かふぇ・あんちょび

このカフェ、未だ現世には存在しません。

現在自家焙煎珈琲工房(ただの家の納屋ですけど…)を営む元バックパッカーが、

その実現化に向け、愛するネコの想い出と共に奔走中です。


テーマ:

 ドイツ人カップルの旅人たち。


 年齢はたしかふたりとも僕のひとつ上で、当時で25歳か26歳であったと思う。

ちょっと詳細を忘れてしまったが、ふたりとも学生で、大学を卒業して就職する前の旅であったか、あるいは休学しての旅であったか、そのどちらかだったはずである。

 ピーターの専攻は…忘れたけど、ガブリエラは都市工学とか土木とかなんかそんな感じの勉強をしたと言っていた。


 はるばる自分たちの町からオレンジ色の古いオペルでの自動車旅行をして、中欧、東欧の諸国を巡り、


 ギリシャまでよ! 野蛮だからトルコから東へは絶対に行ってはダメ!


という、旅行前のおばあちゃんの言いつけを破ってアジアへと侵入。


( ここらへん、お前あんな反日感情のひどい国へ行ったら殺されるぞ と僕の中国行きを心配したオヤジのパターンに似ている。)


 トルコ、イラン、と旅し、パキスタンのガンダーラ遺跡の町タキシラで僕と出会う。

 そして、インドの国境の町アムリトサルからラジャスタンの砂漠の町プシュカルまで、僕をその古いドイツ車に同乗させてくれた。


 背中に全ての生活道具を背負うバックパッカーは、ある意味殻を背負ったカタツムリに似ているとも言えるが、彼らの場合自動車という移動手段を持つ旅であったから、旅のスタイルも見えていた景色も、僕とはずいぶんと違っていたであろう。

それにしても、国境を越えるたびのあのオペルの税関手続きは、想像を絶するしちめんどくささであったのではなかろうか…?


 最終目的地であった南インドのゴアを目前にして、交通事故で愛車を失う。

それでもなんとか楽園ゴアへとたどり着きクリスマスを過ごした後、所要6ヶ月の旅を終え、ボンベイから空路故郷へと帰国。



 彼らが僕に授けてくれたのは、ジャーマン・テクノとアヤしい煙やクスリの知識とその実践、そして見返りのない開けっぴろげな友情であった。

 カーステレオを大音量で流しながら悪夢のようなインドの道でクルマをぶっ飛ばしたり、グリグリにキマった状態でくだらない事でバカ笑いをしたり大真面目に人生を語ったりしたのは僕の宝物の記憶だ。



 後に、僕はニューデリーでスリに遭って彼らの住所を記した手帳を失い、連絡が取れなくなってしまった。

帰国すると、僕の実家にはピーターのきったない文字でドイツからエアメイルが一通届いていたが、残念ながら住所が書かれておらず、音信不通のまま手紙の返事すら書けていない。


 彼らは、一体何の気まぐれで僕をあのクルマに乗せてくれたのだろう?


 ネバーランドの住人で永遠の少年の名を持つ彼と、大天使の名を持つ彼女、元気で、幸せにやっているかなあ?



 
        ピーター&ガブリエラ

             Camel Bazaar,Pushkar,Rajasthan,India

                                        Nov.1995


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 キヨは私がこれまでに出会った中でも、最もエキセントリックでいつも神経を逆撫でされるタイプの女性の1人でした。

おそらく日本での日常の生活で出会ったとしたら、私は極力彼女とかかわらないように努力する事でしょう。

独善的で、高飛車で、ひとをやり込める事が大好きで、そして、・・・綺麗なヒトでした。

ああ、このヒトのやり方で生きてゆくのはさぞかし大変だろうな、と当時からそう思っていました。


 10年後の現在、僕は多分年齢的にも旅の経験的にもあの頃の彼女くらいになったのかな。

何故あの時自分がすごい反感を感じながらも彼女に惹かれたのか、今ならば少しわかる気がします。

ハリネズミのように理論武装し相手をグウの音が出ないほどやり込めながら、必死で自分の弱いココロを守っていたのではないか、そうやって周りと相容れないままに、孤独な旅で何かを見つけようともがいていたのではないか、と、そんな風に思えてくるのです。


 そして私は、そんな彼女の中に同じ自分自身を見出し、共感していたに違いありません。


 当時24歳の私にとって、彼女は甘い恋の対象としてはあまりに激し過ぎ、年齢的にも経験的にもあまりに格上に思えました。

今の私ならばどうなのかなあ? 

