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2017年11月22日(水)

何事ノ不思議ナケレド

テーマ:庭の風景


 

秋ばら、次々に咲いています。

 

アブラハム・ダービー(上)があたり年で、つぼみがたくさんつきました。

 

グラハム・トーマス(左下)とアイスバーグ(右下)も

昨年に比べて花付きがよかったです。

 

         

 

 

そしてなぜか、ピエール・ド・ロンサールが咲きました(驚愕

 

 

一期咲きなので、春にしか咲かないはずなのです。

つるばらで大きくしたいので、夏の剪定もほとんど手を加えず

水やり以外は基本放っていた見守っていただけでした。

 

花を咲かせないほうが体力を削られないので

早めにつぼみを切り落とした方がよかったのかもしれませんが、

高いところについてて見つけるのが遅れた&切るに忍びなく(弱

様子を見ていたところ、春と同じきれいな花が咲きました。

 

育てて10年近くなりますがこんなことは初めてで、びっくりしています。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今年のかばんの友は

森茉莉の文庫、この二冊でした。

出かけるときに文庫本を一冊かばんに入れていく習性があります;

 

紅茶と薔薇の日々 (ちくま文庫)  紅茶と薔薇の日々(ちくま文庫)

 

 

 

幸福はただ私の部屋の中だけに (ちくま文庫)  幸福はただ私の部屋の中だけに (ちくま文庫)

 

 

全集や単行本に収録されておらず、

雑誌のバックナンバーを探してあたらないと読めなかったものが

たくさん収められていて、ほんとにありがたいです。

 

『紅茶と薔薇の日々』は主にたべものについての随筆がたっぷり。

前に記事にした『貧乏サヴァラン』でも書かれていた、

鷗外のドイツ料理や

たまご好きな茉莉の「麺麭の温菓」など食卓まわりのいろいろ、

フランス滞在中の様子もうかがえておもしろいです。

 

『幸福はただ私の部屋の中だけに』は

「生まれつき楽しむことが上手にできているらしい(p.12)」茉莉の

すきなものや日々の暮らしに関する作品がまとめられています。

 

いちばん印象に残ったのは

「やわらかな気持ちでよい文章と暮らす」という随筆の以下の部分でした。

 

 美しい文章を書くということは、やはり、自分の内から、自然に流れ出てこなくては駄目である。

良い文章を書こうなどと小手先の技術だけにこだわってみても良いものは生まれない。

また、自分の書こうとしていることが、相手(読み手)に伝わることが肝心である。

どんなに美しい言葉を綴ってみても、相手に意図することが伝わらないようでは、

それはただの駄文である。

 そのためにも、幼い頃から、良い文章に触れることが大切で、美しい小説を読んでいれば、

それが自然に体に染みこんでいく。

(中略)

 美しいことに感動できる人が、常に綺麗なものだけに触れ、それらが身体の内に染みこんでいき、

やがて、自然に流れ出るように美しい文章を書く。これが、最も理想的な美しい文章の成り立ち方だと思う。(pp.84-85)

 

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2017年10月18日(水)

Perle de Sel (Le Saunier de Camargue)

テーマ:これさえあれば。

 

Le Saunier de Camargue、カマルグ産の塩です。

 

塩からさが少なくてうまみが引き立つので、重宝しています。

焼き&蒸し野菜とか煮物とかお魚の包み焼きとか、

シンプルなものがぐんとおいしくなる気が。

 

ビスケットやクラッカーなどの焼き菓子を作るときも必ずこれです。

できあがりが甘いお菓子でも、味を引き締めるため

塩をひとつまみいれるレシピがわりとあることに

お菓子を作るようになって初めて気づいて、びっくりしました;

 

 

  

 

Perle de Sel は「塩の真珠」という意味で、箱には


 地中海を望むローヌ河口のデルタ地帯カマルグ西部にある塩田"エッグ・モルト"では、

 ローマ時代から塩の生産が行われてきました。

 カマルグ産の塩は水と土壌の性質が良い為、精製していないにもかかわらず、美しい白色です。

 なかでも、最初に塩田の表面に現れるペルルドセルは、高級品とされ、

 その繊細な結晶は料理の風味を際立たせます。

 

と書いてありました。

 

箱の絵も気に入っています。

ラベルの隣の鳥はピンクフラミンゴなのだそう。

水辺にいるのでずっと鷺だと思ってた…;

 

 

