かふぇ・あんちょび

このカフェ、未だ現世には存在しません。

現在自家焙煎珈琲工房(ただの家の納屋ですけど…)を営む元バックパッカーが、

その実現化に向け、愛するネコの想い出と共に奔走中です。


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 今年も今日で終わりですね。
来年はもう少しいい年になればいいな、と思います。
いろいろな意味で。

 職場のホテルは、おかげさまで沢山の年越しの宿泊客があるようです。
明日、私は新年いっぱつ目の釜当番でして、おそらく除夜の鐘の鳴る頃出勤し、お客さんが朝食で食べるパンを焼く準備をします。
初日の出の頃には忙しさも一段落し、今度は昼食用のパンの準備にかかります・・・。

2005年も遊びに来てくださいね。

では、年賀状に代えて、尊敬する大先輩バックパッカ―、三蔵法師の絵葉書をアップしときます。

よいお年を・・・・。



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 まあもっとも、実際には僕が上海周辺の江蘇省、淅江省に小旅行をしたのは6月の梅雨の時期であったが。

上海から2、3泊の旅程で、杭州、揚州、常州などの周辺都市を訪ねた。

中国において、長距離バスや鉄道の切符を買うというこの経験も、初めのうちは生易しいものではなかった。
駅やバスターミナルにある切符売り場の窓口にはものすごい数の群集がひしめき合い、そこには列を作って順番を待つという概念が存在しないのである。
初めは皆の勢いに圧倒され、行儀よくぽつんと立ち尽くしていただけであった。
が、外国人が切符を買えずに困っているからなんとかしてやろう、的な手助けがあるわけもなく、いずれは意を決して肘鉄をくらいながら窓口へのバトルに参加せねばならない。

窓口の係員はこの大混乱状態を一日中捌かねばならない訳で、機嫌のよかろうはずもない。
こちらの中国語が判別しにくいと、『ない!』の一言で片付けられ、次の客に押しのけられてしまうのである。
押し合いへし合いをしている間にまわりのおっさん達と話をして僕の目的地を理解させ購入の際口添えをしてもらったり、ノートに漢字を並べ窓口に押し込んで読んでもらったり、ありとあらゆる努力をした。
中国語の下手であったあの頃の事を思い出すと、今でもうんざりする。

それでも、訪れた近郊の町はそれぞれに上海と違った趣きがあり、楽しい旅であった。
苦労して乗り込んだ車中でも、いろいろな人と巡り合うことになる。
だいたい僕は、目的地よりも移動に旅の醍醐味を感じるタイプの旅行者でもあった。
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 ヒッチハイクの思い出をもうひとつ。
まあこれは路上で親指を立てた訳ではないので、厳密にはヒッチではありませんが…。

 インドーパキスタンの国境の町アムリトサルから、西インド、ラジャスタン州のプシュカルという町まで、ドイツ人カップルの乗るおんぼろオぺルに同乗して3日間旅をしました。
ガソリン代半分負担、運転は3人交代で、というのが条件でした。
これも素晴らしい経験でしたよ。

 私と同年代であったピーターとガブリエラという名の二人は、金髪碧眼のばりばりゲルマン系で、テクノとドラッグに快楽を追い求めるタイプの旅行者でした。彼らは陸路はるばるドイツからその中古車で、中欧・東欧、西アジアを経て、インド亜大陸までやってきたのです。

カーステレオからは大音量でテクノが流れ、猛スピードで疾走する車窓にはインドの風景が広がっていました。
そして路上には、トラック、リキシャ、牛、駱駝、はては象、そしてうごめくインドの人々たち…。
日本での運転経験などまったく役に立ちませんでした。
だいたい、インドにおいて交通ルールや運転マナーなるものがあるかないかすらわからなかったのです。

 異国の路をぶっ飛ばすのは、どこまでも自由で、爽快な気分でした。

 彼らとはプシュカルの町で別れ、後にヒッピーの聖地ゴアで再会するのですが、あわれオペルは終着の地を目前にトラックと衝突し、廃車となったらしいです。
二人はポリスが到着するまでの間に、集まった野次馬の人々に車の装備や荷物を売り払い、ゴア到着時には私と同じバックパッカーでした。

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 まず最初の関門は、セイラのくれたポケベルの番号を使いこなすことであった。
日本で貧乏学生だった僕は、このポケベルというやつの経験がなかった。
しかも中国のそれは、番号にかけてみると、なんと男の交換手?が出るのである。

