人生は色々な比喩があり
だいたいが、
人生をおしなべて達観したものばかり

そこでは、
なにかしらの法則があるか
方法、そして、倫理規則や心の正体を探っている。



そんなことになんの意味があるのか!

僕はそう思う。


悩んでいる最中のひとに
あらゆる理屈は無力だ

慰めの論理はあるだろうが
たとえそうでも、解決には至らない。



雨の降る日に、傘をさす
その程度のことかもしれない

雨は雨

土砂降りは土砂降り

天気を変える事などできないし、
そのように人は出来ているのかもしれない



ざわざわと落ち着かない気持ち

理由も見つからず涙が出てくるような時

だれにでもある


その感情にひたりなさい
味わいきりなさい、
少し進んだ人達はそういう。それもわかる。


最終的に
人生は悪いものではないと
無理矢理に帰着させなければならない
その無理筋があらゆる小手先のことを教える。


その善意には感謝したいとは、思う。



だが僕は言う。

そもそも人生など、悲しいのだと
上手に生きている人などいないのだと
どんなひとも悲しみを海の底に沈めているに過ぎないと

そんな厭世論には救いがない。
確かにそうかもしれない。


救いなんてないんだ。
意味なんてないだ。


人生は横たわる大木。
密林に横たわる大木を
なんのためにこの木は横たわっているのかと
だれが尋ねる?


人生は横たわる大木だ。
ただそこにある。

あなたは人生の100点も0点もめざす必要はない
ただ、あなたの名前で横たわっていなさい。


人の意志が、人生を変える事もあるだろう
だけどその成果物が
あの時の決断があったからだ、となぜ言い切れるのか?


自己啓発家はここを見落とす。



決断した時、未来はない
それがうまくいったとき、
過去の幾つかを拾い上げるだけ
それも、自分の気にいる過去を結びつけて
法則化して安心する。


なら決断なんて
好きなことをするのと同義だ。

だってどちらにしろ、
自分の趣味にあう過去を拾うのだから


だからぼくは言う
過去しかない、と。

好きな過去しか人は選ばない
なら、
人生に法則も決断もない。



好きなことすればいいだけ。
まさに
大木が無為に横たわるように。
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過去に向かって生きろ
まだ、そんなことばかり言う

誰も聞き耳を立てない
でもそれでいい。


未来に希望に溢れ
未来に絶望するのが人間だ。


いま、ここで生きる自分は
つねに未来を志向して

いまこの選択が
未来を作ると信仰している。


べつにそう思う人はそれで構わない
どこかで、絶望と折り合いをつけるのを
先延ばししているだけの
地に足つかない民にしか
僕には見えない


未来に向かうというのは
わたしを投げ捨てるのと同義だ


未来なんてものはない
存在してないものは
永久にないんだ


ギリシャにヘラクレイトスという哲学者がいた
彼の哲学にもこのエッセンスは眠っている

あるものはあり
ないものはない

ないものがあるとは
どういうことか

それは
このいまありしものが
丸ごと消し飛んでしまえという
信仰に過ぎない、と。


その未来とやらに絶望し
ひとはわたしを見失う


足跡こそを見よう
未来に地に足着いたものはない


きみはなにをやってきた?
なにに目を輝かせたんだ?


すべては過去と足跡にある
その足跡の水溜りに


涙もあろう
血もあろう
汗もあろう


そして、ここまできみは歩いてきた


おもえば、
生まれ、寝返りすらもままならない赤子が
こうして二本の足で立ち

ときに
仲間外れにされる孤独や
うまくできないで卑屈になることや
あらゆる初めて、の悲しみを克服して


こうでしかないカタチで
歩みを進めてきた




選べよ
足跡を

お前のお前である所以を

そこに寄りかかれ
そこに胸を張れ

自己完結する強い一本の葦になれ
そのことが栄光そのものなのだ



人々は過去を軽んじ過ぎた
そして、余生に、またまっさらな戦いを挑む


そうではなくて
過去を選ぶのが生きるということだ


あらゆる社会的案件と
人と人を比べ合う相対を抜けて


わたしの過去を溺愛せよ
すべての不器用さに愛惜と
すべての口惜しさに郷愁と
すべての失われしものに花を手向けよ


而してなお、ここに強く二本でたつ君に
栄光を讃えるんだ


繰り返そう

君の人生は
まっさらな白紙を歩くことではない


どこかで運命的に
過去きた道を選び取ること
その内省的な行為に
自分らしさを見つけることだ



過去を選び取るんだ
そして、そこにいるわたし自身に
何度でも無限回数に及んで
栄光をもたらすこと



絶対的な自身への信頼と
自己愛を確立するためのすべてを
怠らないことだ


それが過去を救済する、ということでもある
極めて建設的な意味で


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エベレストのおばあさん

テーマ:
数年前に見たテレビのドキュメントで
エベレストの特集があったんだ。

それで、そうだな、結構な高さ、、
たぶん標高4000mくらいなのかな..


そこに定住している方が
わずかにいる。


そこの、おばさんとおばあさんの間くらいの人に、
レポーターが尋ねる。

「あそこに見えるのがエベレストの頂上ですかね?」
すると、おばあさんが言う。





「エベレストってなんだい?」




エベレストという名も
エベレストが世界一高い山だということも知らない。


本当に驚いた。ーーでも少し感動もした。


ぼくら文明の栄えた国にいる人たちは
自分を文明人と信じ、デバイスを駆使し
エベレストを知らない方々を驚くかもしれない。


僕たちは
ネットの向こうからいくらでも
エベレストの情報を手に入れられるし、
あらゆる情報もとれる。

世界一長い川だって、深い谷だって
寒い場所だって、熱い砂漠だって
家にいながらに調べられる



そしてーー知った気になるーー。





僕が感動したのは、
エベレストのおばあさんが
エベレストという名前は知らなくても

山とともに生き、毎日、山を眺め
風を感じ、洗濯物を干して
その地とともに生活していること。



これが「知っている」ということなんだ。



それ以来、ニュースやトピックに対して、
強く批判をしなくなった。

経験しないと
知ったことにならないって
なんとなく思ったんだ。
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