2012年03月20日(火)

毎日「小沢真相解明されぬ空虚さ」記事の空虚さかげん

テーマ:政治
社会部記者の陥りやすい病気は、情緒過多症である。その原因に、社会面特有の「雑観」記事があると思う。

大きなニュースの場合、出来事をストレートに伝える「本記」を一面トップへ、その場にいる人々の表情や行動、発した言葉などをつないで読み物にする「雑観」を社会面へと書き分けることが多い。

どちらかといえば、筆力や観察眼を要するのは「雑観」のほうで、社会部記者の腕のふるいどころでもある。

もっとも、いまのように映像メディアが克明に現場の臨場感をお茶の間に運ぶ時代になると、活字の「雑観」は相対的に軽視されるのがあたりまえで、そのせいか社会面で「読ませる記事」に出逢うことは滅多にない。

そのくせ、事実より気分に流されて、少しも道理の通っていない記事は、せっせと量産される。まさに紙面を埋めることしか意味のないような記事が目白押しだ。

3月20日の毎日新聞朝刊「傍聴記:陸山会事件・小沢元代表公判 真相解明されぬ空虚さ」(社会部・和田武士)などは、記事そのものの「空虚さ」を感じさせる。

◇小沢元代表は審理の最後も、独自の司法批判で締めくくった。本来、裁判に期待されるのは「真相解明」だ。(中略)
強制起訴された元代表は「法廷で真実を述べる」とコメントし、一定の期待を持った。
政界の実力者が進んで説明責任を果たすのであれば、この裁判に少なからず意義はある、と。
だが、元代表が初公判の意見陳述で述べたのは、検察と、元秘書3人を有罪とした判決への不満と不信だけだった。
今年1月の被告人質問…元代表の答えは「記憶にない」「知らない」「関わっていない」の繰り返し。…空虚だった。(中略)有権者の疑問は結局、解消されないままだ。
公判では、元秘書を取り調べた検事による「架空内容」の捜査報告書が検察審に送られていた問題も発覚。元代表側の防御術とあいまって、裁判の意義をかすませてしまったように思える。◇

裁判に期待されるのは「真相解明」だと和田記者は言う。では、「真相」とは何か。

裁判に期待するものというより、この場合、和田記者が期待すること、すなわち小沢氏が「関与」を認めるという状況が、和田記者にとっての「真相解明」なのではないのだろうか。

田代検事がウソの捜査報告書を書き、供述調書が信頼するに足らないものであったことがわかったが、これは真相ではないのだろうか。

こうした検察の犯罪的な捜査にもとづく捏造資料が、検察審査会に提出されたために、強制起訴という誤った判断がなされ、今回の裁判が行われた。

それが小沢裁判における唯一の実質であり、ほかはすべて、架空の物語についての「空虚な審理劇」にすぎなかった。

だから、もともと和田記者が言うような「裁判の意義」などはないのであり、「空虚だった」「意義がかすんだ」というのは単なる幻想である。

小沢氏が「記憶にない」「知らない」「関わっていない」と繰り返すのは当然であり、それこそが真相であろう。

ことのついでに、毎日新聞の社説も、同じく「空虚」な思考を展開しているので、取り上げておこう。その後半部分。

◇元代表は「政治資金収支報告書は一度も見たことがない」と被告人質問で言い切った。「政治資金の収支を全部オープンにしているのは私だけ」と折に触れ繰り返していた発言は何だったのか。また、必要性に疑問符がつく4億円の銀行融資の書類に署名した点について「何の疑問も感じなかった」と述べた。一般人とはほど遠い金銭感覚は他にも随所でみられた。◇

まず、小沢氏の「収支報告書を見たことがない」と、「収支を全部オープンにしている」という発言が、いかにも矛盾しているように書いているが、筆者には全く次元の違う話だと思える。

収支報告書の作成は秘書に任せ、目を通すことがなくとも、できあがったそれをオープンにするのは積極的にやりたいというわけである。べつに異常なことではないだろう。

人には色々なタイプがあって、なにごとにつけ細かくチェックする小うるさい政治家も数多い。それは秘書泣かせというものだ。信用され、任せられたら人はがんばるし、成長もする。

それに、4億円はわれわれにとっては一生お目にかかれない大金だが、「一般人とはほど遠い金銭感覚」を必ずしも悪いことといえるかどうか。小沢氏が一般人であるよう望むことにどれほどの意味があろう。

2010年12月1日の当ブログで筆者は「干天の慈雨となった小沢資金」という記事を書いた。以下は、その一部。

◇一昨年の9月24日、選挙の顔として麻生太郎氏が首相の座に就き、いよいよ衆院解散と思われていたころ、小泉純一郎氏は高まる総選挙ムードに水を差すように、こう言った。

