論争 格差社会
テーマ:人間と社会2007年が明けた。
昨年一年を振り返ってみると、おそらく、もっとも頻繁に論じられたテーマが「格差社会」ではないだろうか。
「不景気」「デフレ」などをはじめとして、経済関連の議論ではいつもそうだが、前提となる認識がまずなかなか論者のあいだで一致しない。「いまの日本は不景気」「いやそんなことはない」「デフレ・スパイラルに陥っている」「いや違う」現状がどうなのか。まずそこからシロウトにはわからない。社会の経済というのは統計的な数字によってしか把握できないからだ。
はたしていま「格差」は、ほんとうにひろがっているのか。
自分は「勝ち組」なのか「負け組」なのか。
皆、気になっている。
そう、そこがこの格差社会論争のやや特殊なところである。
そもそも論争というものは、格闘技に似ている、とよくいわれる。「競技者(知識人・言論人)」が「競技場(雑誌・新聞などのメディア)」において「観客(読者)」の注目を集めながら闘う・・・というわけである。だから、2人しかいない部屋のなかで意見をぶつけあうのは、たんなる議論であって論争とはいわない。その議論の勝敗の行方に関わりがない存在=観客がいてはじめて成立するのが論争というものである。
ところが、この格差社会論争はこの構図が一部くずれているようなところがある。論争を眺めている観客のつもりだったはずの自分が、ふと気づいてみれば自分もリングにあがってしまっている・・・そういう感じがこの格差社会論争にはある。
「格差」というテーマは、自分の生活に切実に、密接に関係しているからだ。「格差」がひろがっているといわれるいまの世の中でじぶんはいったいどの位置にいるのか、無意識のうちに自分に問いただしてしまう。昨年一年を通じてマスコミが流しつづけてきたこの言葉は、じわじわと大衆の中に染み込み、いまの世の中の閉塞感を作り出してきたと言ってよいのではないだろうか。シロウトながらそんな気がする。
わたし自身は、はたしてどの位置にいるのだろうか。
「負け組」だろうという気がするのだが、でもマンガ喫茶を泊まり歩く都会の中の難民といわれるようなフリーターについて書かれた記事などを読むと、それなりに安定した収入がある自分を「負け組」と呼ぶのもおこがましい(?)という感じもしてくる。こんなとき、ほんとうはこの「勝ち組/負け組」という思考の枠組み自体について、それがどこから与えられたものなのか、どれだけ妥当性があるのか、と疑い、自分の人生観、幸福観にしたがって日々の生活をあゆんでいくことを考えればよいのだが、しかし、そういうしっかりした考えを持てるような安定感が、むしろ社会の側にない、といえる。
わたしは、こういうとき、マスコミの罪を考える。「格差」とか「ニート」などという言葉を用いなくても社会の実像はいくらでも描けるのではないだろうか。
具体的な言葉や方法はわたしには示せないが、それこそ高給取りのマスコミ人がその道のプロとして苦闘すべき課題だろう。
ちなみに「ニート(NEET Not in Education, Employment or Training)」は英国に由来する言葉で、もともとは英国における社会政策が前提となっている言葉である。年齢も16~18歳に限定されている。日本では、これを15~34歳というように再定義して使っている。だれが再定義したのか。玄田有史である。
これはシロウトながらの想像なのだが、この言葉の発祥の地の英国では日本で使用されるときのようなニュアンスはないだろうという気がする。たぶん、生活保護適用者とか年金受給者とかと同じような政策上の用語の印象しかないだろうと思う。それがなぜか日本ではほとんど「ひきこもり」と同義で使用されている。玄田有史が自分の商売にした、という印象を受ける。こんな言葉に社会が振り回されるのはおかしいと感じる。マスコミに問題がある、と感じるのである。
ともかく、玄田有史の「ニート」とか、それに対する反論の書「『ニート』って言うな!」をそのうち読もうとおもっていたのだが、もういいや、と思うようになった。いま言われているいわゆる「格差」の問題は、労働・福祉上の政策的な問題である。専門家である政治家、官僚が知恵を絞ればいい。わたしはいままでも今後も政治に密接にかかわることはない人間だから、ときどきウォッチしておくにとどめておこう。
というようなことを本書を読んで考えた。
個別の生活苦には個別に手を打ち、個別に闘うしかない。
たぶん、マスコミが描きだすような劇的な格差の増大というようなことは、実際には日本社会にはおこっていないのではないだろうか。問題とすべきは、下手なマスコミの言葉の流し方によって、日本の社会の雰囲気がより悪くなることのほうだろう、と思う。
- 文春新書編集部
- 論争 格差社会





