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2012-06-01 23:26:38 posted by antibizwog

≪苫米地英人 著『現代版 魔女の鉄槌』 より抜粋(5)≫

テーマ:苫米地英人
(4頁からの続き)


■白魔術を使う老婆達

魔女狩りは、この異端審問 Inquisitio の法廷に魔女が引き摺り出されることによって始まっています。

魔女の烙印を押された中には男性も含まれますが、その大多数が女性だったことははっきりしています(ちなみにラテン語で魔女を表す“Maleficarum”は男性にも女性にも使われる単語です)。

子供にまで魔女狩りが大流行するよりも以前は、そこに類型的な魔女像を見て取ることが出来ます。彼女達の殆んどは、暮らしぶりの貧しい1人暮らしの老婆だったのです。異教徒として咎められるような、明確な異端思想を持っていたという事実は、そこに見当たりません。魔女として彼女達が訴えられた理由は、魔女と言う概念の成り立ちを考える上で、とても重要なポイントです。

彼女達の多くは、占いや民間療法に通じた人々であることが、断片的な記録に残っています。病気を治す煎じ薬の作り方や、身体を冷やしたり温めたりして痛みを緩和する方法などを、恐らく経験的に知っていたのでしょう。或いは、インドなどで始まった幻覚術(密教)がヨーロッパ大陸に伝わり、それを使う人達だったのかも知れません。

彼女達が行っていたのは、一般に白魔術と言われる治療行為でした。仕事の中の1つを挙げれば、薬草を調合、加工し、薬を作ることです。

カトリックには、秘蹟(秘跡) Sacramentum というものがあります。これは神の恵みを人間に与える儀式を指し、洗礼、聖体(パンと葡萄酒による聖体拝領)、婚姻の秘蹟(カトリック教会における結婚)、叙階(聖職者の任命)、堅信(洗礼を受けた者が更に信仰を強め、精霊の恵みを受ける為の儀式)ゆるしの秘蹟(告解)、病者の塗油(病人の癒し)の7つです。

秘蹟は、イエス・キリストが行ったことであり、聖職者のみが行うことが出来る儀式でした。白魔術は7つ目の秘蹟、病者の塗油に相当する行為とも取れますが、キリスト教はこうした魔術に対して古来より寛容な態度を示してきました。白魔術を使うことが、イエス・キリストの秘蹟を貶(おとし)める行為とは考えていなかったのです。

〔資料〕秘蹟(秘跡) Sacramentum - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E8%B7%A1


■「魔女と悪魔の契約」とは?

では、何が問題とされたのか?

不思議なことですが、それは年老いた女性達が行った魔術的な行為ではなく、人々の中に作り上げた魔女のイメージそのものだった、と言うことが出来ると思います。もっと踏み込んで言えば、人々が抱く偏見を権力者が都合よく利用し、それを自らの弾除けとして民衆の怒りの標的に掲げた、ということです。

魔女の歴史的な潮流を見ていくと、何が彼女達を魔女にしたかという点が、少しはっきりとしてきます。順を追って見てみましょう。

異端審問が組織的に行われていなかった11世紀頃、宗教裁判の法廷に魔女が時々現れるようになります。罪状に「サタンの助言を得て・・・・・・云々(うんぬん)」というようなことが書かれている物が見つかっています。

後の魔女裁判では、魔女の認定に「悪魔(デーモン)との契約」という概念が決定的に重要なポイントになるのですが、この頃はまだ魔女そのものの定義が出来上がっていなかったということが、その罪状から分かります。手掛かりは、サタン(ヘブライ語:שטן, Satan)とデーモン(ギリシア語:δαίμων, daimōn⇒ラテン語:dæmon, daemon⇒英:Demon)の違いです。

現代人、とりわけキリスト教を知らない日本人は、サタンもデーモンも同じものであるという風に受け止めることでしょう。ところが、元を質すと、両者は全く別物なのです。

先ず、サタンについて言えば、神に敵対する強大な力としてのサタン(魔王)は、本来のキリスト教には存在しないものです。サタンの存在がはっきりと書かれているのは、『旧約聖書』の「ヨブ記 סֵפֶר אִיּוֹב」です。そこでは、サタンはヤハウェの下に集まる神の使いの1人という設定になっています。「ヨブ記」で最初に語られるストーリーは、次のようなものです。

サタンによってヤハウェへの信仰心を試されたヨブ אִיּוֹב(英:Job)が、当時としては死の宣告に等しい皮膚病を患うよう仕向けられました。サタンは、そんな酷い目に遭えば、ヨブが信仰を捨てて神を呪うのではないかと疑っているわけです。ところが、サタンの見込みは異なり、ヨブは最後まで信仰心を捨てませんでした。信仰とはかくも強いものだ、というわけです。

サタンは、疑り深く、人間に酷い試練を与え、ヤハウェに対しても挑発を繰り返す存在です。さすがに良いイメージはないわけですが、旧約聖書ではあくまでヤハウェの側の一員として描かれているのです。

したがって、「サタンの助言を得て・・・・・・云々」が、神に背いて悪魔と契約した」という魔女裁判に特有の告発とは全く異なることも、お分かり頂けると思います。さすがの教会も、旧約聖書で髪の側に立つサタンを裁くという論理にはならないのです。

ちなみに、これは推測ですが、先に挙げた魔女の罪状は、サタンに唆(そそのか)されながらも最後まで教えを守ったヨブとは異なり、サタンに唆されて神を裏切ったという内容だったのではないかと受け取れます。

〔資料〕ヤハウェ(ヘブライ語:יהוה) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A7

〔資料〕悪魔:キリスト教の悪魔 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94

〔資料〕悪魔の契約書 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E5%A5%91%E7%B4%84%E6%9B%B8

〔資料〕サタン(ヘブライ語:שטן, Satan) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%BF%E3%83%B3

〔資料〕ダイモーン(ギリシア語:δαίμων, daimōn) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%B3

〔資料〕ヨブ記(ヘブライ語:סֵפֶר אִיּוֹב) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%96%E8%A8%98

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%96


■デーモンの起源と政治

では、デーモンというのは何でしょうか。先に挙げたジェームズ1世 JamesⅠ(Charles James Stuart 1566-1625)の『デモノロジー(悪魔学) Daemonologie』(英:Demonology、1597年刊行)のデーモン daemon です。

デーモン(ギリシア語:δαίμων, daimōn⇒ラテン語:dæmon, daemon⇒英:Demon)という概念は、イエスの時代のユダヤ教の世界観に由来しています。元を辿ると、ペルシャを起源としギリシャのヘレニズムの世界に広まったゾロアスター教(ペルシア語:دین زردشت‎ , Dîn-e Zardošt、英:Zoroastrianism, Mazdaism)の善悪二元論から生れたものでしょう。

ユダヤ教の教えの中には、善悪二元主義の影響をはっきり残しているものが幾つかあります。例えば、経典外聖書には、『旧約聖書』の中には殆んど出てこない天使学が何度も記述されています。天使学とは、デモノロジー(悪魔学)の反対で、天使とはどういうものかを詳(つまび)らかにしようとするものです。

経典外聖書は、『七十人訳聖書 Septuaginta, LXX』と呼ばれるギリシャ語訳の最初の『旧約聖書』にも含まれていない外典です。

〔※補足:『七十人訳聖書 Septuaginta, LXX』は、ヘブライ語のユダヤ教聖典(旧約聖書)のギリシア語訳であり、紀元前3世紀中頃~紀元前1世紀の間に、徐々に翻訳・改訂された集成の総称を言う。ヘブライ語を読めないギリシア語圏のユダヤ人、また改宗ユダヤ人が増えたため翻訳がなされたと推測される。各民族語で書かれた文書が多数、ギリシア語へ翻訳された中で、『旧約聖書』もギリシア語に翻訳された。

『新約聖書』内には、旧約から引用する際、この訳を用いている場合が多い。パウロ Apostle Paul(5-67、ユダヤ人)はヘブライ語も読めたようだが、書簡では引用に際して一部これを用いている。ヒエロニムス Eusebius Hieronymus(347?-420)も旧約の翻訳の際に、これを参照している。正教会ではこれを旧約正典として扱い、翻訳の定本をマソラ本文 מסורה(英:Masorah)でなく、『七十人訳聖書』に置くことがある。

パウロを始め当時の使徒達が用いていた旧約聖書は専(もっぱ)らギリシア語訳の聖書だった為、この『七十人訳聖書』はキリスト教研究にとって極めて重要な聖書であると言える。最古の写本では、断片的なパピルス以外に、バチカン写本、シナイ写本、アレクサンドリア写本など4~5世紀のほぼ完全な写本が残っている。これは、ヘブライ語の最古の完全な写本であるレニングラード写本(1008年作成)より古い。また、『七十人訳聖書』の文書の中には、近代に入ってヘブライ語の写本が発見されたものもある。