共感する部分は増えたけれど、男として人間として、あの不安定な彼女をどっしりと受け止められるかといえば、まだまだフトコロの深さが足りてない気もします。



 あの時あの場所で彼女と再会し、反感が興味に変わり宿命的に惹かれる事がなければ、おそらく私はあの中国-パキスタン国境フンジェラブ峠を越えてはいかなかっただろうと思います。

結果的にあの峠越えによって私は旅の深い部分に踏み込んでしまい、日本で落ち着くまでにさらに3年半旅を続けることになります。


 キヨ自身はただ単に、女独りで初めてのイスラム圏に入るのが物騒だと思っただけなのかもしれません。

しかし私にとって彼女は、旅そのものとその後の人生観を大きく変えるきっかけとなった女性になってしまいました。

そう、それはあるいは 『 銀河鉄道999 』 のメーテルと鉄郎のような関係でもありました。

お互いメーテルにしてはサディスティックに過ぎ、鉄郎にしては歳を食い過ぎてはいましたが。


 今では彼女も40代半ばを迎えようとしているはず・・・、果たしてどんなオバサンになっているのかとても気になります。


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 推定年齢50歳。

 初めて彼の姿をみかけたのは敦煌の莫高窟。
英語の話せるガイドに案内されて洞窟を巡ったのだが、若い西洋人女性3、4人と共に僕らのグループに加わったのが、チベット族の帽子に太鼓腹のクロカワさんであった。
見事な英語で連れの女性達にジョークを連発していたのを憶えている。


 世界中たいていの国は旅したと豪語するツワモノ。
奥さんとの夫婦生活は既に破綻しているらしかった。
彼のような長旅の日本人の多くからは、なんというか社会不適合者の匂いがする。
日本での趣味はファミコンだそうだ。

 彼とは半年後にカンボジアで思いがけない再会をする事になった。

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 国籍 中国

 推定年齢 26歳

 職業 北京僑園飯店服務員

 バックパッカーの溜り場僑園飯店で唯一英語を話す美人服務員。
 安宿を求めるバックパッカー達にとって、彼女の英語が北京1泊20元の頼みの綱であったが、その接客態度は傲慢不遜の一語に尽きた。
ベッドを求めてやって来るガイジンの態度が少しでも気に食わないと、( 一流ホテルである ) 北京飯店へ行きなさいよ、と追い出してしまうのである。

 彼女は初め僕に対しても冷たかったが、ズボンの膝のカギ裂きを繕っているのを見られたあたりから微妙に態度が優しくなった。
彼女との中国将棋の勝負は、僕の全敗。
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 ハラホリンの町で出会った日本人バックパッカ―。
 
 推定年齢30~35歳。

 美形高飛車お嬢様系。

 カナダ留学の経験があり、美しい英語を話す。

 新潟だったか富山だったかから船でロシアに入り、シベリアを経由してモンゴル入りしたらしい。
出会った時点では、日本語を話すモンゴル青年バッツェレンをガイドのように従えてモンゴルを旅していた。

 出会うなり高飛車な調子で、

「 ウランバートルからジープをシェアして、( なんとかという )湖とゴビ砂漠に行く人数を集めているの。参加してくれるかしら? 」

と英語で言われたのを憶えている。
乗馬に夢中だったし、高いので断ったのだが。

 経験豊富な旅人であるが自己顕示欲が強く、これまでの旅の話が始まると内容は興味深いもののどうも鼻につく感じを受けてしまった。
アラスカ、ベトナムなどの旅行経験有り。

 モンゴル青年バッツェレンは、日本語の勉強になるからとウランバートルから彼女に同行していたのだが、ガイド料がもらえる訳でもなく旅費も自腹で払っていた。
彼は後にキヨのもとを離れ、シゲさんとつるんでいた。

 「 僕 」の旅において、キヨはここモンゴルではほとんど通行人のような役割でしかなかったが、数ヶ月後はるか西の町で非常に重要な鍵を握る人物となって再登場する事になる。

 これまでの人生の中で運命の女神の役を果たした女性を選べと言われたなら、私はひとり目に彼女の名を挙げるだろう。

…第一印象のすこぶる悪い女性であったが。
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 北京僑園飯店で出会った、僕よりひとつふたつ年上の先輩バックパッカ―。

 僕が上海に入ったのと同時期に香港から旅を始め、中国大陸を北上して北京に至る。
自称元コックであるが、今になって考えてみると、あれはコックというよりは、やはり本職?はバックパッカ―と言った方が真実に近いと思う。
オーストラリアでのワーキングホリデーの経験有り。
かなり流暢なジャパニース・イングリッシュを話す。

