
(私が見た)長塚圭史の舞台の中で過去最高!!!
ネタバレします~
(あらすじ)※シス・カンパニーHPより
大恐慌の嵐が吹き荒れた1930年代のセントルイス。
その路地裏のアパートにつましく暮らす3人家族がいた。
母アマンダ(立石凉子)は、過去の華やかりし思い出に生き、
子供たちの将来にも現実離れした期待を抱いている。
姉ローラ(深津絵里)は極度に内気で、
ガラス細工の動物たちと父が残した擦り切れたレコードが心の拠り所だ。
父親不在の生活を支える文学青年の息子トム(瑛太)は、
そんな母親と姉への愛憎と、やりきれない現実への閉塞感の狭間で、
いずれ外の世界に飛び出すことを夢見ている。
ある日、母の言いつけで、トムが会社の同僚ジム(鈴木浩介)を
ローラに会わせるために夕食に招待する。
この別世界からの訪問者によって、惨めだった家族にも、
つかの間の華やぎがもたらされたかのようだったが……。
◆◇
平成24年3月26日(月)、『ガラスの動物園』(inシアターコクーン)を観る。
もともとチケットを買う予定もなかったのだが、
売れ残りが多数出ているのか、舞台側から格安で再販売しますよ、とのお知らせがあり、
40%オフくらいになっていたので買ってみた。
あまりいい席の番号ではなかったのだが、
いざ行ってみると、そんなことは全く気にならない、とーってもよい席であった。
この物語は、かつて家を捨てた息子トムが、観客に向けて過去の出来事を語りかける、
「追憶の芝居」という形で進行する。
世間から取り残されたように生きる、母、姉、そしてトム、の3人家族の姿が、
「過去」と「現在」の両方に存在するトムの視点から語られ、大変技巧的な作品になっている。
この原作のテネシーウイリアムズ氏の一番有名な作品は、
「
欲望という名の電車」である。
この作品、私、スキじゃなかったんだよねえ。
暗い!こわい!きもちわるい!の三拍子で、
とにかく救いもないし、閉塞された空気に、息継ぎをすることもできず、
苦しみばかりが私には残った。
この『ガラスの動物園』も、
「欲望という~」と同様の暗さ、こわさ、気持ち悪さ、閉塞感が備わっているのだが、
ところどころに抜け穴が用意されており、ふー、と深く呼吸することができるのだ。
そして時々、あたたかくなったり、じっと見守ってみたりもできる。
登場人物のどいつもこいつもダメ人間だが、愛おしく思い、同情し、
そっと寄り添いたくなる瞬間が存在するのだ。
誰しも一生、逃れられない「家族」という名の鎖。
トムはその鎖から逃れようと静かにもがく。
もがけばもがくほど、家族という亡霊にからめとられていく。
鎖から逃れ、自由にあこがれる心と、母と姉を捨てることの罪悪感とがせめぎあう日々。
そして母という名のカゴに抱きすくめられている姉。
姉は、足に軽い障害をもっていることをコンプレックスに思い、
人とうまく接することができないことを恥じて生きている。
弟と母がいがみあっているのも悩みの種だ。
足の悪い、社会不適合の姉の将来を気にするあまり、行き過ぎた行動をしてしまう母。
三者三様、それぞれの思いがすれ違う。
そんな小さな小さな黒い3つの塊に、すっと入ってきた鈴木浩介演じるジム。
彼の存在は、悶々としていた私にすーっと新鮮な空気を取り込んでくれるものであった。
それは私だけではなかった。
舞台上の、母、姉、そしてトム。
皆、彼を、ひとすじの光、まぶしいもの、自分たちを解放してくれる存在と信じた。
実際、ジムがやってくる直前の、深津絵里演じる姉ローラのはんぱない引っ込み思案ぶりに、
私はイライラを通り越して、この人、なんかおかしいんじゃないの!?
きもちわるい!!!!!
と、私の心には憎憎しい嫌悪と憎悪があふれていた。
それだけ深津絵里の演技がすごかったってことで。
深津絵里については、ちょっとだけここで文句を。
すごーく上手なんですけど(特に後半のジムを前に恥らう演技とかすごすぎて泣けた。)、
ちょっと障害をもった女性、とか
情緒不安定な女性、とか、
おつむの弱い女性、とか、そういうキャラクターをすることが多い気がする。
私には、『
ベッジ・バートン』の記憶が新しいのだが、
同じような演技・・・に見えなくもなく・・・。
で話はもどりまして。
ちょっと常軌を逸した姉ローラも、ひとすじの光であるジムに少しずつ打ち解け、
恥じらいながらもダンスをし、心をゆっくり溶かして行く。
ジムもとても優しく、温かく、ちょっと熱すぎるけれど、そこがまたローラにはまぶしい。
自分を救い出してくれるんじゃないかって、期待しているようであった。
母と娘、という複雑怪奇な、鎖のような腐れ縁をほどいてくれる、第三者。
そしてその第三者の存在が、トムを母娘の縁に巻き込まれる「家族」という亡霊から
自由にしてくれるんじゃないか、と思った。
このジムがまたいいんだ。
現在のトム、が語るように、ジムの人生のピークは高校で、
その高校の頃は将来は大企業の社長か、とまで言われるほどの存在であったのに、
その後はあれよあれよと下がりっぱなし、今や大した職につくこともなく、
トムと同じ靴屋の倉庫で配送係として働く毎日であった。
それなのに。
彼はちーっともしょげることもなく、自分の今を最低だ、とは思っているものの、
常に前向きで、卑下せず勉強して、もっとがんばるんだー!えいえいおー!
