2011年03月02日(水)

予算案賛成の小沢氏に関する朝日の奇妙な記事

テーマ:政治

政治記事というのは奇怪なもので、記者の憶測や解釈、あるいは当事者以外の政治家から漏れ聞いた話が、事実のように語られる。


たとえば、今日の朝日新聞、蔵前勝久記者の署名記事。小沢一郎氏が新年度予算案に賛成票を投じたことについて。


「予算案に賛成したのは、首相が簡単には退陣しないことを見越し、しばらくは党に足場をとどめて来るべき政局に備えるためだ。」


どこか、この文章自体に、違和感をおぼえないだろうか。小沢氏が予算案に賛成した意図を書いているのだが、どうしてそんなことが小沢氏の広報官でもない蔵前記者に分かるのか。


小沢氏がそう言ったという書き方でもなければ、蔵前記者がそう推測するという書き方でもない。


いわば主体のない文章。言霊が人間から幽体離脱して誰のものか分からなくなったようで、われわれ読み手の視点が定まりにくいのである。


この手の文章は、少なくとも二つの主体(人間)が入り混じり、誰がどの位置から見ているのか、視点がぼやけ、誤ったイメージやメッセージを送るもととなる。具体的に検証してみよう。


二つの主体とは小沢氏と蔵前記者のことである。いや、正確に言えば、蔵前記者と、蔵前記者の遠近法で描く小沢氏が、文章のなかで交錯しているといえる。


すなわち、小沢氏が行動や意思の主体と感じられるこの文脈の中に、実は小沢氏本人は存在していないのである。


分かりやすくするために、この記事を別の文章に書き直すとすれば、こんな感じになるだろう。


まず、蔵前記者の見方を書く場合。


「小沢氏が予算案に賛成したのは、首相が簡単には退陣しないことを見越し、しばらくは党に足場をとどめて来るべき政局に備えようと考えたためではないかと、(筆者=蔵前記者は)思う」


次に、他の政治家、あるいは官僚や秘書の見方を書く場合。


「○○によると、小沢氏は、首相が簡単には退陣しないことを見越し、しばらくは党に足場をとどめて来るべき政局に備えるため、予算案に賛成したらしい」


もうひとつのケース、すなわち小沢氏が予算案賛成の意図を蔵前記者に語ったのなら、素直に小沢氏がそう言ったと書けばいいだけのことで、この記事から見る限り、小沢氏に直接、取材したとは考えられない。


そこで、蔵前記者の記事をあらためて見てみよう。


「予算案に賛成したのは、首相が簡単には退陣しないことを見越し、しばらくは党に足場をとどめて来るべき政局に備えるためだ。」


小沢氏が言ったのでもなく、蔵前記者の主観なのか、他の誰かの見方なのかもはっきりしない、まるで神のお告げのような一文である。


そして蔵前記者はこの文章に続けて次のように書く。


「1日夕には党常任委員会が終わった後に党員資格停止処分への不服申し立てを提出。処分への反論をÅ4の紙8枚に書き連ねた。」


小沢氏が予算案に賛成したことを、さも重大な意味があるかのごとく取り上げたわりには、そのことを掘り下げもせず、党員資格停止処分に不服だという話にあっさり移っていく。


そのあと、会派離脱の16人のうちの一人に「これは『一の矢』だ」と言ったとか、親小沢派議員のパーティーで、解散になる可能性もあるから準備を急ぐよう支持者に訴えたとかいう話をつなげて、「倒閣 時機探る小沢氏」と見出しの躍る記事に仕立て上げた。


結局のところ、中身そのものは、最近の小沢氏にまつわる断片的な話をくっつけただけの「盛り合わせ記事」に過ぎない。


「小沢一郎は腹黒い」という、マスメディアの勝手な“定理”から出発したものの、論理的に筋書きを組み立てることができず、気迷いがちな「作文」になってしまったのではないか。


ただし、全体的な印象が、「倒閣へ陰謀をめぐらす小沢一郎」という感じになっているという点で、朝日としては納得の記事なのかもしれない。


それにしても、せめて署名記事くらいは、執筆者本人が何に価値を置く立場なのかという「本位」を定め、事実と推測の別を明確にして、一切ごまかしのないように心がける必要がある。


そうでなければ、読む側は人間から離れた言葉の群れと向かい合って戸惑うか、有無を言わせぬ神のお告げにひれ伏すしかなくなってしまうだろう。


記事の書き方の旧態依然とした習慣や伝統も、そろそろ変えるときが来ているのではないか。たまたま目についた蔵前記者の記事をとりあげたが、新聞界全体で取り組むべき課題である。


新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)


2011年02月23日(水)

問答無用の資格停止こそ不条理だ

テーマ:政治

森島恒雄氏の「魔女狩り」(岩波新書)にこうある。


「上は高遠な思想家から下は毒草摘みの老婆にいたるまで、貴賤貧富、老若、性別を問うことなく魔女となった。思えば魔女は気の毒な道具であった。彼らの関知しないあらゆる災厄や不幸、戦争や政治が彼らに結びつけられたのである。しかもそれは、全く恣意的な結びつけであった」


いまや、小沢一郎は、この国の政治がうまくいかない罪をすべて負わされているかのようだ。「全く恣意的な結びつけ」によって。


「魔女狩り」とは、15~17世紀、西欧のキリスト教国に広がった支配者や知識人の手による異端者処刑のことである。


ルネッサンスの文化が花開いた時代に、大学者や文化人が、法皇、国王、貴族に手を貸して繰り広げられた狂気の殺人ゲーム。気に入らない人間は女だろうが男だろうが、異端審問にかけられ、神の意思に反する「妖術」を駆使する者として処断された。


昨日、民主党の倫理委員会は、さながら異端審問の場と化した。


「検察審査会による起訴手続きと、検察による通常の起訴の違いについて、どのようにお考えになっているのか」

「検察審査会の起訴議決の有効性について、どのように判断されているのか」

「党員資格停止は最長六ヶ月とされているものを、判決確定までの間とするのはなぜか」


小沢氏は上記を含む5つの質問に対する回答を文書で求めたが、渡部恒三倫理委員長は「先例がない」と突っぱねたという。このあとの常任幹事会で、民主党は小沢氏の「党員資格停止」を決めた。