『七十人訳聖書』が含む文書数は、現存している『旧約聖書』ヘブライ語写本より多く、ヘブライ語写本と七十人訳で細部が異なる文書もある。

キリスト教徒が『七十人訳聖書』を典拠としたことから、1世紀末、ユダヤ教はヤムニア会議でヘブライ語写本を持たない文書を排除することを決定した(第1次ユダヤ戦争(66-74)は、エルサレムが破壊され神殿が焼け落ち、神殿祭儀宗教という側面が失われたユダヤ教が、「書物の宗教」になっていったターニングポイントとされる)。これが現在のマソラ写本の範囲を決定しており、この時排除された文書をユダヤ教では外典と言う(詳細は添付資料を参照)〕

そこで述べられている要点は、堕落した天使、悪い精霊が、デーモンつまり闇の力に支配されたという点です。そして、デーモンが何処から来たかと言えば、ヤハウェが世界を創造した後、人間の娘と彼女に色情を抱いた天使との情交によって生れたとされています。

つまり、デーモンとサタンは、初めから互いに全く無関係な存在なのです。ところが、『新約聖書』になると、サタンは天から堕落した存在であるとされるようになります。そして、異端審問が始まる13世紀には、サタンは神の絶対的な敵対者に祭り上げられ、同時にデーモンとも一体的に語られるようになっていきます。

人々の考えや思想は、その時代、時代の背景によって移ろうものだ。そう考えて疑問に思わない読者もいるかも知れませんが、科学や自然哲学などとは異なり、サタンやデーモンは元々作り物であるばかりか、それに対する考え方は国教、つまり政治と深く結び付いています。

ということは、人々の間にそうした思想が広がったのは、政治がそう望んだからです。権力者に都合の悪い事実が歴史から消されているように、もし政治が望まなければ、その思想は撲滅され、痕跡(こんせき)さえ残っていなかったかも知れません。

作り物の姿が変化する時は、常に、その変化の過程に政治的な力が働いていることに、私達は注意を向けなければならないのです。魔女はその作り物であるデーモンと契約した存在として、断罪されていきます。作り物の上に作り物を積み上げて、現実が動かされていくわけです。

〔資料〕JamesⅠ(Charles James Stuart 1566-1625) - Genealogy
http://www.geni.com/people/King-James-I-of-England-and-VI-of-Scotland/4104684

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA1%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

〔資料〕『悪魔学』(1597年) 訳注~承前~ By 荒川吉孝(PDF、全11頁)
http://ci.nii.ac.jp/els/110007124474.pdf?id=ART0009062170&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1338194878&cp=

〔資料〕『悪魔学』(1597年) 訳注 By 荒川吉孝(PDF、全6頁)
http://ci.nii.ac.jp/els/110004629003.pdf?id=ART0007341660&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1338193705&cp=

〔資料〕『悪魔学 Daemonologie』(1597年) - Masashi Tanaka Official Website
http://m34tanaka.jimdo.com/demonology-witch/%E8%BF%91%E4%B8%96%EF%BD%89-%E6%82%AA%E9%AD%94%E5%AD%A6%E8%AB%96%E6%9B%B8/king-james-vi-daemonologie/

〔資料〕田中雅志 著『魔女の誕生と衰退―原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』(三交社 2008年刊行)
http://www.amazon.co.jp/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%81%A8%E8%A1%B0%E9%80%80%E2%80%95%E5%8E%9F%E5%85%B8%E8%B3%87%E6%96%99%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%80%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%82%AA%E9%AD%94%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E9%9B%85%E5%BF%97/dp/4879191728

http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/1030/1/KU-1100SS-20090131-04.pdf

〔資料〕悪魔学 Demonology - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E5%AD%A6

〔資料〕ゾロアスター教(ペルシア語:دین زردشت‎ , Dîn-e Zardošt、英:Zoroastrianism, Mazdaism) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99

〔資料〕東西文明とゾロアスター教 By 大多和明彦(PDF、全7頁)
http://ir.tokyo-kasei.ac.jp/metadb/up/kasei/2011_k_0905.pdf

〔資料〕ゾロアスター教の三位一体論 By 大多和明彦(PDF、全6頁)
http://ir.tokyo-kasei.ac.jp/metadb/up/kasei/2011_k_0983.pdf

〔資料〕アメリカ宗教思想の特異性~善悪二元論の起源と展開~ By 尾曲 巧(PDF、全24頁)
http://ci.nii.ac.jp/els/110007144216.pdf?id=ART0009085587&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1338448110&cp=

〔資料〕『七十人訳聖書 Septuaginta, LXX』 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%BA%E8%A8%B3%E8%81%96%E6%9B%B8


■1318年2月、魔女裁判の解禁

さて、13世紀、ヨーロッパ各地で組織的に行われる異端審問 Inquisitio が激しさを増すに従って、異端審問官の間に不思議な声が生れます。

「異端審問を魔女に適用すべきである」

また、異端審問所の窮乏(きゅうぼう)を訴える審問官も現れました。金持ちの異端者が殆んどいなくなり、そのため異端審問による収入が少なくなったと言うのです。

断片的に残されている異端審問官達のこうした意見は、異端審問所の財政事情を伝えるだけでなく、彼らの意識レベルをも明らかにしています。経済的理由によって業務範囲の拡大を主張しているのですから、まるで異端審問が営利目的だったことを白状しているようなものです。

ローマ法王はその頃、まだ魔女が異端者だと認定してはいませんでした。異端はあくまで異端であり、それは専(もっぱ)ら宗教改革を唱える信徒に向けられていました。ところが、ヨハネス22世 Ioannes XXII(1244?-1334 フランス人、ローマ教皇在位:1316~1334)は、1318年2月の教書で魔女裁判の解禁を指示します。そして、その後も、魔女狩り強化の為の勅書を重ねて発表していくのです。

ヨハネス22世は、その後の歴史家にあらゆる法王の中で最も貪欲かつ残忍だったと酷評される人物です。彼の死去に伴い法王庁の金庫を開けた際、そこに大量の金貨が詰まっていたという逸話が残されています。とは言え、彼が私腹を肥やす為に魔女狩りをしたというわけではないでしょう。幾ら金欲が強かったとは言え、宗教者はそこまで単純ではないわけです。

とすれば、何故彼は、魔女狩り解禁に踏み切ったのでしょうか。背景にあったのは、激しさを増す宗教改革運動でしょう。その頃、民衆が交わす自由な教会批判は、既に異端審問のみでは抑え込めないほど大きくなっていました。その為には、異端審問の強化が必要だったのです。

ところが、金持ちの異端者が粗方(あらかた)消えてしまい、異端審問官の財政事情は逼迫(ひっぱく)していました。その中で異端審問を強化、継続する為には、新たな財源作りがどうしても必要でした。ヨハネス22世が解禁を決断した理由は、このようなことだったと考えられます。権力の側が求める弾圧強化と、異端審問官が求める権益拡大が一致したのです。

〔資料〕Ioannes XXII(Jacques Duèze 1244?-1334) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B922%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

〔資料〕魔女狩りと異端審問の歴史 - THE HEXAGON
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_ha/a6fha200.html


■魔女狩りに飲み込まれた民衆側の心理

一方、民衆の側にも、それを正当化する理由が生れつつありました。

初めのうち、魔女として処刑されたのは老いた女性が殆んどです。魔女として訴えられた理由は、彼女の物乞いの申し出を断ったら息子が病気で死んでしまったとか、家畜が呪い殺されたとか、畑の作物が枯れたといった、「如何にもそれらしい」ものだったと言えます。

こうした訴えが頻繁に寄せられた背景に、当時の気象条件と社会事情があったことを考慮しなければいけません。実は、14世紀頃の地球は小氷期に入り始め、天候不順が続いていました。また、遠征を重ねた十字軍の帰還や東西貿易の発展が原因となり、ヨーロッパでペストの大流行が始まっています。

小氷期というのは14世紀から19世紀にかけて、地球の北半球が寒冷化した時代のことです。現代の研究では、気温が1℃下がった程度の弱冷期だったとされていますが、アルプスの氷河が拡大したり、ロンドンのテムズ川が完全に凍結したり、天候の大異変が起こったことが現代に伝えられています。その為、ヨーロッパ大陸の各地でも、旱魃(かんばつ)や飢饉(ききん)が毎年のように起こっていました。

一方のペストは、14世紀頃に突如として全ヨーロッパに広がり、14世紀末までに三度にわたって大流行しています。その流行が終息するのは17世紀のことであり、300年以上にわたってヨーロッパの人々に恐怖を与え続けたのです。正確には分かっていませんが、ペストによって当時のヨーロッパ全人口の3分の1から2分の1、約2000万人から3000万人が死亡したと推定されています。

中世のヨーロッパは、解きほぐす術のない不安が人々の心を蝕(むしば)んでいた時代と言えます。すっかり灯の落ちた暗闇の室内で、変性意識に落ちた人々が夜毎強い不安に苛(さいな)まれていたことは容易に想像が付くことです。彼らがやり場のない怒りの矛先を求めたとしても、不思議ではありません。魔女は、不安の時代の代償として、格好の存在だったのです。

