2009-08-27 09:35:18

エヴァンゲリオン新劇場版:破

テーマ:EVANGELION
この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」という映画、驚くべき傑作である。
公開は、6月27日~だいたい8月末までのようだが、わたしは、すでに、9回、劇場に足を運んだ。(たぶん10回みるだろう)もともとネタバレがキライなので、今はまだ詳しくは書かないが、何度見ても心を深く動かされてしまう。
90年代のエヴァもそうだったが、時代と社会のもっとも中核にあるテーマにコミットする表現の強さをもっているのだと、思う。だから、これは、たんに好みの問題ではない。だれもが魅せられ、感動させられる作品といえるだろう。
(もう少し時間がたったら、ちょっと追記してみよう)


■追記■ 2009.9.17
それでは、ちょっと追記してみよう。
まず、訂正。
上記の「公開はだいたい8月末まで」のようだといったのは間違いだった。近くの映画館でスケジュールから一時的にはずれたのを見て勝手にそう思い込んでしまった。どうやら、9月中~下旬までのところが多いようだ。申し訳ない。
ということで、私は結局のところ、11回、観た。
この作品は、映像、音響ともに情報量が圧倒的で、自分が受けた感慨をそうそうかんたんには言い尽くせないのだが、とりあえず、私にとってもっとも重要とおもえる点から書き留めておこう。
たしか、序の公開前だったと記憶するが、エヴァのスタッフのだれかが、旧作を総括して「あれはまちがいだった、われわれは観た者が元気になれるようなものをつくるべきなのだ」というような意味の発言をしていたとおもう。
序はエンターテイメント性を強く打ち出すことで、その言葉を裏付けていたように感じたが、今回の破で、その言葉のほんとうの意味を知ることとなった。
この作品は、時代と社会にふかくコミットしている。表現の奥にその核心部分があるからこそ、すべての映像と音響の表現が観るものの心をつかみ、揺り動かすのである。
では、どこがどうそんなにすごいのか。それを旧作との違いを見ながら書いてみよう。

※※※※ 以下ネタバレ注意!! ※※※※

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まずストーリー上の最大のちがいは、だれもが劇場で凍りついた(!)ように、エヴァ3号機の起動実験において、トウジではなく、アスカが3号機に乗ることである。たしかにそうだ。わたしも、初号機がエントリープラグを噛み砕くシーンでは悲鳴をあげそうになった。だが、私見、破という作品の鍵となるより重要な「旧作との違い」がまた別のところにある。それは、アスカが加持に惹かれることがなくなった点である。加持からの社会見学の誘いの話を聞かされた際「あたしパースー」と言って断ろうとしたとき「あれ?」と思った。そしてそのまま、アスカはストーリー上、加持と会話を交わすことすらなく物語は進行するのである。
初めて破を観て、これ以上ないぐらいに感動した後、わたしはこの作品のストーリーを思い返し、この「違い=設定上の変更点」にたいそう感心した。
アスカは加持(大人の男)に惹かれない。
ではアスカの心はどこへ向かうかといえば、シンジなのである。
第8使徒(サハクィエル)との戦いにおいて、エヴァ3機による協同作戦を経験したアスカは、プライドを傷つけられるのと同時に、同じ目的への共同作業を通じて、他者に引かれ、惹かれあう心に目覚めてゆく。
一方、レイは、シンジの作った味噌汁を飲み、弁当を食べることをきっかけとしながら、やはり急速にシンジに惹かれてゆく・・・。
そう、つまり淡い三角関係が形成されてゆくのである。
この三角関係=惹かれあい信じあおうとする心が、今作の全体を包み込んでいる。ここに根本的な旧作との違いがある。
人間の善性と信頼感を前面に押し出した表現が、旧作との比較において、一種、エヴァがエヴァを否定しているようにさえ私には感じられる。
ここに、90年代には90年代のエヴァという作品の持った意味というものがあり、そして今、新世紀=21世紀という時代における新たなエヴァが持つ意味が、またあるのだ。きっと。
わたしがあまりにも傑作だと騒ぐせいで身近な知人のうち10人近くの人間が、この破を見るために劇場に足をはこぶこととなったが、皆、一様に面白いと言った。言ったが、しかしそのトーンにはやはり人それぞれちがいがあった。中に、よくわからなかった、という感想をしきりにもらす人がいたが、おそらくそれは、旧作のイメージにとらわれ抜け出せないからであろう。わたしからすると、むしろ旧作は、新劇場版を産み出すためのプロトタイプであったといえるのでは、などとさえ感じる。(もちろん事後的にだが)
3号機の悲惨な事件が、今作において旧作とは比較にならないほどの強烈な印象与えるのもたんに主要キャラであるアスカが乗るという展開のためだけではなく、その下敷きとして人物同士の密接な関係性が巧みに描かれているからであろう。
その強烈さは別の観点からみれば、それが人間世界の実相であるからである、ともいえる。
好きあっていたはずの人間に裏切られ傷つけられることなど、いくらでもこの世の中に存在しているではないか。そのメタファーであるという解釈もありうる。
そして、シンジが、事件の後の憎悪から意志の強さを得て、ラストの
「綾波だけは(=アスカは傷つけてしまったが)絶対助ける」
というセリフにつながってゆく。
ひとつひとつの伏線がじつによく効いており、人物の心理の流れに無理がなく、ストーリーに一貫性を与えている。

