文体 | 書籍編集者の裏ブログ

文体

純文学を書く人には文体を身につけて欲しいという話。


文体は、純文学の世界では、最重要の要素といっていい。要素どころか、すべてといってもいい。

「文は人なり」

といういう言葉があるが、まさにその通り。文体は書く人そのもののなのだ。書き手の書き手としての人格のすべてがそこに宿らなくてはならない。そうしたもの以外、文体とはいえない。文体とは、書き手の血であり、肉であり、脈動であり、吐息であり、体温なのだ。

昔の作家のエッセイには、
「文体を獲得するのに、2000枚の習作をものした」
 とか、
「この習作で、はじめて、『文体が出来たね』と褒められた」
 とか、
昔の文学賞の選考委員の選評では、
「この人は、未だ、文体というものを獲得できていない。まず外した」
 とか、
「まずは、文体を身につけてからだ」
 などという言葉が乱れ飛んでいた。

「文体の獲得」=「プロの純文学の小説家」

ということなのである。
それは、公理と思ってもらっていい。

 さて、文体とは何か。
 それは、おそらく、


「揺るぎない精神統一の状況下で書かれたオリジナルの小説文章」


 のことであろう。

「揺るぎない精神統一」
は、精神に「意識」と「無意識」があるとすれば、この両者が渾然一体となった状況のことである。

私は、大学を出て、すぐに文芸編集者になった。
ある老大家に、
「文体って何ですか。どうやったら身に付くのですか」
 と聞いたことがある。
その作家は、私小説一直線の地味ながら尊敬されている作家だった。当時、80歳を超えていた。私は若さを武器に、身も蓋もないそんな質問を投げかけた。彼は誠実に、教えてくれた。
「私は学生時分、師匠(この師匠は文学史上、燦然と輝く超大家だ)に何枚も何枚も小説を見せた。しかし、一言の批評もなく没ばかりだった。ある時、無言で、ある雑誌に推挙してくれた。その作品が特別出来がいいとは、自分には思えなかった。師匠に聞いても教えてくれない。師匠の友人の作家(この人は当時の超流行作家だ)が師匠宅に遊びに来ていたので、私の小説がはじめて載ったその雑誌をその作家に差し上げた。その作家は、一読して、『冒頭から14行だけは、小説になっている。文体がある』といってくれた。私はそれから、今まで書いた膨大な没原稿とその14行の文章を読み比べて、文体について考えた。言葉には簡単にできないが、何となく分かってきた。それは小説そのものが分かるという感動的な理解だった。君の問題意識がそこにあるのなら、戦前のその雑誌を入手して、冒頭の14行を読んでみなさい」

私は、ちょうど、その作家の全集を担当していた(新入社員にいきなり全集担当させるというのも今思えば、凄い話だ。といっても4巻からだが)。だから、その雑誌のコピーも編集部にあったのだ。食い入るようにその14行を読んだ。15行目以降との違いを入念にチェックした。劇的に感じるものがあった。

また、その直後くらいだったろうか、50代の現役バリバリの純文学作家にゲラを返して貰いにある喫茶店に行った。そこでその作家と多少のやりとりをした。そこで、若かった私は、純文学雑誌の新人賞の選考委員もされているその作家にこうした感想を言った。
「先生、プロとアマの違いが先生のこの長篇を読んで分かるような気がしました」
「何が分かったのかね」
「小説を書くというのはある種、精神統一した状態だと思うんです。トリップしているといってもいいと思います」
その作家が相づちを打ってくれると思ってちらっと顔を見たが、無表情に、私の次の言葉を待っていた。
「で、素人は、昨日の精神統一と今日の精神統一の座標点がずれるんです。昨日トリップしながら書いた、今日、トリップしたら、昨日の状態とまったく同じところ行けなくて、書く人格がずれているのです」
ちらりと作家の顔を見た。同じく無表情に次の言葉を待っていた。
「先生の今回の長篇は、見事に行間の空気や作品世界の季節感、空気の濃度、登場人物の体温、すべてが300枚全編にわたって連続性があるんです。統一された場がそこにあるんです」
作家は、一躍、破顔してこういった。
「それが分かってくれるのか。それが分かるのか。そんなことをいう編集者は初めてだ。そこが分かるとは素晴らしい。僕なんかは、棒高跳びのバーを超える状態だと思っているんだ。書くと言うことは。日常はグランドに立っている状態だ。助走して、エイヤ!と棒を付いて飛び上がる、そのもっとも高く飛んでいる状態、その間に書くんだよ。君みたいに若いときは、その状態が一日10時間だって持続した。60歳も近くなると、一瞬だよ。一瞬の間にしか書けない。翌日また、同じようにウォーミングアップから始まって、手に松ヤニの粉を付けて、助走して、飛び上がらないと行けない」
「同じ世界を長期間にわたって創造し続けるというのは、その飛んだ高さが常に一緒だということなんでしょうね」
「そういうことになるだろうね」
 その後、私は、ずいぶんその作家にかわいがってもらった。

 このふたりの純文学作家のふたつのエピソードから、私の文体探しは始まった。
 その一応の結論が、前述の、
「揺るぎない精神統一の状況下で書かれたオリジナルの小説文章」
 ということなのだ。
 そのトリップした状態は理性的な状態ではないので、ストーリーがどうの、どんでん返しがどうのといった物語の骨組みに思いを致せるほどの冷静な状態ではない。したがって、文体とエンタテインメント的物語作りは、相互不可侵的な関係にあるといえる。
 漱石が、「虞美人草」の新聞連載を開始するときに、こんなことを書いている。
「人物は決まったが、物語は決まっていない。私の頭の中で登場人物達が勝手に動き出す。私をそれを写していくだけだ」
 文体があれば、物語は自然に流れていくのである。それが純文学なのだ。
 芥川龍之介は短篇ばかりをものしたが、彼は、同じトリップを翌日にできない人だったのかもしれない。一日で浮いていられる滞空時間いっぱいいっぱいで書き果せられる分量のみしか完結させられなかったのかもしれない。