荒井修のブログ

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posted by asa1021bun
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間もなく平成中村座の後半3ヶ月のが六代目中村勘九郎襲名興行という形でスタートする。

昨日から稽古が始まっているので、私は中村座に行った。

勘三郎丈と目が会うと「ただいま」と言われたので、「お帰り」と答えた。

そして笹野さんの楽屋にも顔を出した。

すると笹野さんは「僕は法界坊や団七の時には普通に出きるのだけど、今回仁左衛門さんや海老蔵さんや我當さんなどがいらっしゃるので緊張しますよ」と言っていた。

考えてみりゃ初めての中村座から笹野さんは出演してくれたので、私達は何の違和感も無かったが、今回は口上にも連なるのだから大変気を使うことだろう。

我々が五軒長屋として中村座に同行することになったのはニューヨーク公演の時であった。

「ニューヨークで中村座をやる事になったんだけど、お客が小屋に入る前に江戸の雰囲気なしたいんだよ、五軒長屋を作るから、付き合ってくれる職人さんを五人そろえてくれないかな?実は交通費・宿泊費も出せないので自費でいって、あちらで稼いでほしいんだけど無理かな?」と言われた。

「解かった声をかけてみるよ」と胸を叩いたものの、内心そんな酔狂な連中を5人まで集める自信はなかった。

勿論、私と橘右之吉氏と手拭いのふじやの川上君の3人は行くとおもっていたのだが、あとの二人は川上君に任せた。

そしてあとの二人を彼が口説いてくれた。

一人は市松人形の藤村君である。そして最後の一人は簪の三浦君であった。

これが元祖五軒長屋である。

その後名古屋や大阪などで1ヶ月の公演を行うようになった時、他の職人さん達に1週間づつ交代で加わってもらうようになったが、今でも外国となるとこのメンバーで行くことになっている。

その元祖五軒長屋のメンバーで六代目勘九郎の楽屋のれんを、今日プレゼントした。

六代目中村勘九郎さん江という楽屋のれんに、五軒長屋店子一同として贈ったのだが昔の長屋の絵が描かれ、その格障子に、地紙に文の字や江戸文字と書かれていたり、人形の頭や簪が描かれていたり、手拭いと書かれているだけで屋号などは入っていない、そんなデザインののれんである。

勘九郎は、「綺麗だね、しゃれているよ、すぐ掛けます」と言ってくれた。

歌舞伎役者というのは昔からいるけど、長屋の住人から楽屋のれんを贈られた役者はいないだろうと言う思いでこんな楽屋のれんにしたのだが、襲名でいろいろな方から楽屋のれんが贈られているであろうに、すぐに掛けてくれると言う言葉に、私は中村座を成功させたいとニューヨークに五人で乗り込んだ頃の事が思い出されてい

た。

次に外国へ中村座を持って行く時も、この五人の馬鹿がついて行くぞ。

posted by asa1021bun
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数ヶ月前に浅草の芸者さんをお辞めになったお姉さんである。

人間国宝となったことを契機に宮薗千碌として、宮薗という邦楽の古曲継承の道一本に絞る事になったのであるが、それは素晴らしい芸である。

今後、荻江、一中節と共に母親から受け継いだ宮薗節の一番の継承者として大活躍していくのであるが、今日はその宮薗千碌さんを座敷に招いて、その芸を聞かせていただく事になっている。

この人と私はほぼ同年代であるが、最初に話をしたのは座敷ではなく当時浅草の田原町に有った小さなジャズバーであった。

ジャズバーと言っても毎日ミュージシャンが日替わりで演奏している店ではなく、時々ライブがある普通に飲みに行くような店であったので、その日もぶらりと立ち寄ったのである。