先日のお昼ごはん、トマトとオリーブのサラダにぶどうとくるみのパン、

好きな果物第一位の梨。

 

最初は蒸し野菜からでしたが、焼いたのも生も

野菜を塩胡椒で食べることが多くなりました。

塩胡椒入れはスポード、お皿はクレイユ&モントローです

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2017年09月10日(日)

帰去来辞

テーマ:日々の風景

 

秋ばらが咲きはじめました。

 

めずらしく、一番乗りはヘリテージ。

春よりも落ち着いた雰囲気がいいなと思います。

 

 

 

少し前になりますが、お盆の前後、地元に帰ってきました。

帰った日に母トチーが作ってくれていたちらしずし。ありがとう~

 

 

イモム家のバニラちゃんも元気にしてました。

イモムが何度かドッグランに連れて行ってくれて、たくさん遊べて嬉しかったです。

 

 

  

 

そして、手乗りインコのゆずみちゃん(左)が仲間入り。チビ子ちゃんの肩に止まっています

マリーちゃんとも仲が良さそうで、よかったよかった。

 

写真が撮れなかったのですが、6羽いるひめうずらさんsもみんな元気でした。

2羽ずつペアになって住んでいるのですが

性格がひとりひとり違って、相性もあるのがおもしろかったです。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

今日でブログを始めて10年経ちました。

 

おそろしくマイペースな更新なので

続いたと言っていいのかわかりませんが、それでも

何をやっても長続きしない人間(私;)にとってはかなり画期的!

 

最初は写真に二~三行添えるくらいで

さらっといこうと思っていたのですが(四方八方から突っ込みが聞こえるわママン←誰

適当に間違ったことを書いたらだめだと思っていったん調べる

→何かいろいろつながっておもしろい

→せっかくだから書いてしまいませう

というパターンに陥りがちで、長いわ趣味に走るわ、

けして読みやすいとは言えない文章が多いなか、

遊びに来てくださった皆様には本当に感謝です。ありがとうございます。

 

小さい頃に祖母によく言われた、着物やうつわの趣味など暮らしには

自分は苦手だと思っても、それが好きでしっくりきている人もいるんだから

人の数だけ正解があるということをよう覚えとらないかんヨ(訳:よく覚えておきなさい)&

だれかが居心地の悪い思いをするようなことはせられん(訳:しないように)というの、

ずっと気をつけてきたつもりですが、考えなしなところも多々あったかと思います;

 

それから大学でたたき込まれた、他人様の文章や考えや着眼点を自分のもののように偽らず

参考にしたものの出典を必ず明記すること、というのはいまだに刻み込まれてます(^^ゞ

 

基本的にあるものでなんとかしようとするたちなので、

様式や何やらが揃ってなかったり、

所謂正しいマナーに蹴られそうな使い方をしていたり、

気になられた方もいらしたと思います、いろいろすみませぬ。

 

読んでくださった方、コメントやメッセージをくださった方、

ほんとうにありがとうございます。

 

公園みたいに、気が向いたときに来て

それぞれ好きな過ごし方をしてもらえるように、

そよそよと続けていけるといいなと思いますので、

これからもよろしくお願いいたします(深々

 

 

<おまけ>

 

 

先々代(右)と先代の携帯電話。

5~6年ずつ使いました。

この二人がいなければブログが成り立たなかったです、

ほんとにありがとう&お疲れ様でした(たむたむ。

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2017年07月27日(木)

デボラ・ラッツ『ブロンテ三姉妹の抽斗 物語を作ったものたち』

テーマ:本:研究書

ブロンテ三姉妹の抽斗―物語を作ったものたち   ブロンテ三姉妹の抽斗―物語を作ったものたち

 

シャーロット、エミリー、アンのブロンテ三姉妹とその作品を、

ものを手がかりに読み解いていく本です。

 

子どもの頃に作った豆本、裁縫箱やサンプラーや手紙、

散歩の友の杖や飼っていた犬たちの首輪、

植物採集のアルバムや故人を偲ぶアクセサリーといった

さまざまなものが取り上げられています。

 

印象に残ったのは、まず「日々の暮らしの中で密接に関わり合っていた(p.45)」本。

 

三姉妹が書いた作品には、「困難な状況やひどい家族から逃げるために人が本を読む姿や

読むふりをする姿(p.55)」が描かれていることが多く、

ブロンテきょうだいが書いた物語は、詰まるところ、本に彩られた物語である(p.55)。

という一文がとても腑に落ちました。

 

