「何もしない」看取り
テーマ:死生学デロンギがアンペア食い過ぎて私のいる部屋は暖房なし、キナリです。
コドモの寝てる部屋は、ちょー暖かいのに
私は今隣の部屋で白い息はいています。
横浜は、ちょー雪です。
きれいやんなぁ。
週一回しか施設に行かない、医療連携加算の訪問看護ですが
たくさんの思いを込めていたある利用者さんが今日亡くなりました。
カワイイと言ってはいけないらしいので
チャーミングを言っておきましょう。
たくさん学ばせていただきました。
施設で看取ること。
施設で医療の入らない現場で亡くなること。
医療介入について本当に考えさせられました。
この方のあらゆる出来事には知識も技術も倫理も必要で
自分自身の人間性をも問われたと思っています。
ひとりで施設に行き、看護の視点から利用者を診ていく。
それは私という看護師がただ尋ねる行為ではなく
スタッフやユニットリーダー、ケアマネ、ホーム長などとのお話で
自分の位置関係を測りつつそのホームに適した看護を考えます。
(私は)
だから「私という看護師が」一人で行うわけでなく
スタッフさんたちがいて、利用者さんがいて、やっと私がいるのです。
みんなと育っていると思っています。
その中で「看護師は守られている」と今回感じました。
私は病棟経験は精神科のみ。
他は集中治療室(CCU)です。
CCUはお医者さんもいて、他の看護師もいて
病院という施設の中で、医療器具や物品に囲まれて
白衣を着てのお仕事です。
私はそういうものにいかに守られていたか、痛切に
思いを巡らせるのです。
病院で死を告げることのできる唯一の職種、医師がいる。
生体の死をモニターという波を描く機械で読み取れる。
白衣というだけで一線を引けている気がしました。
そう、一日に何人看取ったとしても取り乱すことなく
次の仕事ができるのは、その距離を保つ環境に置かれていたからです。
ホームヘルパーとは、看護師よりもっと近い位置でのケアを
求められているのだと思っています。
家庭や施設に入り、衣食住など一番近いケアをする。
看護師に足りないと言われる「患者を生活者としてみる視点」を
ヘルパーさんは見事に充足しているのです。
それが看取りの場面で、そしてそのあとのスタッフ自身の
メンタルケアの部分でその距離感が少しだけ問題になるのかな、と
思います。
近すぎる故の割り切れない思い。
そしてヘルパーはCMなどで華々しく甲斐甲斐しい仕事像として映し出され
ターミナルケアやその後の心理的なセルフケアを学ばずに
現場に入るのです。
これはパートで家族がある方々がワークライフバランスの中で行う仕事としては
少々難があるのではないでしょうか。
ヘルパー講習でターミナルケアまで話すこと。
看取りを行ったスタッフのグリーフケアや話す会を持ち
共有して問題に取り組むこと。
たくさんの人にヘルパーの仕事や現場を知ってほしいです。
今回の利用者さんの「何もしない」看取りから得たものは多く、
私はすごく戸惑いました。
吸引しない、食事も無理しない、訪問マッサージの辞めどき・・・
一つ一つどうスタッフに伝え、誰かがやりきれない思いになっていないか
毎日そんなことを考えていました。
誰かがショックを受けるような看取りなら、せめて私のいる時間に
その瞬間が来てほしいとずっと願っていました。
叶いませんでしたが・・・
死は必ず訪れ、みな死に向かっています。
誰かが看取らなければならない。
それが死の本質だと思っています。
西洋医学はやりすぎてしまい、なかなか死ぬことをさせません。
苦しめて死を伸ばすことを、普通のことだと思っています。
そして私もつい最近まで、吸引・体交・点滴なんて当たり前だと思っていました。
何が自然で「何もしない」ことなのか、今決めるのは家族になっています。
生前から、今からでも
自分がどういう状態になったときにどうしてほしいか
家族に話しておくことをみんなに勧めたいと痛切に感じています。
最後まで「私の生」であるために。
そこには死生観を持ち生きていく、今必要なヒトの有り様が
あるのではないでしょうか。