かくして、権力側と民衆側、双方の欲求が車輪の両輪となり、魔女狩りの時代が加速していきます。初め町外れの年老いた老婆に向けられていた鬱憤(うっぷん)の捌(は)け口は、直ぐにその範疇(はんちゅう)を離れ、身分や学識があり異端や魔女行為と無関係の老若男女に広がりました。

同時に、魔女として審問に掛けられる人は、仲間の魔女の名前を白状しなければならないという魔女の増殖システムも生み出さされます。処刑が次の処刑を準備する拡大再生産システムが、生み出されていくのです。

〔動画〕中世の魔女狩りと地球寒冷化―恐怖の存在/Sallie Louise Baliunas, Ph.D. - YouTube [7分39秒] ※そして今、再び寒冷化が懸念されている中でSNSが現れた
http://www.youtube.com/watch?v=0GMNN7YLmv0

〔資料〕ヨーロッパ近世「小氷期」と共生危機~宗教戦争・紛争、不作、魔女狩り、流民の多発は、寒い気候のせいか?~ By 永田諒一 2007年3月31日(PDF、全22頁)
http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/file/12841/20080604000509/6_031_052.pdf

〔資料〕江戸四大飢饉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89

〔資料〕江戸の大飢饉 - 不思議館~大飢饉と大殺戮の恐怖~ ※小氷期の日本、不作、人身売買、人肉嗜食(Cannibalism)
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_e.html

〔資料〕あらかじめ予測されていた小氷河期の到来(2) 「鎖国」と「富士山大噴火」を生み出した前回マウンダー極小期 - In Deep 2011年11月9日
http://oka-jp.seesaa.net/article/234297612.html

〔資料〕≪広瀬 隆 著『二酸化炭素温暖化説の崩壊』 より抜粋(1~10)≫|MelancholiaⅠ
http://arsmagna2.jimdo.com/melancholiaⅠ-roentgenium-資料保管庫-目次/


■魔女が魔女を生む「魔女増殖システム」

ここで魔女裁判における魔女とはどういうものかという点について、もう少し触れておかなければならないでしょう。

『魔女に与える鉄槌(てっつい) Malleus Maleficarum』(1487年刊行)が魔女狩りを流行させる装置として大きな役割を果たしたことは、既に触れました。私はラテン語の原典と英語訳の現代版を手に入れましたが、かなり分厚い本で原著のページ数で620余ページあったとされています。

この本は3部構成になっており、第1部は「妖術に必要な3要素、悪魔、魔女、及び全能の神の許可について」、第2部は「魔女が妖術を行う方法、及びその方法を無効ならしめる手立てについて」、第3部は「魔女及び全ての異端者に対する教会並びに世俗双方の法廷における裁判方法について」という具合に、設問形式で魔女の定義とその裁判方法が詳細に記述されています。

『魔女に与える鉄槌』で定義された魔女像は、ヨーロッパ全土に広がっていく魔女の雛形(ひながた)でした。

簡単にその内容を紹介すると、例えば、「魔女の実在を信ずることは、それを頑固に否定することが明らかな異端となるほど、カトリック信仰にとって本質なことであるかどうか」、「男色魔と女色魔は子供を産ませうるか」、そして「悪魔と性交を行う魔女について」という具合です。

サバト(悪魔の集会)への参加、空を飛ぶこと、毒薬を作ることなどの魔女行為も1つ1つ紹介され、それらが単なる迷信ではなく異端の事実であると書かれているわけです。


■『魔女に与える鉄槌』にお墨付きを与えた4人のサイン

この書物がドイツの異端審問官2人の手によって書かれたことは既に紹介しましたが、その1人であるハインリッヒ・クラマー Heinrich Kramer(1430-1505、ドイツ人)は、原稿をケルン大学神学部に送り、学術的承認を求めています。現代の論文で言えば学会の査読と考えればいいと思いますが、原稿に4人の神学教授がサインを行っています。

しかも、名前を貸しただけとも言われるもう1人の著者、ヤーコプ・シュプレンガー Jakob Sprenger(1435-1495、ドイツ人)は、ケルン大学神学部長を務めたほどの学識者です。更にクラマーは、法王インノケンティウス8世 Innocentius Ⅷ(1432-1492、ローマ教皇在位:1484~1492)に魔女狩りの正当性に対するお墨付きを求め、下された長文の回勅をこの本の序文に転用するという手回しの良さを発揮しています。その回勅の一部分を紹介してみましょう。



「近年、北ドイツとライン諸地域で、沢山の男女がカトリック信仰から逸脱し、男色魔、女色魔に身を委ね、或いは様々な妖術によって作物や果実を枯らせ、また、胎児や家畜の子供を殺し、人畜に苦痛と病気を与え、夫を性的不能、妻を不妊にし、多数の人々の災厄の原因となっていることを、我々は激しい悲しみと苦しみを持って聞いている。

我らの愛する息子ら、即(すなわ)ちドミニコ会士、神学の教授、ハインリッヒ・クラマーとヤーコプ・シュプレンガーとは、法王書簡に従って同地方の異端審問官として派遣され、現にその職にある。然(しか)るに、同地域の聖職者と警吏は魔女の罪の重大さを自覚せず、両人に十分な協力を示さない為に、彼らの任務遂行が阻まれている。

そこで我々は、彼らの審問が自由に、あらゆる方法を以(もっ)て、何人をも矯正し、投獄し、処罰する権限を持つべきことを命ずる。」(『魔女に与える鉄槌』に収録されたインノケンティウス8世の回勅より)



如何に堕落した教会とは言え、当時の人々にとって、法王の言葉は慈悲深く聞こえるものです。逆に、異端審問官にとっては、これほど強力な後ろ盾もありません。まさに“錦の御旗(みはた)”です。

洗脳の基本は、情報を権威付けし、あたかもそれが唯一絶対のものであるかのように見せかけることが第一歩です〔※⇒前述の添付資料≪広瀬 隆 著『二酸化炭素温暖化説の崩壊』 より抜粋(1~10)≫を参照〕。

いつの時代においても、人間は権威付けによって自分を大きく見せようとするものですが、クラマーという男はむしろ、情報の力を操ることに長けた能吏だったのではないかとも思います。後世のドイツで、やはり情報の力を操ったナチス・ドイツのゲッベルス宣伝相 Paul Joseph Goebbels(1897-1945)が出現したことを連想させます。

これらの権威付けと印刷本としての『魔女に与える鉄槌』によって、魔女にくっきりとした輪郭が与えられ、人々がその実在を信じ込むのです。

〔資料〕魔女狩り - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E7%8B%A9%E3%82%8A

〔資料〕『魔女に与える鉄槌 Malleus Maleficarum』(1487年刊行) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E3%81%AB%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%82%8B%E9%89%84%E6%A7%8C

http://digital.library.cornell.edu/cgi/t/text/text-idx?c=witch;cc=witch;view=toc;subview=short;idno=wit060

〔資料〕『魔女誕生』:第3章 『魔女の槌』Malleus Maleficarum による、魔女=女性イメージの確立 - - 魔女狩り“学術的”情報サイト
http://witch.gtx.jp/majoindex.htm

http://witch.gtx.jp/link/index.htm

〔資料〕『Malleus maleficarum』 - Masashi Tanaka Official Website
http://m34tanaka.jimdo.com/demonology-witch/中世Ⅱ-1401-1500年/malleus-maleficarum/

http://poyoland.jugem.jp/?eid=625

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/danats/tetsui.htm

〔資料〕世界を滅茶苦茶した、書かれるべきでなかったかも知れない10冊の本 - GIGAZINE 2010年11月2日
http://gigazine.net/news/20101102_ten_books_of_destructive_consequences/

〔資料〕Heinrich Kramer(ラテン名:Heinrich Institoris 1430-1505) - Wikipedia
http://de.wikipedia.org/wiki/Heinrich_Kramer

〔資料〕Jakob Sprenger(1435-1495) - Wikipedia
http://de.wikipedia.org/wiki/Jakob_Sprenger_(Inquisitor)

〔資料〕Innocentius Ⅷ(Giovanni Battista Cybo 1432-1492) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B98%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)


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2012-05-30 21:50:28 posted by antibizwog

≪苫米地英人 著『現代版 魔女の鉄槌』 より抜粋(4)≫

テーマ:苫米地英人
(3頁からの続き)


〔苫米地英人 著『現代版 魔女の鉄槌』 第2章 魔女狩りの歴史~中世ヨーロッパで何が起こったのか?~ より P.84-P.128〕


■キリスト教は異端に寛容だった!

