その死によってはっきりしたと私は考えるが、もしイエススという歴史上に存在したある人物を「救世主」と呼ぶのであれば、マイケルは「救世主気取り」だったのではなく、それは社会的現象としての「救世主」そのものなのである。グラミー賞のビデオに見えるように、彼は Michael, I love you! とファンに呼びかけられると微笑んでしまい、I love you, too!と投げキスを返す。これはファンサービスなどというものではなく、本当にそうしてしまうのである。これは阿弥陀仏が自らの名を呼ぶ者を誰でも救うのと同じ構造を持っている。Michael, I love you! とその名を呼ぶ者をマイケルは、必ず救い上げて、Neverland に迎え入れてくれるのである。そのように信じて、何の問題があろうか。
ものすごいフラストレーションに陥って店を出たら、そのビルの一つ下の階がレコード屋で、そこではマイケル・ジャクソンの作品のキャンペーンが行われており、 Dangerous Tour のブカレストのDVDが大量に売られていた。まぎれもなくこれだ、と思って買って帰り、映像を見たのが私と彼の作品との真剣な意味での出会いであった。
この曲はマイケルの「誇大妄想」や「救世主症候群」の表現として嘲笑されるが、とんでもない話である。マイケルは実際に、地球と人類との痛みをその身に感じ、人々に伝えようとしていたのである。彼がペインキラーを常用するようになり、その死の直接の原因になってしまったのも、この痛みのせいだと私は考える。 マイケルを「救世主気取り」として攻撃する人がたくさん居た。しかしアメリカの黒人の貧困な家庭に生まれた男の子が、地球上の痛みを感じ取り、それを何億という人々に届けることに成功するということは、どう考えても奇跡としか言えない。しかも彼は多くの子供の病気を愛によって癒してみせたのである。救世主であることの条件は、奇跡によってそのしるしを示すことである。しかも彼は自分が救った子供の裏切りにより、欺瞞によって生きる人々の誹謗と中傷と暴力の行使を受け、十字架に掛けられた。 その死によってはっきりしたと私は考えるが、もしイエススという歴史上に存在したある人物を「救世主」と呼ぶのであれば、マイケルは「救世主気取り」だったのではなく、それは社会的現象としての「救世主」そのものなのである。グラミー賞のビデオに見えるように、彼は Michael, I love you! とファンに呼びかけられると微笑んでしまい、I love you, too!と投げキスを返す。これはファンサービスなどというものではなく、本当にそうしてしまうのである。これは阿弥陀仏が自らの名を呼ぶ者を誰でも救うのと同じ構造を持っている。Michael, I love you! とその名を呼ぶ者をマイケルは、必ず救い上げて、Neverland に迎え入れてくれるのである。そのように信じても、何も問題はない。