かふぇ・あんちょび

このカフェ、未だ現世には存在しません。

現在自家焙煎珈琲工房(ただの家の納屋ですけど…)を営む元バックパッカーが、

その実現化に向け、愛するネコの想い出と共に奔走中です。


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 洛陽に来たのは、ここが憧れの地、少林寺へと向かう拠点だからというのが大きな理由であった。
 洛陽駅前でうろうろして交通手段を探す。
長距離バスで片道6元(70円)で行けるな、と考えていると、一日観光のバスの客引きが、40元(440円)でどうだ? と僕をバスへと連れて行った。

しかし、少林寺以外の場所にも沢山寄るぞ お得だぞ という彼のセールストークが仇となった。
少林寺以外にはてんで興味がないのだ。

 断ってバスターミナルへ向かい、切符を買おうと例のおしくらまんじゅうをして窓口を目指していると、今度は別の客引きが、20元(220円)でどうだ? とやってきた。
それなら往復12元の路線バスより便利かな、と承知して付いて行くと、なんのことはない、同じミニバスが駅前から移動してきて客引きしているのである。
さっきの40元という値段はなんだったのかな?

結局この後座席が中国人観光客で全部埋まるまで延々と市内を引き回され、ようやく出発したのは1時間後であった。

 日本の観光バスのガイド嬢抜きといった感じで、途中のよくわからないナントカ記念館とか、蝋人形館とかに寄るのだが、全部入ると入場料が10元15元と結構かさんでゆくので、バスに残って運ちゃんとおしゃべりして暇をつぶす。
僕の中国語会話集をふたりで覗き込み、彼は客引きに使う英語のフレーズを手帳に書き写し、僕はその中国語を覚えて次の機会の客引きとの交渉に備えた。

 乗客のひとりに上海復旦大学の大学院生だという女の子がいて、上手な英語で話しかけてきた。
夏休みを利用しての旅行で、これから西安、敦煌と巡るのだそうだ。
中国でも女子大生が夏休みにひとり旅をしたりするのだなあ、と変なところで感心してしまった。

 さてバスは荒涼とした岩山をぐんぐん上り始め、いよいよ少林寺に到着。

 リー・リンチェイのカンフー映画で見た、修行者の長年のクンフーで凹んでしまった石畳や、バーチャファイターの背景そのまんまの林立する石塔など、それなりに見所はあるのだが、期待が大きすぎたせいもあるのかどうも面白くない。

よっぽど観光地巡りが性に合っていないのだろう。

 不満を胸に抱きながら、寺の門前にずらりと並んでいる武術学校の方へと足を向けてみた。

…そう、やはり場所よりもそこに住む人の方がずっと面白いのである。
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 寒い冬は大嫌い

 だって、塀の上で日向ぼっこしたり

 お花の匂いを嗅いだり

 蝶々を追いかけたりできないんだもの

 春が来るまで

 おウチの中で我慢するわ

 だから、ゴハンのお皿はいつもいっぱいにしといてね

 空っぽだったら

 寝てるアナタの目玉に鉤爪突っ込んじゃうもの

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 鉄道で洛陽に到着したのは真夜中、丸一日の超満員電車にくたくたであった。
この夜中に安宿を探す気力もなく、駅員さんに聞いた近くの宿でとりあえず1泊した。
ツイン100元(1100円)。
ちなみに南京からの鉄道二等席料金は所要14時間の旅で32元(350円)であった。

 翌朝散歩がてら宿をはしごし、1ベッド50元のとこをみつけて引越しした。
4人部屋だが独り占め状態で、こっちの方が安い上に待遇がいい。
中国ではホテルによって外国人と中国人を同じ部屋に泊めない所があり、結果チープにでかい部屋に独りで泊まれる事がままあった。
これはこれで少し寂しいのだが。

 さて、歴史のある古都洛陽には、行きたい場所が何箇所かあった。
僕の高校時代の愛読書は、横山光輝の漫画『三国志』なのである。

 さすがに長時間の移動をしてきただけあって、町の様子も上海などとは違って見えた。
いにしえの都ではあるが、ずいぶんとのんびりとした感じを受ける。

 初めに向かったのは、三国志の武将関羽の首が祀られているという首塚だったのだが、結局ここにはたどり着かなかった。
路線バスの窓から見た風景につられ、あわてて途中下車してしまったのである。