するとライブがないこともあって店はがらんとしていた。

ただ一人カウンターでマスターと話をしながら飲んでいたのが彼女であった。

座敷では話した事もなく、その上普通の洋装であったため、一瞬彼女である事に気がつかなかったのだが、マスターが

「修ちゃん知っているよね」と言われ、やっと誰だかわかった。

今日はお稽古があったので、それを終えて着替えてきたのだと言う。

「何のお稽古だったの?」と言うと

「古曲」だという。

私は彼女のお母さんがあの宮薗千碌さんだと知らず、

「荻江でもやっているの?」と聞くと

「荻江も一中節もやってるけど宮薗なの」という。

それはまたずいぶん渋いものをやっているんだなと思っていたが、あとで彼女があの宮薗千碌さんの娘さんだと知って恥ずかしい思いをした。

それから何年の付き合いだろう?もう30数年になると思うが、今や宮薗の第一人者と成り、人間国宝にまで上り詰めたのだからたいしたものである。

ご本人は「宮薗をやってる人が少ないからね」と恥ずかしそうに云っているが、宮薗の人口が少ないからと言う問題ではなく、この国が残したいと言う素晴らしい伝統芸能の第一人者なのだからやっぱり凄いのである。

考えてみれば扇子職人だってイリオモテヤマネコのように絶滅寸前の業種なのだが、いまだ第一人者などになれるほどの実力など持ち合わせていないのが現状であるのだから。

私などは遊び、遊び、遊んだ末にデザインを生み出すタイプであり、日夜努力すると言うタイプではなかったのだから、こんな人生で人に評価などされるわけはないのである。

もっとも二代目の雁治郎さんなどは人間国宝と言う話が出た時に「人間国宝になったら競馬やパチンコをやったらあきまへんか?」と聞いたと言うが、「あれは法律違反じゃないですから大丈夫です」と言われたとたん「ほな、貰いまひょう」と言ったそうで、私はその話を聞いて大笑いした思い出がある。

私はそんな称号よりお客さんからの賞賛の声の方がうれしく、努力するより怠けるほうが好きなのだから。

posted by asa1021bun
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今日は私が長年講師を勤めている桑沢デザイン研究所の卒展最終日であった。

今年の卒業式が三社祭七百年の記念行事、示現会の初日とぶつかっていて、当日の私の役割もいろいろあるために、教え子の卒業と言う晴れの日に出席する事が出来ず、この卒展だけはどうしても見に行って、生徒の皆と会っておきたかった。

桑沢の校舎に入るなり学校の職員に

「先生、ファッションショーの予約取っていないでしょ?」

「はい、まだですけど」

「それでは、2時からの席をお取りしておきます」

と言われチケットを渡された。

私はすぐにエレベーターで7階に昇り、作品をじっくり見ると言うより、私の生徒達の作品が展示されている部屋を中心に見てまわった。

彼らは常に自分の作品の展示されている場所にいるわけでもないので、とにかく時間をずらして何度か顔を出すしかないのである。

そしてフアッションショーへ行った。

さすが桑沢のフアッションショーはレベルが高く、毎年感心させられる。

それは勿論フアッションデザインのレベルの高さにもだが、モデル役の学生達のウォーキングもポージングもプロ並なのである。

数年前の私の生徒はフアッション課ではないのに、そのモデル役の以来がフアッション課の生徒達から殺到した女性がいた。たぶんそのスリムな体系と中性的な雰囲気がフアッション課の生徒達に人気があったのだろう。

しかしその生徒はウオーキングなどまったく経験がなく、大変ハードな特訓を受けたお陰で自分の卒展作品が思うように進まなかったそうだ。

フアッションショーを見てからもう一度ゆっくり展示されている作品を見て、生徒達のプレゼンを聞いてきた。

和紙で作った靴などは柿渋で染めたり、和紙のこよりを細く丁寧に作り編んであったり、ただ和紙で作ったというだけでなくデザイン的にもヒールの高いものやブーツもありお洒落な出来だあった。

いろは四十八文字のひら仮名の筆字の練習をかなりしたのだと思うが、その文字を小皿の底に美しく柔らかに浮き出させた作品などは孫達の名前の頭文字だけでもほしいと思った。

他の生徒の作品もそれぞれ素晴らしく、作品に対する思いが熱く感じ取れ、桑沢から巣立った後、どのような仕事につき、どんな人生を送るのかわからないが、遠くからエールを送り続けたい。

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