かふぇ・あんちょび

このカフェ、未だ現世には存在しません。

現在自家焙煎珈琲工房(ただの家の納屋ですけど…)を営む元バックパッカーが、

その実現化に向け、愛するネコの想い出と共に奔走中です。


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 北京に帰ってきたと同時に、夏を取り戻した気分である。

 人類学者ハルクと共に安宿僑園飯店へとたどり着いたのだが、宿の雰囲気がどこか違って思えた。
なんでも公安の手入れかなにかがあったようで、廊下にばんばん客を寝かせていたあのいい加減なやり方が通用しなくなったようであった。
そもそも、改装中で水道が通じていない宿に営業許可が出ている時点で不思議なのであるが。

 僕らが到着した時もすでにベッドに空きはなかったが、以前僕は通訳として彼らに加担し贋学生証を何枚も売りさばいていた事もあったのか、特別廊下に寝かせてくれた。
フロントのキツイ中国美人孫雲橋はますます健在で、僕らの後に来る旅人たちを無常に追い返していた。

 翌日ベッドが空いたので、一日中ぐうぐう眠る。
モンゴル帰りの身には、飯はやはり中華の方が断然美味く感じた。

 季節は日本の夏休みシーズン真っ盛りで、宿には日本の大学生が溢れていた。
僕自身ついこの間まで同じ学生であったはずなのだが、何故か彼らのノリにはいつも違和感を感じていた。
友人と連れ立ってお気楽に外国での夏休みを満喫している彼らを見ていてイライラを感じるのは、独り旅が寂しいというのもあったかもしれない。
また、海外旅行など思いもよらずにバイトに明け暮れていた学生時代を送り、そしてその学生生活も将来も全て擲って始めて可能になった僕の旅に対して、身分保障を保ったまま安全に楽しめる彼らの旅が羨ましかったというのもあっただろう。

 あの頃の僕は夏休みの大学生バックパッカーがどうも好きになれなかった。
彼らを通して、自分の不安な将来を考えさせられていたのだと思う。

 ともかくもこうして、中国の旅の後半戦、シルクロードの旅が間もなく幕を開けるのであった。
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 話によると、モンゴルでは7月末はもう秋の訪れだという。
僕は上着を持っていないので、モノの豊富なこちら側中国で調達しておく事にした。

 ビザを手に入れた帰り道、大使館街近くの露天のマーケットを物色する。
ガイジンの姿もちらほら見かけるこの商店街?は、品揃えも豊富に思えた。

フライトジャケットを購入。日本の安売り店でも見かける、MA-1タイプである。
中国製であるから北京にあってなんの不思議もないが、アメリカ空軍採用の服のコピーが中国で売られているのは考えてみるとちょっと変に思える。

 おばさんの言い値240元(2640円)から始まり、190元(2090円)で交渉成立。
本当ならまだまだ値切れるはずだが、真夏の北京でこれを見つけるだけで結構苦労しており、ここを逃すともうみつからないかも…という僕の弱気がおばさんの勝利の結果となった。


 さて、いよいよ北京駅で改札を待つ列に並んでいると、モンゴル人らしいたくましい姐さんが中国語で話しかけてきた。

 改札を通る際に、アタイたちの荷物を少し持ってくれない?

というような事を言っている。
担ぎ屋みたいな商売をしている人たちだろうか。
どうやら重量制限に引っかかってしまうらしい。
僕の荷物は10キロ前後で、たしか40キロが制限だったと思う。

 ああ、全然構いませんよ。

と気軽に引き受けたのだが、中国語を解さない同行のシゲさんは冷やかにこう言った。

 うわあ、面倒な事になっても知らないッスよー、ボクはようやくモンゴルに行けるんだから、ここでトラブルは御免です。

 …そして、もちろん改札で僕は面倒な事になった。
重量検査のところで、駅員がなにやらすごい剣幕で怒鳴ってきたのである。
ザックの他に、明らかに変なペロペロでパンパンのビニールバッグをいくつも秤に乗せたのであるから、確かに怪しい。
きっと他人の荷物を預かったのもバレバレなのだろう。
お前は帰れ! というような事を言っている。