 それは、埃っぽい路の並木の下に玉突き台がズラーッと並び、半裸の人民ハスラー達がキューをもてあそぶ路上ビリヤード場であった。

 僕は『ハスラー2』世代でもあったのだった。
高校1年であの映画を観てポール・ニューマンの渋さに惹かれ、同級生たちと部活の帰りに田舎のボーリング場の片隅で玉突きを始めて以来、ブームが去ろうとビリヤードは常に僕をとりこにしてきたのだ。
大学の時には、ナントカ市長杯の試合にも出たことがある。
出場者の中でキューを持っていないのは友人と僕の二人だけで、恥ずかしい思いをしながら会場の備え付けキューを選んで試合に臨み、たしか2回戦負けの成績だった。

 しばらくゲームを見物してみる。
どうやら彼らはエイトボールをやっているようだ。
金銭が懸かっている訳ではなく、負けた方がゲーム代を払い、勝った方はそのまま台に残って次の挑戦者を迎えるしくみらしい。

 ボロボロのラシャとただの棒切れのようなキューが不安ではあったが、挑戦しない手はない。
この際下手な中国語は使うまいと決め、親指で自分の胸を指し次の挑戦者に名乗りを挙げた。

 おそらくこれまで彼らが外国人を迎えたことはなかったのだろうと思う。
緒戦からギャラリーが集まってきて、にわかに野試合の雰囲気になってきた。
そして1ゲーム目を相手に2度触らせただけで取ると、周りが黒山の人だかりになった。
いやあ、あれはすごくいい気分だった。
まさに気分は流れ者ハスラー…。

 4人目を抜いたところで、自転車に乗って次の挑戦者が到着。
どうやら誰かがわざわざ呼びに行ったらしかった。
周りのにいちゃん達の反応も明らかに違う。
すごい、映画の展開そのものではないか。

 彼の腕前は僕より上であった。
バックスピンやカーブなどの小細工の利かないこの台での戦法を熟知しており、気持ちよいストレート一本槍で次々にポケットを決めてゆく。
お互いにゲームを落としても対戦者を代える事なく、しばらくゲームが続いた。
いつのまにかお店?のお姉さんまで現れ、黒板にチョークで勝ち星を記録し、落とした玉を並べなおすのも彼女が担当した。

 ゲーム代は1ゲーム4角(4.4円)だった。
12回戦やって2元払ったとこからすると、最終的には7-5で一応は勝ったようであるが、この際勝負はどうでもよかった。

 台球太玩了!

と、僕が初めて口を開き彼に声をかけると、にいちゃんはニッコリ笑って煙草を勧めてきた。
 
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 列車に乗り込んだら、次は座席にたどり着かねばならない。
一応は座席指定の切符であるが、この乗客の多さではまさか空席のまま空いているはずはないのだが。
 通路に座り込んでいる人々の舌打ちを浴びながら、ようやく座席の番号を探し当ててみると、6人掛けのボックス席に8人がギュウギュウ詰めに座っている。

 僕の席、ここよね?

と、彼らに切符を示すと、おお、そうだそうだ、と、さらになんとか僕の分のスペースを作り始めた。
どうやら無理やり9人掛けで長旅が始まるようだ。

 母、姉、3歳くらいの妹の家族3人連れ、おっさんが二人、にいちゃんが二人、人民解放軍の軍服を着た兵隊さん、そして僕である。

 早速皆と会話が始まる。
にいちゃん二人のうちひとりはコンピュータープログラマー、ひとりは南京の大学生で、幸運なことに二人とも僕と同レベルの英語を話した。
筆談と合わせるとほぼ100%意思疎通が可能で、これは退屈せずに済みそうである。

 家族連れと、プログラマーと、おっさんのひとりは西安に行くらしい。
もうひとりのおっさんは鄭州へ、大学生は終点の蘭州で乗り換えて青海湖のそばの実家へ、解放軍の兄ちゃんは休暇で函谷関のそばの実家へ帰るのだそうだ。

 時は1995年7月初旬、どうやら学生達の夏休みの帰省シーズンらしい。
これから2ヶ月は学生達が大学を離れ、各地で英語が通じる機会も増えるかもしれない。

 学生さんは南京の大学で気象を学んでいるらしい。
サッカー部で、日本のJリーグの話題や、カズがイタリアでプレーしている事などよく知っていた。

 プログラマーとは電気製品の話をする。
台湾製、韓国製の電化製品の値段は中国製の2倍で、日本製だと5倍から10倍するらしい。
それでも日本製に憧れるのだそうだ。

 日本のテクノロジーはスゴイよな!