質問に答えもせず、問答無用で資格停止処分にする。いったい小沢氏が何をしたというのか。


はっきりしているのは、東京地検特捜部が、政治資金収支報告書の記載方法に関する些細な解釈の違いを事件にして、小沢氏の元秘書3人を逮捕、起訴し、その三人とも無罪を主張していること。三人の元秘書と小沢氏が共謀しているかどうかを裁判所で判断してもらう権利が国民にあるとして、検察審査会が起訴議決をしたこと。それだけである。


民主党の倫理規範にある「汚職、選挙違反ならびに政治資金規正法令違反、刑事事犯等、政治倫理に反し、または党の品位を汚す行為」 に今の時点で該当すると判断できる材料は何もない。


魔女狩りの広報機関でありながらその自覚さえないマスメディアは、相も変らず感情むき出しの論説を繰り返している。


「極めて甘い処分にとどまった。国会での説明責任に背を向けたまま、これで幕引きすることは許されない」(日経社説)


「元秘書3人の逮捕・起訴に加え、本人が刑事被告人となった以上、本来は自発的に政治的なけじめをつけるのが国会議員として筋である」(読売社説)


なかでも朝日社説は極めつきのヒステリー症状を呈する。「党員資格を停止される人物が、闇将軍のように党内で影響力をふるう。異様な光景というほかない」


さて、その朝日、同じ日の天声人語で「無菌化」の危うさを書いている。


◇「ハックルベリー・フィンの冒険」の黒人への差別語を、無難な語に換えた新版が米国で出版され論争を呼んでいる(中略)今は禁句の「ニガー」という言葉が200カ所以上使われている。これを「スレーブ(奴隷)」とした(中略)言葉のために名作が読まれないのは残念、というのが新版の趣旨らしい(中略)「無菌化」とはニューヨーク・タイムズ紙の新版批判である▼あらためて日本語訳を開くと、差別語に限らず、雑菌の森を行くような奔放な言葉は面白さの一つだ。◇


何か気に障るもの、害があるのではないかと思えるものを見つけたら、繰り返し繰り返し「除菌」しようとする「無菌社会」志向はいまの日本が抱える深刻な病的風潮である。集団ヒステリー、または潔癖症的な精神状態がさまざまな難題を生み出している。


天声人語はこう締めくくる。「事なかれ主義で安易にタブーを生む社会は、優しげに見えてその実危うい。無論米国だけの話ではなく」。


まさにその通りである。ところで、この国の言論界において、小沢一郎擁護はタブーのようになっていないだろうか。


小沢氏をイメージだけで細菌のように毛嫌いする世間の風潮をつくりだし、悪乗りし、さらには「闇将軍のようにまだ影響力をふるう」のはけしからんと、政界から「除菌」するかのごとく追放を声高に叫んでいるのは、朝日新聞をはじめとする大手メディアであろう。


「無菌化」は人を、社会をひ弱にする。些細なことに過剰に反応し、重要なことに考えが及ばない。


単純な善悪二元論で、つねに誰かを悪者にし、それを徹底的に攻撃することで部数を伸ばし、「無菌社会」の製造を続けてきたのが、実は自分たちの言論であるという自覚もなしに、「安易にタブーを生む社会は、優しげに見えてその実危うい」と書いてみても、どれほどの説得力があるだろうか。


せっかく「無菌化」を取り上げた機会に、朝日新聞は「無菌化」がおよぼす社会の病理について、わが身を振り返りながら紙面で掘り下げてみてはどうだろう。


さしずめ「小沢バッシング」などは、格好の材料だ。そのさい、民主党議員の会派離脱などさまざまな動きを、すべて小沢の差し金だと決めつける思考回路に詰まりがないかどうか、よく点検されることをおすすめしたい。


 新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)

2011年02月19日(土)

16議員の行動を非難する朝日社説に「理」はあるのか

テーマ:政治

誰が言ったか、社説は「新聞の床の間」だという。なくても困らないが、なければなんとなく体裁が悪いというていどのものだ。


実のところ、筆者は「社説」に異議を唱えるのをあまり好まない。経営陣の意向が色濃い「社論」に沿って、論説委員が意見を出し合い、その総意を汲み取って書くようなものに、さしたる意味はない。いわば、「毒にも薬にもならない」からである。


それでも、この論を信じきっている人も、中にはいるだろうから、時々はお愛想ていどに苦言も呈しておかねばなるまい。


たとえば、今朝の朝日新聞「小沢氏系造反 異様な行動に理はない」と題する社説に、どれほどの「理」があるか。それを今日の料理の材料としてみよう。


いうまでもなく、16人の民主党衆院議員が、国会内の民主党会派からの離脱を表明した一件がテーマなのだが、「政党人として到底許されない行為だ」と書き出しからいきなりバッサリ斬って、怒り心頭といった風情なのである。


なぜ、そんなにお怒りなのか。「社論」の背景は色々あるだろう。それは後述するとして、まずはこの「社説」における怒りの理由を下記に抜粋したので、とくと拝見しよう。


◇16人は「造反」の大義名分として、菅政権が国民との約束であるマニフェストを「捨てた」と断じるが、見当違いもはなはだしい。ばらまき型のマニフェストが財源不足で破綻していることは誰の目にも明らかだ。必要なら見直すのは、政権与党のむしろ責務だろう。確たる恒久財源の当てもなく、「マニフェスト実現」のスローガンばかりを繰り返す方がよほど無責任である。◇


これだけ読んだら、「そりゃそうだ」と納得する読者も多いことだろう。しかし、その納得の思いは、財源不足で破綻しているマニフェストを菅政権が捨てたのを造反の理由とするのは見当違いだ、とするこの社説の意見に同意するからに他ならない。


ならば、本当にこの16人が見当違いなことを言っているのかどうかを検証しなくてはなるまい。


こういうときにこそ、ぜひ、インターネットを活用したいものだ。ネットで検索すれば、彼らが報道陣に配った文書の全文が手に入る。朝日社説が書く「マニフェスト実現のスローガンばかりを繰り返す方がよほど無責任である」に対応する文章はこうなっている。


◇総選挙では、予算のムダを徹底的に削り、新たな政策の財源に充てるとしたマニフェストを掲げ、政権交代を実現した。しかし、「予算の総組み替えなどを行う」と主張していたのに、ほぼ手つかずの一方で、先週、菅総理大臣は、「衆議院の任期中上げない」としていた消費税については、「来年度末までに法的な対応をしなければいけない」と発言し、増税への意欲をあらわにした。菅政権は国民との約束、マニフェストを捨てたのである。