ヨーロッパ中世の魔女裁判には、異端審問 Inquisitio という暗黒裁判の前史があります。

異端とは、正統から外れているという意味です。現代における異端はそれほど悪いイメージで語られるものではありません。しかし、宗教で異端という言葉が使われると、それは重大な意味を持ちます。特にヨーロッパ中世では、異端は生命に係わる問題でした。

異端という言葉がいつ生れたのか定かではありませんが、キリスト教初期の頃から異端戦争が行われていたことは、聖書からも窺(うかが)えます。例えば、パウロ書簡には、正統ではない教義を信奉するものに対する警告がなされており、教えの解釈を巡る対立が存在したことを物語っています。

しかしながら、初期のキリスト教では、異端に対する態度はむしろ寛容なものでした。異端だから迫害して殺すという、カルトのような過激な迫害も無かったことでしょう。どうしても主流派の考えを守れない信徒に対しては破門を宣告するくらいのものだったはずです。キリスト教は、元々救いの宗教だったからです。

その寛容さに変化が表れるのは、キリスト教が権力と結び付き、権威を持ち始めてからのことです。権力維持の一翼を担い、宗教として権勢を振るうようになると、その権威が貶(おとし)められるようなことを嫌うようになるのです。その結果、宗教的な純化が行われます。

例えば、既に紹介したように、コンスタンティヌス大帝(コンスタンティヌス1世) ConstantinusⅠ(272-337、ローマ帝国の皇帝在位:306~337)の時代にアリウス派 Arianismus が異端とされたことはその典型です。狭義に多様な解釈や考え方があることを許容せず、正統以外のものを撲滅しようとする力学が働き始めます。もちろん、何が正統かという問題に決着を付けるのは、常に信仰ではなく政治力です。

コンスタンティヌス大帝が三位一体を唱えるアタナシウス派 Athanasius と結託したのも、その結果と言えます。アタナシウス派が最大派閥であり、その優勢を見て取ったからでもあるでしょう。また、精霊の位格が同じとなれば、その精霊が宿ったパウロ Apostle Paul(5-67、ユダヤ人)の言葉も、公会議の議決も神の言葉となるので政治的に利用し易いからと言えます。


■コンスタンティヌス大帝の大衆洗脳

コンスタンティヌス大帝の目的は、当時、4つに分割統治されていたローマ帝国(帝政ローマ) Imperium Romanum で、唯一の皇帝としての専制君主制を確立することでした。その為に、当時、人気が上昇していたキリスト教の力を利用することを思い付いたのでしょう。テレビやラジオといったマスコミュニケーションの手段がありませんから、宗教者による教導は、大衆洗脳の唯一最大の手段でした。

キリスト教徒達によって、コンスタンティヌス大帝の権威があまねく伝えられ、広く彼を唯一無二の皇帝に推す世論が形成されることが、彼には目的を達成する上でどうしても必要だったのです。

その意味で、コンスタンティヌス大帝がキリスト教に求めたのは、自らへの忠誠と求心力であり、救いではなかったはずです。だからこそ、彼の選択には、迷いが無かったに違いありません。教義に対する厳格な姿勢ゆえに分裂の火種となり、その頑固さゆえに使いづらいアリウス派を切り捨て、恭順の態度を見せているアタナシウス派を拾い上げたのです。

アリウス派がその後どのような扱いを受けたか、記録には殆んど残されていませんが、ローマ帝国の領土内において激しい迫害を受けたことは、僅かながらも伝えられています。彼らは家を壊されたり、暴力を振るわれたり、殺されたりし、ローマ帝国を追われていきました。

ちなみに、当時、東の正帝だったリキニウス LiciniusⅠ(263?-325、ローマ皇帝在位:308~324)は、このコンスタンティヌスの動きに激しく反発し、キリスト教徒に対する迫害を強化しました。彼は、得体の知れない新しい武器の切っ先が自分の咽喉元に伸びてきたことを察知し、それを必死に跳ね除けようとしたのです。

しかし、迫害を強化すればするほど、リキニウスは不利になっていきました。惨(むご)たらしい迫害が続き、民心が離れていったからです。圧倒的な不人気の中で戦いに敗れたリキニウスは、コンスタンティヌスによって325年に処刑されました。これによりローマ帝国は統一され、325年に第1回ニカイア公会議 First Council of Nicaea がコンスタンティヌス大帝の主宰で開かれ、キリスト教がローマで確立します。

このように、宗教と権力が結び付き、国教化されるということは、即(すなわ)ち宗教が権力者の権力闘争の道具として採用されることと同義です。とすれば、権力者にとって異端とは、剣に浮いた錆びのようなものであることが分かります。戦いに勝つ為に、錆びはいつもきれいに落としておかなければならない、ということです。

〔資料〕LiciniusⅠ(Gaius Valerius Licinianus Licinius Augustus 263?-325) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9

〔資料〕ConstantinusⅠ(Gaius Flavius Valerius Constantinus 272-337) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B91%E4%B8%96

〔資料〕キリスト教 Religio Christiana(英:Christianity) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99

〔資料〕異端審問 Inquisitio - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F


■法王権の全盛時代

とは言え、ローマンカトリック教会 Ecclesia Catholica(英:Roman Catholic Church)の歴史を振り返ると、12世紀を迎えるまでの彼らは、異端撲滅に絶えず取り組んだというわけではありません。

キリスト教にして書かれた歴史書には、この頃までの教会が異端に対して寛容に接していた様子が描かれています。コンスタンティヌス大帝(コンスタンティヌス1世) ConstantinusⅠ(272-337、ローマ帝国の皇帝在位:306~337)から数えておよそ800年の間に限って言えば、時の権力に求められ、或いは教会の中から生じた理由によって、異端撲滅をしなければならない特別な事情が、彼らには生じなかったのだろうと私は思います。

さて、4世紀から5世紀にかけてのゲルマン民族の大移動、その影響によるローマ帝国の滅亡と再建を経て、12世紀のヨーロッパの体制は様変わりしていました。政治的には、言わば政治権力の爛熟(らんじゅく)期であり、同時に堕落期が訪れていました。王侯達は市民や領民の生活を顧みることなく欲するままの生活を送るようになり、統治力の喪失は甚(はなはだ)だしかったのです。

一方、宗教から見ると、この時期は教会の権威がかつてなく高まった時代でした。一般に、法王権の全盛時代と言われる時代が始まっていました。

西欧諸国の政治に介入したことでとりわけ有名なのは、法王インノケンティウス3世 InnocentiusⅢ(1161-1216、ローマ法王在位:1198~1216)でしょう。彼は、1215年の第4ラテラン公会議 Fourth Council of Lateran において、次のような言葉を残しています。

「教皇は太陽、皇帝は月」「王侯の権力は教会に由来する。ゆえに王侯は聖職者の下僕である」

もちろん、この頃には、教会もまた大変な堕落を重ねていました。聖職の売買や聖職者が情婦を持つことが日常茶飯であるばかりか、教会の小部屋は尼僧(にそう)や女性信徒との情事の場と化し、私服を肥やすことばかりに熱心だったのです。

ダンテ Dante Alighieri(1265-1321)は13世紀に、『神曲 地獄篇 La Divina Commedia, Inferno』で逆さまにされた教皇ニコラウス3世 Nicholaus Ⅲ(1216?-1280、ローマ教皇在位:1277~1280)を描き、(ニコラウス3世は)ダンテと同時代の教皇ボニファティウス8世 Bonifatius VIII(1235-1303、ローマ教皇在位:1294~1303)が同じ運命を辿るだろうと予言しています。

つまり、ダンテはその一節を、教会権力への告発状として描いているのです。ダンテの『神曲 地獄篇』は、民衆が時の教会に対して抱いていた怒りの強さを、現代に伝えています。

〔※『神曲 地獄篇』第19歌では、聖職者売買の徒が罰せられている。その中で、岩穴に逆埋めにされ両足を炎で焼かれたニコラウス3世は「後に来るのはボニファティウス8世、そして教皇クレメンス5世 Clemens Ⅴ(1264-1314、ローマ教皇在位:1305~1314)だ。彼は教皇権までもフランスの王に売った」と述べ、「お前はもうそこに来たのか?ボニファチオ(ボニファティウス8世)?」と、第6歌にも登場したボニファティウス8世の名を呼ぶ。

逆埋めになった頭の下には、聖職を汚(けが)した他の教皇達が引き摺り込まれ押し潰されており、ボニファティウス8世がやって来る暁には、自分もそこに堕ち行くことになるのだと語る(詳細は添付資料を参照)。

1301年にフィレンツェ使節の1人としてダンテはローマ教皇ボニファティウス8世に会うが、ボニファティウス8世により永久追放の判決を受け、亡命生活を余儀なくされた。2年後の1303年、フィリップ4世がアナーニ事件を起こし、捕らえられたボニファティウス8世は憤死に至る。この時ダンテはフォルリに滞在しており、翌年に『神曲 地獄篇』を書き始めた。地獄篇は1304~1308年頃に執筆され、地獄篇・煉獄篇・天国篇の3部から成る『神曲』は、印刷本として、1472年に初版が刊行されている〕

余談ながら、聖書の物語に題材を取ったルネッサンス Renaissance(伊:Rinascimento)の絵画は、神に救いを求める人間の激しい苦悩を描いたものが数多く見られます。何故こうも同じようなテーマが繰返されたのか、何故こうもおどろおどろしいタッチの絵ばかりが描かれたのか、不思議に思ってきた読者もいるでしょう。その理由も、ルネッサンス絵画の作者達が、内心にダンテと同じような怒りを抱え、それを創作動機に昇華して絵筆を握ってきたからです。

