かふぇ・あんちょび

このカフェ、未だ現世には存在しません。

現在自家焙煎珈琲工房(ただの家の納屋ですけど…)を営む元バックパッカーが、

その実現化に向け、愛するネコの想い出と共に奔走中です。


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 ガンダーラ遺跡でののどかな日々を切り上げて、いよいよインドへと向かう。

まずはラワールピンディからラホールへの移動である。


 それまでにすれ違った日本人バックパッカー達から得た情報では、このラホールという街は非常に物騒で評判が悪かった。

 「ドロボー宿」と呼ばれるまるで忍者屋敷のような部屋の造りの安宿があり、壁の秘密の回転扉から夜中に侵入され荷物と有り金全部盗られるだとか、宿のベッドの下を覗いたら男がじっとひそんでいただとか、そんな話ばかりを耳にしたのであった。

 彼らが口を揃えて言うには、ラホールで安全な宿はYMCAを除いて他にない ということらしい。

無理をしてこのラホールの街を素通りする旅人も多かった。


 今回僕の選んだラホール行きのバスは、フライング・コーチと呼ばれる豪華版のミニバスであった。

通路に乗客を詰め込む事もなく、それになんといっても驚いた事には、ビデオがついているのだ。


 ここで僕は初めて、かの有名なインド映画を体験した。

タイトルは、当時ロングランのヒット作だったという 『 RAJA 』 。

何語かはわからないが英語字幕もなく、台詞はサッパリ理解できないのだが、、これがまた面白いのである。

恋愛とアクション満載のミュージカル映画、とでもいった感じになるのだろうか。

言葉は解らないのに意外に展開は理解できてしまうのであった。


 

 到着したラホールは、でかくてキタナい街であった。

 日本人たちから、YMCAのチェックインの仕方には特別な方法があって、普通に部屋を取ろうとすると満室だと断られる まずホテルの近所の本屋のニイちゃんに会ってどうのこうの・・・という話を聞かされていたのだが、いい加減に聞いていたのでその本屋の場所を思い出せず、めんどくさくなったので普通にレセプションに行ったらやはり満室だと追い返された。


 まあ、ドロボー宿がどっかにあるという話がいささかオーバーな噂になったに違いない、と、バスターミナル横のアジアホテルという宿にチェックイン。

特にどうということもないシングルルームではあったが、ひと晩じゅう隣のバスターミナルに発着するバスのクラクションがうるさく、なかなか寝付けなかった。


 この宿に連泊するのも別の宿を探すのも面倒になり、翌日国境の町ワガへと向かった。


 このラホールはおそろしく古い歴史のある街で、まだビザの滞在期限に余裕のあった僕は何日かこの街をぶらつくつもりだったのだが、結局1泊でほぼ素通り状態であった。


 時折僕はこうやって、面倒くささのあまり強行軍で面白そうな街を通り過ぎてしまう。



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 実は名前を憶えていないので本当にタキシラ博物館というのかどうかわからないのだが、まあとにかく、タキシラにある博物館である。


 その博物館のベンチに座っていると、見学に来ていたらしい学生たちがわっと寄ってきて、口々に英語で僕に話しかけてきた。

会話の内容はたわいもない自己紹介だとかその程度だったように思うが、何故僕がこの学生たちとのおしゃべりを記憶しているのかというと、それが僕のひと月のパキスタン滞在における唯一のパキスタン女性との会話だったからである。

まあ、女性といっても中学生くらいの歳の女の子たちであったが。


 それだけではなく、ベールで顔を隠していない彼女たちは、僕に写真を撮ってくれないか、と言うではないか。


       画像



 ラワールピンディの安宿ポピュラー・インで下働きをしていた少年は、僕にこう語っていた。


 「 俺は今年19歳だよ もちろんセックスにもすっごく興味がある 経験ないけど

 

 仕事場のここでは、お前たち日本人や西洋人たちが男も女も仲良く話をしてるけどさあ、俺らにはそういうチャンスはない訳よ おまけに旅行者のオンナは顔も隠していないし、半袖シャツなんか着て肌見せまくりだしさあ、ムラムラしちゃうよねえ


 え? 西洋人はセクシーかって? ああ、そうだねえ でも、世界一美しいのはやっぱりパキスタンの女性よ! 」


 うーん、そうは言うけど僕はパキスタンの女性の顔を一度も見たことがないぞ!