シンジが助けに来たとき、レイは「私が消えても替わりはいるもの」という。しかし、それをシンジは否定する。

「ちがうっ綾波は綾波しかいないっ。だから今、助けるっ」

いつでも、おまえのかわりはいる。そのように扱われ、かんたんに仕事をクビになってしまう。それってまさにいまの時代社会ではなかっただろうか。旧作は「私が死んでも(消えてもではなく)替わりはいるもの」とレイが言ったあと、その言葉を肯定してしまうような展開であった。それを否定してゆくのが今作である。

綾波を助け出すシーンで使徒の中にうずくまるレイに向かってシンジは
「・・・来いっ!」と叫ぶ。
そして、綾波は振り返り、手を差し伸ばす・・・。
レイがただ受動的に一方的に助けられるのではなく、助けられる側に根強く存在しているはずの「あきらめ」を打ち破り、レイ自身の助かろうとする意思をひきだしてゆく・・・。
細かい演出だが強い印象を残す名シーンだ。

さて。

最後に観た際、映画館で告知されていたが、トランスフォーマー・リベンジをまた上映するらしい。HITしたからだろう。
だったら、この破も、再上映してほしい。DVDなんかではダメなのである。この映像と音響の体験は映画館の装置を使って観ないと。
もしやってくれたら、わたしはまた観に行く。何回でも。カネと時間の許す限りにおいて。混迷と閉塞の中で希望を失っているかのような社会が、ゼロ年代からテン年代(佐々木敦)へと向かって再生してゆく、そのために必要な生命力が、この作品の中に存在しているような気がするからだ。(もうひとつ破という作品の重要なファクターであるマリというキャラについて書きたかったのだが・・・また今度書こう。マリ、ぞっこんなんである)


■さらに追記■ 2009.9.18
昨日、追記したばかりだが、書きたい気分なのでさらに追記。
まず。
いつも観に行く109シネマズ・みなとみらいでは今日が破の最終日。
で、やっぱり観に行った。
ということで12回目。
もうこれでこの新劇場版:破を劇場で観るというのはさいごなのだろうという思いも手伝って、ほとんど嗚咽にちかい状態であった。
やはり何度観てもすごい。
で、マリである。
今作の冒頭、早くもマリの際立った性格設定が、見事な声優(坂本真綾)のパフォーマンスとともに噴出してくる。
「動いてる動いてる、い~なぁー、わっくわくするなぁ~!」
「♪しぃあわっせわぁーあぁるいて来ないーだーからあるいてゆくんだねー」
まずわたしはこの声優の見事さに惚れた。生き生きとしていて、微妙なニュアンスもさいこうに味がある。予測できない新しさ。生きること自体がうれしくて楽しくてしょうがない。そんな新たなエヴァの予感を全面的に展開するアバンタイトルのこのマリ登場シーン、なんど観てもつよく惹かれてしょうがない。
歌が水前寺清子の365歩のマーチというのも、マリらしい。
わたしはなんで、こんなにもマリがいいのだろう。
ということを考えてみた。
かんがえてみたのだが、しかしじつはあれこれ考える必要はないんであって、このマリというキャラの意外性、この作品における異質性の由来は、この映画のパンフレットにしっかり書いてある。わたしはその説明に全面的に納得するので、そのまま引用してみよう。