 また、政治家主導で日本を立て直すはずが、目玉とされた国家戦略局の設置法案は実現せず、公務員制度改革も反古(ほご)にされている。官僚に頼り放しだが、尖閣問題や北方領土問題など、もっとも政治主導であるべき案件で失敗すると官僚のせいにする。菅政権は政治主導の御(み)旗も捨てたのである。◇


議員16人が強調しているのは、政治主導で総予算組み替えや公務員制度改革などを実行することによって、国民との約束であるマニフェスト実現に努力するべきであるのに、菅政権は約束を破って消費増税に血道をあげ、官僚依存の自民党政治に逆戻りしたということである。上記の文章で彼らの行動の真の意味は十分、理解できるはずだ。


その真意を無視し、「マニフェスト実現のスローガンばかりを繰り返す方がよほど無責任である」という問題にすり替えて論説を展開する背景に何があるのだろうか。それは、この社説の後半、つぎのくだりにヒントが隠されている。


「小沢氏の処分を早く決め、マニフェストの見直しや社会保障と税の一体改革も決然として進めなければならない。もはや『党分裂』を恐れて迷い、ためらっている段階ではない」


つまり、なにがなんでも「消費増税」をやり抜け、と菅首相の尻を叩き、首相を操る財務省に声援を送っているのである。


ここで、2月10日の「永田町異聞」メルマガ版にくわしく書いた新聞界の思惑にふれないわけにはいかない。メルマガから一部を転載する。


◇新聞と財務省の関係をうかがわせる人事があった。昨年11月16日、丹呉泰健氏が読売新聞の社外監査役に就任するという小さな記事が各紙に掲載された。


丹呉氏といえば、2009年の政権交代直前に財務事務次官となり、2010年7月に退任したばかり。OB人脈を含めた財務・大蔵一家のなかでの影響力は大きい。


読売新聞がなぜ、丹呉氏を必要とするのか。読売グループのドン、渡邊恒雄の意思がはたらいているとみるのが自然だろう。この人事の背後に、「消費増税」への新聞界の思惑が透けて見える。


消費税が数%でもアップされると、ただでさえ人口減、インターネットの台頭、広告収入の大幅ダウンに見舞われている新聞業界はもたない。


そこで、渡邊氏ら新聞界のトップが考えているのが、英国のように食料品など生活必需品の税率をゼロ、もしくは軽減するよう世論を誘導し、その生活必需品のなかに、さりげなく新聞をもぐりこませるという算段だ。


それを可能にするために、財務省の増税路線を大いに支援して恩を売っておく必要がある。いざというときの橋渡し役として、丹呉氏はうってつけだと考えたに違いない。


新聞にとって、もうひとつの恐怖は、再販制度と特殊指定の特権を剥奪されることだ。現在のところは、再販制度によって高価格に維持できているからこそ、まがりなりにも新聞の経営はなりたっている。


ふつうの商品なら、価格を決めるのは小売であり、メーカーが価格を押しつけると独禁法違反になる。新聞は特殊指定によって、メーカーである新聞社が価格を決めることができる数少ない商品だ。


渡邊恒雄氏ら新聞業界トップには再販制度をめぐるこんな前歴がある。2005年11月、公正取引委員会が、再販制度について新聞の特殊指定を見直す方針を打ち出した。実はそれよりはるか前の1998年にも公取委が「基本的に廃止」の方針を固めたことがあったが、新聞協会会長だった渡邊氏らの政界工作で、「当面見送り」にさせた経緯がある。


05年の見直し方針に対しても同じだった。新聞協会は猛反発し、各政党への働きかけによって政界の支持を得た新聞協会に公取委が屈して、方針を取り下げた。


記者クラブの独占的取材体制など新聞協会の既得権に手厳しい小沢一郎は、マスメディアにおもねる体質が色濃い政界にあって異彩を放っており、それが異常なバッシング報道を受ける大きな要因であることは確かだろう。


ちなみに、再販制度を所管する公正取引委員会の委員長、竹島一彦は大蔵省OBであり、読売新聞の社外監査役となった丹呉が、この方面でも一定の役割を果たすことになると推測される。


こうしてみると、強大な予算配分権の維持をめざす財務省は国家財政の危機を過大に喧伝して増税の必要性を唱え、現実に経営危機が迫りつつある新聞社とその系列のテレビ局を抱き込むことで、世論調査という擬似国民投票に右往左往する菅内閣が財務省の言いなりになる形をつくることに成功したといえる。◇


大新聞がこぞって消費増税を支援している理由がわかっていただけたのではないだろうか。


経営の論理が新聞の「社論」になり、そこから逸脱しないよう、いやむしろ社長の覚えめでたきよう意図して「社説」が書かれている日本新聞界の現状が、今日の朝日社説からも浮かび上がってくる。


新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)

2011年02月15日(火)

小沢氏のどこが党倫理規則違反なのか

テーマ:政治

先日、筆者の知人がいつになく激しい怒りのメールを送ってきた。


「権力を握ったとたんに仲間を売る、菅さんトリオは古くはロベスピエール、最近ではヒットラーやスターリンと同列の非情な悪党です」


表現は少々、極端だが、同じように思っている人が多いのだろう、全国各地で「小沢コール」のデモが繰り広げられている。


魔女狩りに加わるのも人ならば、そんな集団ヒステリーをやめるよう諌めるのも人である。


ツイッターやブログ、動画や記事の投稿サイトで共感しあった老若男女が、呼びかけに応じて、指定の時刻、指定の場所に集結する。たちまち、見知らぬ人どうしの連帯感が生まれる。


チュニジアやエジプトのような大がかりで激しい人の波ではない。それでも驚くほど多くの市民が、警官の規制のもと、整然と行進をする。ネット動画で大阪・御堂筋のデモを見たが、沿道にたまたまいた人がその隊列に加わり、いつしかより大きなうねりになっていた。


拡声器でスローガンを唱えてはいるが、抑制の利いた、いわば「大人のデモ」である。しかし、だからこそ、その訴えはズシリと重く感じる。


小沢一郎氏への検察の弾圧、マスメディアのバッシングによって神格化された「世論」。その幻の絶対者に生贄を捧げるがごとく、本来なら仲間として守らねばならない菅首相や党執行部までもが「小沢処分」という、妄想的な免罪符を「世論」から手に入れるために血眼になっている。