教会の腐敗は、それほど酷いものでした。例えば15世紀には、現世の悪事が金銭によって許されるという贖宥状 Indulgentia(しょくゆうじょう、免罪符)まで登場し、その販売利益で太った教会が、更に利権漁りをするという悪循環が繰り返されています。

見るに見かねた宗教者達が立ち上がり、宗教改革運動が起こるのは当然の流れと言わなくてはなりません。宗教改革を唱える信徒が増え、これがピューリタン Puritan(清教徒)の宗教改革を促すのです。

実は、異端審問と宗教改革は切っても切れない関係にあります。教会が何故異端審問を行うのか。その大きな目的は、教会の権威を守り、組織を防衛することです。何故組織を防衛するのか。それは、異端者とされる信徒達が、教会の足元を崩すようなことを主張するからです。

教会が最も金と権力を握った中世は、同時に、教会が最も保身に気を配らなければならない時代でもありました。

〔資料〕InnocentiusⅢ(Lotario dei Conti 1161-1216) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B93%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

〔資料〕Clemens Ⅴ(Bertrand de Gouth 1264-1314) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B95%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

〔資料〕Dante Alighieri(Durante di Alighiero degli Alighieri 1265-1321) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA

〔資料〕『神曲 地獄篇 La Divina Commedia, Inferno』 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2

http://blog.goo.ne.jp/norilino1045/e/8777a1cbfe87fb6df3f0901019fd34f1

http://renessance.jugem.jp/?eid=121

〔資料〕ダンテ『神曲 地獄篇』対訳(上) By 藤谷道夫(PDF、全189頁)
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mfujitani16.pdf

〔資料〕ダンテ『神曲 地獄篇』対訳(下) By 藤谷道夫(PDF、全199頁) ※『神曲 地獄篇』第19歌は14~24頁
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/gaikokubungaku-17-3.pdf

〔資料〕Dante Alighieri著, 壽岳文章 訳『世界文学全集 2 神曲 愛蔵版』(集英社 1976年刊行)より 『神曲 地獄篇』第19歌の対訳
http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/dante.html

〔資料〕ダンテ『神曲』本文の基本的解釈の問題点 Ⅰ地獄篇 By 西沢邦輔(PDF、全22頁)
http://ci.nii.ac.jp/els/110006241079.pdf?id=ART0008261080&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1338389720&cp=

〔資料〕晩年のダンテ By 野上素一(PDF、全11頁) ※ボニファティウス8世によるダンテ追放
http://ci.nii.ac.jp/els/110002959102.pdf?id=ART0003314844&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1338390146&cp=

〔資料〕彼岸の世界構造~ギリシア・ローマ及びキリスト教文学に現われた~ By 野上素一(PDF、全18頁)
http://ci.nii.ac.jp/els/110002959183.pdf?id=ART0003314990&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1338390523&cp=

〔資料〕ダンテ神曲ものがたり 1~33(左端に目次あり) - LEGACY OF ASHES 2010年11月17~19日 ※注. このブログが閲覧出来るのは2012年末迄
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/

〔資料〕Paul Gustave Doré(1832-1888) - Wikipedia ※ポーの『大鴉(The Raven)』、『欽定訳聖書(KJV聖書)』の挿絵も手掛ける
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AC

http://commons.wikimedia.org/wiki/Gustave_Dor%C3%A9

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B4%89

〔資料〕Nicholaus Ⅲ(Giovanni Gaetano Orsini 1216?-1280) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B93%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

〔資料〕Bonifatius VIII(Benedetto Caetani 1235-1303) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B98%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

〔資料〕アナーニ事件 Outrage of Anagni(1303年) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

〔資料〕贖宥状 Indulgentia - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%96%E5%AE%A5%E7%8A%B6


■異端審問の始まり

惨(むご)たらしい拷問、凄まじい虐殺を連想させる中世の異端審問 Inquisitio は、12世紀の南フランスで始まりました。

当時、南フランスでは領主から市民までがローマ法王の権威と距離を置き、自由な文化を育てていました。その地で勢力を伸ばしていたのが、カタリ派 Cathares(英:Cathars)と言われるキリスト教宗派です。

カタリ派の「カタリ」とは、ギリシャ語で「清浄なるもの καθαρός, katharos」を意味する言葉です。地域によってはアルビ派 Albigeois(英:Albigenses)ともバタリニ派とも呼ばれていました。カタリ派そのものが消えてしまった為、彼らの思想の詳細は分かりませんが、教会を否定し、何処で祈りを捧げようとも信仰心の篤さとは全く関係が無いとする一派でした。

祈りと教会については、少々説明が必要かも知れません。

ローマンカトリック教会では、祈りは教会で行うものと定めていました。それは典礼に則(のっと)り、司教などの宗教指導者によって執り行うものとされていました。その為、祈りの場としての教会は、ステンドグラスなどの装飾が象徴するように、豪奢(ごうしゃ)なものになっていきました。そして、それが教会の高い権威を象徴し、信者支配を強化する手段にもなりました。

つまり、神への信仰がいつの間にか教会に対する隷従へと変質し、同時に、信仰の場であるはずの教会が形式ばかりの信仰、金儲け、或いは政治の場に堕してしまったということです。

カタリ派をはじめとする宗教改革派は、こうした教会のあり方が信仰を歪めるという、問題の本質に早くから気付いていました。西洋の歴史ノンフィクションなどでは、宗教改革運動を「教会を否定する運動」というように1行で片付ける記述が多い為、これは以外に分かりにくい点です。

宗教改革は、信仰を守ることと、教会という場で祈ることとの矛盾に気付いた宗教指導者や信徒達による、信仰の原点回帰が出発点になっていたのです。信仰というものの本質を考えれば、祈りを捧げるのに場所は関係ないはずです。そうやって考えていくと、そもそも教会は必要ない、という終点に行き着きます。これが、宗教改革運動が教会を否定したと言われる要点なのです。

ローマンカトリック教会にとって、こうした宗教改革者達の論理は、甚(はなは)だ都合の悪いものでした。祈りの場としての教会を疑う信者が増えると、教会の権威が直ちに崩れる危険性が生じます。

まかり間違って、祈りを捧げる場所と信仰の篤さは関係が無いということになれば、これまで営々と執り行ってきた典礼は何の為のものかと批判されるばかりか、信仰の邪魔をしてきたのは協会のほうだという極論さえ成り立つからです。仮に、この論理を振り翳(かざ)す民衆蜂起が起これば、キリスト教を国教とする政治権力も崩れてしまうことでしょう。

政治と宗教は、時に利用し合い、時に協力し合って、民衆を治め、国家を統治してきました。それがコンスタンティヌス大帝(コンスタンティヌス1世) ConstantinusⅠ(272-337、ローマ帝国の皇帝在位:306~337)以来の統治システムでした。

ところが、教会による縛りが強化される中で信仰の原点に返るという論理が生れ、それが精緻に作り上げられた教会システムに蜂の1穴を開けました。信仰の本質を考えれば考えるほど教会が否定されるわけですから、この論理が持つ破壊力は実に強力です。些(いささ)か性急に言えば、それを許すことは、政治と宗教の合作による統治システムの破壊を招くのです。

権力者が黙って見ているはずはありません。


■最初の十字軍は異端討伐隊

さて、1198年にインノケンティウス3世 InnocentiusⅢ(1161-1216、ローマ法王在位:1198~1216)が位に就くと、カタリ派(アルビ派)に対する弾圧を始めます。そして、1209年、遂に南フランスに討伐軍を送ることを決定します。

彼は討伐軍を組織するに当り、異端に対するローマ市民の怒りを巧みに煽りつつ、その一方で討伐軍には異端者の領地と財産を与えることを約束しました。何と老獪(ろうかい)な政治家でしょうか。軍人1人1人に最も精力的に異端狩りを行わしめる方法は、彼らの私利私欲に火を点けることだと心得ていたのです。

法王の命によって送られたこの軍隊は、アルビ十字軍 Croisade des Albigeois(英:Albigensian Crusade、1208~1229)と呼ばれました。初めからキリスト教徒の討伐を目的として組織された、最初の十字軍です〔※十字軍という名称は、一般にはキリスト教による対イスラム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも使われている〕。異端討伐は、その後20年間にわたって繰り広げられています。

アルビ十字軍が各地で行ったのは、住民の大虐殺でした。カタリ派か否かということは、もはや関係がありませんでした。そもそも掠奪することが目的ですから、殺戮に躊躇(ちゅうちょ)や逡巡(しゅんじゅん)が入り込む余地など無いし、彼らはむしろそれを楽しんでいました。例えば、娘を井戸に落とし、その上から次々と大きな石を投げ込むという蛮行がその典型でしょう。