綺麗な異国の女性への連絡である。
ドキドキしながら番号を押したら、ポケベルのはずなのに、しかも録音でない図太い男の声でなにか訊いてくるので一度目はあわてて切ってしまった。

そのおっさんにこちらの名前と宿の電話番号を伝えると、折り返し向こうから電話がかかってくる というしくみらしい。
それにしてもなんてシステムだろうか。

 これだけの事を理解するまでに、僕は交換手のおっさんとしどろもどろの会話をし、英語をしゃべるフロントのお姉さんの助けまで借りねばならなかった。
ピシッとホテルの制服を着て、いつも固い顔をしているフロントの若い女性にも、いきさつを根掘り葉掘り尋ねられ、

「へぇー、ディスコで女の子と知り合ったの?やるじゃない。
中国語で、君の瞳は綺麗だね ってなんていうか教えてあげる。」

と、からかわれ非常に格好悪い思いをした。

そうしてなんとかコンタクトをとり、彼女は通訳になるために上海で英語を学んでいる妹を、僕は隣のベッドの遊び人レイモンドを連れて行くということで、第2ラウンドが始まった。

 さすがに通訳志望なだけあって、妹の英語力はなかなかのものであった。
今回はレイモンドもいるし、大音量のディスコでも4人の会話はスムーズに進行した。

妹は学校に通うかたわら、レストランのウエイトレスのアルバイトをしているらしかった。
そこでの時給は、4.72元だという。
…50円くらいか。
当時の上海と日本のお金の価値の差は、10倍くらいということになる。

ウエイトレスの時給 4.7元(50円)・・・500円
麺1杯 3元(33円)・・・330円
ディスコ 40元(440円)・・・4400円
宿泊費 50元(550円)・・・5500円

まあ、つじつまが合わなくもない。

僕が日本で焼き鳥屋でアルバイトしていた時の時給は、650円だったよ。
で、ラーメンが一杯400円くらいする。
と言うと、高収入に思えても出費も高く、別に生活が楽な金持ちという訳ではないらしいと解ってくれたようだ。

 もうすぐ常州に帰るの というセイラに、実は常州にはちょっとした知り合いが住んでるんだ というと、じゃあ遊びにおいでなさいよ と今度は実家の電話番号を教えられた。
そう、なんたる偶然か、長崎ー上海の船で出会った研修帰りの宋中さんの住むのも、その常州なのである。

こうして、あきれるほど細い腰に手を回し、ゆっくりとしたチークを踊りながら、僕の次の目的地が決定したのであった。

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 さて、いよいよ明日はクリスマス・イブですね。
今日から明日にかけての時間が、パン職人・ケーキ職人連合軍のクリスマスです。
今年のクリスマスケーキの注文は1,100個。
皆で力を合わせて素敵なケーキを作りますよ!

 それでは皆さん、メリークリスマス!!

明日の夜は丸太のように眠ることでしょう・・・
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 チベットのラサを目指していた時、中国青海省の馬多という町から、玉樹という町まで、回族のおっさん二人の運転するガソリン輸送用のタンクローリーをヒッチハイクしたことがあります。
青海省はチベット高原へと続く半乾燥の草原と岩山の土地で、町はまるで開拓時代のアメリカ西部のような感じに(もちろん知りませんが)思えました。
 路線バスは、たしか週に2回くらいはあったのだと思います。
しかしその時の私は、ビザの残り日数の兼ね合いもあり、一刻も早くチベット自治区の未開放地域へ潜入しなければなりませんでした。
そこでは交通の便がさらに悪く、しかも本来外国人入っちゃダメよ、の地域ですから、ビザの延長ができないのです。
 そこで、どろどろの簡易舗装の道端に立ち、ヒッチハイクとあいなった訳ですが、ようやく馬多へ向かうというタンクローリーを捕まえたのは、それでも2日目のことでした。
しかも、中国でのヒッチはタダではありません。
ドライバーのおっさん達の小遣いとして、それなりのお金を支払うのです。
そのときは、300キロくらいの距離で、80元(1000円くらい)払いました。
これが高いのか安いのかは微妙なところです。

トラックの助手席から眺める草原の景色は、なかなかのものでした。
途中車内で一泊して、翌日に目的地へと到着したのですが、気のいいおっさん達との草原のドライブは、楽しかったです。

結局この後、2週間かけてラサにたどり着くまでヒッチハイクを繰り返すことになります。
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 大人の雰囲気の黒い服装で踊る彼女の名は、謝偽蓉(Xie Weirong)。
上海の大学で学ぶ妹を訪ねて、常州から来ているのだという。

我々の会話は、英語と中国語のちゃんぽんで進行した。
何回かの試行錯誤により、外見が地元の兄ちゃんと変わらない僕は、英語で

Would you like to dance with me?