 やれやれ、僕の中国ビザは今日で切れるんだから、ここはどうしてもこの列車に乗らないとますます面倒な事になるではないか。

…やるしかない。
中国流の口論は、これまで路上でなんども見物している。

 僕はやおら乗客やほかの係員の方に向き直り、

 ワタシは切符も持っており、荷物重量もこのとおり制限以下なのに、この係員がワタシを通してくれようとしない。
お前は帰れといっているが、ワタシは中国を楽しく旅して、今まさに国外に出ようとしているところである。
最後の最後にこれはヒドイ仕打ちではないか。
そもそも、この列車に乗れないでいったいどこに帰ればよいのか?

 まずは英語で、そして中国語で。
周りを取り巻く中国人乗客もなにかガヤガヤ喋り始め、西洋人達はニヤニヤ笑って見物している。
僕のせいで、列はちっとも前に進まない。

 面倒になったのか係員は苦々しげに舌打ちし、僕を通してくれた。
正直冷や汗ものであった。

 姐さん達は改札の向こうで腕を広げて僕を迎え、ウランバートルではアタイたちに任せな! みたいなことを言って隣の車両に乗り込んでいった。
シゲさんは、だから言ったじゃないスか… と苦笑した。

 いよいよ出発である。

 いざ、草原の国、モンゴルへ!
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 国際列車であるシベリア鉄道の切符は、国際飯店という一流ホテル内の窓口で購入するらしかった。

中国の切符売り場には珍しくガラガラの窓口には、おそろしく無愛想なおネエさんが不機嫌そうに座っている。
僕の中国ビザの滞在期限の日の切符が手に入るようだ。

 アクリルの向こうでおネエさんがブスッと切符を準備している間に鶴を折り、切符と引き換えに窓口のわずかな隙間からポロリと渡してみると、彼女は驚くほどかわいい笑顔で身を乗り出し、

私にも作り方教えてくれる?

と笑った。

モンゴルの首都ウランバートルまで、827元(9100円)。
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 次の目的地も決まり、ようやく北京観光をする気になってきた。
バスと地下鉄を乗り継ぎ、蘆溝橋へ行ってみた。
地下鉄、日本でも乗り慣れていない。
中国のそれはやはり超満員状態で、しかも乗客はみな同時に乗ったり降りたりしようとするので、こちらも必死で動かないといつまでも乗れないし、乗ったら乗ったで今度は降りれない。
ある意味バスよりもかなり危険な乗り物である。

 橋のたもとで中国の大学生三人組となんとなく知り合いになった。
男ふたりに女の子ひとり。
広州の学生なのだそうだ。
同じ中国人の若者でも、北京のそれと微妙に違って見えた。
僕の感覚からすると、垢抜けていると言うのにはチョット抵抗があるのだが、まあそんな感じである。
それにしても、この男女比での旅行は微妙じゃないのかな?

 さて、この橋の入場料は 外人15元、一般10元、学生5元であった。
先に彼らと話をしてしまったので、ここでニセ留学生証を使うといらぬ嘘をつかねばならない。
どうしたものかと考えていると、彼らが気を利かせて僕も仲間ということで一緒に学生料金の切符を買う事にしてくれた。

 かつて、この橋を挟んで日中戦争の引き金が引かれたのである。
橋の上で仲良く一緒に記念撮影をしながら、何とも言えぬ気分であった。
彼等の方では一体何を思っていたのだろうか?