と僕が答えると、彼は鼻息も荒く自分の部屋へ映画雑誌を取りに戻り、女優の写真を見せながら僕にパキスタン女性がいかに美しいかを力説したのだった。


だから僕はタキシラでようやくパキスタンの娘さんたちとご対面しおハナシをすることができて、大いに満足したのである。


 彼らは一体どうやって恋愛や結婚をするのだろうか…? そこらへんをちゃんとインタビューしておかなかったのが悔やまれる。 

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 パキスタンの田舎は、素晴らしかった。

カラコルム山中の集落もそうであったが、ここ、ガンダーラ遺跡の存在するタキシラもまた、素朴な人々の住む、やさしい気持ちになれる場所であったように思う。


 ここタキシラでの観光(?)は、広大な田園風景の中に点在する遺跡を巡るのだが、その方法が素晴らしい。

田舎道をてくてく歩いていると、トラクターを運転している農夫のオジサン達が頼みもしないのに僕の横に停車し、目的地か、あるいはその近くまで荷台に乗っけてくれるのである。

僕はウルドゥー語を話せないので、オジサン達との間に共通語は存在しない。


 ドコニ行キナサルノ?  ダルマラージカに行きます  荷台乗リナサイヨ  ありがとう いい天気ですね! 私ここの風景大好きですよ  *#&▲○! ココデ降リテ、アッチノ方二歩イテイキナサイ  お世話になりました


というような会話を、身振りを交えててんでにお互いの言葉で話すのだが、不思議といつも行きたい場所にたどり着いたし、停車して僕を拾おうとしないオジサンはいなかった。

 粗末な野良着を着たオジサンの背中越しに、ガタガタ揺れるトラクターの荷台から眺める農村の風景、暖かい日差しと、吹き抜けてゆくやさしい風、・・・見学した遺跡の詳細はすっかり忘れてしまったが、それらの風景こそが僕のガンダーラであった。


 ユースホステルの大部屋に滞在し、僕はこの滅び去った都市ガンダーラをこころゆくまで堪能した。

数ある遺跡は、駆け足で巡れば1日の観光で終わるような感じなのだが、実のところ僕には瓦礫の遺跡や仏像そのものはさっぱり魅力がないのである。

僕は毎日ひとつかふたつの遺跡をトラクターで巡り、木陰で寝そべりピンディの宿の日本人と交換した文庫本を読んだり、風の音を聞きながら昼寝をしたりして遊んだ。


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 ある日、僕が木陰で和辻哲郎の 『 風土 』 を読んでいると ( おやまあ、こんなカタイ本を読んでいたのか… ) 、そこにノートを抱えたひょろりとしたパキスタンのにいちゃんがやって来た。

やはり同じく木陰を求めて来たらしい彼は、無言で僕と握手だけすると、近くに腰をおろし、何か書き物を始めた。

しばらく二人でぼんやりとした時間を過ごしていたのだが、そのうち僕の方がグウグウ昼寝をしてしまって、気がつくとすっかり木陰が移動してしまったカンカン照りの日差しの下で汗だくで目を覚ました事があった。

・・・毎日がそんな感じ。


 そして滞在4日目、僕は博物館の前の茶店でコカコーラを飲んでいたドイツ人の男女二人連れとなんとなく知り合いになった。


いや、なんとなくではなかった。

その日、トラクターのオジサンにちょっとわかりにくい所で降ろされた僕は道に迷い、珍しくけっこうな距離を歩いてその茶店にたどり着き、二人にこう尋ねたのだった。


 ねえ、博物館へはどう行ったらいいの?


