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2009年11月05日(木)

「脱官僚依存」と「官僚排除」は意味が違う

テーマ:政治

マスコミの無定見は今にはじまったことではない。いや、定見がありすぎて原理主義になられても困る。


それにしても、言葉の定義くらいしっかりしておいてもらいたい。鳩山政権は「脱官僚」ではなく、「脱官僚依存」と言っている。


官僚と対立するのではなく、使いこなすのが政治家だ。当たり前のことだ。だから、「官僚依存」から脱するのだと、わざわざ念を押すようなフレーズにしたのだろう。


官僚に丸投げの行政から、政治家が主導して官僚を動かす行政へ。これが「脱官僚依存」であり、「政治主導」である。


官僚組織のトップに、民間人を据えて、そのまま放っておけば、まず間違いなく、官僚の操り人形にされるか、潰されるかだ。


小泉政権のもとで、損保ジャパン副社長から社保庁長官になった村瀬清司氏、道路公団総裁になった元伊藤忠常務、近藤剛氏らが、ほとんど実力を発揮できないままに終わった例を持ち出すまでもないことだ。


日本郵政の社長に、元大蔵事務次官の斎藤次郎氏を起用、人事院の人事官に江利川毅・前厚労事務次官を充てるという鳩山政権の人事案は、「政治主導」で決定したことであり、「脱官僚依存」とはいささかも矛盾しない。


斎藤氏や江利川氏が国民の利益に反することをしたら、政治主導で首を切ればいいわけである。


にもかかわらず、官僚組織の自己増殖システムである「天下り」や「わたり」と、政治家が選任する人事を、同じ官僚OBだからといって同一視するのは、どうしたことだろうか。


自民党などが、野党として「脱官僚と矛盾する」「天下りを政権が斡旋している」などと、批判するのは政治的目的があってのことだから仕方がない。


しかし、ニュースワイドショーのコメンテーターのほとんどが、“為にする”その議論に追随し、官僚と政治家の役割分担について頭の整理がついていないような発言をするのは不可解である。


官僚は、いわば「専門家」だ。それぞれの専門家の考えは、それぞれの分野においては正しくとも、全ての専門分野を統合し、限られた財源で運営する国家的観点から見ると、必ずしも適切でない場合もある。


だから、官僚丸投げだと、各省庁がバラバラな縦割り行政に陥り、予算獲得競争の末、無駄な事業がいっぱい予算書に盛り込まれることになる。


政治家は価値の「総合判断者」として、異なる専門家の集合体である霞が関全体の政策を、戦略的、重点的に、取捨選択し、調整しなければならない。


政治家を操縦して官僚組織が実質的に握ってきた「人事権」を、政治家が取り戻し、官僚の専門的頭脳と実務能力を有効に生かしていく仕組みが重要である。


そのために人事評価の仕方を変える動きが各大臣から出てきている。予算をよけいに分捕ったり、天下り団体を新たにつくったりする官僚を評価してきたこれまでの省益重視人事をやめさせるための試みだ。


人事評価の仕方が変われば、仕事に対する官僚の意識も変わるはすである。


政治主導とは、省益に関心が向いていた官僚の頭脳を、国民益のために使わせるよう、政治家が官僚組織をコントロールしていくことだと、心得たい。


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