「画コンテ作業を進めていくなかで、僕(=鶴巻和哉監督:引用註)なりのマリ像を定義して描いていったわけですが、それは「いいかげんなキャラ」であり「ずるいキャラ」だったんですね。「卑怯」とは違う、まじめさとか、かたくなさの対極にある「ずるさ」というか「いい塩梅」という感じ。そうでないと既存のエヴァのキャラクターの中で埋没する、カブると思ってました。
庵野さんは前に「エヴァの登場人物は全部自分だ」という話をしていて、シンジだけじゃなく、加持もミサトも、カヲルやレイでさえ自分自身のある一面だと語ってましたよね。それゆえに、どのキャラも究極的には同じなんですね。表面上違う味つけをされているけど、その内面は実によく似ている。もしマリも彼らと同じだとすれば、そういう世界を壊す事なんてできないでしょう。だから、僕にとってマリはまじめさの対極にあり、そのふまじめさを自分の利益に使うような女の子なんです。」
(新劇場版第2部を『破』にした男・鶴巻和哉監督 ロングインタビューより)

なるほど、そのとおりだ。
破の公開前にマリのキャラ・デザインの絵を見ながら、これ、既存のキャラ、アスカあたりと同じようなキャラなんじゃないのかなぁ、だとしたら、なんか二番煎じみたいであんまり出す意味なくない?・・・などと想像していたが、そのあたりを作り手も十分に認識していてうまくそれを回避していた、ということだ。
このインタビューからもあきらかなように、旧作はすべてのキャラがあまりに「まじめ」だったのだ。そして旧作がそれゆえ内面へとふかく落ち込んでいく非常にシリアスな性質をもっていた、という見方をすることもできるだろう。この「まじめさ」が庵野秀明という一人の人間に由来するものであり、そこにまったく異質な要素としてマリというキャラを導入することでその「まじめさ」を壊してゆく、そのため庵野秀明という人間から離れていく方法を選択した・・・この時点で、破は傑作となる重大な要因を得たのだ。このインタビューを読むと、マリというキャラを作り上げていく作業には、庵野総監督が、あえて距離をおき、タッチしなかったことがわかる。
そういえば冒頭でマリが歌う365歩のマーチ、それはこんな歌詞だ。

「しあわせは歩いてこない」
「だから歩いてゆくんだね」
「一日一歩 三日で三歩」
「三歩進んで二歩さがる」
「人生はワン・ツー・パンチ」
「汗かきべそかき歩こうよ」
「あなたのつけた足あとにゃ」
「きれいな花が咲くでしょう」