いつの時代の十字軍も、その目的は領土と財産の収奪であり、同じような蛮行を繰り返したと考えられますが、彼らが掲げた異教徒を滅ぼすという大義名分が如何にご都合主義の理由であるかを、アルビ十字軍の例は殊更雄弁に物語ってくれます。何故なら、同じキリスト教徒に対しても、また異端でなかった人々に対しても、変わりのない蛮行が振るわれたからです。

1章で、「キル(kill)」と「マーダー(murder)」は違うと発言した現代の宗教指導者の話を紹介しましたが、アルビ十字軍の例では一体どこが違うと言うのでしょうか。(中略)

13世紀の南フランスで行われた虐殺のエピソードは枚挙に暇がありませんが、ここでその話に分け入ることは止めておきましょう。そして、1229年の戦争終結までに、南フランスの諸都市は全て陥落するのです。

〔資料〕カタリ派 Cathares(英:Cathars) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AA%E6%B4%BE

〔資料〕アルビジョア十字軍 Croisade des Albigeois(英:Albigensian Crusade、1208~1229) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D

〔資料〕十字軍の暗黒史:「アルビジョア十字軍」によるカタリ派大虐殺 - THE HEXAGON
http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_ha/a6fha100.html

〔資料〕カタリ派について 1~3 - アトリエそうりん 2009年5月14~17日
http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/--5dae.html

http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/--df47.html

http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/--9131.html

〔資料〕Simon de Montfort, 5th Earl of Leicester(1160-1218) - Genealogy
http://www.geni.com/people/Simon-IV-de-Montfort-the-elder-5th-Earl-Leicester/6000000006355720542

http://fr.wikipedia.org/wiki/Simon_IV_de_Montfort


■異端審問官は人類史上最大の思想警察

戦争終結の年、カタリ派に対する異端審問が始まりました。

果たして、審問の法廷に引き摺り出された人々が本当に生き残ったカタリ派だったのか、ただの市民だったのか、今となっては分かりません。拷問に次ぐ拷問によって、「私は神の教えに背きました」という異端の自白が強制されました。中には、自らの無実を訴え続ける不屈の人もいました。しかし、そういう人は、拷問の苦痛が耐えられなくなって絶命しました。自白してもしなくても、とにかく死が待っているのです。

これが、残虐な拷問と処刑が繰り返される、中世の暗黒裁判の号砲だったと言うことが出来ます。そして、カタリ派への異端審問をきっかけに、異端審問制という制度が生れていくのです。

それまで、異端を取り締まる権限は、各地の司教に属していました。司教の権限であれば、地域性や司教本人の考え方に判断が左右され、政治的妥協が入り込む余地も生れます。

また、カタリ派への異端審問がそうであるように、激しく抵抗する異端者を制し、その地域から丸ごと一掃するような芸当が必要になった場合、それを司教の権限だけで遂行するのは無理があります。捜査権、逮捕権といったものを裏付ける武力が必要ですし、その際には識見の問題も生じます。

更に、司法権の問題も存在します。或る者を宗教裁判で異端と認定するまでは教会の権限で行うことが出来ますが、処刑を行う権限は教会にはありません。司法は、統治権に属する問題だからです。

とすると、異端審問を行う場合、調査、逮捕、取り調べ、裁判、刑の実行という全てのプロセスにおいて、その権限と手続きを保証する、より大きな権限の裏付けが必要になるわけです。カタリ派への異端審問の後、この実行体制を制度的に支える仕組み作りが直ちに検討され、それが異端審問制という形で結実していくわけです。

インノケンティウス3世の後を継いだグレゴリウス9世 Gregorius Ⅸ(1140?-1241、ローマ教皇在位:1227~1241)は、法王が直轄する専門の異端審問官を設け、異端審問についての全権を委任する制度を打ち出します。要するに、恒久的な専門組織として創られた異端審問官が、法王から全権を委任され、その職務権限において異端の撲滅に当るということです。

この制度のミソは、「恒久的」「専門組織」「全権委任」という点でしょう。つまり、異端審問制というのは、最初から「その為の全ての権限を持ち、永遠に異端を取り締まる」という前提の下に生み出されているのです。

現代の官僚組織に準(なぞら)えると分かり易いと思いますが、恒久的な専門組織は必ず腐敗の温床になっていきます。そのような組織は、権力に胡坐(あぐら)を構(か)くだけでなく、常に権力と既得権益の拡大を自己目的化していくからです。

しかも、異端審問官が果たす機能は、裁判官のそれのみではありません。現代の司法制度で言えば、彼らは同時に警察であり、検察であり、処刑吏でもありました。白を黒と言い包(くる)めて人を殺す為の、人類史上最大の思想警察と言うべき存在です。

グレゴリウス9世は、この組織が猛威を振るう為の“秘薬”を、そっと注入することも忘れませんでした。異端審問官の活動を支える収入源の中に、審問によって処刑される異端者の没収財産を含めたのです。

インノケンティウス3世がアルビ十字軍に用いた殺戮の加速システムが、ここでも応用されることになりました。しかも、今度は1回の遠征に限定されるものではありません。グレゴリウス9世は、それが恒久的に働くよう、制度の中に埋め込んだのです。

〔資料〕Gregorius Ⅸ(Ugolino di Conti 1140?-1241) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B99%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

〔資料〕Google Books - 『教皇グレゴリウス9世教皇令集 Decretales D. Gregorii Papae IX.―suae integritati, una cum glossis restitutae』(全42頁、1582年)
http://books.google.co.jp/books?id=BqcUOLC6_3IC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/europian_law_2006/shiryou/01/07.html


(5頁へ続く)
2012-05-28 22:30:19 posted by antibizwog

≪苫米地英人 著『現代版 魔女の鉄槌』 より抜粋(3)≫

テーマ:苫米地英人
(2頁からの続き)


■聖典が持ち得た2つの意味

宗教は、政治に利用されることをバネにして、勢力を拡大してきました。権力者にとって、宗教は実に使いでのある道具でした。人々を統治することはもちろん、政敵を失脚させることも容易です。「神の教えに背いている」と指弾することは、どんな嫌がらせよりも有効だったのです。

また、領土的野心を満たそうとする時にも、それは大いに役立ちました。例えば、ローマ帝国(帝政ローマ) Imperium Romanum はゲルマン人との度重なる戦いに教会の祭司達を伴い、占領地の住民にキリスト教を布教させたと言われています。

当時のゲルマン人は、文字を持っていませんでした。そこに、文字に書かれた宗教が初めて入り込んできました。もちろん、彼らはラテン語の文章を理解しようがないわけですが、それを見聞きしたゲルマン人は、たちまちキリスト教の教えに感銘し、信徒になっていきました。彼らはそうやって、ローマ皇帝とローマ軍を受け入れたのです。

文字に書かれた宗教は、ゲルマン人の目にどのように映ったのでしょうか。私は、そのとき正典が持つ意味は、2つあったと思います。

1つは、圧倒的な文明としての力です。私達は、自分達よりも遥かに進んだ文明に出合うと、それを拒否するよりも進んで受け入れようとする傾向を見せます。(中略)ゲルマン人にとって、書かれた宗教は、これと同じような働きを持ったことでしょう。

2つ目は、文字によって教義が定着していることの意味です。

ゲルマン人も当時、原子的な宗教を持っていました。その教義は、祈祷師(きとうし)や巫女(みこ)といった人々が口伝に語られていたものであり、キリスト教で使徒パウロが行ったように、教義の本質を定式化するというプロセスを経てはいませんでした。口伝の教義は、語り手の性格によって、様々なバリエーションを持ったでしょうし、それ故に、宗教の輪郭もおぼろげだったことでしょう。

ところが、彼らの目の前に現れたキリスト教の聖典は、文字として書かれ、それを伝える人間の性格や地域性に左右されない、形式的に普遍化されたものだったわけです。たとえ、それを理解することが出来ないとしても、教義が記述され、紙に定着していることの威力は絶大だったに違いありません。


■「マーダーとキルは違う」という論理

さて、話はキリスト教の開祖の話にもう一度戻ります。

今私達がキリスト教と考えている宗教には、2つの大きな流れがあります。1つはカトリック Catholicus(英:Catholic)です。これは既に述べたように、ローマ帝国が国教化したキリスト教であり、ローマ法王を頂点とするものです。もう1つは、御存じのようにプロテスタント Protestant です。実はプロテスタントにも、コンスタンティヌス大帝(コンスタンティヌス1世) ConstantinusⅠ(272-337)とは別の開祖がいます。

宗教を論じる際に、私が時々紹介するエピソードの1つに、『ラリー・キング・ライブ Larry King Live(L.K.L)』(1985~2010、CNNの看板トーク番組)の話があります。(中略)9.11同時多発テロが起こり、その影響でイラク戦争が始まった頃、この番組で戦争の是非を巡る討論が行われました。出演者は、ユダヤのラビ(宗教指導者)、イスラムの宗教指導者、カトリックの神父、プロテスタントの牧師、そしてインド人のニュー・エイジ系指導者の5人です。