さて、昨日、民主党役員会が小沢氏を裁判確定まで「党員資格停止」とする提案をまとめた。その「提起理由」とやらが、今朝の新聞に掲載されている。


「元秘書が逮捕、起訴された内容について強制起訴されたことは、党倫理規則違反に該当する」


これまでの経過をよく知る人ならば、この文言に違和感をおぼえることだろう。元秘書の逮捕、起訴が正当だったかどうか、検察審査会がどのような審査をして短期間に起訴議決をしたのかベールにつつまれたままであることなど、本質的な問題をいっさい党として検証することなく、外形的事実によってのみ判断していることがこの違和感のもとになっている。


そもそもこの提起理由における「党倫理規則違反」とは、どのようなことについて「違反」だと言うのだろうか。民主党の倫理規則には、「倫理規範に反する行為を行ってはならない」とある。


では、倫理規範とはどのような中身か。以下の通りである。


1 汚職、選挙違反ならびに政治資金規正法令違反、刑事事犯等、政治倫理に反し、または党の品位を汚す行為


2 大会、両院議員総会等の重要決定に違背する等、党議に背く行為


3 選挙または議会において他政党を利する行為等、党の結束を乱す行為


小沢氏はこの三項目のうち、どれに該当するのだろうか。汚職をしただろうか。政治資金規正法違反を犯したかどうかはこれから法廷で判断されるのではなかったか。少なくとも検察は、違反の証拠はないとして不起訴にしているのである。


またこの「党員資格停止提起理由」にはこうも書いてある。


「検察審査会の起訴議決に基づく強制起訴が通常の検察による起訴とは異なることについて一定の考慮は必要だが、法に基づき国会議員本人が起訴された事実は重い」


ゆえに党員資格停止より重い「離党勧告」「除籍」といった処分はしないというわけだ。


「政治とカネにけじめをつける年にしたい」という菅首相の年頭スローガンや党執行部のメンツを守りつつ、予算関連法案を通すためにはどうしたらいいかという設問の答えがこれなのだろう。


「離党勧告」「除籍」を回避したという言い訳で、党内のいわゆる「親小沢」議員との妥協をはかる思惑が透けて見える。


先述したことでもわかるように、小沢氏はもともと「党員資格停止」の処分を受ける理由などない。民主党の議員諸氏は、倫理規則の元来の精神に立ち戻り、その解釈についての議論を戦わせてはどうか。


 

  新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)


2011年02月08日(火)

かくも怪しき検察の冒頭陳述

テーマ:政治

石川議員ら小沢一郎氏の元秘書3人に対する初公判で、検察側は起訴事実である政治資金収支報告書の「記載時期ズレ」よりも、起訴事実にない推測的内容である「裏金」ストーリーに重点をおいた冒頭陳述を繰り広げた。


これは、立件した「期ズレ」などは些細な解釈の問題であって、立件できなかった内容のほうが検察にとって重要だということを自ら認めたようなものだ。


どうでもいい軽微な案件で人を捕まえ、それを正当化するために起訴事実にできなかった中身を法廷で持ち出すというのは、いかにも昨今の検察の倒錯的な特質だ。


裏金の授受について、「あった」とする検察の言い分に合理性がなければ、この裁判はすぐにでも決着をつけるべきである。


では、検察側の冒頭陳述における次の部分を見てみよう。もちろんこれは起訴事実には含まれていない内容だ。


「水谷建設の元社長は平成16年10月15日午後、東京都港区赤坂のホテルで石川被告に現金5千万円入りの茶色封筒を手渡した。18日には陸山会の銀行口座に5千万円の入金があった」



つまり、検察は、石川氏が水谷建設から受け取った裏金5千万円を16年10月18日に陸山会の口座に入金したと主張している。


これに対する被告側の冒頭陳述はこうだ。


「16年10月12日、石川被告が小沢元代表から4億円を借り入れた。土地売買契約の手付金などとして支払った1508万円を除き、石川被告によって13日に1億8千万円、18日に5千万円、21日に5千万円、25日に5千万円、27日に5492万円が陸山会の口座に入金され、その合計額が4億円に達している」



16年10月18日に石川氏が陸山会の口座に入金した5千万円は、水谷建設の裏金ではなく、小沢氏から借りた4億円の一部であるというのが被告弁護団の反論である。


4億円-1508万円-1億8千万円-5千万円-5千万円-5千万円-5492万円=0


ぴったり帳尻が合っている。そこで弁護団はこう主張する。


「この客観事実だけで、検察が18日の5千万円を水谷建設からの資金であるとする推論が働く余地はまったくない。資金提供の存否を法廷で争うまでもなく、本件となんら関連性も有しないことは明白で、立証自体許されない」


さらに、10月15日午後、赤坂のホテルで石川氏に現金5千万円を手渡したと検察がいう水谷建設元社長の、その日の行動については次のように指摘した。


「水谷建設の社用車の運転手は自らの手帳に社用車の利用者の氏名、行き先を記載していた。16年10月15日欄には『12:10 東京駅迎え 社長』と記されているのみで、検察が資金提供したと主張する元社長を授受現場とされるホテルに送り届けていなかった」


運転手に問いただせば、元社長をホテルに送ったかどうかはすぐにわかるはずで、検察がそれを聞いていないはずはない。特捜検事が聞いた内容を無視するクセがあるのは村木冤罪事件で周知のとおりだ。


筆者は昨年5月17日の当ブログで「これでいいのか石川議員手帳メモ誤報の後始末」という記事を書いた。検察が主張する16年10月15日の5千万円授受に関する重大な誤報をとりあげたものだ。


これを読んでいただければ、検察のリークと、それを無批判に垂れ流して誤報を量産する大手メディアの不公正がよくわかるはずである。


◇◇◇


石川議員に関する重大な誤報、そしてそれを小さな訂正記事で済ませようとするに新聞社に対し、一市民Tと名乗る方が、孤独な闘いを続けておられる。


ご本人からのメールで知り、当ブログとしても、この問題を取り上げることにした。誤報と判明したさい、新聞はどう責任をとるべきか。読者とともに考えたい。


問題の記事は、ことし1月25日、日経と読売の夕刊に大きく掲載された。読売が四段見出し、日経が五段見出しなので、おそらく一面トップの扱いだったと思われる。どちらも概ね、次のような内容だった。