仮設5号機があるく(?)シーンに見事にシンクロしているのだが、こうやってよく見てみると、なんとおどろくべき積極性の固まりのような歌ではないか。じぶんが幸せをつかむためには人生を構成している一日一日がすべてなのだ、土曜とか日曜とか関係ない、といっているわけだ。80年代バブル期、日本人が自分の実力を越えた肥大した自画像を描き、そしてその後それがはじけてしまった反動で落ち込んでいく・・・そんないまにつながる時代の流れが生まれる前の頃、日本人はこんな歌を歌いながらその底力を発揮してきたのだ。ワン・ツー・パンチ・・・一発あてたら、すかさず次のパンチを畳み掛けるように繰り出してゆく・・・そんなしたたかさを、強気の姿勢を、もともと日本人は持っているのである。
このたんなる「まじめさ」を越えて、自らの願いに向かって執拗に、したたかに、立ち向かっていく、そんなイメージがこの破を貫いている。この破という作品のもつ強靭さを、マリというキャラは導きいれる役割を果たしている(ように私にはおもえる)
別の言い方をするなら、マリ以外のキャラはつねにどこか、自分を省みて、省みることが過ぎてしまう傾向(これも庵野監督のもっている傾向性か)すなわち「対自的」な面をもっていると見て取れるのだが、マリはいつも「即自的」なのであり、自分をつねに何かにむかって進めていく生命力にあふれている。神経質ないまのこの時代にあってじつに魅力的である。(もちろんそこには単なるアホになるリスクがつねにあるのだが、そうならないのは、対自的な葛藤を乗り越えるか、折り合いをつけるかして、潜り抜けてきた強さを持っているからだという気がする、というのがわたしの解釈である)
つまり、マリというキャラがこの破という作品の核心部分にかかわる重要な存在であると同時に、エヴァという作品にとって外部、あるいは他者としての意味をもって挿入されているという絶妙の二面性を兼ね備えているのだ。
このような作劇に成功したのは、たんに思いつきを積み重ねることではできなかったであろう。すべてのアイデアを、旧作を否定的に総括した上でいまの時代にあらたな作品を送り出してゆくテーマ性のもとに統合する制作者サイドの意思があったからできたのだろうという気がする。

・・・とまぁ、マリについて述べながら非常に理屈っぽいことを書き連ねてしまったが、これはわたしの悪弊(笑)
こんなのは、べつに観た後で好きにいろいろ考えていればいいんであって、そんなこととは関係なく、マリは、もうほんとに、いいんである。わたしはある意味、マリに会うために12回も劇場に足をはこんだのである。

・・・・ということで、この記事は、このように、内容をきちんと追いかけて紹介する他のWeb上のEVA記事とちがい、破という作品をもういちど想起して味わうためには、ほとんど役に立たない(笑)
でも、この作品の膨大な情報量を持ったディテールをくみとってもういちど楽しみたいとおもう部分を確かにわたしも持っているので、またそのあたりのことは、追って書きたい。どのシーンの映像・音楽・言葉・演出が、どんなふうに面白かったか。もうそれはさいこうに面白かった体験の連続だったのだが、またそれは、後日・・・・。


■ちょっと修正■ 2009.9.20
文章の流れが悪いところをちょっと修正した。
ちなみに。
県内にまだ上映しているところがあったので、ついチケットを買ってしまった。
月曜にまた懲りずに観に行く。その後で、次の追記を予定。。。。


■追記第三■ 2009.9.22
昨日、また観てきたのだが(13回目)ちょっと驚いたのが映画館によって、かなり音も映像もちがうもんだなー、ということ。
昨日観に行ったところは画面が大きく音も鮮明で良かった。
ただ、昼間の回しかなく、いつも利用するレイトショーとちがってちょっと騒がしいのが難だったが・・・。

ということで、ディテールについておもうところをいろいろ追記。

[巨大さの表現]
破でだれもが目を奪われるのが、その映像の見事さ、中でも巨大さの表現である。
それが如実にあらわれるシーンを自分なりにピックアップすると・・・

・第7使徒戦でのATフィールドの巨大さ
・ゼルエル戦でのさらなる巨大さ

これはやはりすごかった。
弐号機(アスカ搭乗)のキックでパキーン!
さらに弐号機(マリ搭乗)のゼロ距離射撃で、
ずぅううーーーーん!!・・・ってゆう感じでもう何Kmにもわたってひろがってゆく様がすごい。
なかなかあそこまでひいた構図というのは、作り手としては度胸いるだろう。

・アルピーヌA310と使徒
「こちらも肉眼で確認したわ!」とさけびつつ四輪ドリフトで高速道路のカーブを駆け抜けていくミサトのアルピーヌA310の向こう側で、背景の中に第7使徒が悠然とあるいていく様が「風景としての使徒」。
びびった。(ちなみにここは2回目ではじめて気づいた)

・NERV本部
ミサトに加持がコーヒーを差し入れるシーン。
(ちなみにブラック。ミサトの好みを知ってるということか)
このシーン、テラスというかロフトみたいな構造物が、画面右上にむかって4階層にも重なり連なっている。
この奥行き感、建物の巨大さには何度見ても舌を巻く。
下の階にはローソン。
フロアの奥の奥まで人がうごめいている。
ここでキューブリックの「2001年宇宙の旅」を思い出すのはわたしだけだろうか。(私見「2001年宇宙の旅」をこえるSF特撮映像は2009年の現在も存在していない)