と底抜けに明るい。熱い。まっすぐだ。
私は『欲望という~』をみていたせいで、
このあと、姉さんがジムにレイプされちゃったりするんじゃないの!?ヒヤヒヤ・・・
と心配しながらみていたのだが、そんなこと全然なくて、
情緒不安定でちょっと人と違ったローラを見下すことなく、
むしろ人と違う独特の世界をもつ女性、として一種の憧れのまなざしで見つめる。
常に優しく、ローラを励まし、自信を与える言葉をクチにする。
が、ジムは・・・婚約者がいた。
ローラを鳥かごから連れ出してくれる存在にはならなかった。
母が安心してローラを預けられるジェントルマンにはなり得なかった。
トムが自由になるため、母と姉を押し付けられる存在ではなかった。
終わった。
不安定に安定を保っていたガラスの器が、パリンとくだけた瞬間であった。
ローラのかわいがっていた、ガラスのユニコーンのつのが折れたように。
母はジムを連れて来たトムを一方的になじる。
なんで婚約者のいる男をローラに紹介したのだ、と。
しかしトムも婚約者の話は知らなかったのだ。
ただ職場の同僚として、夕食でもどうぞ、と招待したのだから。
といくら説明しても、ヒステリーをおこす母は聞く耳を持たない。
終わりだ。
終わりにひた走っている。
心臓がきゅっとした。
お母さん!
そんな言い方したら、今度こそ、トムが出て行っちゃうよ!!!!!←私の心の叫び。
そんな叫びもむなしく、トムはその日を境に出て行った。
自由をもとめて。
家族という鎖から逃れるがごとく。
そして姉は、母という鳥かごに抱きすくめられたまま・・・。
現在のトムは泣き叫ぶ。
姉さん!!!
姉さん!!!
この腐れ縁はどうにもできないよ!!!
姉さん!!!
放浪を続けるトムではあったが、体は自由になっても、心にはいつも家族がのしかかってくる。
障害を持った姉を、いつも気にかけていた。
ちっとも自由なんかじゃなかった。
解放なんてされなかった。
姉さん。姉さん。
追憶は音楽とともにある。という台詞のままに、トムの思い出は音楽とともに語られて来た。
そして、密やかな音楽にのせて、悲しみのエンディング・・・・。
きゅ~~~~~~ん。
見終わった後のなんともいえない消化不良感は筆舌に尽くしがたい。
が、けして不満という意味ではない。
誰しもが心の底にもつ「家族」に対するもぐもぐとした感情を、
自分なりに消化しようとするのだが、うまく消化できないのである。
このトムの家族と、自分の家族を重ねたり、誰かの家族を重ねたり、
そしてはがしたり、自分の心と記憶と舞台を折り合わせる作業をしているうちに、
さらに、もぐもぐもぐもぐしてくるのだ。
まるでどうにも抜けられない、出口の見えないトンネルに入ってしまったように。
どの役者さんもすばらしかった。
瑛太も絵里ちゃんも立石凉子さんも鈴木浩介さんも。
この4人でなければ、そしてこの演出家でなければ、
これほど繊細で、ちょっとおもしろくて、切なくて、
こんなに息の詰まるような舞台はできなかったであろう。
一番特筆すべきは、舞台美術。
セットがすばらしいのだ。
薄汚れた白い壁、白い床、白い扉。
真っ白でなく、灰色がかった古い古い白。
そして妙に舞台の奥が遠く、その奥に立つやたらデカイ瑛太。遠近感が狂いそうになる。
そんな薄汚れた白い絵画のようなセットの中を、するするとうごめくダンス集団。
トムの追憶を語る作業を手伝うかの如く、まさに手足となって追憶を演出するのだ。
そして照明。
これが、もう、いやー、すばらしかった!!!!
舞台序盤に、瑛太が舞台前方から後方に移動していく際、その姿を追うように、
ぽつん。ぽつん。と光を落としていく。
その光の固まりに、おお、と声をあげそうになる。
記憶の断片、過去の記憶が、ぽとりぽとりと光とともに語られるのだ。
すばらしい演出であった。
パンフレットによると、
舞台美術は二村周作氏(代表作は『
港町純情オセロ』『
ロッキーホラーショー』など)、
照明は小川幾雄氏(代表作は『
ザ・キャラクター』『
人形の家』『
叔母との旅』『
大人はかく戦えり』)
である。
どの舞台も全部覚えてる・・・
印象的な舞台というのは、
舞台美術も照明もだいたい覚えているし、人物がどう動いていたか、などもはっきり覚えている。
長塚圭史という人をちょっとナメてた。
そりゃ、一流なんでしょうが、私とはちょっと合わないかも・・・と思っていたのだが、
この舞台の演出をみて、え!?あれれ?!と思わず目を見開いてしまった。
あもちゃん、瞳孔、開きっぱなし。
これはちょっと、今後も期待である!!