東京地検特捜部が押収した石川議員の手帳に、水谷建設の元幹部らが5000万円を全日空ホテル(東京都港区)の喫茶室で渡したという2004年(平成16年)10月15日の欄に、「全日空」と書かれていた。


特捜部はこの10月15日に水谷建設の関係者が同ホテルに宿泊していたことを確認。授受の3日後の18日に、陸山会の口座に5000万円が振り込まれていたことも判明している。


以上のように、いかにも授受を一貫して否定している石川議員の供述が偽りであるかのような印象を与える記事になっている。


ところが、翌26日の朝刊で、両紙とも紙面のスミに小さく訂正記事を掲載した。Tさんが購読している日経の訂正記事(全文)は以下の通りだ。


25日付夕刊「手帳にホテル名メモ」の記事で、石川知裕衆院議員の手帳でホテル名の記述がある欄は「2004年10月15日」ではなく、水谷建設の元幹部が小沢一郎氏側への2回目の現金提供の時期と供述しているとされる「05年4月」の誤りでした。記事、見出しの一部を削除します。


1月25日夕刊の記事は、手帳の「2004年10月15日」欄に、「全日空」と書いてあることを根拠に書かれたものだ。派手に扱った記事を全否定する訂正内容にもかかわらず、目立たぬよう、無機質な短文で済ましている。


また、全日空はホテル名ではなく飛行機その他かもしれず、本来ならこれだけで記事にすることも良識があればできることではない。


それを無理に「飛ばし記事」に仕立てたうえ、次の日には「記事、見出しの一部を削除します」では通らない。ちなみに日経の見出しは「手帳にホテル名メモ」「『現金授受』供述と同じ日」。これが全てである。


一部ではなく、見出しも記事も全てを削除せねばならないはずだ。


さらに、罪深いことがある。訂正記事の「水谷建設の元幹部が小沢一郎氏側への2回目の現金提供の時期と供述しているとされる『05年4月』の誤りでした」とはどういう意味だろうか。


05年4月の30日間のいずれかの日に、「全日空」と書かれているということなら、なぜそれが「水谷建設の元幹部が小沢一郎氏側への2回目の現金提供の時期」と関係があるのだろうか。全く書く必要のないことである。


明らかにこれは、自らの大誤報を取り繕うため、「ちょっとしたミス」のような印象を与えるよう姑息な細工を施したものといえる。これでは恥の上塗りだ。


(中略)


社会的影響の大きいニュースについての重大な誤報があったときは、それなりに目立つ扱いで、読者に間違えて伝えた情報の差し替えを徹底する必要がある。(以下省略)


◇◇◇


この記事の中身からも、検察の冒頭陳述における、5000万円授受という話の怪しさが伝わってくる。


新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)

2011年02月02日(水)

「小沢無罪見通し」と「強制起訴」を埋める新聞の苦心惨憺

テーマ:政治

「国民は裁判所によって無罪か有罪かを判断してもらう権利がある」


そんな理由で、東京第5検察審査会が起訴議決し、それを受けて準備を進めていた指定弁護士が1月31日、小沢一郎氏を「検審起訴」した。


小沢氏の政界追放に躍起となった東京地検特捜部が不起訴にした案件だけに、まともなジャーナリストの間では、「小沢無罪」が常識である。


どうやらマスメディア各社もそう読んでいるらしく、検審起訴についての解説記事は、どこも有罪立証の難しさを指摘し、扱いも地味だ。


早くも無罪判決のさいに備えているようだが、「裁判長期化は必至」(日経)と、結論先送り願望も透けて見える。


とはいえ、2月1日の紙面では「小沢強制起訴」というおどろおどろしき見出しに対応して大量の字数を確保すべく、政治的、道義的責任や、国会での説明がないことを追及することで、なんとか埋め合わせをつけている。


とくに、日経の「一時代が過ぎ去った」との記事には唖然とした。


一面トップ「小沢元代表を強制起訴」の記事のとなりに、その解説ではなく、西郷隆盛自刃の「もうここらでよか」という言葉を引いて小沢引退を促す宮本明彦政治部長の一文を高々と掲げているのだ。


「時代が、小沢一郎元代表の前を過ぎ去った感がある」という出だし。何かしら深い意味を持つ記述がこのあとに続くのかと期待して読み始めた。


ところが、念願の政権交代も実現したから「ここでまた権力ゲームに興じてみても国の衰退を加速させるだけのコップの中の嵐でしかない」と決めつけるのみである。


筆者は小沢氏が国を憂うことはあっても、権力ゲームに「興じている」とは思わない。


宮本氏は、小沢氏が手兵を集めて会合を重ね忠誠心を測っているとし、こうも書く。


「堀をめぐらし、塀を高くして、裁判の長期化を見越した要塞を築いていたかのようだ。時折、要塞の中から出撃しては、自らの言い分を一方的に発信したのも、焦燥感の表れだろう」


どうやら、権力欲にとらわれた小沢という男が、抹殺されるのを恐れ、兵と要塞をかためて守りに入りつつ、ときおりインターネット番組などに出て、自らの正当性を訴えているのだと言いたいようである。


宮本氏には、自分たちメディアが権力争いの製造装置であり、「国の衰退を加速させている原因のひとつである」という認識はカケラもないようだ。これぞ、「コップの中」の視野狭窄といえる。


報道の自由は民主主義社会になくてはならないものだが、自ら思考の自由を放棄し、やたら自作自演ともいえる世論調査結果に服従して、画一的、横並びのポピュリズム現象を生み出しているのがマスメディアである。


ポピュリズムを詐術的に利用したのが小泉純一郎氏だが、ポピュリズムに流されているのが菅首相であろう。


ポピュリズムの政治家には迎合型と雷同型があるのではないかと、筆者は考えている。


迎合型は、自分の考えを曲げてでも、他人の気に入るように調子を合わせるタイプ。雷同型は、自分の考えを持たず、むやみに他人の説や行動に同調するタイプだ。


菅直人という人物は曲げるほどの信念も持たない「雷同型」の典型で、あえてポリシーらしきものを見つけるとすれば、マスメディアの論調の大勢や、その影響が色濃い世論調査という名の擬似国民投票に逆らわないほうが安全と考えて疑わないところくらいだろう。