その時、視聴者から電話で「何故戦争では人を殺していいのですか」という質問が寄せられ、ラビが「マーダー(murder)とキル(kill)は違う」と答えました。戦争で行う殺人はキルであって、それは許されるという意味です。

この発言の裏には、宗教的な論理があります。つまり、神は「汝、人を殺すなかれ」とマーダーを禁じています。人間が人間を殺すのが「マーダー」で、これは条件が付けられていません。つまり「マーダー」は絶対に許されないはずです。

ただ、旧約聖書の神は創世記の「ノアの箱舟」の話で代表されるように「悪を行う人」には大量殺戮を行う神です。「正しい人」ノアは救われ、その子孫は「正しいこと」を続ける限り、絶滅させられない契約を守らない人間は、人類の為に滅ぼされなければならないという論理が生れます。故にキルは許される、という結論に辿り着くのです。(中略)

ここで私が問題にしたいのは、彼らのおかしな論理のことではありません。「マーダー」は許されないが「キル」はその限りではないという彼らの解釈を、たとえ百歩譲って由としても、一体その聖書は誰が書いた聖書なのか、という点です。イエス・キリストも、パウロも、アタナシウスも、そしてコンスタンティヌス大帝も、「マーダー」と「キル」の使い分けなど一切していないのです。

〔資料〕ローマ帝国(帝政ローマ) Imperium Romanum:キリスト教 - Wikipedia
http://de.wikipedia.org/wiki/R%C3%B6misches_Reich

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD

〔資料〕Catholicus(英:Catholic) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF

〔資料〕Protestant - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%86%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88

〔資料〕CNN『Larry King Live(L.K.L)』(1985~2010) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96

http://ukmedia.exblog.jp/16446227

〔資料〕メタトロンの魔力 - LEGACY OF ASHES 2009年8月14日 ※聖書における神の殺人命令、Vatican:Vatis=Diviner and Can=Serpent(蛇)から由来
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/22.html


■キングジェームズ1世

≪≪長い年月の間に、聖書は、英語をはじめフランス語やドイツ語など、世界の国々の言葉に翻訳されてきました。

海外旅行先のホテルなどに置いてある聖書は、大抵は英語です。キリスト教に馴染みのない日本人はその理由を「英語人口が多いから」と考えるかも知れませんが、英語の聖書が備えられていることにはもっと根本的な理由があります。

英語の聖書というのは、通常イギリス国教会の聖書です。KJV聖書と言われます。プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、それ以外は正しい聖書ではないとさえ言えるのです。実はカトリックの聖書も英語の聖書はKJV聖書をベースにしています。(中略)このKJVとは King James Version の略です。

元々『新約聖書』はギリシャ語で書かれていました。それがラテン語に翻訳され、各地に広まっていきましたが、ローマンカトリック教会が正式に聖書と定めているのは、今でもラテン語で書かれた聖書のみなのです。それと同じ意味において、多くのプロテスタント教会が聖書と定めているのは、英語で書かれた聖書のみなのです。

とすれば、誰が英語の聖書を翻訳し編纂したのかが決定的に重要なポイントになるでしょう。

プロテスタントの英語聖書を作ったのは、スコットランド、イングランド、アイルランドを治めたジェームズ1世 JamesⅠ(Charles James Stuart 1566-1625)です。彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から、『欽定訳聖書(KJV聖書)』を作りました。

実は、『欽定訳聖書』が誕生する14年ほど前、ジェームズ1世は『デモノロジー(悪魔学) Daemonologie』(英:Demonology、1597年刊行)という書物を著しています。この本は、先に紹介した『魔女に与える鉄槌』の系譜を汲み、イギリスにおける魔女狩りの指南書の役割を果たしました。つまり、イギリスの魔女狩りを主導した王が、現代に受け継がれるイギリス国教会の聖書を作ったのです。

さて、『欽定訳聖書』以前、イギリスには『ジュネーブ聖書 Geneva Bible』(1560年)と呼ばれる英語訳聖書が普及しており、人々に親しまれていました。これは宗教改革運動への迫害を逃れてジュネーブに渡ったカルヴァン派 Calvinism の神学者達によって翻訳されたものです。

聖書の英訳にも興味の尽きない歴史があります。

最初の英訳は、ジョン・ウィクリフ John Wycliffe(1328-1384)による『ウィクリフ版聖書 Wycliffe Bible』(1408年)、それに続くのがウィリアム・ティンダル William Tyndale(1492?-1536)による『ティンダル版聖書 Tyndale Bible』(1525年)です。

ウィクリフ、ティンダル共に宗教改革のリーダー的存在でした。それ以後は、『マシュー版聖書 Matthew Bible』(1537年)、『ジュネーブ聖書』(1560年)という具合に次々と刊行されていきますが、『欽定訳聖書(KJV聖書)』はティンダル版聖書に大きな影響を受けています。

ジェームズ1世に改めて英訳聖書を作ることを決意させた詳しい事情は分かりません。ただ、国王達が自分に服従しないと感じたジェームズ1世は、それまでの聖書をひどく嫌ったと言われます。時代はまさに、宗教改革の波に洗われ、イギリスの政治の歯車が大きな音を立てて回り始めた時でした。自らの力で新しい聖書を定めることが権力を最大化する道だと、ジェームズ1世が考えたことは想像に難くありません。

ハンプトン・コート宮殿 Hampton Court Palace でジェームズ1世とピューリタン Puritan の主教達との会議が開かれ、その場で或る神学者が新しい英訳聖書を作ることを提案します。すると、その提案にジェームズ1世は、直ちに同意したと伝えられています。

この神学者は、オックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジ University of Oxford, Corpus Christi College の学寮長だったジョン・レイノルズ John Rainolds(or Reynolds 1549-1607)という人物です。

彼は、自分と同じようなことをジェームズ1世も考えていたと、然(さ)も偶然に意見の一致を見たかのように述懐しています。しかし、現代の政府が諮問委員会を体よく利用するのと同じで、レイノルズがジェームズ1世の意を受けて動いたと見るほうが自然です。≫≫


■キングジェームズ1世の悪訳

≪≪『聖書英訳物語』(Benson Bobrick著, 千葉喜久枝, 大泉尚子 翻訳, 永田竹司 監修、柏書房 2003年刊行)は、この翻訳に関わった54人の神学者達が傾けた情熱と努力を活写しています。読み応えがあるこの本は、歴史物語としては一級品と言えるでしょう。但し、欽定訳聖書誕生の正当性を謳い上げ、それを読み手に巧妙に刻み付けるという点で、私は読後に一抹の不安を感じました。

著者ベンソン・ボブリック Benson Bobrick(1947-)が組み立てる説得力は、勤勉で努力を尊ぶピューリタン気質に富んだ人々を大いに勇気付け、今日と同じ勤勉と努力を明日も捧げるように促すからです。それは、「十有五にして学に志す・・・・・・」というフレーズが私達に齎す心地よい作用に似ています。

54人の神学者達がどれほど正典の教えに忠実であろうとしたにせよ、彼らはジェームズ1世の政治的野望の手のひらで踊らされていたに過ぎません。実際ジェームズ1世は、聖書に自分に都合のいい言葉をそっと忍び込ませました。

例えば、“汝殺すことなかれ”で知られるマタイ(Matthew)19:18はカトリック教の聖書では、ラテン語とギリシア語に忠実に“Thou shalt do not kill”となっていますが、『欽定訳聖書』では“Thou shalt do not murder”となっており、“kill”が“murder”に変っています。

元々のギリシア語では、“φονεύω(phoneuo)”という単語は kill を表す一般名詞です。神の認める“kill”は“murder”ではないという、まさに魔女狩りや十字軍の論理が聖書の解釈ではなく、聖書の文字に表されました。

イギリス国教会から、アメリカに移住したピューリタンまでが、この聖書を使いました。インディアンの虐殺もまさに“murder”と“kill”は異なり、神は“murder”は禁じても“kill”は禁じていないという論理で行われたのでしょう。原爆投下の論理もそう感じられます。

「そんな馬鹿な」と思うかも知れませんが、『ラリー・キング・ライブ Larry King Live(L.K.L)』(1985~2010、CNNの看板トーク番組)で行われた議論が示すように、現実は確かにそうなっています。そして、就任式に臨むアメリカの歴代大統領は「キル」を肯定するバイブルを片手に置き、「ヘルプ・ミー・ゴッド(So Help Me God)」と宣誓を行うのです。

また、元々教会は英語で congregation と言いますが、これをイギリス国教会を指す church と変えたのはジェームズ1世です。プロテスタントの開祖は、ジェームズ1世と言ってもいいぐらいです。≫≫

私は、訳語改変の理由が、ジェームズ1世の個人的事情から生れたはずだと考えているのですが、その話は次の章で明らかにしていきます。

〔資料〕欽定訳聖書(KJV聖書) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%BD%E5%AE%9A%E8%A8%B3%E8%81%96%E6%9B%B8

