小川宏ショー | VBCテレビブログ放送

小川宏ショー

フジ系列+日テレ系のHTV広島テレビとTBS系のIBC岩手放送、tysテレビ山口で'65年5月1日から'82年3月31日迄延べ17年間にかけて生放送された朝のワイドショー番組を特集!

総合司会に元NHKアナウンサーの小川宏さんを起用、'65年5月1日に放送開始。先発のNET(現・テレビ朝日)の「モーニングショー」(当時は故・木島則夫さんが司会)に続く主婦向けワイドショー番組でもありました。当初は事件等を扱う情報番組でしたが、視聴率が「モーニングショー」に及ばなかった為テコ入れとして、"初恋談義"、"シーソー対談"等のサロントーク型中心の番組になるとたちまち人気番組となりました。

「モーニングショー」の"泣きの木島"、NET「アフタヌーンショー」の"怒りの小金治"(桂小金治)に対して小川さんは"春の小川"と呼ばれ、小川さんのアットホームで軽妙洒脱な司会が人気を呼びました。また、朝の番組にもかかわらず、大物ゲストも多数出演したのも特徴的。

しかし'80年頃からマンネリ傾向が出始め、「モーニングショー」が巻き返しを図り、さらには、TBS系「モーニングジャンボ奥さま8時半です」、日テレ系「ルックルックこんにちは」に視聴率を奪われ、テコ入れで事件・芸能ニュースに衣がえをしましたが(ニュースの斬り方が甘く不評だったとの指摘もあった)、番組内容に合わなくなり、ついに'82年3月31日に最終回を迎え、17年・通算4451回という当時の世界記録を残しました。これは当時の生放送番組による同一司会者での記録でした。この記録は後に同局系の昼のバラエティ番組「笑っていいとも!」のタモリさんが記録を塗り替えました。

最終回には歴代のアシスタントや故・京塚昌子さん、王貞治さん、美輪明宏さん、故・高峰三枝子さん、故・石原裕次郎さん・長嶋茂雄さんという大物スターの特別対談企画や、"シーソー対談"に演劇界の大御所・故・杉村春子さんが登場するなど、平日朝の時間帯ではまず考えられない豪華なゲストが登場し、小川さんの長年の労を労ったという。

15年以上に渡って放送された番組ではありますが、生放送かつVTR規格が2インチで機器・テープ共に高価だったことや著作権法などの絡みで番組の資料保存が制約されていた事情もあり、フジテレビのアーカイブには僅か20回前後しか現存していないとか(泣)尚、数々の有名人が駆けつけた最終回は保存されているらしい・・・。

番組初期にはゲストを呼んで朝から酒を飲ませてトークするという内容のものを放送していた事がありました。テーマは「酒の失敗談」でしたがこれは川柳川柳(当時は三遊亭さん生)が師匠の三遊亭圓生との関係が疎遠になるキッカケとなったと言われています。川柳によると師匠の自宅の玄関で泥酔した勢いで脱糞したという一件を「もう自宅が建て直されているからいいや(※ 当時師匠の自宅は建て直されていたという)」とばかりに酔った勢いでしゃべってしまったがその事がスタジオ裏にいた師匠の耳に入り「どうも…誠に怪しからん。呆れた奴でゲスな。」と終了後こってり油を絞られたとの事。もちろん耳に入った際には一気に酔いが醒めたとか。

最晩期には主婦を集めて一つのテーマについて小川さんらが講義をするという名目のコーナーもありましたが、その際に取り扱われた内容は「夫を早く死なせる方法について」など、規制の厳しくなった現在の放送界からみれば過激といえるものも幾つかありました(泣)

'70年、離婚率の急上昇に着目し、"離婚式"のコーナーが企画され、4月2日の放送で参加を希望する夫婦を募集する告知を行ったものの、応じた夫婦が1組もなかったため、企画はそのまま立ち消えになったとか(笑)