 ふたりはキョトンと顔を見合わせ、目の前にある博物館を指差した。


 彼らの名は、ピーターとガブリエラ。

この数日後、僕は別の国の別の町で再会した彼らと、彼らがドイツからはるばる運転してきたおんぼろオペルに乗りインドを疾走する事になる…。


 

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 パキスタンビザの延長とインドビザの取得のために1週間ほどラワールピンディに滞在し、昼間はイスラマバードにかよったりバザールを冷やかしたり、夜は毎晩のように宿の屋上で悪いバックパッカーたちと紫煙をくゆらせたりしていたのだが、ようやく事務的な手続きが終了した。


 さて、移動の時である。

当時僕は、北京で手に入れた英語版のワールドアトラスの地図上に、自分のたどってきた経路をペンで記すのを楽しみにしていた。

そして、このたわいもない楽しみのために、可能な限り同じ道を往復するのを避けようとする傾向があった。

後で眺めたときに、一筆書きのほうがなんかカッコいいのである…? いや、今となっては馬鹿馬鹿しいのだが、確かにそう思っていた。


 そうすると、この時点では隣国のアフガニスタンやイランに入れない以上、インド国境のある南東方向、ラホールの町へ向かうのが順当なのだが、どうもまだすんなりインドに行く気がしない。

 そこで、とりあえずはピンディから程近い隣町タキシラにあるという、ガンダーラの遺跡でもみようか、という事になった。

 実はその先にある、アフガニスタン国境に近い町、ペシャワールの事がとても気になってはいたのである。


 ペシャワール

 

 その名前の響きだけで、是非とも行ってみたいと思っていた町であった。

結局例のくだらない地図上の一筆書きにこだわるあまり、ドン詰まりの町ペシャワールには行っていないのだが、今でもこの未知の古い町には心が残る。

 しかし、である。

 以前に中国の旅のドン詰まりだと思っていたカシュガルやタシュクルガンの町を訪れた時には、その勢いのあまりに考えもしなかったパキスタンへの国境越えをしでかしてしまっている。

もしあの時ペシャワールへ行っていたとしたら、ある意味すべてに投げやりで後先考えていなかった当時の僕は、全くの不可能という訳でもなかったアフガニスタン密入国という暴挙に出ていたかもしれない。

あれはあれでよかったのだろう…。



 で、ガンダーラ遺跡である。

ここもまた途方もなく古い町であり、なんでもアレキサンダー大王の侵入時には既に大きな隊商都市であり、ギリシア人の造った都市の遺跡なども残っているらしかった。


 ピンディからミニバスで1時間ほどで到着したそこは、のどかな農村といった感じの場所であった。


 日記によると、ここに僕は4日ほど滞在している。

正直言うと、ガンダーラの遺跡についての記憶はもうほとんど残っていない。

しかし、僕のパキスタンという国に対する好印象のほとんどが、こののどかな農村風景の中で過ごした4日間にある。



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 ここラワールピンディは僕にとって久々の大都会なので、町歩きのほうもなかなかに興味深い。

よくひやかしていたのは、ラジャバザールという名の市場であった。

バザール、なんと素敵な響きの言葉であろうか。

日本では商店街の安売りのようなイメージが定着してしまってはいるが、ここピンディのそれは、ぐちゃぐちゃとした迷路のような軒先が続く、堂々とした商業地区である。

僕はいつも散策の末に道に迷ってしまい、連日さんざん苦労してようやく宿への帰り道を見つけ出す日々であった。


 このバザールでの僕の大きな買い物は、今でもパキスタンの男の多くが普通に着ている民族衣装、シャルワールカミースの購入である。


 この服、どうやって描写すれば伝わるだろうか。


 かつて世をにぎわせた新興宗教オウム真理教、あのアサハラ尊氏やジョウユウくんが着ていたのはおそらくインドの民族衣装クルタだと思うのだが、あれとかなり似ていて、上着の丈がもっと長く、裾が膝くらいまであるやつだ。

この裾の構造上の都合でパキスタンの男たちは立ちションが出来ず、その放尿姿はいささか哀れを誘うものであった。


 僕はそれまで冬服としてカシュガルの市場でキヨと一緒に選んだ赤いセーターを持っていたのだが、山を越して寒さがやわらいだ後これがどうにも気に入らず、キヨと別れたギルギットの町で乞食の人にやってしまっていた。

