殺処分ゼロへの疑義への批判

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 ちまたでは殺処分ゼロへの疑義がある。これは殺処分をゼロにするためには、入り口を塞ぐためには、保健所等に持ってくる人を説得すると言う行為が必要であり、説得されて持ち帰ったとしても、持ち込むような人たちは、結局、不適切飼養や遺棄をするだろうというもので、不適切飼養や遺棄されるぐらいであれば苦痛無く殺処分した方が良いという意見である。

 しかし、これはあまりにも短絡的すぎると思われる。そこで少し検討を加えてみた。殺処分ゼロへの疑義とあるが、ここでは行政が関連する事で、所有者の持ち込みに限って検討したいと思う。以前に動物福祉の松田早苗氏との議論で批判したことであるが今回は別の視点から考えてみた。(松田早苗氏の反論の元となった私からの批判、疑問、反論 http://ameblo.jp/animal-liberation/entry-11546172947.html)

 行政への持ちこみを防ぐために、持ち込んだ所有者を行政が窓口で説得するのには幾つかの方法があるとされるが、結果としてするべき方法については大きく分けて、一つは、所有者がそのまま飼い続けるという方法であり、もう一つは適切な里親を見つけるという方法である。問題は、そのまま飼い続ける場合に不適切飼養や遺棄が起きるだろうと言うことである。

 不適切飼養や遺棄が、どれぐらい出るのかと言うことに関しては、客観的な数字に出てこないので解らないというしかないが、上記のように主張するのであれば、最低限、その数字を客観的に示す必要はあるだろう。なぜなら殺処分ゼロへの懸念だけでは無く、不適切飼養や遺棄が必ず起きるという前提で、不適切飼養や遺棄される動物の無痛な殺処分まで視野に入れているからである。此処がまず一つ目の問題点である。

 これは動物の幸せが掛かっている以上、賭けは出来ないはずである。だからこそ殺すわけには行かないということだ。何故なら死は不可逆的であり、殺してしまえば取り返しが付かないからである。分かりやすく言えば、よくわからないような不確定なことを基準にして、取り返しのつかない行動をしてはいけないという原則であり、おそらく誰もが聞いたことがある用語で、法律で言えば疑わしきは罰せずである。この場合は疑わしきは殺さずとなる。生きていればどうにでもなる可能性があるが、殺してしまえばその可能性さえ無くなると言うことである。だからこそ、客観的データも示されないまま、経験則という客観性の無い主観的な考えで、賭けのように殺すわけには行かないということである。これは、生命を尊重する事を重要視するのであれば誰もが共有できる認識であると思われる。

 次の問題は、もし動物の生きる権利を認めたり主張するならば、当該動物が生きてさえいれば出会うかもしれない、何らかの機会や幸福になる機会があることは事実だろう。しかし、それを奪うことによって、動物が幸福になる権利を、何故、動物の権利を認めたり主張する者が奪うことが許されるのかであり、その理由を明確に説明する必要があるだろう。

 また、これは道徳的ジレンマの問題で、どちらに転んでも不幸は避けられない問題である。であるならば、検討するべきは、生かされたための不適切飼養や遺棄が必ず起きるという前提が仮に正しいとしても、その不適切飼養の程度はどこまでなのか、我慢できる程度の事もあれば、そうで無い程度の事もあるだろうし、また、遺棄された場合の不幸になる割合はどの程度なのか、そして不適切飼養や遺棄される数はどれ位なのか、そしてそれは、溺死と同じような窒息死による殺処分のゼロが無ければ殺されていた場合と比べて、苦痛を含む不幸が多いのか、少ないのかどうか等を検討する必要があるだろう。そしてより不幸が少ない方を選択をすることが良いのではないかと思われる。端的に言えば程度と量の比較で判断をする意外に無いだろう。

 すると、これは、不幸になる量とその質を検討して評価し、より不幸でない選択をすべきだと思われる。

 まず、質の問題に関しては、(捕獲ではなく)飼い主によって持ち込まれた犬猫の状態を見れば明らかだと思われる。果たして持ち込まれた犬猫の全頭が悲惨で目も当てられないほどの状態で、これなら死んだ方がマシだと言うぐらいの状態なのだろうか。おそらく、私や私の友人達の経験や動物管理センター等の写真等で判断する限り、飼い主の持ち込みで死んだ方がマシであるといった状態の犬猫は存在することは事実であるが、そう多くないと言えるだろう。何故なら、そこまで酷いと虐待になるからだ。したがって、持ち込まれた犬猫の飼い主が今後も同様な飼い方する保証はないが、その実績から判断しても、死んだ方がマシであると言うぐらいの飼い方に、(少なくとも全ての飼い主が)変更すると言うことは考えにくい。つまり、死んだ方がマシであると言うぐらいの悲惨な飼いかい方の方が少ないと言えるだろう。従って、質の問題での量的評価は殺処分ゼロの方が質的に不幸になる可能性の方が少ないと言うことになる。

