前回の記事にはたくさんのご意見をありがとうございました。
原発の恐ろしさを私たちはいやと言うほど体験したのですが、その一方で未だ生活の為に手放せない人々がいるのも現実なのです。
これからご紹介する記事は、人々が原発マネーという甘い誘惑に呑まれていった経緯が書かれています。
浜岡原発に限らず、どこの原発でも同じ事が行われていたのだと思います。
誘惑の手口は、実に巧妙に仕掛けられていました。それに簡単にだまされてしまうほど、私たち人間の心は愚かで弱いものなのですね。
http://www.janjanblog.com/archives/29147浜岡原発、住民のエゴ(1)川上武志
中部電力の最初の話では、浜岡原発は4号機までしか建設しない約束であった。
地元の人々と固く取り決めていたのである。ところが、4号機が建設されると話が違ってきた。地元の人々の強い要望があったということで、5号機建設が提案されるようになったのだ。
一部の地元の人々の強い要望というのは確かに行なわれたようであった。
1993年に4号機建設が終わると、全国各地から集まっていた工事関係の労働者は引き上げてしまい、浜岡の町は昔のようにひっそりとしてしまった。
だから、「原発バブルよ、もう一度!」ということで、一部の民宿経営者や飲食店の店主らが、「もう一つ原子炉を増設して欲しい!」と名古屋にある中部電力本社に陳情に行ったのだ。
もちろん、浜岡原発の立地する一握りの御前崎市民が造ってくれと陳情に行っただけで、5号機建設が本決まりになったわけではない。しかし、もっと原子炉を増やしたいと考えていた中電にとっては、渡りに舟だったことは間違いなかった。
土地の人の後押しは増設の弾みとなり、5号機建設計画が立案された。
新号機建設をめぐって、地元の人々の間で賛否の議論が沸騰していた頃、あるニュースが日本中を駆け巡った。
1995年1月17日の早朝、あの驚天動地の阪神淡路大震災が起こったのだ。
テレビ画面では、神戸市内の高速道路やビルが倒壊した様子が連日流され、さすがに原発立地の優等生と言われた旧浜岡町民も不安を感じ、5号機反対の意見が多数を占めるようになった。
それに、浜岡原発の立地場所は、やがてやって来る東海大地震の震源域のど真ん中と盛んに噂されていた。
これで5号機建設案は流れるだろうと、反対派の住民の中からも楽観論が囁かれるようになったが、実際はそのようにはならなかったのだ。
中部電力が、旧浜岡町の佐倉地区に原子力発電所建設計画を町に申し入れたのは、昭和42年(1967年)5月であった。
浜岡町史によると、「町当局は事の重大性に鑑み、慎重な態度をもって検討を加えた結果、地区住民ならびに、町内大多数の住民の賛同を得た場合のみ、受け入れる用意のあることを伝えた。
以後、町及び中部電力株式会社によって数10回にわたる説明会、懇談会を開催して住民の理解と協力を要請した」と比較的に淡々とした感じで記されている。
しかし、海辺の小さな町に原発がやって来るということは、旧浜岡町の住民にとって一大事だったに違いなかった。
数10回にわたる説明会や懇談会が開かれ、中部電力が招聘した学者を名乗る人物から、地元の人々はこのような話を聞いた。
「これからは、月へも人類が自由に行ける時代になる。科学の進歩は日進月歩であるから、いまは危険だと恐れられている放射能も、スプレーをかけただけで中和され無害になる薬品が必ず開発されます。だから、もし不幸に被ばくすることがあっても、すぐに治りますよ」
別の日にはこのような説明も受けた。
「放射能もガンも、あと10年もすればみんな解決するでしょう。だから、原子力発電所がこの町に建設されると言っても、何も心配はいりませんから・・・・」
このような子供だましの嘘を偉い人が平気で言うものだから、素朴な地元の人々は信じてしまったのだ。
町は原発誘致の話でもちきりになり、地元の発展を喜んだある町民がこう叫んだらしい。
「浜岡の泥田に、金の鶴が金の卵を抱いて舞い降りた!」
地元の人々の原発にかける期待と、歓喜の様子がこのひと言に端的に表現されている。
この話は町史に書かれているそうだが、残念ながらいくら捜しても見つけ出すことはできなかった。
ここで述べられている金の鶴とは中電で、金の卵が浜岡原発であろうか。いまではどちらもメッキが剥がれてしまい、原発は害毒を撒き散らす危険でおぞましき怪獣の卵と化してしまった。
浜岡原発1号機の建設が始まったのは1970年のことだった。
中部電力は原発予定地であった佐倉地区の土地を、その当時1反(300坪)あたり5万から10万円だったのを、160万円から180万円で買収した。大盤振る舞いであった。
その結果原発成金が大勢誕生し、彼らは土地を売った金で住居を建て直したり、車を購入したりした。
農家は、原発建設でこの町にやって来る労働者のために民宿という商売を始めた。中電は次々と新しい道路をつくってくれ、立派な公民館も数ヵ所建てられ、図書館、野球場などの公共施設が造られた。
それから原発周辺の土地を所有している地主らは、社宅や社員寮建設地として購入してくれるように積極的に交渉したのだが、地元民を懐柔する必要があった中電は要請されるままに大盤振る舞いを行ない、原発周辺の広大な土地を購入した。
そして、漁民に対しては巨額の漁業補償金が支払われた。
砂丘の町浜岡は、地域の活性化をスローガンにし、過疎化に歯止めをかけるために原発を受け入れた。
そして1号機の建設が始まると、多くの地元住民が雇用され、全国各地から集まった工事関係者で民宿や飲食店がにぎわい、地元の土建会社に巨額の金が落ちた。原発景気で町全体が湧いたのだ。町内会で旅行やイベントを行なえば、中部電力が積極的に資金を補助してくれた。
中電は、地元の有力者を接待して飲ませ食わせの毎日だし、頑固な反対派には原発内の清掃などの仕事を請け負わせて口を閉ざさせた。
何度も援助してもらうとそれがあたり前のようになって、やがては一部の住民は平然と飲み代をたかったり、補助金名目で金銭を要求するようになったというような話が伝えられている。
そのため、町全体がいっそう中部電力に依存するようになった。
しかし原発マネーに群がったのは、ごく一部の強欲な住民たちだけではなかった。
浜岡町の町会議員にも、当選祝い金なるものが中電から支払われるようになったのだ。
1号機が運転開始した直後の、東海地震の話題が持ち上がり騒がれだした頃からだと聞いている。
中部電力が、この当選祝い金を出すようになった理由はたった一つしかなかった。議員連中に原発反対の声を上げさせないためだった。口封じ目的だったのだ。
こういう話はなかなか明るみに出ないものだが、数名に取材したところ、議員から直接聞いたという人が現われた。彼が話を聞いた議員は2名だった。
その2名の議員とも、中電から「当選祝い金」という名目で金を受け取ったのは約15年前の選挙直後だったという。
金額はどちらも500万円。この金はもろ賄賂性を持っているが、収入として申告したのか、という問いには答えなかったそうだ。
それから、原発をこの地に誘致した旧浜岡町時代の元町長は桜ヶ池のある池宮神社の境内で銅像となってその功績を称えられ、その次の町長は浜岡原発が5号機まで建設されたことに対する大功労者として、中部電力から毎月30万円という慰労金が支払われている。
この金は、生涯受け取ることができるのだという。このように、この地では原発の功労者は篤く報われ、原発に異論を唱えるものはアカではないかと後ろ指を差され、ひどい場合には村八分にされたのだった。
<転載終わり 続く>