と言って、僕に積分の問題を出してくるので参ってしまった。

 鄭州行きのおっさんのお父さんは、かつてハルピンで日本軍の運転手をしていたのだそうだ。
軍属というやつだろうか。

 解放軍の兄ちゃんとは、お互いに女の子の遊び相手になることでコミュニケーションをとる。
小柄で浅黒く、いかにもアジアの兵隊さんといった感じである。
制服姿ではあったがカチッとした感じは全然なく、他の乗客との関係もフランクなもののようであった。
きっとこの兵士達はそんなに強くないかもしれないが、いつまでも粘り強く民衆と共に国を守るのだろうな、という印象を受けた。

 駅に着くたびにものすごい数の乗客が乗り込んできて、車内はますます混沌としていった。
そんなギュウギュウ詰めの通路を、無理やり弁当売りやスイカ売りが通ってゆく。
 駅では開いている窓から人がダイビングして入り込もうとするので、僕らのボックスでは暗黙のうちに停車前に窓を閉めるようになったようであった。

 南京を出てから14時間後、23:30洛陽着。
皆に別れを告げ、通路で体育座りで寝ている人の間や上をまたいでようやく列車の外に出た。

 お互い見知らぬ者同士のはずの乗客の会話が実になごやかで、面白い経験であったが、このすし詰め状態での移動はそう何度も連発したくないな というのが正直な感想であった。

 今となってみればすごく懐かしくて是非またやってみたいが、その後僕は極力この硬座と呼ばれる二等席を避けて旅をしたところを考えると、かなりキツイ移動ではあったようである。
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 次の目的地は古都洛陽である。
悪名高い長距離列車の硬座(二等座席)の旅だが、聞きしに勝る大混乱ぶりであった。

 切符の購入の苦労はいわずもがなであった。
しかしここ南京では、「没有!」と僕の話をろくに聞かない駅員を、周りの人々がどやしつけ応援してくれたのである。

 まず、ホームから列車に乗らなければならないが、列車を待っている客たちの荷物がすさまじい。皆、夜逃げのような荷物を抱えているのである。
しかも僕の乗る列車は南京が始発ではなく、ホームに入ってきた列車はすでにうんざりするくらい超満員の乗車率であった。
皆列を作って乗車するどころか、降りる客を優先するでもないひどい有り様のタラップで、さんざん肘鉄を喰らいながらようやく列車に乗り込んだ。
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 私の住む町にある記念碑には、現在ではあまり知られていない日中戦争の歴史があります。
この塔に使われている石材は、かつて南京の街を守っていた城壁のものでした。
県下に連隊本部を置いていた陸軍部隊が南京攻略に参加し、陥落させた際に戦利品としてぶんどってきたらしいのです。

 皇紀2600年を記念して建てられたこの塔ですが、戦後に『平和台』というなんとも皮肉な名称に改名されています。
私も学校の遠足などで何度も訪れましたが、この血なまぐさい由来を知ったのは最近になっての事でした。

 もっともこの塔の下には、故郷から出征し、異郷に倒れた少なからぬ戦没者の名が延々と刻まれてもいます。
私が旅をした中国や東南アジアの地で、泥水をすすり血で血を洗う戦いの末に亡くなった方も数多く眠っている事と思います。

 かつてのスローガンであった大東亜共栄圏という思想ですが、中国の人々を虐げ歴史建造物を戦利品に持ち帰るとかそういう事でなしに、本当に人々が共に栄えるアジアにしなければならないのだと強く感じます。