『ジェイン・エア』の冒頭の場面で、孤児のジェインが隠れて読んでいる

ビュイックの『英国鳥禽史』は、ブロンテ家にもあった本でした

 

それから、「日常にあるこまごました物を入れる雑品入れ(p.74)」であるがゆえに

「持ち主の人となりを雄弁に語る(p.73)」裁縫箱。

 

ブロンテ姉妹の小説において、針仕事は不可欠な地位を占めている(p.69)。

ブロンテ姉妹は小説において、地味な針仕事にさまざまな意味を持たせている(p.82)。 

ジェインが自分の気持ちを悟られないよう、ビーズの手提げ作りに集中している場面などがあります


そして、なかでもいちばん壺入ったのが desk box の章です。

 

「机箱」と訳されていますが、デスクボックスとは携帯用の書きもの机のこと。

箱をぱかっと開くと蓋が傾斜の付いた平面になり、

ここを下敷きの台にしてものが書ける仕組みです。

 

下の部分は物入れとして、筆記用具などを収納できるようになっていました。

持ち運べるので、開けばどこでもマイ机が登場。すばらしすぎる

 

「19世紀に入り、家具が大量生産されるようになると、紳士は専用の書き物机を使うようにな」り、

「かわって婦人たちが」「愛用するようになった(①p.62)」そうです。

「携帯書き物机を持って灯りと暖を求めて家の中を移動(①p.62)」できるので、

電気もガスもない時代には重宝したんだろうなと思います。


大英図書館に所蔵されているジェイン・オースティンの机箱が有名で、こちらで見れます。

https://imagesonline.bl.uk/?service=search&action=do_quick_search&language=en&q=jane+austen

ここではportable writing desk という表記になっています。

ラップデスクやテーブルデスクと呼ばれることもあったそうです。

 

お父さんからのプレゼント、マホガニー製で、台は革張り、ばね仕掛けの隠し引き出しが付いています。

同じ牧師の娘でも、オースティンの机の方がだいぶ凝った作りに。

 

旅行中にこの机箱(彼女は my writing-box と呼んでいます)が

手違いであやうく西インド諸島に送られそうになりかけたことに触れている

姉のキャサンドラ宛の手紙が残っており(1799年10月24日付)、

 

No part of my property could have been such a prize before, 

for in my writing-box was all my worldly wealth,

 

あのときほど何とかして取り返したいと思ったことはありませんでした。

なぜなら机箱にはこの世の私の全財産が入っていたからです。

 

と書き送っています。

 

ブロンテ姉妹が使っていたものは

「中流階級の普通の女性たちが所有していた机箱と同じ類いで、至極平凡」な

「ありふれた象嵌が施された単純なデザイン(p.208)」のものでした。

シャーロットのものが巻頭のカラーページに、エミリーのは②の69ページに白黒で載っています。

材質はローズウッドだったそうなので、今からするといいもののような気もするのですが;

 

エミリーのは「靴箱より少し大きいくらいの長方形の箱(p.205)」で、

「手紙、便箋と封筒、封印、インク、金属製のペン先が入っていた(p.204)」そうです。

 

下敷きにあたる平面の部分には、書きやすいようにびろうどが張ってありました。

シャーロットの机箱は茶色のびろうど、

エミリーのは紫、

アンのは濃いピンク色。

何となくそれぞれのイメージと合っているのがおもしろい

 

三人は日中は針仕事や台所の用事といった家事をこなして、

「九時過ぎになると毎晩のように、食堂の折りたたみ式テーブルを囲み、

小説の筋や登場人物について意見を交わし、小説の一説を読んで聞かせ、

感想を求めた(p.219)」そうです。

 

エミリーは机箱を前に書きものをしている自分の絵も残しています(p.207、③p.64)

ブロンテミュージアムのサイトにも載っています↓

https://www.bronte.org.uk/museum-and-library/museum-collection

 

裁縫箱と同様に、机箱も

個人的なこまごまとしたものをしまい込む箱でした。

 

机箱の中のものは魔法で守られており、それぞれに物語がある(p.251)。

 

とあるとおり、そこで文字や絵が描かれるぶん、より内面的で

無限にひろがるさまざまなお話が紡がれていたんだろうなと思います。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

題に「三姉妹」とあるように、ブロンテ姉妹といわれると

『ジェイン・エア』のシャーロットと『嵐が丘』のエミリー、

それに『アグネス・グレイ』のアン の三人が思い浮かびますが、

ブロンテ家は六人きょうだいでした。

 