そして、手放してしまうと今度はなんだか寒いのである。


 普通、現地の男たちは綿製の薄手の生地のシャルワールカミースを着ていたようだったが、今回僕が選んだ生地はウールであった。

そう、バザールのテーラーでオーダーメイドで衣装を仕立ててもらったのだ。


 面白かったのは、仕立て屋がしきりに勧める高級生地はきまって日本製という事であった。

パキスタンの金持ちの男たちがりゅうと着こなしている民族衣装、その生地が実は日本製というのは実に興味深い。

まあここは僕としては地元パキスタン製の安い生地にこだわったのはいうまでもない。


 この服、その後のインド北部やネパール、タイ山間部などでなかなかに役に立った。

もちろん僕も立ちションはできなくなったのだが。


 そして、見かけがオウム服に似ているせいでちょっとした騒動が持ち上がるのだが、それはまだずっと先の、東南アジアの別の国での話である。

そう、時は1995年、日本を騒がせたあの集団の実行犯の一部は、当局の手を逃れてアジアに潜伏していた時期であった。

 まあ、この話は別の機会に・・・。


 

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 パキスタンはイスラム国家であり、禁酒の国であった。

僕は九州出身であり、あの90年代初頭に学生生活を送ったためコンパの席などで気違いじみた酒の飲み方も経験していた。

酒に酔う感覚は嫌いではないし、酒量の限界点ははごく普通の九州人として通用するレベルではある。

しかし別に無いならないで困りはしないのであった。


 さて、そのパキスタンであったが、禁酒の国でありながら一方で国産のビールがあるらしい。

訳が分からないが、この情報こそが僕がラワールピンディの安宿ポピュラー・インで真っ先に得た情報でもあった。

そして、胡散臭い従業員が僕に言うには、そのビールを手に入れてくれば、代わりにリベート込みの現金でもチャラスでも渡すというのである。


 なんでも、外国人はイスラマバードのなんとかオフィスに行けば飲酒許可証なるものが発行してもらえ、その許可証があれば高級ホテルにのみ置いてある国産ビールが何ケースだか、スコッチやラムが何本だか買えるらしいのであった。

現に、バックパッカー達の何人かはその方法で宿代を浮かし、毎晩屋上で幸せの煙をふかしていた。


 へえ、人間って面白いねえ。 お互い禁止されていて手に入りにくいものこそが魅力的なのか。


 結局僕はビールのケースを抱えてあの満員バスに乗るのが面倒でこのアルバイト?はやらなかったのだが、屋上での集会には毎晩参加した。

ビールもチャラスも誰かがたらふく所持していて、ジョイントは勝手に回ってくるし、ビールは定価で買えたのである。


 うさんくさい安宿に宿泊しているのは、やはりうさんくさい旅人たちなのは当然なのかもしれない。

禁断の酒の味に酔いしれ馬鹿騒ぎをしている従業員たちを横目に、こちらはこちらで紫煙をくゆらせ、負けず劣らず馬鹿な旅の話に花を咲かせるのであった。


 今でも何となく憶えている。

都会独特の何となくねっとりとした空気の中、近くに見える空港の照明を眺めつつ吸い込むあの咽喉を焼く煙と、怪しげな夜の感覚。


 僕は初日にはまったくその効果のほどが分からず、二日目には頭がぐるぐる回りトイレでゲロゲロ吐いた。

それはちょうど煙草を吸い始めた時と同じような体験であった。

そしてほどなくして、その煙草とは決定的に違う感覚を経験するようになる - 何度も何度も。


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 イスラマバードの記事を書いていて、パキスタンの路線バスの記憶が頭によみがえってきた。


 ここでも基本的に交通機関は常に満員状態であった。

ギラギラの細密画のようなデコレーションを全面に施したパキスタンのバスは、エンジン全開、クラクション鳴らしっぱなしでラワールピンディ ~ イスラマバード間を往復していた。

 当時の僕がどのようにしてこれらの路線バスの乗り場や、パスポートオフィスや大使館へ向かうための降車場所を見つけていたのかはよく思い出せないが、乗客には常にある程度の英語が通じていたから、きっとまわりの人々と声高に話をしながら助けてもらっていたに違いない。


 思い出したのはそれらのバスに乗り込んでいた少年車掌たちの事である。

おそらく日本でいえば中学生くらいの年齢と思われる彼らが、黒い鞄を首から提げ、猿のように満員の車内を、いや時には窓枠から体を出して車外を移動し、乗客からバス代を徴収し、天井や内壁を叩いてその音でドライバーに乗客の乗降を伝え発車と停車を促していた。


 慣れてくると僕も天井を叩いて自分の降りる場所を伝えていたように思う。

1回叩くと発車、2回が停車、あるいは反対であったか…?