そのあげく、財務省主導消費増税の自民党路線へ逆戻りときては、財界御用達の日経新聞はよくても、われわれ国民はたまったもんじゃない。


ところで、世論調査を擬似国民投票のようにしてしまったマスメディアの罪深さは、読売新聞2月1日社説の以下の記述でもくっきりとあらわれている。


「現職の国会議員が法廷に立たされることは重い意味を持つ。刑事被告人が政権党の中で、隠然と影響力を行使することが果たして許されるのか。各種世論調査で、多くの国民は強い疑問を示している」


電話で即時に答える世論調査の数字を過大に重視し、背景や実態に思考をめぐらせることなく、刑事被告人だから政治にタッチしないよう求める主張は、いかにも単眼的である。


もとはといえば、小沢氏周辺への捜査は、官僚支配体制の解体をめざす小沢民主党政権の実現を阻止しようとする東京地検特捜部の暴走からはじまった。


小沢氏の憮然たる表情をとらえた写真とともに「政治とカネ」という呪文を2年近くにわたって繰り返したマスメディアの魔女狩り報道によって、雷同型の菅首相が小沢追い落としの権力ゲームに走ったのである。


日経の宮本政治部長の言う「コップの中の嵐」は、むしろ、みんなで渡れば怖くない記者クラブという「コップ」に安住する人たちがつくりあげた三文芝居のようなものであり、現実ではない。


厳しい自省の念と、カオスのなかで真実を求めてもがき苦しむ心構えが、この国の大手ジャーナリズムの幹部には足りない。


それがあるならば、「もうここらでよか」という西郷隆盛最期の短くも壮絶な言葉を、これから法廷で自らの潔白を証明しようとしている小沢氏に結びつけ、ある種の情感を読者に押しつけるような作文を弄することはないだろう。


  新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)

2011年01月30日(日)

「威信」「名誉」から脱却できない前特捜部長

テーマ:政治

昨日、青白い顔に乱れた髪の大坪弘道氏は大阪高裁、地裁などが入居する合同庁舎2階の司法記者クラブで、カメラの放列にさらされていた。


この裁判所のすぐとなり、大阪地検庁舎6階の特捜部長室のあるじだった昨年9月まで、大坪氏は自身が司法記者クラブで記者会見することになろうとは、夢にも思わなかったに違いない。


特捜部長時代の会見は、執務室に隣接する会議室でおこなわれたが、当時なら、同じ司法記者クラブのメンバーが相手とはいえ、捜査情報を持っている者として圧倒的に強い立場にあった。特捜部長といえば、30分ほどの会見時間、世間話をしてお茶を濁すのが通り相場だ。


今は、あくまで保釈直後の刑事被告人として司法記者室に呼ばれ、顔なじみの記者たちの前に座っているのである。酒を酌み交わした記者も多いだろう。自分を見る彼らの表情は、大坪氏の網膜にどのような像を結んだだろうか。


朝日新聞によると、大坪氏はこう語ったという。


「特捜部長として検察の威信のためだけに努力してきた。検察と闘うのは残念だが、自分の名誉のために闘う」


「検察の威信のためだけ」。思わず出た本音というべきだろう。


もしかりに、大勢の一般市民を前にしても同じことを言うだろうか。「巨悪に立ち向かい、犯罪をなくして明るい社会を築くために仕事をしてきた」と、大阪地検のホームページにあるような言葉を並べ立てるかもしれない。


今もこの人は特捜部長の立場にとらわれ、かつてある意味では同志でもあった記者との関係のなかでしゃべっている。


つまり、大坪氏にとって、「組織の威信」がなにより大切で、そのためにがんばって仕事をしてきたにもかかわらず、その自分が組織によって葬られようとしているのは理不尽だ、と言いたかったに違いない。


そしてこの「検察の威信のため」という大坪氏の本音は、他の多くのエリート検事も共有する思いであろう。出世欲が強ければ強いほど、公益より組織重視になっていく。


その意味では、彼らを捕まえて幕引きをはかった上級官庁、最高検には「威信」しか頭にない面々がそろっているはずだ。


もとより村木さんのケースのような冤罪事件が起きるのは、「検察の威信」と「真実の追求」が相反するからである。


適正な捜査による真実の追求があってこそ威信が保たれるのであって、組織の威信を守ることが自己目的化するようでは、真実に迫れるはずがない。


大坪氏はこれから、人間というものをより深く知ることができるだろう。組織から離れてただの人になるのは、大坪氏の人生にとってマイナスとは決していえない。


多くの人が遠ざかっていくなかで、ほんとうに信頼できる友を見つけることができるに違いない。


記者諸氏も、大坪氏に起きた人生の波乱から学ぶことは多いはずだ。


大学を出たばかりの若造でも、新聞やテレビの名刺ひとつで、役所や会社のトップが会ってくれる特殊な畑を歩いてきたことは、幸せである半面、心がけが悪ければ落とし穴も待っている。


検察官とおなじく、自分を過信し、勘違いしやすい職業であることを肝に銘じておかねばならないだろう。


大坪氏は幸いにして、検察庁の呪縛から解き放たれ、自由自在に世界を見るチャンスがめぐってきた。もう「威信」などのために努力する必要はなくなった。


これからはぜひ人生の目標をチェンジし、検察が国民のための組織に生まれ変わるよう、ひとはだ脱いでもらいたい。


 新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)

2011年01月23日(日)

天声人語に垣間見る知米家と知日派の風景

テーマ:政治

なぜ、日本のマスメディアが米国追随の論調を展開するのか、その謎を1月22日の朝日新聞「天声人語」で垣間見たような気がした。


まずはこの書き出しを読んでほしい。


 知米家で知られる先輩記者の松山幸雄さんが、かつて米国の大学で学生らに話をした。日本の「企業ぐるみ選挙」の説明をすると、「それは政治学というより文化人類学の領域ではないのか」と質問され、恥ずかしい思いをしたそうだ▼その松山さんが、「米国の知日派の会合で『小沢一郎氏の力の源は何か』と聞かれるのが一番困る」と言っていた。