 中国を旅したこれまでの2ヶ月の間だけでも、多くの中国人から戦争と日本軍の話を聞かされた。
中国12億の民のほとんどが知っていると思われる日本語は、こんにちは でも ありがとう でもなく、バガヤロ というなんとも悲しい罵り言葉であった。

 確かに日本軍はこの国でめちゃくちゃな事をやったのだろう。そして一方で中国は、いまだにその現実をなんらかの政治的な意味で利用し、民衆に少しゆがんだ形で教え込んでいるようにも思える。

 僕は平和にこの国を旅し、中国の人々と仲良く話ができて本当によかった。

きっと50年前 (いまや60年前である) の両国の人々だって、個々人は僕らとなんの変わりもない平凡な考えの持ち主たちで、こうして一緒に遊んだり、話をしたりすれば必ず仲良しになったはずである。
・・・裏を返せば、今だって何かの拍子で彼らと戦う事にならないとも限らないわけだ。
そこにある差というものは、僕が思っているよりもずっと僅かなものなのかもしれない。
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 中国ビザは上海行きの船で取得手続きができたので、今回のモンゴルビザ取得が僕の初めての大使館詣でとなった。
当時モンゴルビザの取得には、モンゴル人のインビテーション(招待状?)が必要であり、これが個人旅行者にとってのネックであった。
このインビテーションなるもの、いまだよく意味が分かっていないのだが、身元引受人 みたいなものであろうか。

 ここまでの情報は僕もシゲさんも知っていたのだが、さてそれではインビテーションをくれそうなモンゴル人の知り合いがいるかというと、もちろんそんな人いる訳がない。

 まあダメモトで一度挑戦すれば情報とか先の展開とかがあるでしょう、という事で、ふたりで大使館に行ってみた。
 北京市北東部の、各国の大使館が集まっている地区に向かう。
落ち着いた並木道があり、高い塀の立派な建物が並ぶ中国らしからぬ地区であった。
大使館街とはどこでもこんな感じだとは後に知ることになるのだが、なにしろ初めてなので何でも面白い。
なんだか偉くなったような気分さえしてくるのであった。

 うん、ちょっと用事で、大使館にね…。 ( カッコいい! )

 モンゴル大使館の係員のにいちゃんは精悍な顔立ちで、体つきもゴツかった。
きっと相撲も乗馬も得意に違いない。

 シゲさんと額をつき合わせて英文の申請書を記入し、彼に提出してみたが、やはりインビテーションがないと話にならないのであった。
苦笑しながら説明してくれたにいちゃんによると、旅行会社のツアーに参加すればその会社が手配してくれるはずだという。
 大使館の受付のおねえさんが素晴らしく美人で、これはモンゴルはいい所に違いない、というのが二人の統一見解であり、唯一の収穫であった。
この日はこれで退散し、シゲさんと対策を練り直す。

 そう、西洋人バックパッカー達ご用達の「モンキー・ビジネス」というエージェントが北京にはあり、モンゴル行きのアレンジをしてくれるというのは宿の大部屋で情報収集済みなのである。
ツアーに参加するとなかなかイカしたTシャツがもらえるらしく、モンゴル帰りのバックパッカーは皆これを着ている。
しかしやはり団体ツアーでは面白くはないし、なにより費用が結構かかるのであった。

 何か抜け道があるはずだ。

 今度は、ヨーコちゃんの持つ 『地球の歩き方 モンゴル編』 に記載されている、ジュルチンという名のモンゴルの国営旅行会社に目星をつける。

「私たちは日本人個人旅行者です。
 雄大なモンゴルの草原を旅するのは長年の夢でありました。
 現在北京にてモンゴルビザを取得しようとしています。
 つきましては、現地に到着しだい手数料をお支払いしますので、北京宛てに我々二人のインビテーションを送って頂けないでしょうか?」

力を合わせて必死の英作文をし、北京駅近くにあるビルのビジネスセンターから草原の国へとファックスを送付。

 …3日間で二度ほど送ってみるが、返事が返ってこない。
普段はスーツの外国商社マン達を相手にしているのであろうビジネスセンターのオネエさん達とも、すっかり顔馴染みである。
薄汚れたTシャツ姿のふたりが、ファックスの返事を待ってエアコンの効いた快適なソファでグウグウ昼寝をしたり、仕事が終わったら晩ごはんを食べに行かないか? とナンパしたりするので、さぞかし迷惑だったに違いない。

