41期生のM・Tです。
今回は自主練習の弊害について話したいと思います。
「自主練習の弊害」などと言うと、意外に思われる方が多いでしょう。
ところが、練習の位置づけを間違ってしまうと、「労多くして功少なし」になってしまうということに最近気づかされました。
コロナ禍にある間、自分と同じような状況だった方もいらっしゃるのではないでしょうか‥。それはウイルスの感染拡大の影響や、職場の人手不足による勤務体制の変化などにより、この半年ほど授業に出席できていなかったことです。
せっかく週3コースで通い、全課程の三分の二ほど終えていたのに、終盤で足踏み状態になってしまったのです。
しかし、表現技術の向上を停滞させるわけにはいきませんでしたから、出席できない間は、わずかの時間でもほぼ毎日、発声や滑舌の練習をしました。また、様々な文章を読みながら、それぞれに見合う「音声」をイメージすることもしました。
すると、練習を積み重ねてゆくにつれ、滑舌の苦手な部分が徐々に改善されたり、文章を読みながら表現の仕方が浮かぶようになったりし、次第に自信がついていったのです。
そして、ようやく周囲の状況に落ち着きが出てきたので、半年ぶりに授業に臨んでみました。
ところが、予想したのとは違う、自分の実力の現状を知ることになりました。
録音された自分の読みを聴いてみると、確かに滑舌は悪くはなかったのですが、かと言って良いというわけでもありませんでした。また、声も半年前と比べて改善されたという感じでもありませんでした。さらに、文脈に応じた表現にも気づきや配慮が足りていませんでした。
塾長に何箇所もご指導いただいたのは言うまでもありません。
このような結果になったのは、もう皆さんもお分かりかとは思いますが、これまでの練習がいわゆる「自己満足の練習」になっていたからです。
普段、運動の指導をさせていただく仕事をしているのですが、ご利用者様に基本のフォームを教えても、しばらくすると9割以上の人が自己流のフォームになってしまうということがあります。
これは、覚えたことを忘れてしまうのと、やりやすいやり方、つまり、楽な方を体が望んでしまうのが原因です。全く自分もこれと同じだったのです。
授業内容はすべて、プロになるための基本の事柄ですが、毎回、毎回、どれもこれも難しく、しかもきつくて、楽ではありません。
このことからも、やってきた練習が大してきつくなかったとすれば、基本とは違うことをやってきたことになるのです。
あらためて、基本を身に付けるには授業に全力で取り組み、教わったことを忘れないうちに復習することだと思い知らされました。
また、授業は歯科定期検診と同じで、歯の状態(基本)や磨き方(練習方法)をチェックするような、「自分の現状を確認する役目」があることもわかりました。
あともう一つだけ付け加えるなら、「授業」は「試合」の要素もあります。実戦に近い状況を作ってくれるからです。実戦をせず、練習だけで上手くなれる人はいないでしょう。
結論としては、「授業=基本」あっての「自主練習」だということになります。
これを肝に命じて精進してゆきたいと思ったのでした。