[描線について]
さて、巨大さの表現をこの映画から取り出そうとすると、もうそれこそ見事な絵的な表現で埋め尽くされておりきりがないのだが、わたしが一番、すごいと感じたシーンを挙げておこう。
それは、初号機の救急ケージのシーンである。こんなにエヴァの機体を美しくかつ巨大に描写したカットはなかなかない。
なぜ、こんなに圧倒されるのか。
これはひとつには、臆することなく、ひくべきところでひき、寄るところでおもいっきり寄る、という構図のとりかたの巧さである。
しかしあるとき、上映時に本編の前に流れる他作品の予告編をみていて、ふと、もうひとつの要因に気づいた。
「劇場版マクロス・フロンティア」の予告編を今回、いやというほど観させられたのだが、例としてこの「マクロス」の絵と比較してみるとわかる。
メカの絵のディテールにおいて、影をつける、つけない、の違いがあるのである。
つまり、

マクロス=影を豊富につけている
エヴァ=影を極力つけない

・・・物理的な絵の情報量としては、前者のほうがあきらかに上であるはずだ。
しかし、かえって、エヴァのほうがよりリアルに、巨大に見えるのである。
このエヴァとマクロスの違いは、
マンガにおける描線のちがいに相当している(と思う)
エヴァは閉じられた線で描かれる手塚治虫~藤子不二雄系の絵の系統であり
マクロスなどは、さいとうたかを系の劇画調の絵なのだ。
つまり、エヴァの絵には、一種の記号的なリアルさとでもいうべきものが漂っているのだ。
この制作上の選択は見事である。

[富士山、唯一惜しい]
今回の破の中でひとつだけ、巨大さの表現で惜しいとわたしが感じた点をあげておこう。(Qに期待という意味で)
それは、富士山が背景にでてくるシーンである。
サハクィエル戦において、初号機が走るシーンで背景に大きな富士山が見えるシーンがあるのだが、ここであまり富士山の大きさが強調されていない。
高校生の頃、新幹線の車中からはじめて富士山をみたときの驚きが忘れられないのだが、あの富士山が見る者にあたえる圧倒的なスケール感をどうせならもう少しだしてほしかった。
裾野の広大な広がりの感じ、目をさらに上へ上へと移していかなければその全貌を視野におさめることができないあの巨大さを・・・・。
(まぁQに富士山が出てくるかわからないけど)

[音楽]
音楽を言葉であらわすほど、むずかしいこともない。
なので、エヴァの音楽のすばらしさは、視点をしぼってちょっとだけ。
わたしが好きでよく聴いてきたアニメのBGMというと、ヤマト、ガンダム、イデオン(最近、総音楽集がでた)、∀ガンダム・アクエリオン、などだが、これらはそれぞれにすばらしいのだが、これらの音楽とくらべて、エヴァにおける鷺巣詩郎の見事さはひとつには金管の使い方だとおもう。代表的なのは「予告」の音楽。
こんな風に、キラキラと輝くようなイメージの音楽はアニメの音楽としてはそれまでなかっただろうとおもう。
・・・・というのは、まぁなにも破ではじめてでてきた話ではないが。。
では、破の独特の要素が何かあるかというと・・・ひとつには戦闘シーンで声楽(コーラス)を多用しているということがいえるだろう。宗教音楽風の音楽がストーリーとシンクロして深みのある昂揚感をつくりだす。
ほんとになんど聴いても飽きない。このごろでは、破のサントラばかり毎日聴いている状態だ。(ちなみに、Webで宇多田の曲を購入しプレイリストにいれて完全に本編の曲順で聴いている)
ところで、話題になったYAMASHITAもいい。わたしには、ストリングス(弦楽器)+ドラム=ガンダムの渡辺岳夫風というかんじに聴こえてくるのだが、あきらかにサウンドが他の鷺巣詩郎のものとちがって、いい意味で浮いておりこの曲がつけられた日常シーンを際立たせることに一役かっている。