旅人の私を温かく迎えてくれたあのアジアの人々のためにも、祖国のために必死で戦いこの塔に眠る戦没者の方々のためにも。


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 バスで出会った清楚な揚州美人、徐海雲に会いたいがためだけの揚州再訪を終え、いよいよ南京へと到着した。
 二度目の揚州はそれはそれは楽しかったのだが、ここ南京では、どうしても南京大虐殺記念館を訪ねなければならない。
それは、旅の始めから決めていた事であった。

 結果僕は予想以上に衝撃を受け、正直来なければよかったとさえ思った。

 30万人という数字は、僕の住む街の人口と同じ数である。
国民党の兵士やスパイが民間人に紛れ込んでいるという理由で、南京を占領した日本軍はその30万の人々を処刑したというのである。
ほんの50数年前の、祖父の世代の日本人が。

 日本人が広島・長崎を忘れていない以上に、中国人は戦争を忘れていない。
これまでに筆談した中でも、

 あんた、この日本人知ってるか?

と、ノートに書かれた日本の有名人リストの中には、山口百恵、高倉健などとならんで、東条英機を筆頭に、日中戦争当時の日本陸軍の将軍達の名が何度となく出てきたものだ。
そして、僕は東条英機以外のそれらの将軍達を知らなかった。

 1995年は終戦50周年の年である。
中国や、その後訪れることになるアジアの国々では、8月15日は「終戦」記念日などというなまやさしい名ではなかった。
「戦勝」記念日、「独立」記念日という、憎き日本を打ち負かした、おめでたい日なのである。

 宿のロビーなどにあるテレビでは、この夏いやというほど日中戦争の映画が放送されていて、そこでは日本兵たちがそれはそれは極悪非道な行為を繰り広げていた。

 中国での旅の間に、中国12億の民が、ほとんど全員知っているのではなかろうかと思えた日本語がある。

 それは、 こんにちは でも、 ありがとう でもなく、 馬鹿野郎 という言葉であった。

道行く子どもなどにこれを言われるとそれは悲しかったものだ。


 南京での僕の宿は、南京大学の構内にある招待所の三人部屋であった。
同室だったのは、中国と韓国のおじさん二人。
真ん中のベッドで横になり、両側からの超弩級のステレオいびきを聴きながら、僕は大虐殺記念館にあった、『百人斬り達成!』とかいう見出しの日本の新聞記事の写真で胸を張る、真面目で純朴そうな日本兵の顔を思い出していた。
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 上海を離れまず訪れたのは、鉄道で1時間ほどの距離にある蘇州であった。
ここは水郷と庭園で有名な観光地である。

 2日ほど滞在して、ガイドブックを読みながら優等生的な観光をしてみたが、感想といえば へえ~ というくらいで、はっきりいって全然面白くなかった。
書画や漢詩、庭園に対する教養や審美眼など持ち合わせていないという事なのだろう。

 日記によると、寒山寺、網師園、北寺塔などを見ているらしいのだが、10年経ってみれば全くといっていいほど記憶にない。

 たったひとつ憶えているのは、鉄嶺関という砦である。
これは、倭寇に対する防御策として建てられた砦らしかった。
九州からはるばる海賊や漁師のおっさん達がここまでやってきて略奪の限りを尽くし、中国側にこんな砦を築かせるほど恐れられていたのだと考えると、なんとなく頼もしく思えた。

 遠い昔のことだからこそ、歴史的事実としてそんな暢気な事も言ってられるのかもしれない。

 そして、僕の次の目的地は、南京であった。
南京は、中国を旅すると決めた時から、避けて通る訳にはいかない場所だと思っていた。

 ところがこの時僕はどうにも気が重く、南京行きを先延ばしにする口実を探していたに違いなかった。
 バスターミナルで2、3日先まで南京行きの切符が売り切れているのを知ると、すかさず一度行っているはずの揚州行きの切符を買ってしまったのだ。

 上海の僕の中国語の先生、太陽門酒家のおやじさんに、揚州への小旅行の報告をした時のことである。
彼はため息とともに、

 古都揚州の女は、昔から美人で有名なんだ。

と、ポツリともらしたのだった。

 そして僕はそのことを実際に知っていたし、筆談ノートには美しい文字で、その揚州美人の連絡先の電話番号が書いてあるのである。

 …こうして僕はみたび長江を渡った。

現在思い返してみると、つくづく若いっていいなあ と感じる。
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