緒方松右衛門 | 絶対音感女性社長 堀口直子の音楽ブログ

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昭和22年8月15日、緒方政明一等兵の所属する部隊は、満州奉天に於いてソ連軍に投降した。
3ヶ月後、彼はウズベック共和国タシケント収容所に抑留され、国営劇場の建設に従事した。
彼ら捕虜にたいする待遇は、決して満足できるものではなかったが、タシケントの人々の生活も又、それに劣らぬ程貧しいものだった。
もっとも以外だったのは、人々が焼きものを知らないことだった。
彼らが用いていた食器は、缶詰の空缶だったのだ。
翌年、タシケントの東南200キロ、アングレン捕虜収容所で小さな事件が起きた。
一日本兵が粘土をこね、炊事用の窯で焼き上げて、数個の湯のみを作ったのだ。
それを見たソ連軍将校がただならぬ形相で詰問した。
「コレハドウシタノカ?」
「作ったモノダ」
「コレ程ノ物ガ作レルノカ?」
「勿論、オレハ陶工ダ」
「オオ!」

将校は大仰に驚いたが、数日後アングレン収容所の日本軍体調蛙h、陶磁製造工場の
建設を命じられた。
だが、調べてみると経験者はわずかしかいない。
隊長は
「不可能デアル」
と答申した。
そこでソ連抑留中の捕虜部隊に対して経験者集合の命令が伝達された。タシケント収容所では、緒方一等兵他一名が名乗りを上げ、即座にアングレンに転属を命じられた。

陶器の製造には、陶工、ロクロ、窯、窯道具一式が不可欠である。
直ちに経験者中の注意を工場長に選び、会議が開かれた。
その結果、ロクロは大工が、歯車は鍛冶屋が作ることになり、窯は年度を焼いて作った耐火煉瓦を積み上げた。
初めは備前のように焼きしめ、自然灰釉のかかるのを期待したが、良質でない陶土と不完全な窯ではうまくいかず、どうしても釉薬が必要となった。
だが、付近には石英がない。
その時、緒方一等兵は収容所の一隅に積んであるガラス瓶の山を見かけた。
釉薬とは、要するにガラスに過ぎない。
ガラスを粉にして塗れば、当然釉薬になる筈ではないか。
彼は試作し、見事に成功した。
彼の技術は一同の認めるところとなり、いつしか工場長的立場に立たされることになった。
依頼、一立方米の窯はフルに炎を上げ、日産30箇程の茶碗や皿を焼き続けた。
それまで缶詰の空缶のみを用いていた収容所の空気は一変し、喧嘩が休職に姿を消した。
陶器の持つ魅力は、制作者に最高の待遇に与えソ連兵の監視なしの行動と、町のバザールで陶器を売る自由まで許した。
陶器に熱狂した市民との交流は、ゲーペーウーがひそかに調査を始めた程であった。
昭和23年、収容所内でダモイが囁かれ始めた時、緒方一等兵は収容所長グビネンコ大尉に呼び出された。
「当地二永住スル気はナイカ?」
大尉はすでに緒方一等兵の身元を調査し、郷里に妻子がないことも知っていた。
「モシ残留スルナラ、ウズベック一の収入と美人の妻ヲ保証スル」
とも云った。
彼の脳裡に、懐かしい有田の窯場と、捕虜たちの憧れの的であった美少女ソー二ャの顔とが交錯し続けた。
一週間後、彼は断固と答えていた。
「有田ノ窯ガ、オレヲ待っテイル」
その年の8月、彼は夢に見続けた有田の窯場に立っていた。
だが、今も酔うと彼の唇に上る言葉がある。
「ソー二ャは今・・・・」


緒方松右衛門作品展 1979年

とき 昭和54年6月20日ー25日
ところ 東京日比谷 日生会館

個展