アメブロ、Twitter、FaceBook、Mixi、LINE、Google+・・・続々と登場するSNS。
そして、それらの利用をますます助長させるスマホの普及。
自分の趣味・趣向、居場所、読んだ記事、写真、友人関係、IPアドレスという名の足跡までも毎日さらし続けて、
一体私はどうしたいのか?どこにいってしまうのだろうか?
TwitterやFaceBookでは「ホニャララなう」などと、ご丁寧に写真までつけて自ら居場所を明かしながら日々生活を送る。
みんなやっているからと誘われるがまま、次々といろんなSNSに手を伸ばし、
すると仲間の動向が気になって、知らず知らずのうちにモニタリングしあっている。
仲間と違ったことをすると、すぐに仲間内のデファクトスタンダード(業界標準)から外れて浮いた存在になる。
置いてけぼりになることが不安だから、モニタリングがさらに活発になる。
その結果、同質化した集団が生まれる。
見られている、監視されている感が強くなればなるほど、
出る杭になることを恐れ、目立った行動を控え、自己主張を抑える。
まるで集団いじめを恐れている子供のようである。
世の中の変化が激しいから、ネットを駆使して様々な分野の情報を収集するが、
モニタリングによってどうしても他人と同じ行動をとる。
方向性が定まらず、世の中の空気を読むことだけに右往左往する。
失敗したくないからと、食事に行くのも買い物するにも、クチコミという他人の評価・評判ばかりを気にする。
他人の評価・評判を大事にしているからこそ、逆に自分自身の評価・評判も気になって仕方なくなる。
消費がなかなか盛り上がらないことの一つに、このソフトなモニタリングが影響しているのではないかと思う。
若い世代のデファクトスタンダードは「車を持たない」「海外旅行をしない」「ブランド品を身につけない」だ。
一昔前なら仲間から羨望の的だったが、今ではそうではない。
むしろ目立つことは今の監視社会では逆に働く。
共感、絆という言葉が耳あたりよく聞こえるのは、同質化した社会で成り立ちやすい。
その中で他人とは違った個性を得ようともがいてみても、似たような情報を共有しているので
行きつく先は結局同じだったりする。
結果として活力がそがれた沈滞した社会になる。
無限の可能性を秘めるネットのはずだが、無線という目に見えない線で我々をがんじがらめに縛っているように思える。
一方、自分の思い、自由な意見がそのまま伝わるブログ。
しかし最近はブログとSNSの連携が当たり前になり、とくにFaceBookの登場で、その匿名性はもはや意味をなさない。
実名を晒して書いているのとほとんど等しい状態では、本音はなかなか書くことができない。
監視社会ではいつの間にか個性が封印され、だれも傷つけない、当たり触りのないことしか書かなくなる。
基本的にいい人を演じ、いいことを書き、都合の悪いこと、ネガティブなことは極力書かない。
それが癖づいてしまうと、大事なことをきちんと伝えるためのプレゼン能力、討論するディベート能力すら衰えてゆく。
そのくせ、大した内容もないのに足跡が気になる、ランキングが気になる、いいねが気になる。
評価・評判という小さな数字の積み重ねが気になって仕方なくなる始末。
しかし、この移りゆくネット環境やSNSのために、どれほどの時間と労力を費やさねばならないのだろう。
リアルな人間関係でもつまずいてばかりの私が、ネット上で上手にふるまえるわけもなく、
必死にもがく様は、傍から見れば滑稽にさえ見えるだろう。
SNSが登場してすべての情報が個人とリンクされてゆくこの世界、それがあまりに軽薄に、そして複雑になりすぎてしまった。
便利さとは裏腹に、大事な何かを失ってゆく。。。
自分で考えなくなることが恐ろしい。
失敗を恐れて何もできないことが恐ろしい。
知らない間に誰かを傷つけていることが恐ろしい。
人はなぜ、これほど軽薄かつ複雑なSNSの人間関係を大切にしようとするのだろうか?
それは日本の将来、自分の将来に不安を感じるからこそ、
SNSという得体の知れない大きなコミュニティに身をおくことで、
本音がオブラートで包まれた誰も傷つかない状況の中で
「安心」というぬるま湯に漬かっていたいだけではないのだろうか?
SNSの人間関係ほど、浅くもろいものはないということは、身に染みてわかっているというのに。。。
そんなことでアップアップしたくない。
こんな相互監視システムからは脱却したい。
もっと自由に、自分に自信をもって人生を歩みたい。
篠原涼子のオリックスのCMには、ずいぶん共感を覚えた。
見えない人の顔色ばかりうかがって生きることに嫌気がさしてきた、アラフォーのつぶやきでした。
※このブログは日経新聞のコラム、「ニュースこう読む」の記事を参考にさせていただきました。