最後に原作者のテネシーウイリアムズについてメモ。
アメリカ・ミシシッピ州コロンバス生まれ。
本名は、トーマス・ラニア・ウィリアムズといい、通称は、本作の語り手と同じく「トム」。
ペンネームの「テネシー」は、学生時代に、その南部訛りから付けられた愛称が由来。
もともとはテネシー州の名門であったというウィリアムズ家だったが、曾祖父の代に没落。
父親コーネリアスは、靴販売のセールスマンとして生計を立てていた。
裕福な南部の牧師の娘として生まれた母エドウィナは社交的な性格であったが、
結婚後、夫が職業柄不在がちだったため、
幼い3人の子供たち(2歳上の姉ローズ、“トム”、7歳下の弟デイキン)と共に実家に身を寄せる。
この時期にジフテリアに罹ったトムは、ほぼ1年の闘病生活を経験。
その内向的な性格が育まれたというが、
このコロンバス時代を人生で最も幸せだった時期、と後に書き記している。
12歳のとき、父の栄転で一家は本作の舞台であるセントルイスに移住。
南部での明るく穏やかな生活から、中西部の都会暮らしへの環境の激変は、
父母の不仲や父親との確執も相まって、益々トムを自己に閉じこもらせ、
その鬱積したエネルギーを文筆へと向かわせた。
1929年、ミズーリ大学ジャーナリズム学科に進学するが、折からの大不況により中退。
父と同じ製靴会社に就職し、健康を害し退職するまでの3年間を過ごす。
ここでの閉塞感に満ちた年月で、社会のシステムや労働者階級の過酷な現実を
否応なしに体験することとなり、本作の「トム」の境遇のみならず、
後の作品群に強く反映されていることは言うまでもない。
その後、1936年にワシントン大学に進み演劇活動に熱中するが中退。
その後、3つ目の大学であるアイオワ大学に編入し執筆に没頭するが、
その時期に、父親の決断で、姉ローズがロボトミー手術を受けさせられ
廃人同様となったことを後で知り、生涯、その悔恨の思いを背負い続けることとなった。
1938年にようやく大学を卒業するが、定職にはつかず、
多くの一幕劇、詩、短編小説を書きながら放浪生活を続け、
その間に何度か暮らしたニュー・オーリンズも彼の作品の舞台として多く描かれている。
彼の作品が初めてプロの劇団に上演されたのは、
1940年初演『天使たちのたたかい』(後に『地獄のオルフェ』として改作)で失敗作と言われたが、
ハリウッドでシナリオライターをしていた時代に書いた『ガラスの動物園』が
1944年にシカゴで試演されると一気に注目を集め、1945年にブロードウェイに進出。
1947年発表『欲望という名の電車』、1955年発表『やけたトタン屋根の上の猫』で
2度のピュリッツァー賞に輝き、アメリカ現代演劇を代表する作家としての名声を手中に収めた。
成功後、姉ローズを最高級の療養施設に移し、生涯、その面倒を見続けたという。
その他の主な作品には、
『バラの刺青』、『去年の夏突然に』、『イグアナの夜』、『ロング・グッドバイ』などがあり、
映画化された作品も多い。
この『ガラスの動物園』は、テネシーの自叙伝的作品だったのね・・・・
なんだか余計にじーん・・・・
姉さん、姉さん・・・かあ。
愛、だなあ。
むかしむかしの話だが、
私には母という鳥かごから連れ出してくれたヒトがいたけれど、←本当に感謝してる。
トムにもローラにもそんなヒトがいなかったのだな。
(母の名誉のために言っときますが、
うちの母はちょっとおかしいが、アマンダみたいな女性じゃないし,あんなにひどくない。
が、娘にとって母親というものは、鳥かごみたいなもんなんです。
真面目であればあるほど、その鳥かごは頑丈だ。女性ならわかると思う。この意味が。)
渋谷の街を歩きながら、
トムやロボトミー手術を受けさせられたローラ(ローズ)を思い、空を見上げると、
なんだか無性に泣けてくるのであった。
どうでもいいけど、
ロボトミー手術って、この時代の精神病患者はみな受けるものなんでしょうか?
作曲家のR・シューマン(私の大好きだった作曲家)も晩年、ロボトミー手術を受けたような。
格安で購入して、最高の舞台が見られて、最高の夜でした。
姉さん、姉さん、と一人で感慨にふけりながら、渋谷の夜を歩いていた。