[演出の巧さ]
この破という作品の演出の巧さを感じる部分をさらにいくつか。。。
・エレベーターのシーンでの絆創膏の数でシンジへの思いの強さを表現するところ。
・その直後、アスカ「好きってことじゃん」⇒シンジの自宅シーンBGM「ふりむかないで」
ここで、見るものの内面に3人の関係を切ないまでに焼き付ける。
・音楽の使い方のタイミングが絶妙なシーンは、たくさんあって戦闘シーンはほとんど全部なのだが、あえてピックアップすると、まず第7使徒戦「デコイだわ!」のあとにくるギターのアドリブ風フレーズの昂揚感がお見事。
・またマリが弐号機で出撃する際、手をグーパーグーパー(弐号機もぐーぱー)しながら「いい匂い・・・他人の匂いのするエヴァもわるくない」というシーンにながれる音楽のパーカッションが戦闘への予感をもりあげてこれまたお見事。
・さて、もうひとつ、わたしはエントリープラグ内の音「ぶーーーーーん」というのが、この破ではかなり強調されているように感じた。そしておそらくそれは・・・赤目シンジのシーンへの伏線的な意味もあったのではないか。予備も含めて完全にエネルギーがきれたのなら、たしかにプラグ内は真っ暗、無音状態になるはずで、しかしその唐突な演出はそれまでのシーンでのあのプラグ内の「ぶーーーーーん」という音があった上での対比によりさらにぐっと生きたといえるとおもう。
・ラストで綾波を助け出すシーン。そこで、さいごのさいごに、音がBGM「翼をください」とシンジのうめき声だけになる。あそこを観るたび、まるで、自分が仕事でたいへんな状況の中で必死に切り抜けようとしているときの心の中の声と同じであるようかんじてしまう。これだけ心に迫るシーンもなかなかないような気がする。

[2ch 細かい点]
この破、あまりに受けた感銘が深すぎてじぶんでどうしてよいやら、という状態になり、そのせいだとおもうがはじめて2chに継続的に書き込んでみる、ということをしてみた。その際、ちょっと話題になったのが、食事会の用意をしていたレイの部屋のシーンで、テーブルに茶碗が4個ならんでいた、という部分。シンジ、ゲンドウ、レイ・・・あと一人はだれ?というのが話題になったのだ。いろいろ板で会話した結果・・・・

トウジ⇒妹が退院で病院へ行っている
ケンスケ⇒「ホントうらやましいよっ!」(誘われてない)
リツコ⇒起動実験

また、車中のミサトとの会話で「赤木博士様江」という招待状がでてきているところをみると、当然ミサトにも渡してあったはずとおもわれる。

・・・ということでとりあえずの結論は、あとの1人はミサトである。
3号機起動実験のシーンで「あとはリツコに引き継いで問題なさそうね」というセリフがある。
ということは・・・

レイ「来れませんか?当日」
ミサト「そうねー実験の主管は技術部だからリツコと話してみるわー」
レイ「ありがとう」
後日ミサト「ちょっち遅れるけどいけるわー」

・・・といった会話があったのでは、などと想像できる。
しかしこの茶碗4個の件は、わたしとしてはもうひとつ捨てがたい可能性があって、画面をよくみると茶碗ののっているテーブルは
画面右端で途切れている。ということは誘った全員分(計6個)がじつはテーブルにのっていたのでは、という・・・。
それにおそらく、あの真っ白い茶碗も、この食事会のために新しく買って用意したのだろう・・・・などとも思う。
このあたり想像していくと泣けてくる。。
こんなにレイの内面までふくめて想像して味わえるなんていままでのエヴァにはなかった(少なくともわたしにとっては)
というように、2chで会話しなかったら、画面の隅の茶碗だけでこんなに破を味わうなんてたぶんなかったので、わたしにとって非常に有益だった。