長女のマリア(1814-25)、

次女のエリザベス(1815-25)、

三女のシャーロット(1816-55)、

長男のパトリック・ブランウェル(1817-48)、

四女のエミリー・ジェイン(1818-48),

五女のアン (1820-49)。

 

父のパトリックはアイルランドの農家の生まれで、10人きょうだいの長男でした。

プロテスタントのパトリックの父はカトリックの母と駆け落ち結婚したため、

周囲とのつきあいはほとんどなく、家族だけで仲良く暮らしていたそうです。

 

この暮らし方はブロンテ姉妹の育ち方ととても似ています。

シャーロットは子ども時代を振り返って

「家族以外の人と交わりたいとは少しも思わなかった。

私たちは自分ひとりだけで、または家族だけで本を読み、学び、

そのようにして楽しく日々を過ごしていた(p.56)」と言っています。

 

また、両親ともにケルト系であることも姉妹に影響を与えました。

自然に神秘性を見いだし、情熱的で想像力に恵まれた性質はケルト人に顕著なもので、

特にエミリーにその傾向が強く現れています。

 

アンが生まれた1820年にお父さんのパトリックがハワースの牧師に任命され、

一家はハワースの牧師館に移り住みますが

翌年、お母さんのマリアが亡くなります。

 

看病にあたったお姉さん(子どもたちから見ると伯母)のエリザベス・ブランウェルは

妹のマリアが亡くなったあとも、牧師館で一生を過ごし

子どもたちの世話や家事を引き受けてくれました。

 

タビサ・アクロイドという住み込みのお手伝いさんもいました。

1825年からシャーロットの亡くなる一ヶ月前まで30年近く家族同様に働き暮らし、

きょうだいに様々はお話を聞かせてくれたそうで

『嵐が丘』のネリーや、『ジェイン・エア』のベッシーのモデルとも言われています。

 

翌1822年、まず10歳のマリアと9歳のエリザベスが、

数ヶ月遅れて8歳のシャーロットと6歳のエミリーも、

クラージー・ドーターズ・スクールという寄宿学校へ入ります。

 

牧師の子女を良心的な学費で預かってくれる学校だったのですが

環境が劣悪で、翌年マリアとエリザベスは結核にかかり、相次いで亡くなってしまいました。

 

この学校は『ジェイン・エア』のローウッド学校のモデルになりました。

また、新聞や雑誌が届くと読んで、いつも弟妹に内容を話してくれていた優しくて聡明だった長姉マリアは

ヘレン・バーンズのモデルになっています

 

シャーロットとエミリーは家に連れ戻され、以後五年半の間

残された四人の子どもたちは牧師館で一緒に過ごします。

 

四人は愛読していた雑誌『ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン』を参考にしたり、

父がお土産で買ってきてくれた兵隊の人形から空想を広げたりして

自分たちだけの架空の世界を創り上げ、

それにまつわる物語を書いては小さな本を作っていました。

人形の世界で編集・発行されている設定なので、人形にあわせたサイズ=5㎝×4㎝くらいの大きさで

本物の本のように活字体でぎっしり書いてあります。これでシャーロットはひどい近眼に;

 

ですが、家にずっといられたオースティンとは異なり、

ブロンテ家の子どもたちは経済的な理由から、それぞれ自活できるすべを身につける必要がありました。

この時代、中産階級の女性が体面を保ちつつ自活できる職業は教師一択です。

 

オースティンのお父さんも同じ牧師なのですが、二つの教区を担当+生徒を取って個人教授もしていたことなどで

収入は£600と、ブロンテ家の三倍ありました(それは机箱に隠し引き出しも付くなぁ…

また8人兄弟のうち女の子はジェインと姉のキャサンドラだけで、あとの男子は病気の一人を除いては

裕福な家の養子になって住居や金銭の援助をしたり、聖職に就いたり、銀行や海軍で働いていたりとみな頼りになる面々でした。

ジェーンの本の出版に際しても、事務的な事柄は兄がやってくれています。

 

1831年、15歳のシャーロットは、ロウ・ヘッド・スクールに入学し、

優秀な成績を収めて卒業した3年後、18歳で教師として戻ります。

 

弟ブランウェルは肖像画家になるべく、ロンドンのロイヤルアカデミーに入学する予定でした。

シャーロットは、家にいたいけれど弟のことでお金もかかるし働かなくてはという決意を綴った手紙を、

自分が生徒として学んだ時代の親友に送っています。

 