 僕はシゲさんとの出会いがなかったら、おそらくあんなに手続きの面倒なモンゴルに行く事はなく、フェリーで天津から韓国へと渡っていたと思う。
彼のモンゴル行きへの情熱に引きずられるような感じで、僕らふたりは情報ゼロからモンゴル大使館参りを繰り返し、インビテーションを手に入れてモンゴルビザを取得した。
その後約ひと月、モンゴルを共に旅する。

 シゲさんはいかにも自由を知っている感じの旅人で、いつも押し付けがましい所はひとつもなく、一緒に楽しく旅をする事が出来た。
別に説教じみた事は言われた憶えはないが、彼からは実に多くの事を学んだ気がする。

 特に、

 『 行きたいと本当に思っていれば何処にだっていけるものだ。 』

という実に単純な事実を体験できた事は、後の僕の旅に大きな影響を与えている。

 約半年後の風の噂では、シゲさんは後にインドの地で彼女と合流し、バラナシにて沖縄民謡と葉っぱの日々を送っていたらしい。

 その話を聞いたときには、ははあ、やっぱりああいう人には、そんな風にインドに呼べるような素敵なカノジョがいるのだ、と妙に納得しうらやましく思った。

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 北京僑園飯店で出会った日本人バックパッカ―。

二人は東京の美大の同級生で、ようこちゃんの方は大学を休学し内蒙古自治区のフフホトに留学してモンゴル語を勉強中。

坊主頭のヨーコちゃんの方は、夏休みを利用してモンゴル旅行のツアーに参加。
それがどういう訳だったのか忘れてしまったが、このツアー、なんとヨーコちゃんだけ現地ウランバートル集合なのだという。
ビザの取得、現地までの交通手段の確保、といった一番困難な部分を自力で乗り越え、モンゴルに入ってしまってからの一番楽しいのではないかと思える部分をあえてツアーに参加していたツワモノの女の子であった。

 フフホトの留学生ようこちゃんは、なんの準備もなしにモンゴルに行こうとする僕に毎晩基本モンゴル語会話を個人授業してくれた。
モンゴルの学生は学校ではロシア語を勉強するらしく、かの国では英語が絶望的に通じずコミュニケーションが恐ろしく困難であったので、彼女とノートに作ったモンゴル語会話集はとてもありがたかった。

 坊主頭のヨーコちゃんは、自分のガイドブックを見て描いたのであろうウランバートルの素敵な手書きの案内図を僕にくれた。

 生粋の九州人の僕にとって東京の女の子が珍しく思えたのか、或いは彼女たちが美大生という芸術家のタマゴたちであったからか、ふたりとも不思議で魅力的な女性であった。
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 少林寺の門前には、武術学校がずらりと軒を連ねていた。
そのうちのひとつを門からのぞいてみると、ジャージ姿の若いにーちゃん達が、

 ハッ ハッ ハッ ハッハッ!

と、例のヤツをやっているではないか。

 やったー! これを見に来たようなものである。
門前の小僧となって、彼らの修行風景をじゅうぶんに堪能させてもらう。

 そのうちどうやら休憩時間となったようで、生徒たちは思い思いに散ってゆき、水を飲んだり、談笑しながらふざけて組み手をやったりし始めた。

 写真の彼の名は康忠華、河南省出身の18歳。
見物している僕に何事か話し掛けてきたのが彼であった。

僕が聞いていても、うわ、訛ってるな という感じの中国語である。

 少林武術は日本でもすごい有名だぞ

と伝えると、

 じゃあ型を見せてやるから写真を撮れ

という訳でこのショットである。

蟷螂拳?

 それにしても、全部の武術学校の生徒数を合わせると相当な数になるはずだが、彼らは卒業後いったいどのような道を歩むのだろうか。

 彼も今では28歳の武道家になっているはずだ。
そのうちスクリーンでお目にかかる日をひそかに心待ちにしている。
 
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 国籍      ドイツ

 推定年齢   45歳

 使用言語   ドイツ語(のみ)


 僕が揚州・常州をまわる小旅行から戻った後の上海生活の後半において、浦江飯店のドミトリーに長期滞在していたのは、僕と、中国系フランス人レイモンドと、そしてこのドイツ人ハインツであった。

 彼は部屋の共通言語である英語をひと言も話さなかった。
みなが英語で話している内容は、ほんの少し理解しているようではあったのだが。
それでいて、皆の会話に平気でガンガン加わってきて、ドイツ語をまくしたてる陽気なおっさんであった。