さらに、12~13回観てやっと気づいた点。
冒頭の墓参りから帰るときのミサトの車が遠景の道路の上のほうで走っているのがみえた。
あと、ゼルエルを初号機が倒した後、マリがクシャミするシーンで、弐号機の上でマリがあぐらかいて座っているのが見えた。(このマリのクシャミの部分は、ベタベタな展開に対しネタ風にメタな視点を与え物語を支えているといえる)

[連想]
仮設5号機のデザインについては、パンフレットにはゲッター3、ガンタンクって書いてあったが、私はむしろガンヘッドを思い出した。私の中では数少ない日本SF特撮映画でめっちゃおもしろいとおもう1本なのだが、閉所での戦闘というシチュエーションも似てる。
あと零号機が捕食されるシーン、あれって、寄生獣の第1話だとおもった。

[レイの可愛さ]
繰り返しみていると、やばいぐらいレイに惹かれるようになってきた。。。
わしたはオタク的知識量は非常に貧困なので、結局、破という作品の中でいろいろ考えて味わうばかりであるわけだが・・・
シーンでいうなら、社会見学で弁当が食べられないで困っている表情のかわいさ、「おはよう」と言って教室に入るときの自分を変えようとする決意の凛々しさ、シンジに指の絆創膏を「秘密」と答えるときのシンジを見上げる表情のこれまたかわいさ(ここが一番好き)、「バカ?」「碇くん・・」のエレベーターのシーン。「碇くんがもうエヴァに乗らなくていいようにする・・・だから!」のシーン(いじらしさに泣ける)、「逃げて弐号機の人。ありがと」シンジ以外の他人まで気遣う心の大きさと強さ。ほんとヤバイ。

[デジャヴ]
アスカの夜這い(笑)のシーン。レイの包丁を見つめるシーン、・・・などをはじめとして、旧作のカットを微妙に変形しつつ使用しているシーンがいくつもあり、そのせいか、不思議にも既視感をかんじるのが破である。意外性があるのに、まるで、まえに見たような感覚になる。。。これって、TV版のもうひとつの世界、というものを新劇場版自体が表現している、というとらえかたも可能なのだろう。すでにWeb上でもそういう見方は流通しているようだ。

[ストーリー構成]
これも2chで会話していてあらためて気づいたのだが、破のストーリー全体の折り返し点は・・・・

ケンスケとシンジの会話:
(トウジの妹が退院することになって)
「碇、ほんとによかったな」
「うん」
「今日は~あやなみに~およばれなんだろ~?ホントうらやましいよ!!」

・・・の後、
リツコが松代に到着したシーンに切り替わるところだ。
パンフを読むと鶴巻監督が 途中までは幸せになっていく展開がほしいと考えて・・・みたいなこと言ってたけど、ここに幸せから悲劇への転回点がある。

[サブタイトル]
序の「YOU ARE (NOT) ALONE」は「あなたは唯一の存在ではあるが、孤独ではない」
破の「YOU CAN (NOT) ADVANCE」は「あなたは成長できるが、変わらないものもある」

・・・・というふうに解釈している人をWeb上で見かけたが、感心させられた。
たしかにそのとおりだ。
これは、人間存在が抱え込んでいる根源的な矛盾であり、しかしその矛盾があるからこそ人間であるともいえる、という二重の意味での人間の矛盾、不思議さであるといえる。であれば、次作はどういうものがつけられるのだろうか。
たとえば、それは、手段と目的の矛盾にかかわるものかもしれない。
人間が深い幸福感を得るのは、大きな目的に生を供するとき、であるといえるが、しかし、いまこの瞬間を生きていること自体が楽しいと感じることが本当の幸福であるという面もある・・・何かのために生きる、のか、生きること自体が目的、なのか。
自分の心の中の究極の「願い」をみつけたとき、それは両立する・・・ということなのだろうか。
破のクライマックスのミサトのセリフを思い起こしながら、そんなことも考えた。

[とりあえず終わり]
たぶん、もう劇場では観れない、か、もしくは遠出して観るとしても、かなり先のことになりそうだが、観るとしてもこれからは、もうディテールにこだわらず、物語の主旋律に焦点をあてて、心底あじわうように繰り返しみてみたい。カネと時間に余裕があれば、の話だが。。。。


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