「解散をちらつかせながら任期いっぱいまでやったら民主党は資金が底をつくだろうな」

野党の乏しい懐具合を見透かした不敵な発言だった。

勝てる自信が持てない麻生は、リーマンショック後の経済対策を口実に解散を先送りし、結果的には小泉の言ったとおり、任期まぎわまで政権に居座り続けた。

候補者たちは、ぶら下がったままの「解散ニンジン」をにらみながら、一年近く走らされたため、選挙本番を前に、資金面の体力が消耗しきっていたことは間違いない。

政権交代に心がはやる民主党は、選挙資金の捻出にさぞかし苦労したことだろう。

党の資金が乏しければ、多くの支持者から献金を集められる実力政治家が一肌脱ぐしかない。

小沢一郎氏の資金管理団体「陸山会」は、昨年7月の衆院解散から8月の総選挙公示までに、民主党の立候補予定者91人に、一人当たり200~500万円、総額4億4900万円を寄付していた。

昨日公開された09年の政治資金収支報告書でわかったものだが、候補者にしてみれば、干天の慈雨のごとき資金だったことだろう。◇

「一般人とはほど遠い金銭感覚」の持ち主がいたからこそ、ジバン、カンバン、カバンのない新人候補でも多数当選し、歴史的な政権交代につながったのである。
 新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo) 


2012年03月10日(土)

証拠なき強弁となった小沢裁判論告求刑

テーマ:政治

 「そもそも、検察審査員が証拠評価を誤ったとしても、そのために検察審査会の議決が無効になることはない」


小沢一郎氏に禁錮三年を求刑した指定弁護士は、裁判がなぜ無効ではないのかを主張するため、躍起になって奇怪な理屈をこねた。


「検察審査会に提出される証拠は信用性について十分吟味されたものとはかぎらない…捜査関係者や裁判関係者であっても、証拠の信用性に関する判断を誤ることはあり得る。いわんや、一般市民である審査員が、証拠の判断を誤り錯誤に陥ることはあり得ることだ」


プロでさえ、証拠について判断を誤るのだから、一般市民にすぎない検察審査員が錯誤に陥ったとしても、そのために検察審査会の議決が無効になることはない、というのだ。


指定弁護士という立場はあるにせよ、小沢氏に論告で求めた「規範意識」が著しく鈍磨しているといわざるをえない。


これでは、検察審査会制度の欠陥をあらかじめ認めたようなものであり、その欠陥の罠にかかって被告人席に座らされる者の人権を、あまりにも見事な捨象の仕方で無視している。


そして、その欠陥を補うものとしての立場に貶められた裁判所について以下のように述べる。


「検察審査会法には、検察審査会の議決が無効となる場合の定めはない。…裁判所は取り調べに証拠を総合して評価し、その上で事実の証明がないとの判断に達したのであれば、判決で無罪を言い渡すべきであり、それで足りると解すべきである」


つまり、誤った起訴であっても、裁判所が無罪を言い渡せばこと足りると、いささかの恥じらいもなく、空疎な論陣を堂々と張るのである。


それなら、検察審査会なるものにどういう存在意義があるというのか。


今回のように、東京地検特捜部がウソの捜査報告書で審査員の判断を誘導しようという悪魔の誘惑に駆られたのは、検察の判断をチェックするはずの検察審が、逆に検察の手でいかようにも操作できるという自明の理を承知していたからである。


検察審に小沢に不利な捏造捜査報告書を提出した一方で、70通にのぼる小沢有利の取り調べメモを審査員の目に触れないようにしていたことが明らかになっている。


小沢氏の元秘書、石川衆院議員を取り調べた田代検事が、報告書の「虚偽記載」で市民団体に刑事告発され、検察当局から事情を聴取されたのも周知のとおりだ。


場合によっては、特捜部長をはじめ3人の検事が逮捕された大阪地検特捜部の二の舞いになりかねない。


いやむしろ、公文書の虚偽作成によって、一人の政治家を罪に陥れようとしたことは許されるべきではなく、検察は再び身内の犯罪を立件してしかるべきである。


官僚支配統治機構の解体を唱える政治家の抹殺をねらった特捜検察の小細工は、石川供述調書など、小沢氏の関与を裏づけるものとされていた証拠を東京地裁が不採用とするのに十分な所業であり、指定弁護士は小沢氏有罪を立証する手立てを失った。


虚偽捜査報告書などに誘導されて強制起訴が決まり、それにもとづいて続けられてきた裁判。そのうえ、石川調書という最大の攻め手を奪われて、指定弁護士はさぞかし途方にくれたことだろう。


だからこそ、指定弁護士はまず冒頭で、この裁判の有効性を語ることによって自らの弁論の正当化をはかり、証拠にもとづかない主観的判断を糊塗するかのように強弁的な論述を展開するほかはなかった。


 「石川はほぼ毎朝、被告と会っており、本登記を先送りし、代金全額を支払う処理をすることを隠す理由などは全くなく、被告の指示・了解なしに、このような処理をすることは絶対になかったというべきである」(指定弁護士)


事実そのものに迫真性があれば、「絶対に」などという言葉は全く不要であろう。


 新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)

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