米国の大学で学生の質問にたじろぎ、小沢一郎氏に関する米知日派の問いに困惑する。そんな親米ジャーナリスト像をこの記事は浮かび上がらせる。


しかも、質問の内容はさほど難しいものではない。


まず学生の質問。企業ぐるみの選挙について、学生が「政治学というより文化人類学の領域ではないのか」としたり顔に問う。


「いい質問だ。ところで君の名は?」とでも言えばいい。そして、筆者ならこう答える。


「政治学も文化人類学も枝分かれしているが、根っこは同じ社会科学だ。そうだろ?」


恥ずかしい思いの原因が、学問的分類の問題ではなく、企業ぐるみ選挙を生んだ日本の社会風土にあるのだとしたら、こう続ける。


「やれ政治学者、文化人類学者だと同じ社会科学が専門的に分化して学界を形成し、相互のコミュニケーションがなくなるように、日本ではあらゆる組織がタコツボ化して、仲間共同体に閉じこもる傾向が強いんだよ。ウチの人間は組織まるがかえで面倒みるというわけさ。そういう意味では、マイク、君の言うように、政治学の範疇ではとらえきれない世界だね」


次に、知日派の質問。「小沢一郎氏の力の源泉は何か」である。天声人語氏は松山氏を代弁して、答えに窮する理由を次のように書く。


 思想的な牽引(けんいん)力があるわけではない。演説は下手。時々雲隠れし、たまに会見してもレベルの高からぬ話――。それでいて政治のリーダーなのが、彼らには何とも不思議らしい▼たしかに、納得させる答えは難しそうだ。


筆者なら米国の知日派にこう答える。


「小沢氏の力の源泉は、日常の尊さを若い議員たちに教えているところにあります。これは、ご承知のZen(禅)に通じるものだと思います。たとえば、理屈をこねずにやるべきことをやる。歩きまわって、声を張り上げ、人の手を握る。毎日毎日、その『行』を繰り返すことにより、人間としての血肉がつくられていくことを体得すれば、人としても政治家としても一人前になる。エリート意識の強い受験秀才ほど、必要なことです」


これに納得してくれるかどうかは、相手のZenへの理解度にかかっている。多くの日本人ジャーナリストのように小沢流を選挙至上主義と矮小化するか、自分への執着心を解き放ち、外に目を向けるための「行」であると解釈するかによって、小沢思想への評価は天地の差がある。


ところで、文芸春秋2月号に、米知日派の代表格といえる、リチャード・アーミテージ、ジョセフ・ナイ両氏へのインタビュー記事が掲載されている。


このなかで、アーミテージ氏は小沢一郎氏についてこう語っている。


「小沢氏に関しては90年代前半、まだ自民党に所属していた頃に二国間よりも国連による活動に執心していたことをよく覚えています。当時は小沢氏を『反米』とは思いませんでした。まあ、今は恐らく、『反米』と思わざるをえませんがね。なんらかの理由もあって、考えが固くなってきたのかもしれません。彼は言うならば、ペテン師ですね」


小沢氏を「反米」ととらえているところが、ある意味で興味深い。この理解不足がどこから来たのかという意味においてである。


その種明かしをしてくれるのが、きょう取り上げた天声人語である、と筆者は思う。


知米家とされる日本人と、知日派とされる米国人の会合のなかで、米国からの情報を飯のタネとする日本人知米家が、米国側に迎合して機嫌をとるという風景がこの一文からわれわれの脳裏に広がってくる。


これでは、日米間の誤解が増幅して、外交はすれ違い、停滞するはずである。


  新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)

2011年01月19日(水)

強制起訴というマスコミ用語の罪

テーマ:政治

「強制起訴」という言葉づかいに違和感をおぼえる方も多いだろう。「強制捜査」を連想させるからだ。


強制捜査をする検察が下した不起訴の判断を、クジで選ばれた市民11人からなる検察審査会が二度の審査で否定し、「起訴議決」をすると、“にわか検察官をおおせつかる指定弁護士が起訴にむけて捜査資料解読をスタートする。


こうした新しいタイプの起訴が、検察審査会法の改正で可能になったのが2009年5月21日だった。この改正法は、国会で十分に議論されることなく成立した。


そして、この新型起訴のことを、誰がはじめたのか知らないが「強制起訴」と表現するようになった。


検察審の議決が拘束力を持つようになったことから「強制」という言葉に結びついたのかもしれないが、前述したように「強制捜査」との連想で誤ったイメージを生みやすい。


強制捜査の主体は検察という国家権力であり、強制起訴の主体は一般市民からなる審査会である。冤罪とわかった場合でも、審査会メンバーは責任を問われることはない。「市民」であることが免罪符となる。


ところで、検察が「強制」する相手が被疑者であることは明白だが、一般市民が「強制」する相手は誰だろうか。


検察審査会の市民たちは、検察の捜査資料を検討、審議し、この捜査資料なら不起訴ではなく、起訴すべきだという結論を下した。


すなわち検察に「ノー」を突きつけた。その意味では、直接、「強制」が向けられる相手は実は、検察なのである。


ところが、マスコミ用語として「強制起訴」は定着し、疑いをかけられた人物についてまわるようになる。


本来は、検察審査会の「起訴議決」による起訴というべきところだが、長ったらしいので「強制起訴」と、粗雑な言葉づかいをしているのが実態だろう。


それなら、「検察審起訴」とでもして、検察による起訴との区別を明確にするべきではないか。


さて、小沢一郎氏の起訴へ向けて指定弁護士がラストスパートにかかっている。強制起訴されたら、小沢氏は議員辞職すべきだという、奇妙な論理にうなずく国民が多いのも、強制起訴という言葉のイメージが影響しているに違いない。


秘書のせいにして逃げ回る巨悪の政治家を、正義の市民が団結して、お白州に引きずり出すという、チャンバラ劇のような仕立てに「強制起訴」がマッチしているということでもあろう。


マスメディアはもちろん、野党や民主党のかなり多くの政治家でさえも、元秘書三人が逮捕されたという外形的事実や、「政治とカネ」「説明責任」「強制起訴」といったキーワードの組み合わせによって、小沢悪徳ファンタジーを職業上、立場上の必要性からつくりあげてゆく。


おりしも、元秘書の一人である石川知裕衆議院議員が、東京地検特捜部に供述を誘導された証拠となる音声記録の存在が明らかになった。


昨年5月17日、起訴後に任意で再聴取されたさい、石川議員はICレコーダーで録音していたという。


昨日の日経に検事と石川議員のやりとりの一部が報道されている。


「もし全面否認するなら、徹底的にやってやろうじゃないかとみんな言っている」(検事)