 さらには、少なくとも以下のことが言えるだろう。不適切飼養や遺棄の数は殺処分ゼロになった数(されなくなった数)より確実に少ない。何故なら、殺処分がゼロになった時点では、殺処分されるはずの約5万匹の命はとりあえずは確実に助かるわけである(飼い主の持ち込みに関してなので野良は含まない)。そしてその説得された5万匹の命の内、何匹かは里子に出されているであろうし、何匹かは、殺処分の残酷な動画等により、改心した、或いは気づきを与えられた飼い主の元で飼われるであろうし、そうで無くとも、飼い主の元で、そう不幸にならずに飼われる動物も何匹かいるだろう。このように、殺処分ゼロにより全部が(極端な)不適切飼養や遺棄されるわけで無い事を考えると、殺処分ゼロで殺されるという不幸を逃れた動物と、生かされたために不適切飼養や遺棄をうける不幸な動物の数は一致するわけでは無く、(圧倒的に)生かされたために不適切飼養や遺棄をうける不幸な動物の方が数は少ないといえる。

 上記のように考えると、殺処分ゼロで生かされた為に、不幸になるであろう動物の数と、殺処分されたであろう究極の不幸な動物の数では殺処分されたであろう究極の不幸な動物の数が圧倒的に多いはずである。つまり殺されるという不幸の総量では殺処分ゼロの方が少ないと言えるだろう。

 以下は殺処分ゼロを実施した熊本市とその周辺の自治体である熊本県のデータとその説明である。
http://ameblo.jp/animal-liberation/entry-11287672935.html

 熊本市周辺の自治体(熊本県内)で、熊本市が殺処分の残酷性を啓発したあとで、遺棄が増えたかどうかを比較したものであるが、そういった傾向は見られていない。

 上記の議論を分かりやすくまとめると以下のようになるだろう。

1.殺処分ゼロでない場合
5万匹の殆どが炭酸ガスでの窒息死による究極の不幸が確定する。

2.殺処分ゼロの場合
5万匹に生きる機会が与えられるが、その内の何匹かは不適切飼育や遺棄で不幸になる可能性がある。

3.殺処分ゼロで無痛殺をした場合
5万匹の生きる機会を奪う為、将来の何らかの機会や幸福になる機会を奪ってしまう。(ただし、殺処分されるうちの何匹かは不適切飼養や遺棄での苦痛は無くなる)

 上記のことから考えると、殺処分ゼロが動物にとって一番問題が少ないことがわかるだろう。また、不適切飼育や遺棄にかんしては、法律で取り締まるべきで、現在は全く出来ていないと言える行政の指導の権限の強化や、警察等における法律の運用を適切に行なう事で解決できる問題であると思われる。

 このことから最低現言えることは、殺処分ゼロで殺されるはずの5万匹が助かり、仮にそのうち3万匹が不適切飼養で不幸であったとしても、2万匹は確実に救えることになり幸福になるのである。5万匹がガスで窒息させられ全滅するより、あるいは5万匹が自家殺処分され、生きていれば出会える利益を全て失い全滅させるより、2万匹分の幸福がある方がマシだとは思われる。

 もちろん不適切飼養を減らす、無くす努力はするべきで、・その為にも、本当にやるべき事は、動愛法等の行政や警察における運用の適正化だということであり、これが、殆どできていないことが、不適切飼養や遺棄の自由化につながっており、それがこういう問題を生み出す原因となっているので、こういった対策はかなり重要な問題だと思われる。

 そして、上記の事から、総合的に判断しても殺処分ゼロを目指すことが、動物達にとってより悪い状況を引き起こすとは考えられないし、それで助かった動物の殆どが不適切飼養や遺棄につながり、不幸な動物が増えるという、根拠のない理由で批判することはあまりにも荒唐無稽であり、乱暴な意見であると言える。上記でも書いたが、どちらを選択しても、不幸を生み出すという道徳的ジレンマのある問題ではあるが、幸福に関する質や量で考えるなら、殺処分ゼロの方がより良い結果を生むことになる事は間違いないだろう。

7/25日更新



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