 3日目にしびれを切らせて今度は国際電話をかけてみた。
どうやら相手は力作のファックスを読んでいないようだったが、じゃあ後払いを信用するから必ずオフィスに払いに来てくれ、ということで、US$20で話がついた。
ビジネスセンターの旧式のファックスからインビテーションが出てきた時には、シゲさんと二人、文字通り小躍りして喜んだのだった。

 あなたたち、どうしてそんなにまでして外モンゴル行きたいの?
 原っぱしかなくて、遅れた野蛮な国よ。

というのがオネエさんたちの共通した意見であった。
そして、多くの中国人は同じようなモンゴル観を持っているようである。

 翌日意気揚々としてモンゴル大使館を訪れた。
ゴツいにいちゃんがパスポートにドカン、とビザのスタンプを押し、グイグイとペンを押し付けてサインをして、無事モンゴルビザ取得。
即日発給US$50。
合計で70ドルかかっている訳で、今考えると結局高いビザである。
右往左往して、正解にたどり着くまでに5日間かかったが、やればできる訳だ。
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 上海で延長した中国ビザであったが、またしてもあと10日で期限切れを迎えようとしていた。
行き当たりばったりで進路を決めてきたのだが、まあビザが切れそうになったら韓国か香港(当時はまだ英領)に出て再取得すればいいや、とは考えていた。

 しかしここに来て、モンゴルに行くというのも素敵な考えだと思えてきた。
なによりここ北京からシベリア鉄道に乗ればすぐである。

シベリア鉄道!

なんと旅情を掻き立てる響きであろうか。

僑園飯店にたむろする西洋人バックパッカ―の中には、この外国人に開かれて間もない草原の国を目指す者が少なくなかったのである。

 そしてなんとも都合のいい事に、僕は旅の道連れとなる日本人バックパッカ―とも、モンゴル語会話の基礎を教えてくれる日本人留学生とも程なくしてこの宿で出会うのであった。

 しかし、当時個人旅行者にとって、モンゴルビザの取得はそれほど簡単な手続きではなく、僕らは結構な努力を強いられる事となるのであるが…。



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 宿のフロントで、20元(220円)でニセ留学生証を作らないかと話を持ちかけられた。
当時の中国には外国人料金という二重価格制度があり、外国人は様々な場面において中国人の何倍かの料金を払わなければならなかったのである。
万里の長城の入場券の差額だけでも元は取れるらしい。

 何より面白そうだったので顔写真を渡すと、その場で簡単にはい出来上がり。
これによると僕は 「南京国際文化芸術交流中心」 という長ったらしい名前の学校で水墨画を専攻する留学生らしい。

 このゴム判を押しただけのチャチな学生証は、後の僕の中国の旅において、通用することもあり、しないこともあったが、けっこうな額の旅費を浮かせてくれたのは事実である。
これで僕も立派な犯罪者という訳なのだが。
それにしても、

 「ナンジンゴォジーウェンホアイェジュウジャオリュウチョンシン」

…どうせ嘘の学校をでっち上げるのなら、もっと簡単で覚えやすい名前にしてくれればよかったのに、と思う。
もっとも西洋人バックパッカー達は、「留学生」 という中国語すらしゃべれずに堂々とこのニセ学生証を使っていたが。

 僑園飯店には万里の長城に行くミニバスのツアーがあり、部屋の皆でこれに参加した。
テレビや写真でよく目にするのは、同じ長城でも 「八達嶺」 と呼ばれる所だそうであるが、貧乏旅行者の僕たちが選んだツアーでは、「司馬台」 と呼ばれる所が行き先であった。

