おはようございます。
長谷川です。
南太平洋にある
パラオという国をご存知でしょうか?
軍事ジャーナリストの井上和彦氏の
記事をご紹介します。
(今年の1月に夕刊フジに掲載されました。)
【戦後70年、今も輝く 英霊たちの足跡】
パラオ共和国 国旗、南洋神社、日常語… 随所に日本統治時代の名残
『青地に黄色の満月をあしらった「月章旗」。
世界有数のダイビングスポットとして知られるパラオ共和国の国旗である。
1994年に米国の信託統治領から独立国となったとき、
国民投票で選ばれたものだが、
それは、日本の「日章旗(日の丸)」にちなんでデザインされたといわれる。
名越二荒之助・元高千穂商科大学教授は生前、
「大東亜戦争におけるペリリュー、アンガウル両島での激戦で、
日本軍将兵が勇敢に戦い玉砕していった。
そのことが、パラオの人々の胸に深く刻まれた」と、その意味するところを語っていた。
かつてスペイン領だったパラオ諸島は、19世紀末にドイツへ売却され、
第1次世界大戦後から30年間、日本の委任統治が行われた。
行政機関「南洋庁」が設置され、インフラや教育制度、医療施設を整備し、
生活水準の向上が推し進められた。日本から多くの移民も押し寄せ、
漁業やリン鉱石の採掘、かつお節の生産、米の栽培などに取り組んだ。
当時、英ロンドン・タイムズの記者は
「内南洋(パラオを含むミクロネシアの島々)の人々は、
世界の列強植民地の中で、最も丁寧に行政されている
」(『歴史群像』34/学習研究社)と報じている。
日本の南洋政策の中心だったパラオは、
ラバウルなど重要拠点に向かう輸送船団の中継基地としてにぎわった。
日本統治時代の名残は、南洋庁が置かれたコロール島内の随所に見ることができる。
・日本統治自体のパラオの街並み
共和国議会の建物は日本統治時代の議会が使用され、
最高裁判所は当時のパラオ支庁が使われている。
パラオ高校も統治時代の学校で、正門の門柱は当時のままだ。
アサヒ球場という野球場や、日本人墓地なども残っている。
さらに、97年に再建された南洋神社には、
大東亜戦争におけるパラオ人戦没者も合祀されていた。石碑にはこう刻まれている。
「南洋神社には、日本とパラオの先祖神と大東亜戦争の戦死者が合祀されている。
ここにパラオの戦死者の名を裏面に刻み、その勇気を讃える」
パラオの対日感情は極めて良い。
いまでも日本語を話す年配者が多く、統治時代に持ち込まれた、
「デンワ」(電話)、「サビシイ」(寂しい)、「コイビト」(恋人)など、
多くの日本語がそのまま日常語として定着している。
・日本が作った学校で学ぶパラオ人の様子
ただ、パンツを「サルマタ」(猿股)、女性のブラジャーを「チチバンド」(乳バンド)、
ビールを飲むことを「ツカレナオース」(疲れ治ーす)というのは傑作だ。
2006年10月、首都がコロール島から、
バベルダオブ島のマルキョク州に遷された。
このマルキョク州の州旗は、
日本の旭日旗をモチーフにしたもので、この国の親日度をよく表している。
日本と歴史を共有したパラオに、足を延ばしてみてはいかがだろうか。』
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それまで人口が増えなかった南洋のこの地では・・・
日本が委任統治を始めてから
各種インフラストラクチャーを構築したため
人口も増え、さらに教育制度も整い、発展していったのです。
戦後、パラオ人自身が作った国旗を見ても
日本を模範とする姿勢が伺えます。
さらに当時の写真を見ていくと
真実の歴史が鮮やかに見えてきます。
パラオのペリリュー島は
大東亜戦争の激戦地になってしまいました。
しかし当時の守備隊の中川隊長は、戦いが始まる前に
住民を避難させたのです。
そして、守備隊1万名の兵士は
5万もの米軍を相手に見事な作戦と
勇姿により、1ヶ月半も戦い抜きました。
英霊の魂に
心から感謝と鎮魂を捧げます。
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