メイン司会の小川さんが、NHKを退職して同番組の司会を引き受けたのは、「NHKを辞めてこの番組の司会者になれば、ずっと東京にいられて、転勤族を卒業できると思ったから」と語っている。NHK時代に何度か転勤を経験している小川さんは「あまりあちこちに引っ越すのは子供の教育に良くない」と考えていたとか。

スタート時('65年5月)の時の司会者陣は小川さん・木元教子さん・露木茂アナのトリオ、'66年12月に木元さんが産休に入ったため、女優であった芳村真理さん、次いで歌手の田代美代子さんと交替、最終的に女性アシスタントは12代交替しました。尚、最も長期にわたりアシスタントを務めたのは、元NHKアナウンサーの松村満美子さんの4年でした。

また小川さんが渋滞に巻き込まれて、同番組の生放送に数度遅刻したこともありました。ある回では最後のコーナーにようやく間に合って、ゲストの永六輔さんらから容赦ないツッコミを浴びたこともあったとか。

前田武彦さん(マエタケ)がゲストで出た際、「台本どおり喋っても面白くない」(当時のマエタケは「フリートークの天才」という異名を取るほど、トーク技術については高い評価を受けていた)というマエタケの発言に触発され、小川さんも全編台本なしで番組進行を行うという離れ業をやってのけたことがありました。

露木アナはスタート当初より16年近くにわたり、小川さんのサポート役として番組を支えました。'69年、フジテレビと同局の労働組合の労使交渉が混迷化した際、露木アナはその労組の役員を務めており、このことが引き金となって当初は'70年3月いっぱいで番組を降板する予定となっていましたが、同日放送終了直前になって「よど号ハイジャック事件」発生のニュースが流れ、露木アナはその翌日から現場レポーターとして出演を継続。同事件の報道が一段落ついた後、司会者として正式に続投となり、'81年3月のリニューアル時まで長きに渡り出演しました。

露木アナの後任の男性サブ司会者として'70年4月から抜擢されたのが、5年後輩の山川建夫アナでありましたが、司会抜擢早々、大阪万博の現地レポートの最中に当時、反戦運動が世界各地で盛んになされていたベトナム戦争の話題を引き合いに出しながら同万博の盛況振りを伝えたことを故・鹿内信隆会長、故・浅野賢澄社長など当時の経営陣が問題視。露木アナ復帰後は徐々に出番を減らされ、最終的には僅か1年足らずで同番組の司会を降板しました。最終司会の日には自身の番組降板につき、「自らの意思で降板するわけではない。降板させられるのだ」と自らの司会降板が事実上の「解任」であることを告白。その後、暫くして同局の午後のワイドショー番組「3時のあなた」でメイン司会者の山口淑子さんのアシスタントにも起用されましたが、山口アナのベトナム戦争現地レポートの映像を酷評したことが故・鹿内会長や故・浅野社長等経営陣の逆鱗に触れ、人事異動でアナウンサー職を追われることとなってしまったという(泣)

'75年から'77年までは松倉アナが男性サブ司会を務めていました。松倉アナは同時期に「3時のあなた」のサブ司会も務めていました。

'79年7月からは露木アナと新たに本間アナが小川さんのアシスト役を務め、末期の'81年4月からの1年間は当時若手の陣内誠アナ、NHKから移籍してきた頼近美津子さんをアシスタント司会者に迎え、番組内容を事件・芸能ニュース中心の形にリニューアルして放送されました。


長らく続いたフジの朝の看板番組、皆様は憶えていらっしゃいますでしょうか?





$VBCテレビブログ放送-結構ひょうきんだったりして

長らくフジテレビの朝の顔だった小川宏さん。番組降板後は"うつ病"に苛まれる等ご苦労されました・・・(泣)





河合奈保子さんがゲスト出演された回をどうぞ(一部携帯電話からは御視聴頂けません)






河合奈保子さんがゲスト出演された回の続きをどうぞ(一部携帯電話からは御視聴頂けません)