 不幸な事には、その当時たまたまドイツ人バックパッカーが部屋にはいなかった。
ドイツ人は日本人と並んでアジア各地にウヨウヨしているというのに。

 そしてさらに不幸な事には、僕にはドイツ語がほんの少しだけ理解できたのであった。
僕の中退した地方単科医科大学は学生数が少ないため、当時教養課程における第二外国語は、選択の余地なくドイツ語だったのだ。
僕のひた走った華々しい留年街道において、最初に単位を落としたのもこのドイツ語であった。

 好むと好まざるとに関わらず、僕が9人部屋における彼の通訳になった。
インテリぶった助教授が大嫌いで講義をサボりまくり、ロクに勉強していないのであるから当然てんでお話にならない上に、それをさらに英語に訳して皆に伝えるなど狂気の沙汰であった。


 そもそも、なんでまた中国語はおろか英語も話せないドイツの中年オヤジが、上海の安宿の大部屋にいるのだろうか?

 以下は、僕が乏しいドイツ語会話能力を実力の何十倍も駆使して得た、(おそらく)真実の物語である。


 ハインツはドイツの田舎に生まれ、農業を生業として生きてきた。
彼は持ち前の陽気でやさしい性格でもって、平凡で平穏な日々を送ってきたのであるが、どういう訳か中年とよばれる年齢まで伴侶を得る事がなかった。

 そんな彼が、はるか東洋の国からドイツにやって来た留学生と運命的な恋に落ちた。
将来を誓い合った二人の間には国家間の非情な壁が存在し、帰国した愛しい女性がハインツの元へ妻として正式に移り住むにはさまざまな問題が立ちはだかっていた。
 しかし二人の愛は障害をものともせず、ついに彼女はめでたくドイツ永住ビザを手に入れようとしていた。
すべての書類上の手続きが終了するまであとひと月、ハインツはいてもたってもおれず、彼女の故郷上海へと未来の妻を迎えにやってきたのであった。

 ところが、運命の女神は恋人たちに容易に微笑んではくれなかった。
かの国は人民と外国人との自由な接触を認めておらず、婚約者といえども外国人は許可なく一般家庭に滞在する事ができないのであった。
かくしてドイツの純朴なる農夫ハインツは、得体の知れぬ放浪の旅人たちのたむろする安宿の大部屋住まいを余儀なくされた。

( どうですかN助教授! あなたの出来損ないの教え子は、単位はもらえませんでしたが、必死になればこれくらいのドイツ語理解は可能だったんですよ。 )


 彼とは一緒に早朝の黄浦公園をジョギングしたり、豫園旧城を散歩したりした。
婚約者の中国人女性が時々部屋に訪ねて来ることもあったが、大抵の時間彼は、旅行者たちが上海探検へと出かけたあとのがらんとした大部屋で独り過ごす事が多かったようであった。

 いつも陽気に振舞っていた彼であったが、僕は今でも、皆が寝静まった夜更けに隣のベッドから聞こえた小さなすすり泣きの声を忘れる事ができない。

 困難な愛を貫いた彼らが、現在ハインツの故郷ドイツで幸せに暮らしている事を心から願っている。
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中国系二世のフランス人。
南仏トゥルース出身。
スーパーマーケットを営む父親は、カンボジア動乱の際にフランスへと移住した東南アジア華僑。
1995年当時、フランスの大学に通う19歳。
上海浦江飯店ドミトリーに長期滞在し、中国企業で研修を受けていた際に出会う。
アメリカで高校時代を過ごし、仏・英・広東・北京語に堪能。

後に彼はフランスの大学を卒業後、新潟の大学に留学。
2004年現在はエア・フランスに勤務し、東京駐在員として日本に滞在中。


上海でのひと月を隣同士のベッドで寝起きした、私にとって一番目の外国人の友人です。
バックパッカー達がだらけた生活を送る大部屋に住み、ひとり毎朝ネクタイ姿で通勤してました。
大声で寝言をしゃべり、よく夜中に起こされていましたが、その喋る寝言がフランス語だったり、広東語だったりしたのを思い出します。
北京語の練習になるからと(?)、よく誘われて、ホテルからほど近い 『New York』 というディスコに二人で行ってました。
あれは面白かったなあ。
彼は今でも東京のクラブで、日本人の女の子をナンパしているのかもしれませんね。
この間電話で話したら、日本語上手になってたもんなあ。

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