シャーロットが教える代わりにエミリーの学費を免除してもらえるということで

同時に生徒としてエミリーが入学しますが、「家と荒野へのホームシック(④pp.157-8)」で三ヶ月で帰郷、

代わりにアンがやってきて、二年半学びます。

 

シャーロットは1837年の末までロウ・ヘッドで働いたあと

39年4月から7月までシジウィック家で、41年2月から12月までホワイト家で、

ガヴァネスと言われる住み込みの家庭教師として勤めました。

 

ハワースから離れるのがいちばんきつかったエミリーも、

1838年の9月から翌年3月くらいまで、音楽教師としてミス・パチェットの学校で教えています。

エミリーはピアノの腕がプロ級でした。ここで『嵐が丘』の題材を得てもいます

 

温和で子ども好きだったアンがいちばん就業期間が長く、

1839年4月から12月までインガム家で、

それから1840年5月から45年6月までロビンソン家で働いています。

 

ただ、やはりガヴァネスは苦労することも多く、1841年の夏頃から

三人はハワースの自宅の牧師館で学校を開くことを計画し始めます。

 

三姉妹が学んだロウ・ヘッドは、校長のマーガレット・ウラーとその妹たちが運営している

生徒数十人足らずの家庭的な学校でした。

おそらく、ここを参考に考えていたのだと思われます。

 

当時はこうした学校がたくさんあったので、差別化を図るためにも

フランス語を本場で勉強し直し、より高いレベルの教育ができるようにしようと考えて、

1842年、シャーロットとエミリーはブリュッセルのエジェ寄宿学校に留学します。

 

10月、二人に留学費用を貸してくれていた、ブランウェル伯母が亡くなりました。

彼女は独身でしたが自分の父が遺してくれた年金収入があり、

ブロンテ家に来ても律儀に自分の食費を払い続けながら貯金もしていました。

そして、三姉妹にそれぞれ350ポンドずつ遺産を残してくれました。

 

エミリーはこのままハワースに残りますが、シャーロットは再びブリュッセルに赴き

1843年末まで英語教師として働きつつ、フランス語とドイツ語の研鑽を積みました。

「判断力に優れ」強い意志を持ち「芯が強くて男勝りだった(p.111)」エミリーが

能力的には姉妹のなかで最も優れていたようで、

エジェ氏はエミリーが「男だったらよかったのに」と言っていたそうです

 

この間、アンはガヴァネスとして住み込みで働いていました。

ブランウェルはロイヤルアカデミーに入学せず、肖像画家にはなれず、

家庭教師や駅員を経た後(どちらも勤務態度が問題で解雇←おーい;

アンが働いていたロビンソン家で、一番下の男の子にラテン語を教えることになります。

が、17歳年上のロビンソン夫人と不倫関係に陥り、1845年7月に解雇(そこへ直れ。

アンもこのことを知って苦しんでいたと思われ、6月で自主的に退職しています。

 

1844年、三姉妹は学校のパンフレットを作って生徒を募集しますが、

結局、一人も集まらず(ハワースが辺鄙な場所すぎたのが原因

この計画はうまくいきませんでした。

 

そんな中、1845年の秋にシャーロットは偶然エミリーの詩を読んで感動し、

三人の詩集を出そうと提案します。

 

渋るエミリーを説得し、彼女の「男性とも女性ともとれる筆名を使うこと(p.217)」という希望に添って

頭文字は本名と同じ、カラー・ベル、エリス・ベル、アクトン・ベルという

ペンネームを使うことになりました。

 

ガヴァネスの年収にあたる31ポンド10シリング負担の自費出版で、

1846年5月、『カラー、エリス、アクトン・ベル詩集』が出版されました。

二部しか売れませんでしたが;三人は次に三巻本の小説を出すことを目指します。

 

この頃は本が高価だったため、会員制の貸本屋が流行っており、

三巻本の長編小説が主流でした。

「一つの小説を三人の会員に貸し出せた」ため、利益が大きく

貸本屋は出版社に「三巻本を出版するよう要求した(p.225)」のです。

ディケンズがこれの申し子的な感じ

 

シャーロットは『教授』、エミリーは『嵐が丘』、アンは『アグネス・グレイ』を書き上げ、出版社に送り始めます。

断られては他の出版社をあたるのを、一年半ほど繰り返したあと

1847年7月、ようやくトマス・コートリー・ニュービー社から

姉妹が50ポンドを負担する条件で、『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』を出版するという返事が届きます。

