2011年02月14日(月)

「何もしない」看取り

テーマ:死生学

デロンギがアンペア食い過ぎて私のいる部屋は暖房なし、キナリです。


コドモの寝てる部屋は、ちょー暖かいのに

私は今隣の部屋で白い息はいています。


横浜は、ちょー雪です。

きれいやんなぁ。





週一回しか施設に行かない、医療連携加算の訪問看護ですが

たくさんの思いを込めていたある利用者さんが今日亡くなりました。



カワイイと言ってはいけないらしいので

チャーミングを言っておきましょう。


たくさん学ばせていただきました。

施設で看取ること。

施設で医療の入らない現場で亡くなること。


医療介入について本当に考えさせられました。




この方のあらゆる出来事には知識も技術も倫理も必要で

自分自身の人間性をも問われたと思っています。



ひとりで施設に行き、看護の視点から利用者を診ていく。

それは私という看護師がただ尋ねる行為ではなく

スタッフやユニットリーダー、ケアマネ、ホーム長などとのお話で

自分の位置関係を測りつつそのホームに適した看護を考えます。

(私は)


だから「私という看護師が」一人で行うわけでなく

スタッフさんたちがいて、利用者さんがいて、やっと私がいるのです。


みんなと育っていると思っています。





その中で「看護師は守られている」と今回感じました。

私は病棟経験は精神科のみ。

他は集中治療室(CCU)です。


CCUはお医者さんもいて、他の看護師もいて

病院という施設の中で、医療器具や物品に囲まれて

白衣を着てのお仕事です。


私はそういうものにいかに守られていたか、痛切に

思いを巡らせるのです。


病院で死を告げることのできる唯一の職種、医師がいる。

生体の死をモニターという波を描く機械で読み取れる。

白衣というだけで一線を引けている気がしました。


そう、一日に何人看取ったとしても取り乱すことなく

次の仕事ができるのは、その距離を保つ環境に置かれていたからです。




ホームヘルパーとは、看護師よりもっと近い位置でのケアを

求められているのだと思っています。

家庭や施設に入り、衣食住など一番近いケアをする。


看護師に足りないと言われる「患者を生活者としてみる視点」を

ヘルパーさんは見事に充足しているのです。


それが看取りの場面で、そしてそのあとのスタッフ自身の

メンタルケアの部分でその距離感が少しだけ問題になるのかな、と

思います。


近すぎる故の割り切れない思い。

そしてヘルパーはCMなどで華々しく甲斐甲斐しい仕事像として映し出され

ターミナルケアやその後の心理的なセルフケアを学ばずに

現場に入るのです。



これはパートで家族がある方々がワークライフバランスの中で行う仕事としては

少々難があるのではないでしょうか。




ヘルパー講習でターミナルケアまで話すこと。

看取りを行ったスタッフのグリーフケアや話す会を持ち

共有して問題に取り組むこと。


たくさんの人にヘルパーの仕事や現場を知ってほしいです。






今回の利用者さんの「何もしない」看取りから得たものは多く、

私はすごく戸惑いました。


吸引しない、食事も無理しない、訪問マッサージの辞めどき・・・

一つ一つどうスタッフに伝え、誰かがやりきれない思いになっていないか

毎日そんなことを考えていました。


誰かがショックを受けるような看取りなら、せめて私のいる時間に

その瞬間が来てほしいとずっと願っていました。

叶いませんでしたが・・・


死は必ず訪れ、みな死に向かっています。

誰かが看取らなければならない。

それが死の本質だと思っています。


西洋医学はやりすぎてしまい、なかなか死ぬことをさせません。

苦しめて死を伸ばすことを、普通のことだと思っています。

そして私もつい最近まで、吸引・体交・点滴なんて当たり前だと思っていました。



何が自然で「何もしない」ことなのか、今決めるのは家族になっています。

生前から、今からでも

自分がどういう状態になったときにどうしてほしいか

家族に話しておくことをみんなに勧めたいと痛切に感じています。



最後まで「私の生」であるために。

そこには死生観を持ち生きていく、今必要なヒトの有り様が

あるのではないでしょうか。

2010年11月18日(木)

お葬式後の清め塩

テーマ:死生学

大黒摩紀のモノマネを練習している、キナリです。


ムスコにうるさいって言われました。


どこかで披露する目的ではありません。やりたいから。それだけです。

Q10のモノマネもハマっています。



その前にハマっていたモノマネの練習は

仮面ライダーWに出てくるフィリップの母シュラウドの声マネでした。


出来上がったところで、嫌がる夫に無理やり聞いていもらいました。





余談が長くなってしまいました。



昨日うちのばあちゃんと母が近所の方のお通夜に行ったのですが

「お清め塩がないから、塩かけてくれ」

と玄関からインターホンで言われました。


まぁ、やってきたのですがご本人たちが思うより大量だったようで

「服の中にまで入った」

「お前は相撲取りかよ」「北桜かよ」

というご意見をいただいてしまいました。



清め塩はよく帰り際に渡されたりしていました。

なんで今回はなかったのでしょう。


こんな用紙が入っていたので、原文のまま載せてみます。




↓ココカラ_____________________


【私たちは清め塩を使いません】


魔を祓う(はらう)ためにお棺の上に刃物をのせたり、


火葬場の行き帰りで道を変えたり、家に帰ればお清めと称して死の穢れ(けがれ)を


清めるために塩を撒く(まく)など、葬儀の時には仏教の教えとは無縁ないろいろな迷信が


行われています。


それらは各地の習慣やしきたりとして、何の疑問もなく行われていますが、


それが亡き人を限りなく貶(おとし)めていく行為だと気がついている人は少ないようです。


たとえば「清め塩」は現在ほとんどの葬儀に見受けられ、会葬者にもお礼状と共に


渡されています。そして、この「清め塩」で「お清め」することが当たり前のように


思っている人が多いようです。


しかし、この「塩」でいったい何を清めようと言うのでしょうか。


「清め」と言うからには、何らかの穢れ(けがれ)を除くという意味があるでしょう。


そうだとすると葬儀は穢(けが)れた行為であり、亡き人は穢(けが)れたものということ


になってしまいます。


生前に、父よ母よ、兄弟よ友よと呼び、親しんできた方を、亡くなった途端に


「穢(けが)れたもの」として「お清め」していくことは、何とも無残であり、悲しく


痛ましい行為ではないでしょうか。


仏教では決して「死」を「穢(けが)れ」と受け止めることはありません。


反対に「死もまた我等(われら)なり」と受け止め、生死(しょうじ)するいのちを


精いっぱいに生きていくことこそ、人間としての生き方であると示しています。


仏教に照らすと「清め」の行為は亡き人を貶(おとし)めていくばかりでなく


私自身の生き方をもあいまいにさせる迷信であり、一切不必要であることが知らされます。



↑ココマデ______________________




言われなきゃわかんないことってたくさんあるなぁ、と思います。


それでも塩まいたんです。うちの家族。


そうやって何十年も日本ではやってきたんだもん。


ハイ、ソウデスカ、と変えられないのもまたヒトなんですね。



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