 大人びた暗い目をして、乗客やドライバーたち大人とおそらくはすっぱな口調で話している彼らも魅力的であったし、時には外国人の僕に対してにこりと笑ったりもするその少年の瞳も好きであった。



 特にパキスタンやバスの車掌に限った事ではなかった。

アジアのどこの国でも、少年少女たちはあらゆる場所で大人に混じって働き、時には暗くそして時には素晴らしく明るくその黒い瞳を輝かせていた。


 僕は日本経済のバブル終末期に大学をドロップアウトして4年の空白の時期を過ごし、日本に戻ってからは喫茶店のウエイターのアルバイトからその職歴を開始したので、厳密な意味でのいわゆる求職とか就職活動の経験がない。

 その数少ない求職の際にも、給料や労働時間などの条件面で頭を悩ませた事は一度もない。


 テレビ画面で就職活動中の大学生が職がないと蒼い顔をしているのを見たり、職場で同僚たちが給料や労働条件に不満を唱えたりすると、今でも僕は唖然とするような違和感を感じてしまう。

 

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 今となっては記憶が定かではないのだが、たしかラワールピンディとイスラマバードの間の距離は、バスで2、30分ではなかったかと思う。

僕はこのいかにもとって付けたような政治色が濃く面白みのない街に、パキスタンビザ延長、インドビザ申請、インドビザ受け取り、と3回ほど訪れているはずだ。

大好きなギラギラの乗合いバスに乗って。


 前にも書いたような気がするが、旅をしている間、僕はこのパスポートとビザに関する大使館巡りが決して嫌いではなかった。


いや、むしろ大好きだった。


 旅の間の日常といえば、メシ、散歩、そして土地の人や旅人とのたわいもない会話が主であり、まあこれに移動のときのチケット取りと宿探しが加わる。

それらに比べてこのパスポートに関する手続きというものは格段にやっかいでフォーマルな (?) イベントに感じられ、がぜんやる気が出てくるのであった。


 インド大使館前にはものすごい数のパキスタン人たちの人だかりができていた。

中国各地での悪夢のような切符売り場の思い出が頭をよぎり、思わず引き返そうかとも思ったくらいだが、どうやら外国人旅行者には別の入り口があるようで、簡単に中に入れた。

 入り口では入念なボディチェックがあり、


 銃やナイフは持っていないな?


と物騒な質問までされた。

結局すんなり入ることになるのだが、実はポケットにはキーホルダーとしても使っているスイス・アーミーナイフが入ったままであった。


 インド観光ビザのアプリケーションに記入して提出すると、


 急ぐのか?


と聞かれ、思わず日本式に いやー別に と答えてしまうとビザ発給が1週間後になってしまった。

…ここらへんの機微がまだこの当時の僕にはよく掴めていない。


        画像


 画像はビザ発給待ちの時間に ( 1週間待った挙句、朝にパスポートを預けて夕方にようやくビザが下りる ) 暇つぶしに訪ねたシャー・フェイサル・モスク。

いかにも新興の政治都市イスラマバードにあるモスクといった感じで、近代的で魅力のない外見をしている。

ダース・ベイダーの基地みたいだった と日記に記してある。

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 宿は1階部分が食堂になっており、そこには例によってバックパッカー達が何をするでもなくだらだらとたむろしていた。