 

『教授』は断られてしまったのですが

シャーロットはくじけずに、他の出版社に送り続けました。

すると、スミス・エルダー社から

『教授』は出版できないけれど、他の作品があれば読みたいという返事が来たのです。

 

シャーロットは1846年の夏頃から書いていた『ジェイン・エア』を完成させて

8月24日にエルダー社に送りました。

 

するとあまりのおもしろさに、すぐ出版が決定→

10月16日、原稿を送ってから53日間というすごいスピードで『ジェイン・エア』は世に出ました。

出版されるとサッカレーが絶賛するなど、たちまちベストセラーになり

翌48年1月に第二版、4月には三版と再版がかかっています。

 

びっくりしたのはニュービー社、8月の1週目に初稿が終わっていたのに

(たぶん)放っていた『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』を、急いで12月中旬に出版しました。

当時は『ジェイン・エア』ほどの高評価ではありませんでしたが、

それでも『ジェイン・エア』人気に引っ張られるようにして、売れ行きもよかったようです。

 

翌48年7月上旬、アンは第二作の『ワイルドフェル・ホールの住人』を出版しました。

 

一方、ブランウェルは、ロビンソン家を解雇されたあと、

ロビンソン氏が病気で亡くなって一瞬ぬか喜んだものの

夫人が結局自分と一緒になろうと思ってないことに絶望し(ブランウェルの死後、裕福な相手と再婚、

お酒+阿片中毒になり、どんどん壊れていきました。

 

しばしば錯乱状態に陥り

自分のベッドに火をつけてしまったりして、大変だったようです。

これが『ジェーン・エア』で、バーサがロチェスター氏のベッドに放火する場面のヒントになりました

 

そして1848年9月24日、結核で亡くなってしまいます。

倒れて寝込んだシャーロットの代わりに、エミリーが葬儀関係を取り仕切ったのですが

エミリーも体調を崩してしまいます。

ブランウェルの結核が感染していたのでした。

その年の12月19日に、エミリーも亡くなります。

 

さらにアンも、結核に冒されていました。

従順で穏やかなアンらしく、お医者さんの注意を守って療養につとめますが

翌49年5月28日、帰らぬ人となりました。

 

8ヶ月のうちにきょうだい三人を見送った、シャーロットの悲しみは大変なものでした。

 

次作の『シャーリー』を書いていた最中だったのですが、

ラッダイト運動を題材にした社会小説だったはずが、

三人の死を挟んで、後半はエミリーがモデルの主人公シャーリーと

アンがモデルのキャサリンがそれぞれ幸せな結婚をする物語になってしまっています。

 

何よりも毎晩集まって、批評したり話し合ったりしながら創作できなくなったことは大きな打撃でした。

 

エルダー社の社員、ジェイムズ・テイラーに宛てた1850年5月22日付の手紙には

 

一人でそこ〔姉注:荒野〕に出かけると、あらゆるものが、

いっしょに行く人たちがいた頃のことを思い出させます(③p.338)

 

とあり、

 

二年後の1852年10月30日、エルダー社の社長のジョージ・スミス宛の手紙でも

 

私が自分以外の誰かの意見をどんなに聞きたがっているか、一行読み上げて聞いてもらう人、

助言を求める人がいないために、時々どんなに意気消沈し、ほとんど絶望してしまうか、

ご説明できないほどです(③pp.338-9)

 

と書いています。 

 

 

・・・・・・・

 

その後もシャーロットは、一人で書き続けていくのですが

きっとそのときも自分の机箱に向かっていて、

持ち主を失ったエミリーとアンの机箱も近くにあって、

シャーロットを見守っていたんだろうと思います。

 

第7章の扉には、エミリーとアンの髪を編んで、アメジストの留め具のついた

ブレスレットの写真が載っています。

 

「黒玉に黒色の花と枝葉が掘り出されている(p.313)」ジェットのブレスレットも遺されているそうで、

こうしたものにも慰められながら、シャーロットはペンを動かしていたのかなと思いました。

 

ブロンテ姉妹は、針仕事と皮剥きとプディング作りを済ますと執筆し、その後再び家事をした。

姉妹は、当時の世間一般の女性と同じように家事を行い、それが小説に現実味を与えた。

(中略)

姉妹の小説は、ヴィクトリア朝時代の女性の生活を知る窓である(p.87)。

 