とやる方がより強いファースト・インパクトを女性に与えるということも学んだし、第一中国語をしゃべるといったところで、当時の僕には挨拶と買い物、そして毎日絵本で勉強している間抜けなアヒルの話しかできないのだった。
彼女も、そして他の女性たちも、カタコトの英語を使う事に全く抵抗がないようで、実に堂々と僕と踊り、他愛もない会話を楽しんでくれた。

私にはセイラというイングリッシュ・ネームがあるのよ と彼女は言った。
これは後に知ったのだが、学校でイギリス人などから英語を学んだ場合、教師である彼らは生徒の名前を複雑な発音の中国語で憶える代わりに、適当な英語の名前を付けてしまうのだそうだ。
あまり感心できる由来の名前ではないが、まあ彼女の本名の発音と似ていなくもない。

向かい合って耳元で怒鳴るように会話しながら適当に踊り、カウンターでビールを飲みながら紙ナプキンを使って筆談をした。
常州での彼女の仕事は、chemical anarystらしい。
化学分析官?とでも訳すのだろうか。

明日、別のディスコ 『New York』 で会わないか? という僕の誘いに、彼女は紙ナプキンにポケベルの番号を書いてよこした。
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 この写真は、旅の始まりから三回目の秋に、チベットのど田舎で、トラックの荷台に乗ってラサを目指していた時のものです。
執筆中の本編よりずっと後の事になるのですが、私の魅惑のバスツアーといえば文句なしにこれです。
2泊3日、狭い荷台にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ、途中で野宿しながらの移動でしたから、忘れがたい旅であり、苦労の末に仰ぎ見たポタラ宮に声をあげて号泣し、その後仏教に傾倒するきっかけともなった経験でもあります。

写真中で中国人民解放軍のコートをはおり、人民帽の中にポニーテールの髪を隠し、それなりに精一杯中国人に変装している丸眼鏡が私です。
同乗者であるチベット族の人たちは、日本から来てラサを目指すと言う私を巡礼者として温かく迎え入れ、数々の検問を突破する際力になってくれました。
当時チベットの多くの地域は未だ外国人旅行者に開放されていなかったのです。

今の執筆のペースではいつになるやら分かりませんが、この頃の旅を語りたくて仕方ありません。
まあ、バックパッカーとして少しずつ成長?してゆく様子を順に語るのもいいかな、と思い我慢しています。


 本来ならば、朝の早いパン職人の私は、夜のこの時間に活動している事はまずありませんが、今夜はパソコンに詳しい職場のケーキ職人の自宅にお邪魔して、スキャナーなるもので旅行の写真を取り込んでもらいました。
他の皆さんのページに面白い画像が盛りだくさんなのが、とても羨ましかったんです。
 これで私の旅行記にも、画像が付きますよ。
へへ。
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 昨夜は職場の上司のお父さんの通夜でした。
100キロ離れた上司の実家の町まで、パン職人の皆で車を走らせ、焼香してきました。

 町はクリスマスのムードで美しく、喜びと幸せの光に満ちていますが、火の気のない夜の葬儀場はひっそりとして、人生はそのもうひとつの顔をしっかりと見せつけていました。

 写真はインドで手に入れた数珠と、四国遍路の際に使っていたお経の本です。

死に場所を求めてガンジス川のほとりにある聖地バラナシにたどり着き、ガートへと続く道にずらりと並んで座っていたインドの乞食の人たちの事、

ある者は杖にすがり、ある者はボロボロのショッピングカートを押しながら、ヨチヨチと四国遍路の道1,600キロを歩いていた老人の歩き遍路たちの事、

そんな事を睡眠不足の頭でぼんやりと思い出しながら、車を走らせ数時間後に仕事の始まる我が街へと戻った夜でした。
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