 それは素晴らしい景色であった。
夏の緑に萌える山々の稜線に沿って、見渡す限りどこまでも城壁が続いている。
まるで、山上に龍がのたうっているような迫力である。
この壁が、東は渤海に臨む山海関という関所から、西は敦煌に程近い嘉峪関という関所まで、延々と続いている訳である。

 そしてこの万里の長城の何がいちばん僕の心に残ったのかといえば、これを築いた中国の偉大さというよりも、むしろそれほどまでに中国歴代の為政者たちを恐れさせた、この壁の北方に住む草原の民たちの事であった。

 城壁の上に立ち、心地よい夏の風に吹かれながら、僕は高校生の頃に読んだ、井上靖の 『蒼き狼』 に描かれていた、蒙古の戦士たちがこの城壁を越えてゆく情景を思い出していた。

 草原の国、モンゴルか…。
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 改装中であろうが、水道が止まりタンクの水の冷水シャワーしかなかろうが、仮にも首都北京の一角に一泊20元(220円)で滞在できるとあって、宿は常にバックパッカーでごったがえしていた。
 可能な限りの人間を収容しようと、ドミトリーの部屋には簡易ベッドが増設され、隣のベッドとの隙間はほんの20センチほどである。
そこに、男女の区別なく東西の旅人たちが詰め込まれ、てんでに勝手な生活をしているのであった。

 スタッフは全員20代の若さで、凄まじく無愛想なフロントのお姉さんだけが、たったひとり英語を話した。
孫雲橋という名のこのお姉さん、なかなかの美形ではあるが、その接客態度はとにかく凄まじいの一言に尽きた。
彼女には是非とも一章を割く価値があるので詳細は後述とする。

 季節はいつの間にか7月中旬、夏休みに突入していた。
ここをうろつくバックパッカーの中にも日本人がかなりの割合を占めていた。
4割程度は日本人だったろうか。
日本の大学生、中国に来ている日本人留学生が多かったように思う。

 僕がこの宿でまず取り掛かったのは、中国将棋の習得であった。
天安門近くの百貨商場でポケット版の将棋セットを購入し (マグネットがお粗末で、いつも駒の管理に泣かされた)、まずは大連に留学しているという日本人のにいちゃんに駒の動きを教わる。
ルールは日本の将棋と、チェスをごちゃ混ぜにしたような感じ、とでも言えようか。
将棋版の中央には川が流れて領土を敵味方に二分しているのが特徴的である。
駒には象、大砲などがあり、いかにも中国の戦争ゲームだ。

 中国の道端では実によくこの将棋のバトルが行われており、僕はいつの日かあれに飛び入り参加したいものだといつも指を咥えて見物していたのであった。

北京の記憶として真っ先に思い出すのは、旅人たちが眠りにつき比較的静かになった夜のフロント前で、従業員の誰彼となく 「西瓜食べよう」 と誘い、毎晩赤子の手をひねるようにコテンパンに負かされていたこの中国将棋の記憶である。

 後日、僕は中国各地でじいさま達を相手に、野次馬の応援とおせっかいな指導を受けながらストリートファイトを繰り広げる事になる。
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 北京には鉄道で到着した訳だが、これがまた大都会である。
その後にもだんだんと強化されてゆくこの街の印象を簡潔に表現するならば、

 でかくて、広い

これは僕の持つ東京の印象にも通じる。
田舎育ちの僕にとって、広い所に人がうじゃうじゃいるという光景はすなわち祭りを意味し、気分が浮いてくると同時になにか落ち着かない。

 そんな祭りの予感を秘めながら駅へと降り立ち、お世話になった夫婦連れと別れて宿へと向かう。
情報は上海で入手済みである。
今度の宿はバックパッカーの溜まり場らしかった。