オースティン(1775-1817)の作品が、笑いや機知をベースにしているのに対して

ブロンテ姉妹の「文学的特徴を考慮する上でもっとも大切なのは

彼女たちの情熱性(④p.302)」だと言われます。

 

ただそれは、単にエモーショナルだというのではなくて

エピクロスの

 

われわれは、同時に、笑ったり、哲学を研究したり、家事をとったり、

その他さまざまの営みをしなければならない。

そして、正しい哲学の教えを伝えることを、決してやめてはならない(⑤p.94)。

 

にも通じるような、暮らしのなかにあるいろんな思いを飲み込んで、

長い時間に堆積したものを、温めて孵していくように、正直に書いていく、

そういう情熱のような気もしました。

 

ブロンテ姉妹は、「基本的にロマン派詩人(④p.301)」でしたが

生きていたのは、産業革命の結果、イギリス社会が大きく変動して

「商工業によって富を得たものたちが中上流階層へとのし上がり、

『ヴィクトリアニズム』と称される時代精神ーー体面への過度のこだわり、

お上品な道徳主義的偏見ーーの担い手となった(③p.11)」時代でした。

 

こうした中で、職業を持つこと、書くこと、女の人が生きること、など

読むといつもいろいろと考えさせられます。

 

ハワースの牧師館は、今はブロンテミュージアムになっているのですが

案内板は食卓におかれた机箱に向かって羽ペンを走らせている女性のシルエットになっています。

 

お土産物のノート類のデザインにもなっているようで、こちらで見られます↓

https://www.bronte.org.uk/bronte-shop/30/special-offers

 

 

 

<おまけ>

 

1844年に、三人が学校を開こうとして、作ったパンフレット(ちらし?)がおもしろい。

 

The Misses Bronte's Establishment FOR

THE BOARD AND EDUCATION OF A LIMITED NUMBER OF YOUNG LADIES,

THE PERSONAGE, HAWORTH,  NEAR BRADFORD.

 

という校名のあとに、学科が続きます。

 

Terms.

Board and Education, including Writing, Arithmetic, History, Grammer, Geography, and Needle Work

French,German,LatinMusic, Drawing

 

そしてピアノ使用料と洗濯代のあとの特記事項?にご注目ください(太字は私が変えています。

 

Each Young Lady to be provided with One Pair of Sheets, Pillow Cases, Four Towels, 

a Dessert and Tea-spoon.

 

訳が載っていました↓

 

 

ブロンテ姉妹による

 若い令嬢たちのための少人数制寄宿学校

   ブラッドフォード近在、ハワースの牧師館にて

――――――――――――――――

経費

 食費および教育費、書き方、算数、歴史、文法、地理、針仕事を含む。年額三十五ポンド。

 フランス語   それぞれ四半期分一ポンド一シリング。

 ドイツ語

 ラテン語

 音楽       それぞれ四半期分一ポンド一シリング。

 絵画

 ピアノ使用料、四半期分五シリング。

 洗濯代、四半期分十五シリング。

 各令嬢に、シーツ一組、枕カヴァーの換え、タオル四枚、デザート・紅茶用スプーン一本

 支給される。

 生徒が退学する際には、四半期前の予告、または四半期分の食費の支払いが必要である(③pp.160-161)。

 

この最後の、a Dessert and Tea-spoon!

 

単数形なのと、 Dessert and Tea-spoonで検索しても見つけられなかったので、

「デザートアンドティースプーン」と一般的に言われていたスプーンがあったというよりも

ティースプーンとしても、デザートスプーンとしても使えるサイズのスプーンを

一本支給しますよということかと思うのですが…どうなのかな?;間違っていたらすみません;

 

で、どのくらいの大きさなんだろうと実験?してみました。

同じ頃のがあるとよかったのですが;手持ちのものを並べてみるとこんなふう。拡大できます

 

 

左の二本が、普段うちでティースプーンデザートスプーンとして使っているものです。

12.3㎝と14㎝。

 

並べた四本が左から

1798年製の13.2㎝、1813年製の12.8㎝、1830年製の13.5㎝、1870年製の14㎝のスプーンです。

(みんな「ティースプーン」と言われてうちにやってきました)

 

 

右側のC&Sが、いつものティースプーンを置いたものです。

左側に、この四本を順に置いてなるべく客観的に見てみました。

 

