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軽やかに 心のおもむくままに


テーマ:
4月になりました。

これからは、新しい自分になりたい、
そう思っています。

ブログのほうも、少しずつ更新していきたいと思います。




さて、お勉強の話です。

最近、自分は医療と社会学をどう取り上げるか、ということについて
とても悩んでいます。

医療社会学は、社会学の領域としてひとつの分野を構築してはいますが
その取り上げ方については、社会学的な視点が必要とされています。
単に医療的なことを取り上げることは、社会学ではないとされています。

ところが、その社会学的な見方というのが、少しわかりにくい。
実際のところ、社会学の門をたたいてから1年が経過して
さらにわからなくなってしまったのです。

また、医療社会学研究会に行くようになって、
もっとわからなくなってしまったのです。

結局、何だったのだろうか…と
自分自身で結論が出ないままであります。





そうこうしているうちに、卒論の時期がやってきました。

とりあえず、春休み中に、いろんなネタを仕入れました。

胃ろう、人工栄養、鎮静、臓器移植・人体実験等々
さまざまなトピックから、医療の問題を考えたいと思いました。

ところが、自分の視点がすっぽり抜け落ちていることに気づくのです。

私が、神戸市看護大学に在籍していた時に実感していた社会学的課題を
すべて無視してしまったのです。


何が課題だったのか…
こればかりは、学部の友達と相談しても
行き詰まりそうです。
自分しか知らないのですから。

だから、潜在的読者がいるだろうブログで
自分が書くことを通じて、考えてみたいと思っているのです。





それと関わるかどうかはわからないけど、
最近自分が、ずっと気にかかっていることがあります。

これは、ある終末期医療のシンポジウムが終わった後
茶話会へ行ったときに、ある看護師が言ってたことでした。

「医療者のストーリーと患者のストーリーとは別じゃないか」

どういうことでしょうか。

たとえば、胃ろうをしている患者さんにとって、
口から食べることができないことは、ある種生きがいを失っている状態でしょう。

ですから、患者さんは「食べたい」と思うはずです。
こうしたニードを読み取り、病棟で可能な範囲でサポートしていくことは
看護職の役割だと言えると思います。

ところが、これが拡大解釈されることがあるのではないかと思います。
それは、「食べること=その患者の唯一の生きがい」
と解釈されることです。


確かに、食べられないことは
人間にとって最も重要な生きがいを奪われている状態といえるでしょうし
それに寄り添い、サポートすることは医療者の役割として重要でしょう。

けれども、患者はそれぞれ固有の生を持っていて
最初から「食べること=生きがい」ではなかったはずです。
食べることは、あくまで生きがいの一部でしょう。それは人間にとって重要な要素であっても。

ところが、治療が始まると、
医療者のストーリーは「食べること」一色になってしまい
それ以外が捨象されてしまう。
こうした見通しのなかに、ある種のひっかかりを感じる患者だって
少なくないのではないかと思います。

なぜ、これが自分の問題と引っ掛かるのでしょうか。

それは、私自身のなかに、医療の文脈を納得がいかないまま
看護実践しなければならなかったという
苦い経験があるからだと思います。

そういう状態に、長期的に置かれていたために
どうしても、そういう現場の知識に対する異議申し立てのような文脈に
反応してしまうように思います。


さて、今日はこのくらいにします。
また、明日もお楽しみに。

テーマ:
見田宗介の『社会学入門』を、久しぶりに読んだ。

社会学とは、「自明性の罠」からの解放、そして「越境する知」であると

見田氏は述べている。

必ずしもこれだけではないが、自分の心に強く留まる言葉がこれである。


それで、自分の社会学コースに対する不満も少し述べさせてもらえば

みんな、「社会学を学ぶ」ことを、義務に近いものと捉えていて

社会学的な見方ができることを目標としつつ、それができない姿に悶々としているというか

そんな感じがしなくもないのだ。


そして、社会学とは文学部の細分化された一分野であるという認識も

やはりどこかにあって

何だか、本気で勉強する気がなくなってしまったというか

みんな、違うことに気をとられているというか

そんな気がする。



いや、自分がもしかするといけないところがあるのかもしれないけど

でも、やっぱりどこか手加減をしなくてはいけないというか

授業以外ではそういうことを喋ってはいけないというか

そういう不満が、やっぱりあるので

いくら適応しようと努力しても、やっぱり不満は不満なので

本当に、どうしたらいいのだろうって

八方塞になってしまっているというか。







それで今日、少し考えた。

いま、社会学コースにいるから、とてもありふれているけれども

社会学の考え方は、世の中に浸透しているとはいいがたい。

そして、社会学を知らない人が世の中の大半を占める。

少し大学の外の世界に身をおいてみれば

社会学なんて存在しないも同然だ。

たとえば看護学部には社会学の考え方はほとんど存在しない。


けれども、そうしたことは却って社会学にとってはチャンスでもある。

これから開拓をしていく余地が、たくさんあるということではないか。

だから、社会学とは全く関連のないフィールドに出向いて

物事を社会学的に捉えること。

これが第一に、社会学の学生がなすべきことではないか。

そこにはいろいろな諍いもあるかもしれないが

社会学コースの中だけで留まっていては、そうした新たな分野との融合はありえない。

自分が感じた不満や問題点を

あえて理屈をつけながら、相対化していく営みを

やらなければならないのではないか。

テーマ:
他人の書く「つらいとき」って

なんか読んでいて、違和感があると言うか

そんな気がします



「つらいとき」は「乗り越える」こととセットで語られる。

そこに違和感を感じるのかもしれない

しかも、つらいときに逃げずに向き合うという選択肢しか

そこには与えられない

つらくて逃げる、と解釈されるやいなや

つらいことは無下にされてしまう。





そうではない。



つらいときは、「つらい」思いをしているだけで価値がある。

つらい思いそのものに

そのものに、描き出す価値を持つのではないでしょうか。

私はそう思います。

たとえ、結果がだせなくったって

その場をやり過ごしたって

修羅場に出くわしたこと、そのものに

意味を与えたい


そう思います



そうじゃないと、悲しすぎるじゃないですか

他人はそのことを、高く評価しないかもしれない。

けれども人生、成功するためにあるわけじゃないんですし

努力したって、ダメなときだってあるじゃないですか。

最後には逆転するとか、

良い意味を敢えてそこにとってつけなくても

いいんじゃないかって

思います



自分には大学に進学してから

修羅場が2度ほどあった。

1回目は、基礎看護学実習。

2回目は、編入学試験。

どっちも本当に修羅場でした。

1回目の修羅場は、良い結果にならなかったんです。

それは自分に

良くも悪くも、非常に大きな影響を与えてしまっている。

しかも、落ちているから時々他人から無下にされる。

それをどこかで内面化しているからか、

自分のなかで、自分なりの意味づけをできなかった。




どうして事情を何も知らない人の

勝手な言い分や、勝手な意見を

自分は無批判に受け入れて、「そうだったんだ」と思ってしまうのだろう。

自分の生きられた意味を、そのまま受けとめることが

こんなに難しいんだろう。

つらいこと、つらい意味は

結果という見えるものでしか判断されないのはどうしてだろう。

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