富士王朝と邪馬台国

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神武天皇が現れる遥か昔から、富士山の北麓には「富士王朝」が存在していたというお話の続きです。

神武天皇が即位する以前には「鵜芽葺不合王朝」が2700年にわたり続いていたのですが、その時代と前後して、日本には北から「荒覇覇吐王国」「日高見王国」「邪馬台王国」「吉備王国」「出雲王国」「不弥王国」「投馬王国」「伊都王国」「熊襲王国」が存在し、最終的に「大和王朝」に統一されていったようです。

ここで注目して頂きたいのは、「邪馬台王国」です。

紀元前のその頃既に「邪馬台国」はあったのですね。

その後、九州の高千穂から内乱を収めた神武天皇が大和の橿原で即位をしますが、その場所がまさに「邪馬台国」があった場所なのです。

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卑弥呼の後を継いだ「台与」は「トヨ」と読むことから、「邪馬台」は本当は「ヤマト」と読む事が分かっています。

つまり、大和朝廷が出来る前から、その地には元々「ヤマト国」があった事になります。

「ヤマトゥ」とは、ヘブライ語で「神の民」を意味し、全イスラエル12支族を象徴しているのです。

日本人は自らをヘブルと名乗っていたわけで、ユーラシア大陸から朝鮮半島を経て渡来したことが分かります。

同時に、先住日本人も古代アメリカから太平洋を越えて来た同族であるようです。

日本列島には、同じヤマト民族の、天孫族、琉球民族、アイヌの三民族が存在していた事になります。

その後、「奴国の大乱」が起こります。

それまで列島は、フォッサマグナを境に物理的に二つに離れていたのでした。

フォッサマグナが誕生する大衝突以前から、東側と西側、両方の文化圏には、それぞれ熊襲(琉球民族)蝦夷(アイヌ)が別々に住んでいました。

大和民族には入れ墨を行う習慣がありませんが、西日本側の熊襲と、東日本側の蝦夷の倭人には入れ墨の習慣があります。

つまり、日本の先住民は琉球民族とアイヌ民族であり、どちらも同じルーツを持っているのです。

実際、最南端の琉球民族と北海道のアイヌの宗教観は非常に近く、沖縄では今も、卑弥呼を髣髴させる女巫女の「ユタ」や、女祭司の「ノロ」がいて、アイヌと風俗習慣も酷似しています。

さらに、古代日本列島には、縄文文化圏と弥生文化圏が同時に存在していた事が分かってきました。

実は、両者は綺麗に東日本と西日本に分かれるのです。

フォッサマグナを境として、東側がアイヌからなる縄文人、西側が熊襲と琉球民族から成る弥生人になるそうです。

それがいつの時代にくっついたのかは定かではありませんが、徐福がくるまでにはフォッサマグナも出来、富士山があったのだと思います。

しかし、離れていたから争いが起きなかったことが、大陸がつながったため一挙に領土拡張意識が起き、やがて古代中国の歴史書にも記された「倭国の大乱」が勃発します。

そして、それを鎮めたのが卑弥呼だったのです。

これまで卑弥呼が治めていた「邪馬台国」がどこにあったのか分からず、畿内説・九州説ともめて来たのは、「魏志倭人伝」に書かれている方位と合わなかったからです。

しかし、日本列島を、九州を北に逆立ちさせるとその謎は解けるのです。

そうすると、奈良県纏向付近が東シナ海付近になり、福建省福州市の真東に位置するようになり、方位、距離ともに矛盾なく収まるのです。

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この「混一彊理歴代国都之図」という古地図では日本列島が逆立ちした姿で描かれています。

さらに、邪馬台国に敵対した狗奴国は、邪馬台国の南にあったとされていますが、日本列島を逆さまにするとこの謎も解けるのです。

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邪馬台国は西日本の熊襲が治め、「狗奴国」は東日本側の蝦夷が治めていた為に、蝦夷に住むアイヌが、卑弥呼の「邪馬台国」と敵対するという構図です。

ここで、「富士王朝」が出て来ます。

富士王朝ではアイヌも関係していました。

富士山は、アイヌ語のフチから来ているとも言われています。

フチとは、火(フチfuti)を表しています。

また、富士山麓はアイヌ発祥の地とも言われ、「富士三光大社奥宮」ではアイヌと関わりが深いコロボックルが目撃されているのです。

最近、案内板もつけられ、神社もきれいに改修されて来たので、以前は隠されていた所ですが公開することにしました。

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大和への遷都により衰退していった「富士王朝」に代わり、力をつけて行ったのが卑弥弓呼(ひみここ)率いる「狗奴国(くなこく)」だったのではないかと想像出来ます。

やがて248年頃、「狗奴国」と「邪馬台国」の戦いの最中に高齢の卑弥呼は死去してしまったのでした。

卑弥呼でさえ苦戦する、駿河の王・卑弥弓呼だったのです。

現在、「狗奴国」の卑弥弓呼の墓が沼津の「高尾山古墳」ではないかと言う事まで分かって来ています。

高尾山古墳まとめ

これまで謎とされて来た、この二つの場所の解明がもっと進めば、日本の歴史がひっくり返ることでしょう。

日本の正式な記紀に、これらの事が載っていないのは、西側と対立する勢力だった為で、徐福たち物部氏のことは封印したかったからに他なりません。

私は、何故かたまたまこれら両方と関わってしまいました。

何故だか分かりませんが、流れに乗っていくまでです。

謎は続きます。。
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