結果、14㎝になると苦しいけど

上の写真のように、13.8㎝までなら大丈夫そうです。

ここの2㎜の違いが意外と大きくてびっくりしました

 

12㎝前半になると、今度はデザートが食べにくくなってしまうので

(ヨーグルトを食べてみました←大ざっぱな検証ですみません;)

12.8㎝から13.8㎝ぐらいのものだったのかな、と思いました。

 

デザインや手の大きさによっても違ってくると思いますが、

シーツやタオルといった必需品に続けて

スプーンを一本というのが何ともイギリスらしくて興味深かったです。

 

 

 

<参考文献>

 

英国レディになる方法  英国レディになる方法  ①

 

40ページの図版に、シャトレーヌをつけ、机箱の上で書きものをしている婦人の図版が載っています。

こちらは現在絶版で、以下のようにタイトルを変更して再版されているようです↓

 

図説 英国レディの世界 (ふくろうの本) 図説 英国レディの世界 (ふくろうの本) 

 

 

図説 「ジェイン・エア」と「嵐が丘」―ブロンテ姉妹の世界  図説 「ジェイン・エア」と「嵐が丘」―ブロンテ姉妹の世界 ②

 

 

ブロンテ姉妹―女性作家たちの十九世紀 (朝日選書) ブロンテ姉妹―女性作家たちの十九世紀 (朝日選書) ③

 

 

ブロンテ姉妹を学ぶ人のために  ブロンテ姉妹を学ぶ人のために ④

 

 

 

ブロンテ姉妹 ポケットマスターピース12 (集英社文庫 ヘリテージシリーズ Z) ブロンテ姉妹 ポケットマスターピース12 (集英社文庫 ヘリテージシリーズ Z) 

 

 

エピクロス―教説と手紙』⑤

 

 

 

<さらにおまけ>

 

 

この前作ったヨーグルトバーグ、今度は桃の煮たものピュレと

冷凍のミックスベリーを入れて作ってみました。

 

  

 

おいしかったです。

 

そして前回、はりきってデザートナイフとフォークが出ておりましたが

スプーンで頂くのが正解でした(正直申告。

 

ポットはアメリカのヴィンテージ、オールドパイレックスのフレームウェアで

1952~79年頃に作られたものです。

 

フレームと取っ手がねじで外せる+直火にかけられて、とても頼もしいです。

2017年07月20日(木)

先日のお茶

テーマ:アンティーク:スポード

 

 

夏の陽ざしが続くので

先日読んだこちらの本でおいしそうだった

ヨーグルトバーグなるお菓子を作りました。

 

家にあったジャムを使って、ストロベリーとブルーベリーのマーブルにしました。

 

ヨーグルトの冷たいお菓子と焼き菓子   ヨーグルトの冷たいお菓子と焼き菓子

 

ガラスのお皿も冷やしておいて、いただきます。

シャーベットのようでいてヨーグルトなのでさっぱり、

作り方もかんたんでおいしかった!

 

この時期はさすがにオーブンが厳しくなってくるので

こういったお菓子は嬉しいです。

 

   

 

 

上がストロベリーで下がブルーベリーなのですが、写真を撮るとほぼ同じに;

 

堀口大學が『季節と詩心』

 

 夏の食卓は、円形か楕円形に限る。(中略)

 白いテイブル・クロスも夏はない方がよい。その代わりに、各自のお皿の下に、

お皿よりは一まわりだけ大きい円形のナプキンを置く、・・・

こうして磨きこんだ樫や桃芯木の食卓の木地を眺めながら食事をするのは涼しいものだ。

お皿が海に浮いた小島に見える(p.151)。

 

と書いていて、うちの食卓は四角なのですが;

たしかに白いクロスの上にお皿を置いて

木目がきれいに目に入ると、いちばん涼しく見える気がします。

 

クーラーが苦手なのと比較的風が通るので

基本 窓を開ける+打ち水で暮らしております。頭を使わないぶんには大丈夫←使いなさい

 

 

まんなかに置いてあるのはスポードの塩胡椒入れです。

数年前に母が譲ってくれました。ありがとう~

 

ティーポットやミルク入れが出ないぶん、

お花を置いても食卓に余裕があるので

楕円つながりで並べました。

 

粉砂糖を入れて、甘さが足りなければ各自足しませうという企画です(結論:足さなくて大丈夫でした。

参加することに意義があると思いた以下略

 

 

ドライフルーツをのせたバージョンもおいしそうだったので

また作ってみようと思います。

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