 とりあえず2人部屋の相部屋1ベッドということでチェックインをして、彼らの仲間に加わりチャイなどすすってみた。

僕のビザのトランジット期限まであと2日しか残っていない。

ここではイスラマバードでのビザ延長についてや、この先に訪れるであろう国のビザ取得についてなど、情報をもらわねばならなかった。


 それほど心配しないでも、こういった情報はバックパッカー宿では簡単に手に入る。

最悪誰かの 『 地球の歩き方 』 か 『 ロンリープラネット 』 さえ借りれば何かしらの手ががりは書いてあるのである。


 さて、僕の知りたい事はすべてそこにいた旅人たちが知っていた。


 ① ビザの延長はイスラマバードのパスポートオフィスで簡単にでき、日本人は無料。


 ② パキスタンを陸路で抜けて次の国に行く場合、考えられるのはイラン、インド、後戻りして中国、の三つのパターン。

このうち…中国行きは、カラコルムハイウェイが既に雪で閉ざされているため、不可能。

…イラン行きは、当時の時点ではイスラマバードのイラン大使館は個人旅行者に観光ビザを発給しておらず、不可能。


 自動的に僕の次の行き先はインドという訳であった。


 うへえ、インドか。


というのがその時の僕の正直な感想であったと思う。

キヨにそそのかされてカラコルムの国境を越えてパキスタンに来てしまった僕には何の目標も予定もなく、別に次の目的地がインドでも何の問題もない訳だが、なんとなくなりゆきとして自分はこのままシルクロードを西へ、イラン、そしてトルコへと向かうのだろうと思っていたのだ。

それに、これまでに出会ってきた旅人たちの中でインドを通り抜けてきた者たちには、なんかヘンな奴が多かったのである。

( もっとも、後に僕も間違いなくそのヘンな奴の仲間に入ることになる。 )


 まあ、いいや … では僕はここでパキスタンビザを延長し、インドビザを手に入れればいい訳ね。


 さらに、彼らの情報には続きがあった。


 ③ この宿の屋上では、毎晩チャラスが回されている。


 … それはそれは。


 僕はこの宿に1週間近く滞在した。

後にインドや東南アジアの各地で耳にした情報によると、この宿はその酩酊感に乗じての従業員による窃盗やレイプまがいの事件の多発する悪名高い宿だったらしいのだが、僕にはとりたてて何の被害もなかった。

チャラスのグルグル感を覚えたのは、確かにこの宿ではあったのだが。

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 さて、いよいよギルギットから山を降りパキスタンの中枢へと向かう。

この国の首都はイスラマバードと呼ばれる街なのだが、そこには政府関係の建物が集中しているだけで、都市としての機能は隣接するラワールピンディという街が受け持っているらしい。

すれ違ったバックパッカー達に教わった安宿もそのラワールピンディにあった。


 ギルギットから夜行バスでラワールピンディへ。

バスは中国で乗り継いできたそれよりもちょっとマシな感じがした。

もっともこれは僕がバス代をケチって一番安いNATCOのバスを選んだからで、料金をはずめば日本と同じような立派なバスも走っているらしかった。


( …NATCOとは一体なんのコトなのか今となっては分かりません。国営のバスだったかな? )


 その日は天候も悪く夜にはかなり冷えたが、僕の席は3人掛けの真ん中で、ガタイのいいふたりのパキスタンのおっさんに挟まれていたので暖かくちょうどよかった。

深い眠りにつきながら南へと向かったのであるが、途中の道路には踏切の遮断機のようなものが下りた検問所が何箇所もあり、外国人の僕はその度にバスを降りてパスポートチェックを受けねばならず面倒であった。


 到着したのは僕にとって西安以来となる結構な大都会であった。

パキスタンのトラックやバスには極彩色のペイントが施されており、すごくファンキーな感じがする。


       画像


 何かイスラムの宗教的な意味があるのだろうか。


 道路には新旧の日本車がたくさん走っていて、なつかしい感じがした。

カローラなんか新旧のモデルが5代ぶんくらいそろっている。

僕の学生時代のアルバイトのひとつはガソリンスタンドの店員であり、それらの車の給油口が右側か左側かが瞬時にわかってしまうのが自分でおかしかったのを憶えている。


 雨の中を旅人の誰かに教わったとおりにスズキを乗り継いで、安宿POPULAR INNへと向かった。

これが今思えばとんでもない宿であったのだが。



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