コルンゴルト: 『過越の祝いの詩篇』 Op.30

2011-12-13 01:22:41 テーマ:音楽

シュテファン・ツヴァイクによれば、ウィーンのユダヤ人たちの間では、シオニズムへの関心は低かったという。シュニッツラーがユダヤ人の問題を取り上げた作品『広野への道』を発表したとき、ホーフマンスタールはそれを非難した。ハプスブルク帝国の富裕層、知識階級で大きな勢力を持つにいたったユダヤ人たちは、出自を強調するよりもむしろ触れず、ハプスブルク帝国の臣民としての強い意識を持っていた。コルンゴルトもそうである。コルンゴルトはユダヤ人であることを理由にナチスドイツに排斥され、アメリカ移住を余儀なくされたが、その生涯を通じて、ユダヤ教、ユダヤ人を意識させる作品をほとんど書かなかった。そのわずかな例外が、 『過越の祝いの詩篇』である。とはいえ、詩がユダヤ教に基づくものであるにすぎず、音楽はいつものコルンゴルトの流儀であり、『死の都』や『ヘリアーネの奇跡』の甘美なアリアを想起させる。まったくもって、美しい音楽というほかない。


参考CD: ヤナーチェク 『グラゴル・ミサ』 他 リッカルド・シャイー(指揮)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団、他 LONDON POCL1856  

ツェムリンスキー: 歌劇 『フィレンツェの悲劇』

2011-12-12 00:18:59 テーマ:音楽

オスカー・ワイルドの戯曲『フィレンツェの悲劇』をもとにツェムリンスキーが作曲した一幕物の歌劇である。『フィレンツェの悲劇』というと、壮大な歴史劇のように思えるが、実は単なる不倫の話である。商人の妻ビアンカとフィレンツェの王子グイド・バルディが密会しているところに商人シモーネが帰ってきて、口論の末、決闘にいたる。他愛ない話をこの上なく華麗な修辞で飾るワイルドの手法は手慣れたものだが、さすがに歌劇にするには台詞が長すぎたようで、ツェムリンスキーはところどころ省略したという。ツェムリンスキーの代表作、『抒情交響曲』と同様に、これは音楽つきの歌ではなく、歌つきの音楽である。本作において交響曲と歌劇との融合をツェムリンスキーは成し遂げた。表現主義的で、とりわけ官能的表現に長けた音楽、決して途切れることなく自然に新たな楽想に移っていく手法はまったくツェムリンスキー独自のものである。ホフマンスタールの文学作品などと同様に、ツェムリンスキーの音楽は、ハプスブルク帝国末期に花咲いた、洗練を極めたウィーン文化の象徴と言えるであろう。


参考CD: ツェムリンスキー 歌劇 『フィレンツェの悲劇』 リッカルド・シャイー(指揮)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、アルベルト・ドーメン(バリトン)、ハインツ・クルーゼ(テノール)、イリス・フェルミリオン(メゾ・ソプラノ) LONDON POCL1786

マーラー: 交響曲 第9番 ニ長調 室内楽版 (編曲: 瀬尾和紀)

2011-12-05 00:35:12 テーマ:音楽

2011年12月4日

三井住友海上しらかわホール


Fl:瀬尾和紀/Cl:ニコラ・バルデイルー/Hrn:アントワンヌ・ドレイフュス
Vn:スヴェトリン・ルセフ&ニコラ・ドートリクール/Vla:馬渕昌子&小峰航一
Vc:中木健二&ベルトラン・レイノー/Cb:市川雅典/Pf:ローラン・ヴァグシャル&上野真


マーラーの交響曲第9番の室内楽版を聴いた。とは言え、もともと室内楽版が存在したのではない。フルート奏者である瀬尾和紀がこの日の演奏会のためにわざわざ室内楽版を作ったものであり、もちろんこの日が初演となった。あらゆる交響曲の中でもとりわけ長大で、大編成のこの作品を、室内楽のために編曲するというのは、ずいぶん無謀に思え、あえて言えば下手物とさえ思えた。しかし、いざ演奏が始まってみると、なかなか良い仕上がりで、良い意味で期待を裏切られた。わずか12名の奏者による演奏であっても、マーラーはマーラーである。むしろ作品の構成が露わになり、新たな発見があった。第4楽章のアダージョは、室内楽の美質がよく現われ、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いているような気すらした。コーダの美しさは、なんとも例えがたい。聴衆の拍手喝采はなかなかやまなかったが、演奏者たちが聴衆よりも喜んでいるように思えた。

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