〔資料〕JamesⅠ(Charles James Stuart 1566-1625) - Genealogy
http://www.geni.com/people/King-James-I-of-England-and-VI-of-Scotland/4104684

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA1%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

〔資料〕『悪魔学』(1597年) 訳注~承前~ By 荒川吉孝(PDF、全11頁)
http://ci.nii.ac.jp/els/110007124474.pdf?id=ART0009062170&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1338194878&cp=

〔資料〕『悪魔学』(1597年) 訳注 By 荒川吉孝(PDF、全6頁)
http://ci.nii.ac.jp/els/110004629003.pdf?id=ART0007341660&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1338193705&cp=

〔資料〕『悪魔学 Daemonologie』(1597年) - Masashi Tanaka Official Website
http://m34tanaka.jimdo.com/demonology-witch/%E8%BF%91%E4%B8%96%EF%BD%89-%E6%82%AA%E9%AD%94%E5%AD%A6%E8%AB%96%E6%9B%B8/king-james-vi-daemonologie/

〔資料〕田中雅志 著『魔女の誕生と衰退―原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』(三交社 2008年刊行)
http://www.amazon.co.jp/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%81%A8%E8%A1%B0%E9%80%80%E2%80%95%E5%8E%9F%E5%85%B8%E8%B3%87%E6%96%99%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%80%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%82%AA%E9%AD%94%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E9%9B%85%E5%BF%97/dp/4879191728

http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/1030/1/KU-1100SS-20090131-04.pdf

〔資料〕悪魔学 Demonology - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E5%AD%A6

〔資料〕英語訳聖書 English translations of the Bible - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E8%81%96%E6%9B%B8

〔資料〕翻訳聖書特集 By 市川美知代 - 清泉女子大学
http://www.seisen-u.ac.jp/lib/books/collection/c_bible.htm

〔資料〕『Geneva Bible』(1560年初版刊行) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%B4%E8%81%96%E6%9B%B8

〔資料〕John Wycliffe(1328-1384) - Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Wycliffe

〔資料〕William Tyndale(1492?-1536) - Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Tyndale

〔資料〕Hampton Court Palace - Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Hampton_Court_Palace

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E5%AE%AE%E6%AE%BF

〔資料〕Puritan - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%95%99%E5%BE%92%E9%9D%A9%E5%91%BD

〔資料〕John Rainolds(or Reynolds 1549-1607) - Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Rainolds

〔資料〕Matthew 19:18 - Biblos.com
http://bible.cc/matthew/19-18.htm


■宗教は検証されない

≪≪さて、ここまでの話で重要な点は、宗教の教義は、いつも権力者に都合がいいように書き残されているということです。そして、文字として書かれた教義は、科学論文のように査読され検証されることなく、いつの間にか人々の心に刻まれていきます。

何故検証しないのかと言えば、宗教は元々検証出来ないものだからです。検証され、「この部分は正しいけど、全体的には間違っている」ということになれば、もはやそれは盲従する信徒達の救いにはならないのです。

救いを求める人ほど、騙し易いものはありません。金に困り、喉から手が出るほど金が欲しいと思っている人ほど、詐欺にころりと騙されるというのは、いつの時代も変らぬ事情です。同じことが、救いを求める人にも言えるのです。

何故書かれた教義を盲目的に信じる心が生まれるのかと言えば、それは、他人を信じていないにも関わらず、信用出来る対象が欲しいと考えているからです。全てのことを疑う心を持てば、信用に足る対象が欲しいという浅薄な気持ちは、直ぐに消えて無くなります。それが消えてしまえば、自らの判断で信用出来るものを受け入れようと前に出る自信が、逆に心に満ちてくるはずです。

猜疑心と不満。その満たされない心に作用するのは、常に宗教であり、言葉でした。そしてその作用を強化、増幅させたのは、書かれた言葉であり、印刷された言葉でした。

一般に、グーテンベルクによる印刷術の発明は、近代的知性の発展という文脈で語られます。確かに、人間が知識を獲得する上で、それは極めて大きな役割を果たしました。その反面、印刷術は、中世ヨーロッパの人々の心に、誤った固定観念を植え付ける役割も果たしました。

印刷された言葉が繰り返し複製されることによって、誤っているはずの固定観念が正しいものとして広められていくという、負の側面も存在したのです。

『魔女に与える鉄槌(てっつい) Malleus Maleficarum』(1487年刊行)は、まさにその役割を果たしました。もちろん、権力者、そして宗教は、そこに印刷された文字が人々に及ぼす効果を利用しました。この書物が版を重ねるに連れて、魔女狩りの流行がいよいよ猛々しく盛っていくのは、決して偶然ではありません。

『魔女に与える鉄槌』が大ベストセラーになると、魔女に関する書物は次々と生み出されていきました。その1つがジェームズ1世 JamesⅠ(Charles James Stuart 1566-1625)の手になる『デモノロジー(悪魔学) Daemonologie』(英:Demonology、1597年刊行)です。

19世紀になると魔女狩りの流行は終息しますが、デモノロジー(悪魔学)の系譜は残ります。ボードレール Charles-Pierre Baudelaire(1821-1867)の『悪の華 Les Fleurs du mal』(1857年刊行)などの悪魔文学は、まさにそれを受け継ぐものでした。或いは、フロイト Sigmund Šlomo Freud(1856-1939)が精神分析学を確立したのも、自分は魔女であると自称する人々の心理を解明しようと考えたことが発端でした。

その意味で、魔女狩りはヨーロッパ社会の形成を左右した非常に大きな試金石だった、という指摘もあります。

〔資料〕Charles Baudelaire著『悪の華』:書評 - 松岡正剛の千夜千冊 2003年5月14日 ※ポーによる影響
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0773.html

〔資料〕Edgar Allan Poe(1809-1849) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC

〔資料〕≪Arthur Rimbaud著, 小林秀雄 訳『地獄の季節』、他(1~3)≫|MelancholiaⅠ ※ボードレール、他
http://arsmagna.jimdo.com/melancholiaⅠ-roentgenium-資料保管庫-目次/

〔資料〕Sigmund Šlomo Freud(1856-1939) - Genealogy
http://www.geni.com/people/Sigmund-Freud/315773591250001676

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88

〔資料〕≪Edward Bernays著、中田安彦 訳・解説『プロパガンダ教本』 より抜粋(1~3)≫|MelancholiaⅠ
http://arsmagna.jimdo.com/melancholiaⅠ-roentgenium-資料保管庫-目次/


■何故、現代に魔女が生まれるのか?

さて、現代における情報技術 Information Technology(IT)の発明は、ヨハネス・グーテンベルク Johannes Gutenberg(1400-1468、ドイツ人)による印刷術の発明に匹敵すると言われています。インターネットは、大量かつ多岐にわたる情報の伝達を容易にしただけでなく、それを集団で瞬時に共有することも可能にしました。(中略)

しかしながら、それは表の話であり、ヨーロッパ中世に準(なぞら)えれば、グーテンベルク聖書 Gutenberg-Bibel(四十二行聖書 42-zeilige Bibel)が齎(もたら)した世界と言わなくてはなりません。

物事には必ず表裏があるわけですが、『魔女に与える鉄槌』が中世に齎(もたら)した裏の世界は、現代においても存在しています。それが何かと言えば、専門家も含めた大勢の人々によって検証されない情報、わけてもミスリードや洗脳を目論む権力者によって行われる組織的な情報操作の世界です。


■いつの時代も情報を操作する人間が生まれる!

従来、インターネットの世界で起こるこうした情報操作に対して、情報リテラシー Information Literacy の確立を目指す教育やキャンペーンが行われてきました。情報リテラシーとは、誤った情報に惑わされない為には、情報の1次ソースに遡(さかのぼ)って確認することや、反対意見を参照し複数の意見を吟味する姿勢を身に付けることだと言えるでしょう。

ところが、情報リテラシーは、悪質なサイトに騙されない、或いは金銭トラブルに巻き込まれないという程度のことには役立つとしても、権力者による意図的な情報操作に太刀打ち出来るものではありません。

何故なら、情報操作の世界は、改竄(かいざん)された1次ソース、一見すると反対意見のように読める“偽装した反対意見”、或いは、一見すると賛成意見のように読める“偽装した賛成意見”などが蔓延する情報空間だからです。

しかも、ツイッターの登場によって、こうした偽装情報は、尚更巧妙に流通しつつあります。論理を持たず、感情に訴える“つぶやき”は、反論や反証を殆んど受け付けません。誤っていることを咎めても、「つぶやいただけなんだから、いいじゃん」で終わりです。

これは、現代に魔女狩りが流行する、非常に大きな環境的条件です。これを利用する権力者は既に現れているし、その動きは今後、益々顕著になっていくでしょう。このことは先々の章で明らかにしていきますが、その為にも、ヨーロッパ中世に起こった魔女狩りについてもう少し深く論考を進めていかなければなりません。

〔資料〕情報リテラシー Information Literacy:情報リテラシーに関わる取り組みの経緯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC


(4頁へ続く)

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