、それに、被害者ではない田中正造個人もあることになります。
この三者のうち、菅井氏は、「解決策は足尾銅山をつぶすしかない」といい続けて、被害者側からも孤立した正造の側だけに立っていると、彼の手紙から私は判断しました。


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2005-08-20 22:35:21

毎日記者のフィクション  

テーマ:新聞社の偏向

明らかなフィクションを堂々とドキュメントと称している困った作家も、毎日新聞の元記者です。
ここに30年間在籍し、公害関係の本を精力的に書いている川名英之氏で、彼は、『ドキュメント・日本の公害・第4巻』(緑風出版)に、足尾の被害実態を、次のように描写しています。

「明治12年夏、渡良瀬川では、それまでにない魚の大量死が発生した。白い腹を見せて浮かび上がった魚は推定数万尾。さらに、この年の初秋には出水し、水と一緒にあふれ出たウナギは弱っていて、幼児でさえつかめたほどだった。この年、古河市兵衛は、足尾銅山に製錬用の機械を据え付けて稼動させ、鉱毒が大量に渡良瀬川に流れ込み始めたからである。明治13年夏、またも大量の魚が浮き上がった。明治18年、おびただしい数のアユが弱って泳ぐことができなくなり、やがて死んで流されていった。」


しかし、この文は完全なフィクションです。
足尾銅山は、明治10年に古河市兵衛の所有になりました。しかし、やっと胴の鉱脈に当たったのは明治14年で、それまでは本格操業に入っていませんから、製錬用の機械を設置していませんし、公害も発生するはずがないのです。
明治18年8月12日付け『朝野新聞』は、「渡良瀬川は、いかなる故にや、春来鮎少なく、あまたの鮎はことごとく疲労して、死して流れるもの少なからず、」と報じており、これが、公害発生の始めとされています。
こうなった原因は、田中正造のデマ演説にあります。

彼は、「明治12年、銅山に製錬用機械が据えられ、渡良瀬川の鉱毒汚染が始まって、県知事は魚の売買を禁止する布達を出した。」と議会で盛んに演説した上、農民たちに被害記録を偽作させたのです。

これを事実と信じ込んだわけですが、早くから常識になっている正造のこのウソを、公害問題に詳しい川名記者がどうして知らなかったのか。私には不思議でなりません。事実を調べることが仕事である新聞記者が、どうしてこうも簡単にだまされたのでしょう。



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2005-08-13 22:16:56

住友を褒め称えた毎日新聞②

テーマ:新聞社の偏向

古河市兵衛は、足尾銅山の公害対策への誠意を買われ、明治のインテリ層から「明治十二傑」に選ばれました。
公害防止工事から2年後、明治32年に、総合雑誌の『太陽』が読者にアンケートを行ったその結果、市兵衛は、伊藤博文や福沢諭吉を押さえ、トップの得票を得たのです。
こうした歴史事実を知ってか知らずか、木本記者は、「視野の広い方が公害を克服して繁栄し、目の前の利益にのみ目を奪われたものがその反対の汚名を残した。」とまでこの本に書きます。
なぜでしょう。それは、歴史的事実を無視し、いくらでも嘘を言える田中正造の言葉のほうを、絶対視したからに他なりません。
彼は、正造の次の言葉をまず引用します。

「別子銅山は、鉱業主住友なるもの。社会の義理を知り徳義を守れり。別子は鉱山の模範なり。関西の人は古河市兵衛の暴戻(ぼうれい)なるを知らず。住友と古河との人品を同じに見るのあやまち」

そして、こう書くのです。


「田中と伊庭(製錬所を四阪島に移した住友の総理)と。立場は全く違ったけれども、公害と真正面から取り組んだ同じ種族の最初の日本人であったといえないだろうか。」

新聞記者として、あまりにも偏向していませんか。
田中正造が、「明治十二傑」のアンケートで何票取ったかは不明です。

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2005-08-06 22:16:38

住友を褒め称えた「毎日新聞 」

テーマ:新聞社の偏向

日経よりもっと徹底して偏向していたのは、毎日でした。『毎日新聞・大阪』がそれで、30年以上前のことですが、木本正次という記者の記録小説『四阪島』を5ヶ月間も連載したのです(昭和46年)。サブタイトルは、「公害とその克服の人間記録」です。
ところがこれを読むと、古河と比べて住友は、被害者との対応がいかに拙かったかがわかります。
まず、製錬所から出る煙で被害を受けた農民の激しい反対運動(明治26年から)に、住友は、加害者責任を全く認めませんでした。
根本的な対策として、四国本島の新居浜から瀬戸内海の無人島・四阪島に製錬所を移すのですが、移転に10年以上かかったばかりか、煙害はかえって広がり、反対運動も前より激しくなります。
それでもなお会社は、「被害の原因は煙害でない。」と言い張ったため、交渉はまとまらず、愛媛県知事の仲介で、住友が賠償の支払いや生産制限を被害民に約束したのは、反対運動がおきてから17年後(明治43年)だったのです。
古河の場合は、加害者責任ははじめから認め、被害民に損害賠償を支払い、その上公害防止工事も履行し(工事費は百数十万円)、その6年後には農地が復旧しています。
住友と違い、古河は農民からの抗議行動は全く受けていないのです。
ところが、単行本になった『四阪島』(講談社)で、著者・木本正次は、次のように書くのです。


「鉱毒を流しっ放しにし、自己の保存のためには権力と結んで下流の村(谷中村)をつぶしてはばからない足尾に対しては、閉山を要求するほかに戦う道がなかった。これに反して別子は、自分から煙害の新居浜を去って、孤島に移っている。それは裏目に出たし、長い曲折はあったが、それでも企業の基本的な<誠意>は、住民たちに汲み取られている。調印してから10日と経たないうちに、住友は賠償金のうち既往分33万9000円をすっぱりと支払った。」


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