石川議員が(小沢氏からの借入金4億円を)隠そうとしたことはないから供述を変えさせてほしい」と訴えると、「今更そんなことを言っても堂々巡りだ」と耳を貸さず、石川議員自身が受領した献金にも言及し「(別件で)いつでもやれるんだぞ」と脅しともとれる発言もあった。


すでにこの音声記録は東京地裁に提出、地裁は証拠採用するとみられている。


小沢氏の審査会起訴を問題にするとき、秘書の裁判を抜きには語れない。秘書が無罪なら、当然のことながら小沢氏も無罪だ。


その意味で、石川議員らに対する検察調書の信憑性を疑わせる録音の存在は、村木冤罪事件同様、無理筋、国策捜査といわれてきた小沢サイドへの特捜暴走を裏づける大きなニュースである。


にもかかわらず、小沢氏に対しては「強制起訴」される人物として、政界追放が当然とでも言いたげな論調がまかり通っている。


検察が不起訴にせざるを得なかった小沢氏が、裁判で無罪を勝ち取る公算はきわめて高い。元秘書たちも、検察による事件のでっち上げを主張するだろう。


菅首相は小沢氏の強制起訴と出処進退を結びつける発言を繰り返している。


与謝野馨氏に助っ人を頼んで霞ヶ関を味方につけた菅首相が、官僚の恐れる小沢氏を切るには、「強制起訴」という呪文が効能をもっている今しかチャンスはないということなのだろう。


それにしても、小沢氏が無罪になったとき、マスメディアはどのように言い訳をするのだろうか。


  新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)

2011年01月12日(水)

先走りが仕事と言って憚らぬメディアの懲りない面々

テーマ:政治

「メディアは先走るのが仕事ですから」と大手テレビ局の報道トップに開き直られたら、呆然とするほかない。


フジテレビ報道局専任局長、平井文夫氏。


レギュラー出演している新報道2001(1月9日放送)で、「小沢国会招致問題についてメディアが先走っている」と岡田幹事長が発言したのに対し、平井氏は何食わぬ顔でそう口走った。


「先走る」とは、「他より先に物事をする」という意味もあるが、どちらかというと「他を出し抜いて、独りよがりに判断し、行動する」という文脈で使われることが多い。


岡田幹事長が、そういう意味で釘を刺したのに対し、平井氏はまともに取り合わない。かりに突っ込まれたら、「いち早く情報を取るという意味だ」と答えるだろう。


話のすり替えなら、昨今のマスメディアは政治家に劣らない。先走りは、なおのこと得意だ。


たとえば、10日夕にネット配信された産経新聞の「小沢氏は万策尽きたか 単独離党の寂しい末路も?」 という松本浩史記者の記事。


 「民主党の小沢一郎元代表は、このところにこやかだ。憑きものが落ちた感じだ」


ベテランの民主党関係者から年明け早々、こうした話を聞かされた松本記者はこう「思った」そうだ。


「今月中に政治資金規正法違反で強制起訴される立場であることを思えば、そんなにのんびりしていられるの、といぶかしんでしまう。と同時に、諦観の境地に達し、すでに自らの先行きについて、弱気になっているのかな、とも思う」


この記述は、「思う」「いぶかしむ」「思う」と主観表現の動詞を連続して使うことにより、松本記者の個人的感想であることを、正直に示している。もちろん意識したかどうかは別である。


そのあとに次の記述が続く。


「聞けば、昨年末、頻繁に行われた小沢氏を支持する議員グループや秘書会との会合では、かつてみられた無愛想さは影を潜め、進んでお酌もし、ガハハハハと口を開けて笑うこともあったのだという」


宴席で、その座の主人公が無愛想にしているわけがない。「かつてみられた無愛想」とは、いつの宴席のことなのか。


記者会見で、つまらぬ質問に「無愛想」な顔をすることがあり、ムッとした顔をねらったショットがテレビや新聞にしばしば出ることは承知しているが、夜の宴席で無愛想にしているわけにはゆくまい。


ひかえ気味にしているとはいえお酒を好む小沢氏が、飲んだときに「進んでお酌もし、ガハハハハと口を開けて笑う」のは、ふつうのことであろう。


いずれにせよ、松本記者は最近の小沢氏について「憑きものが落ちた」ように「愛想がよくなった」とし、それは「諦観の境地」で「弱気になっている」せいだ、という「独りよがり」な記事の筋道を考えて、「先走り」にはやったのだろう。


それは、このあとの文章で「弱気になる」理由を長々と説明していることからわかる。要約してみよう。


小沢氏がどう反転攻勢をかけていけばいいのか、有志が都内のホテルで顔を合わせたが、妙案は浮かばない。

小沢流の政治手法、つまりは、カネや少数精鋭による密室的で強引な事の進め方とかが、すでに時流に合わなくなっているのだろう。

 強制起訴されれば、裁判が最高裁まで行くのは必至。となれば、「3~5年は裁判に忙殺される」(関係者)とみられている。

田中角栄元首相のように、離党して党内に隠然たる影響力を行使すればよい、との声もあるが、とあるベテラン秘書は「田中さんには、人柄に魅力があった。小沢氏とは比べようがない」と冷ややかだ。

当時の田中派には、海千山千の人材が豊富で、今の小沢グループとは、天と地ほどの差がある。「小沢院政」が敷ける環境など整いようがないではないか。

首相が「小沢切り」の姿勢を一貫して崩していないのは疑いなく、議員辞職も念頭に小沢氏自らが出処進退を判断するべきだとまで発言した。

 自民党のころからの小沢氏を知る民主党のベテランは、小沢氏は万策尽きたとみている。

 単独離党して政界の表舞台からひそやかに姿を消していく-。政権交代の立役者にしてはもの寂しいが、そんな末路を小沢氏がたどることも、なくはない。


以上のように、松本記者は「小沢氏は最近愛想がいい」からスタートし、「万策尽きて、単独離党、表舞台から去るのでは」という結末に物語を運ぶため、あらん限りのステロタイプなイメージをしぼりだして作文したことがよくわかる。


「メディアは先走るのが仕事ですから」と言い放った平井文夫氏といい、「とあるベテラン秘書」の話をもとに、憶測と凝り固まった観念で、先走りのファンタジーを作文する松本記者といい、ご自分たちがこうやって日々、メディア自身の価値を貶める「仕事」を続けていることに、いささかの反省もないようである。


新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)


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