 バスに乗ってはるばると北京南駅に移動し、その僑園飯店という教わった宿へと歩いた。

 まるで古びた公団住宅といった外観の宿の前には、掘っ立て小屋のような食堂がずらりと並び、歩道に置かれたテーブルにものすごい数のガイジン達がたむろしている。

その光景は、上海以来まともな会話をしていない僕にとって小躍りしたくなるくらい嬉しく頼もしく見えた。
上海を離れてたかだか半月といったところなのだが。

 喜び勇んで宿へと入るが、外観ばかりか中身までもがまるで団地のようで、しかもやけに荒れ果てている。
営業して旅行者を泊めているのは3階部分のみらしい。

 1995年7月当時、僑園飯店は高級ホテルへと改装工事の途中であった。
したがって、これから述べるようなバックパッカー達の溜まり場的光景は現在もはや存在していない。
そして、僕が到着したのはまさにその歴史の終末期であり、宿のいいかげんさは最高潮に達し、いささか大仰に言えばロウソクの最後の煌きにも似た素晴らしい瞬間に立ち会えたとも思えるのである。

 僕はこの僑園飯店のスシ詰めドミトリーでさまざまな素晴らしい旅人と出会った。
彼らの自由な旅の仕方には大いに教えられ、実際に僕の数年後の旅先を密かに決定さえもした。
中には10年後の今でも文通の続く人物さえある。

 ともかくこうして、水道さえ止まった状態の、果たして正規に営業許可の下りているのかも疑問の安宿で、僕の北京生活は幕を開ける訳であった。
ちなみに宿泊料は、1ベッド20元(220円)。
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 中国銀行のおじさんに腹を立てて北京に行くと大見得を切ったので、すぐにバチが当たった。

 切符を買った北京行き夜行バスの発車時刻は午後4:30のはずなのに、いつまでたっても改札が始まらないのである。
同じバスに乗るらしい周りの乗客たちはおとなしく待っているようなので、こういうの普通なのかもしらん、と一緒にぽかんとして改札口前に待機する。

 6時を過ぎても何の沙汰もなかったが、さすがに他の皆さんが動き出したので後をついてゆくと、なんと料金を払い戻されてしまった。
係員は、鉄道駅へ行け と言うばかりで、何故欠便になったのか分からないままだ。

 どうもこの町とは相性が悪いなあ、と思いながら駅をうろうろしてみたが、北京行きの列車は、真夜中発のものでも、「無座」 の切符しか売っていない。

無座って、あの洛陽行きの超満員の車内で通路の床に座り込んでいた人たちの事ではないか…。

あれはちょっと勘弁だな、と宿を探そうかとしていると、バスターミナルで一緒に待ちぼうけを食った兄ちゃんが 「切符取れたー?」 と声をかけてきた。

無座しかないみたいよ と答えると、じゃあ他のところで買おう と誘われた。
どうやらダフ屋がいるという事らしい。

 駅前をうろついていたダフ屋から、人民料金75元(825円)の硬臥(2等寝台)の切符が170元(1870円)で手に入った。

 元値75元を倍以上の170元で売るのであるからボロい商売であるが、実はこの値段、外国人である僕にとってはそれほど悪い取引でもない。

 当時の中国には悪名高い外国人料金という二重価格制度があり、鉄道料金は常に中国人の2倍払うというのが普通であった。
すなわち、この北京行き2等寝台料金は、外国人の場合正規料金でも150元はするのである。

 この経験はまさに目からウロコの落ちる思いであった。

 …なんだ、いままであの悪夢のような大混乱の窓口で、どつきまくられながらようやく数日先の切符を手に入れていたのに、もうちょっと余計に払うだけでほんの数時間後に出る便の切符ですら簡単に買えるではないか。

 その後、駅前のダフ屋には中国各地で何度かお世話になる事になる。

 切符購入の裏技を教えてくれた彼の名は王建軍といって、写真記者なのだそうだ。
夫婦で北京へ行くところらしい。
僕と同じ1970年生まれ。
駅前の食堂で夕飯までご馳走してくれた。

 寝台車両の居心地は素晴らしいのひと言である。

 こうして辛くも太原脱出に成功し、一路首都北京へ…!

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